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活動報告
独り言。
2019年07月19日(金) 22:25

文芸の定義など、私には到底難しい仕事だ。それでも、ファンタジーやコメディとはまるで趣の、作者の意図の異なる方向にあるものと思う。
「小説」を読む。
それは、冒険だ。活字の世界に飛び込み、自らの航路を見出し、泳ぐ。溺れそうになりながら、作者の差し出す板切れにしがみつき、自分なりの終着点にたどり着く。
そして、またその海に飛び込む。自身の肉体、成長の過程で、航路も終着点も変わっていく。何度も読み返す。まったく異なる作品であることを発見する。そういうものが、その人にとっての文学であり、座右の書と言うものだと思う。
私は十二月になると、ディケンズの「クリスマスキャロル」を読む。
三年ごとに、吉川英治の「宮本武蔵」を読む。
思い出した時に、池波正太郎の「剣客商売」を読む。
挙げればきりがないけれど、そういう海に、飛び込みたくなる。
「小説」を読めない世代。と一括りにはしたくない。平均値、あるいは中間値だ。
例えば、比較的読みやすい漱石の「坊ちゃん」が、なろうにアップされていたら、何人が読むのだろう……おそらく、埋もれるだろうな、と想像する。梶井基次郎の「檸檬」がアップされたら、感想欄には「深い」のオンパレードか、数日で消えるだろう。
「小説」を読めない。こまごまと解説を入れ、情動、言動、状況もろもろ書き込まねばならない。主題など必要とされない。読者の望む傀儡子、それが仕事になる。
行間が読めない。書かぬことで生きる表現、文章は、冗長でインスタントなチュートリアル的軽文になり果ててしまう。村上春樹を読める者は何%いるだろうか。
なろうでファンタジーからデビューした私は、ある日を境に文芸に転身した。
こういう場所でも、文芸分野なら小説を読める読者がいるのだろうと、期待を抱いていた。
……幻想だった。正直、思い付きで書いただけ、雰囲気だけで流し読みさせる、まともに読み取れない作品が絶賛され、何も見えていない感想がならび、「読書家」にはため息しかつけないものばかりだ。※お気に入りさんのシリーズものを私は敬愛している。
いや、幻滅以前なのだ。それは、私自身の逃避であった。意外に思う人もいるかも知れないが、私は、この場所で真剣に書いた作品など一作もないのだ。心に浮かんだ感傷を、推敲なしに技巧で誤魔化したものばかりだ。その点、魅力を感じてくれた読者への背信であったと申し訳なく思っている。
かつて文芸誌に投稿していた頃、一文字一文字にまで神経をすり減らして書くしんどさ、まったく実らず、箸にも棒にも引っかからず、自分に書く力などないのだと、心と共に、大した努力も気概もない癖に、本当の筆を折ってしまった。
ここならなにも背負わず、脱力して、ろくに推敲もせず、校正さえさぼり、適当に書いてるものを読んでくれ、受け狙いで食いつく人がある程度いてくれる。
私は、逃げて来ただけだ。
ここでのスタンスはオープンだ。向き合い方、楽しみ方を、私はなんら否定しない。読者になにを求めようと、作者の自由だと本当にそう思っている。私はそうじゃない、それだけだ。
私に変わろうと思わせたのは、少し前に友人が書いた「小説」だった。
私は慄いた。ここで堕ちた私からは絞り出せない代物だった。巧妙に猫の皮を被せて本質を悟らせないような、古典的文学リバイバルだった。読める読者はほぼいなかったが、私には伝わってしまった。
「お前は、なぜ書くのを辞めたのか」と、無言で突きつけられた気がした。うぬぼれかもしれないが、私に向けて書いたのだと、そう思った。
いま連載している長期作品を、応援してくれる方々がいる。なので、いまのラノベタッチのまま、これをきっちりと構成通りに終わらせたら、ここを去る。
私は、もう一度、「小説」を書きたい。「小説」を読み漁り、ここで適当に流した文章とも言えない手慰みを忘れて、「読書家」に応える「小説」を書きたい。
十中八九、私が小説家としてデビューすることはないだろう。それでも、いい。
なにかの間違いで、ここでラノベ作家として書籍化されるより、百倍は満足を得るだろう。
だって、私が書きたいのは、そういうものではないから。略称でタイトルを呼ばれ、アニメ化され、サブカルの歴史に埋没し、そういう機会があったとして、多少の、小遣い程度の印税以外に人生に誇れる記憶にはならないから。
もうずいぶん昔に、人生にいつまでも残る煌めく記憶を覚えた私は、欲深く、いまいちどそういったものを追いかけてみたいと、そう思っている。
独白と言いつつ、公開している自己矛盾は、単に、私が孤高の人になどなれぬ俗物という証拠。それだけです。