3月10日は、藤子不二雄A先生のお誕生日。A先生は今年で72歳、年男である。
その前日の3月9日、藤子不二雄ファンサークル「ネオ・ユートピア」による藤子不二雄A先生お誕生日祝福企画が藤子スタジオで催された。私も参加し、藤子A先生のお誕生日を直接お祝いさせていただいた。参加者多数の場合は抽選になるということだったが、選に漏れずホッとした。
毎年恒例の同企画、今年は、メーリングリストで告知して会員から藤子A先生へのプレゼントを募集し、それを特製の宝箱に詰めて先生に贈るという趣向だった。名づけて「新宝島2006」。私は、昨年12月16日の日記でとりあげた「週刊平凡」1966年6月23日号「オバQも舌をまいた恋愛隠密作戦」という記事をコピーし、それに色鉛筆で着色して額に入れたものを用意した。
9日朝6時、夜行バスで新宿駅に着いた私は、しばらく1人で行動する予定だったので、地下鉄大江戸線を利用して落合南長崎駅へ移動した。トキワ荘跡地の最寄駅である。
「週刊漫画サンデー」1月10日+17日新年特大合併号に掲載された『踊ルせぇるすまん』「あのトキワ荘に灯がともった」に、トキワ荘マニアの尾掛マネオ(19歳)がトキワ荘跡地を訪れ写真撮影をするシーンがあったのが記憶に新しいので、私も尾掛くんに倣って同地へ足を運び、マニアらしく写真撮影してみたのだった。トキワ荘跡地といっても、トキワ荘の面影はまったく感じられない。道を挟んだ向かい側にある、今は使われていないNTTの建物が、トキワ荘との位置関係の名残を伝えてくれるが、その建物も藤子先生がトキワ荘に住んでいた当時のものとはまるで違う。朝早くということで、中華食堂「松葉」は閉まっていた。
その後、地下鉄で西新宿五丁目駅へ移動し、藤子スタジオ、藤子プロのすぐ近くに広がる新宿中央公園を散策。この公園は、多くの藤子マンガに登場する。公園内の噴水の風景が描かれることが多かったが、今はその噴水は見あたらない。ひととおり散策を終えると、藤子プロの入ったマンションの1階にある喫茶店でコーヒータイム。1時間ばかりすごして新宿駅へ戻り、藤子ファン仲間のNさん、Hさんと紀伊国屋書店新宿本店で落ち合った。そうして午後4時前、藤子不二雄A先生お誕生日企画参加者の集合場所・マクドナルド西新宿店にたどりついた。参加者の人数は、ネオ・ユートピアのスタッフ3人と、会員9人の計12人。
藤子A先生がいらっしゃる藤子スタジオへ向かう。 藤子スタジオには昨年のお誕生日企画で入ったことがあるが、またこうして藤子A先生の仕事場に入れると思うだけで自然とドキドキしてくる。幸せな緊張感だ。藤子スタジオの応接室に通されると、テーブルのうえには、4月発売予定の『ミス・ドラキュラ』単行本見本カバーや、昨年のお誕生日企画でプレゼントされた「Neo少太陽」などが置いてあった。
参加者全員が位置についたところで藤子A先生がご登場。もとよりドキドキしていた感情が、さらに拡大して感動へと膨らんだ。皆で「ハッピーバースデー安孫子先生〜♪」と歌ったあと、スタッフが宝箱を先生の前に差し出す。先生が箱の蓋を開けると、中には皆が持ち寄ったプレゼントの山。先生は感嘆の声をあげた。
藤子A先生は、箱のなかのプレゼント品をひとつひとつ順番に手にとって、それが誰の贈り物か尋ねながら感想を述べたり贈り手に質問したりしていった。多くのプレゼント品は、藤子Aキャラを用いた手作りグッズで、フィギュア、色紙、マンガ、イラストレーション、実用品… どれもアイデアを凝らし心のこもったものばかり。既成品のプレゼントについては、その品物選びのセンスが光っていた。
私は、藤子A先生が見終えたプレゼント品を先生から受け取り、テーブルの上に置いていく作業をした。おそるおそる作業を続けながら、先生が私のプレゼント品をいつ手にとってくださるか緊張しつつ見守った。結果的に私の順番が最後になった。
藤子A先生は、ご自分の結婚式を報じる週刊誌の記事を見て「よく、こんなの見つけたねえ。ぼくも持ってないよ」とコメントされてから、結婚式の前日までアフリカ旅行へ出かけていたこと、手塚治虫先生に仲人をしてもらったこと、アフリカ旅行にまつわるエピソード、旅行のスポンサーだった不二家の担当者の仕事ぶりなどを楽しげに語ってくださった。そして、「うちに帰ったら、奥さんにもこの記事を見せるよ」とおっしゃってくださった。感激である。
藤子A先生がプレゼント品をすべて見終えると、藤子スタジオのスタッフのかたの指示で、応接室から仕事場のほうへ移動。皆で並んで、スタッフに写真を撮っていただいた。
私は仕事場に入るのは初めてだった。机の上には雑然といろいろなものが積まれているし、棚のなかには藤子Aマンガのほか、さまざまな資料が並んでいる。「もっと!ドラえもん」や、『リボンの騎士』の単行本、赤塚不二夫会館のカレンダーなども置いてある。あれこれ興味をひくものだらけで目移りがした。この仕事場で数々の藤子A作品が生み出されてきたと思うと、非常に感慨深い気持ちになる。
誕生日企画はこれで終わりだったが、藤子A先生と藤子スタジオのかたのはからいで、参加者にとてつもないサプライズが待ち受けていた。藤子スタジオから新宿駅方面のビアホールへ移動し、そこで藤子A先生を囲んでの飲み会となったのである。藤子スタジオのスタッフお2人も参加された。
予定にない展開だっただけに、異様に興奮した。そうやって興奮しながらも、ちゃっかり藤子A先生の近くに座り、先生と会話しやすい態勢を確保した。
私も含めた藤子ファン仲間3〜4人がインタビュアーのようになって先生にあれこれ質問し、先生も興に乗ってたっぷりと話を披露してくださったため、飲み会の場を借りた藤子不二雄A先生インタビュー(あるいは、藤子A先生トークショー)は4時間近くにも及んだ。1日でこれだけ豊富に藤子A先生のお話を聞けたのは、これまでのどんなイベントでもなかったことだ。藤子A先生もわれわれもアルコールが入ってほろ酔い加減。先生は楽しいトークを次々と繰り出され、先生の気さくさに乗じてわれわれの質問も不躾な領域に至ったかもしれない。ここでは、すでに公になっている話題とそれに付随する事柄から、とくに記憶に残ったものを抜き出してレポートしたい。(藤子A先生のお話を録音したわけではないし、私もビールを何杯か飲んで記憶が怪しいため、実際の発言に忠実ではありません。意味を変えない範囲で要約した箇所が多数です)
●『まんが道』『愛…しりそめし頃に…』の登場人物について
・まず何といっても場が盛り上がったのは、藤子A先生の自伝的作品『まんが道』『愛…しりそめし頃に…』に登場するキャラクターの話題だ。武藤四郎、霧野涼子、竹葉美子、小鷹洋子、リリーといったキャラクターのモデルとなったかたがたとのエピソードを藤子A先生ご自身の口からじかに聞けるというのは、まさに夢のような体験だった。
・満賀道雄や霧野涼子の同級生で、満賀に意地悪を働く武藤四郎のモデルとなったUさんは、実はとってもいい人で、今でも藤子A先生とは親友とのこと。『まんが道』における武藤の性格・行動に関しては、ほかの同級生のイメージも混ぜて描写しているが、顔は完全にUさんをモデルにしているそうだ。また、『笑ゥせぇるすまん』喪黒福造の「ドーン!」は、Uさんが麻雀の最中に行なったポーズがモデルになっているという。
・満賀の高岡新聞社時代の後輩・竹葉美子のモデルはTさん。実際に藤子A先生とTさんが勤務していたのは富山新聞社だ。藤子A先生は富山新聞での仕事が楽しくて仕方なく、将来はTさんと結婚して富山新聞の重役に出世するつもりでいたが、藤子・F先生(藤本先生)から「東京へ上京しよう」と誘われ、迷い考えたあげく富山新聞社を辞めることに。富山新聞社最後の日、藤子A先生が所属した学芸部の送別会が終わり、学芸部長の配慮で駅まで藤子A先生とTさんが2人きりで歩くことになる。雪の舞うクリスマスの夜、藤子A先生もTさんも言葉を切り出せず、沈黙したまま歩き続ける。ついに駅に着きお別れとなったとき、ようやく「さようなら」と声にすることができた…… 『まんが道』などで知っているこのエピソードも、目の前に座る藤子A先生が思い入れたっぷりに語ってくださると、初めて耳にするような新鮮な物語に感じられる。
その後、Tさんとは一度も会うことはなかったが、ずっと後年になって、ある出版社で働くTさんの娘さんと会うことができたそうだ。
・『愛…しりそめし頃に…』で満賀と親しい仲になる小鷹洋子のモデルはKさん。『愛しり』で小鷹洋子は満賀に手紙を書いて別れを伝えるが、実際のKさんは、ヘルマン・ヘッセ詩集の別れの詩に栞を挟むことで先生に別れを告げたそうだ。
その後、Kさんと再会することはなかったが、藤子不二雄漫画家生活30周年記念パーティーにKさんを招待したさい、Kさんの娘さんが出席してくれたという。
●漫画家仲間や手塚治虫先生について
・藤子・F・不二雄をはじめ、寺田ヒロオ、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、つのだじろう、森安なおや、鈴木伸一、永田竹丸といったトキワ荘時代の仲間との関係や、そんな仲間たちへの思いなどもいろいろ語ってくださった。なかでも印象的だったのは、藤子・F先生について「藤本くんは天才だった」と何度も繰り返したことや、「テラさんは、ぼくにとってお酒の先生だった。池袋の飲み屋でさんざん酔っ払って、椎名町のトキワ荘まで歩いて帰ると、酔いが覚めていた」、「赤塚は、心がやさしく、人に好かれる人間だ。ぼくは彼を弟分のように感じている」、「森安なおやは、すごくいい絵を描いて才能があった。彼の作品が復刻されたさい、単行本に文章を寄せたことがある」などと語られた部分だ。
トキワ荘時代、夜の酒場で飲んだり女性と付き合ったりして遊んだ藤子A先生は、その遊びに藤子・F先生を誘ったこともあったという。しかし、「藤本くんは絶対に来なかった」
・藤子A先生の神様である手塚治虫先生の話題も盛りだくさんだった。
藤子A先生は『まんが道』で手塚先生を面倒見のよい人格者として描いていて、この日も手塚先生への尊敬を語られたが、それとは違った側面、たとえば、手塚番編集者の修羅場、手塚先生の同業者への嫉妬心などについても言及してくださった。手塚先生の嫉妬心の洗礼については藤子両先生も受けていて、トキワ荘時代、石ノ森氏や赤塚氏たちが手塚先生との食事会に招待されたさい、藤子A先生とF先生だけが仲間外れになったことがあるそうだ。しかし、手塚先生に嫉妬されるということは、手塚先生に認められたということだから、プロの漫画家としては望ましい経験だったという。晩年の手塚先生が、言葉にはしなかったものの最も強烈に嫉妬心を抱いていたのは宮崎駿アニメだった、という話も心に残った。
・トキワ荘グループ、手塚治虫以外の漫画家の話も出た。
今では大の仲良しのさいとう・たかをと初めて会ったのは、「ビッグコミック」小西編集長の仲介によってだったという。『まんが道』に登場する激河大介については、「その当時にさいとう・たかをと会っていたわけではないが、さいとう・たかををイメージしたキャラクターではある」
つげ義春に関して、「トキワ荘の赤塚を訪ねてきたり、新漫画党のイベントに参加したこともあるが、ぼくは実際に話をしたことがない。でも、『李さん一家』や『ねじ式』や紀行文などは読んでいて、自分が描くものと傾向は異なるが、よい作品だと評価している。とくに『李さん一家』のラストシーンは印象的だった」 黒鉄ヒロシや内田春菊との交遊についても語ってくださった。
●自作について
・自作のアニメ作品で最も気に入っているのは『忍者ハットリくん』。「『忍者ハットリくん』には多くのキャラクターが登場するので、アフレコスタジオが声優さんでごった返した」
「『笑ゥせぇるすまん』も気に入っている。原作にないアニメオリジナルのエピソードでも、ぼくがアイデアをしゃべって台本を書き起こしてもらい、最後の話までそのやり方を貫いた」
・藤子A先生が作品を生み出すさい参考にされた先行作品に関する話は、藤子Aファンにとって非常に興味深かった。『フータくん』は詐欺師がお金を集め各章の最後に収支の表示される小説が、『プロゴルファー猿』はご自分のゴルフ体験に加えスティーブ・マックイーン主演のドラマが発想の源になっているという。
・「ヒトラーの研究を長年続けていたので、その成果として『ひっとらぁ伯父サン』『ひっとらぁ伯父サンの情熱的な日々』を執筆した。ひっとらぁ伯父サンシリーズは、読切短編2作で終わったが、本当は長編の構想があった」 その言を受けたわれわれが「ヒトラーを題材にした長編マンガ、今からでも描いてほしいです」とお願いすると、藤子A先生は「今からは無理だよお(笑)」
・「『狂人軍』のタイトルを『驚人軍』に改題するなどして単行本化する方法があるとしても、それはしたくない。この作品は、『狂人軍』というタイトルだからいいんだ」と自作に強いこだわりを示される場面もあった。
「『魔太郎がくる!!』アニメ化の企画は、今までいろいろな会社から何度も持ち込まれたが、すべてきっぱり断っている」日曜夕方『ちびまる子ちゃん』の枠で放送したいという話もあったという。それを聞いたわれわれは、「あんなファミリーな時間帯に、魔太郎はないでしょう(笑)」。
・2月19日放送の「ドラえもん誕生物語〜藤子・F・不二雄からの手紙〜」で、「サラリーマンゴンスケ」のエピソードが紹介されたが、私はこの話題を藤子A先生にふってみた。A先生は、少年サンデーの連載を自ら断ったF先生の態度について、「実に藤本くんらしい」と述べた。それから、「安孫子先生の作品に『ゴンスケ』というのがありますが、これは「サラリーマンゴンスケ」の一件と何か関連があるんですか?」と尋ねたら、A先生は「その作品は、描いたことすら覚えていないが、ゴンスケは完全に藤本くんのキャラクターだ」と返答。A作品にもF作品にも登場する小池さんについては、「小池さんはぼくが考えて、藤本くんも使うようになったキャラクターだ」とおっしゃった。
(「サラリーマンゴンスケ」に関しては、 http://d.hatena.ne.jp/koikesan/20060219 をご参照ください)
藤子A先生は、そのほか、ゴルフをはじめたきっかけや映画『少年時代』の舞台裏などなど、多くの話を聞かせてくださった。
藤子A先生を祝福するため藤子スタジオへ出かけた私だが、結局藤子A先生に思い切り喜ばせてもらって帰宅することになった。