日米のマット界でトップレスラーとして活躍したマサ斎藤さん(本名・斎藤昌典。享年75)がパーキンソン病で亡くなって14日に一周忌を迎える。明大4年時に1964年の東京五輪でレスリング日本代表として出場。卒業後に日本プロレスに入門、その後、東京プロレスへ移籍し同団体が崩壊後は、単身、米国マットに乗り込みトップヒールとして活躍した。80年代後半から日本マットに定着し、選手としてだけでなく新日本プロレスの渉外部長として日米マット界の懸け橋となりドーム興行で隆盛を極めた90年代の新日本プロレスの黄金時代に大きく貢献した。引退した99年にパーキンソン病を発症し、亡くなるまでモットーの「GO FOR BROKE(当たって砕けろ)」を掲げ、懸命に病と闘った75年の人生。「WEB報知」では、マサさんの妻・斎藤倫子さんを取材。「甦るマサ斎藤、永遠のGO FOR BROKE」と題し、マサさんの秘話を連載します。第5回は、「夫婦で温めていたタイへの移住生活」。
マサの告別式は、2018年7月22日、東京・港区の梅窓院で営まれた。出棺前の喪主あいさつで倫子は、涙をこらえながら思いを明かした。
「本日は猛暑の中、マサ斎藤の告別式にお集まりいただきまして心から御礼を申し上げます。
プロレスファン、そして関係者の方々に愛され続け、再びリングに上がるために18年もの長い間、マサさんは必死に闘病してまいりましたが、7月14日未明、子供もいない私を独りぼっちにして旅だってしまいました。
燃えるような恋をして、結ばれたマサさんとの夫婦生活。最初の数年は、楽しくハッピーで愛に満ちあふれたものでした。
しかし、パーキンソンという実に酷な病に襲われてからは、一進一退。二人して崖っぷちからどん底に突き落とされ、はい上がり、ようやく淵にしがみつくとまた蹴落とされて、こんな繰り返しの生活が長く続き、二人の間にいつの間にか笑いが消えていきました。
絶対に治す、治ると信じて、大きなマサさんを引っ張り続けた小さな私は、ついに心身共に壊れてしまいましたが、再び前だけ見る私に戻り、明るい老後のプランを話したのは、マサさんが他界するほんの3日前のことでした。
みなさまもご存じのように、マサさんは大きな体でしたが、心は本当にピュアで子供がそのまま大人になったようなチャーミングで愛してやまない人でした。
レスラーの方々からもとても慕われていて、いつも笑顔を絶やさずとてもステキな人でした。
そんなマサさんは突然、帰らぬ人になりましたが、私の心の中では、ずっとずっとマサさんが生き続けます。どうかどうか、みなさまも心の中にも、とどめていただけると幸いです。
みなさまに対する御礼として私の気持ちを言葉にするのは難しいです。誠に失礼ではございますが、これをもって、ごあいさつと代えさえていただきます。本日はありがとうございました。長い間、ありがとうございました。お世話になりました。ありがとうございました」
挨拶で明かした亡くなる3日前の「明るい老後のプラン」とは、どんな計画だったのだろうか。倫子は明かした。
「闘病中のマサさんの支えは、“絶対にパーキンソンに負けない”という思いが支えでした。その中でプロレスの試合が決まって、亡くなる直前は本当に心身共に厳しい状況の中、新たにリハビリに集中する覚悟を決めた時だったんです。ですから、私たちの間では“来年からマサを迎える家を用意するし楽しいことをしましょう”ということを話し合っていたんです」
具体的な計画が、タイのチェンマンへの移住だった。
「あれは、6年前だったと思います。マサさんをタイのチェンマイへ連れて行ったことがあったんです。というのも、ココナッツがパーキンソンにすごく効くということを聞いて、私が知る限り治安も人もいいし、物価も安いので“それならタイがいい”と思ってマサさんに毎日、フレッシュなココナッツを飲ませたいと思ってチェンマンに2か月ぐらい行ったことがあったんです」
長期滞在者の用のアパートを借りて、倫子は、毎朝、近くの市場へ行き、もぎたてのココナッツの頭を鉈で切ってもらうと、たっぷり入ったジュースが溢れないようにアパートへ持ち帰り、マサに飲ませた。すると、劇的な効果があった。
「それまでマサさんは、病気で嗅覚も味覚も失っていたんです。何を食べても触感しかない。味がしないから美味しくもないんです。タイのカレーを食べても味を感じていませんでした。ただ、味は、脳が覚えているんです。マサさんは、桃が好物で味を脳が覚えているから、季節外れの桃を食べても本当なら美味しくはないと思いますけど“うまい、うまい”と言って食べてました。そんな状態でココナッツを毎朝、一番に飲ませていると、1か月ほど経ったある日、カレーを食べた時でした、マサさんが“ミチ、味がする。匂いは分からないけど、味がする”って…味覚が戻ったんです。それからココナッツを続けると2か月ほど経った時に臭覚も戻って“匂いがする”って言うまでになったんです。その後、帰国しましたが、味覚と臭覚は1年ぐらい戻った状態をキープしました。その経験があったから、またタイへ戻って1年間住もうと思っていたんです」
移住を思い立った時、倫子の父親が病気で倒れ看病のためタイへ行くことは断念した。それが、昨年の夏、結果的には亡くなる直前に再び具体化し、チェンマイに長期滞在のアパートも予約した。
「日本が寒いときにタイに行って1年の半分をタイで過ごす計画でした。ココナッツの効能もあったし、人も好いしマサさんも気に入ってくれて精神的にもリラックスできる場所だったんです。それまでの闘病生活が本当に地獄でした。ですから“これからはとにかく楽しいことをしましょう。とことん人生を楽しみましょう”って話し合って、光が見えていたんです。それを言った矢先に亡くなってしまったんです」
明るい老後のプランとは、「タイでの移住生活」だった。
「あの時、私たちの目標は、楽しく生きる、笑って生きることでした。それまでは、笑顔もなくなって、苦しいことばかりでした。だから、これからは前向きに幸せに生きようよ。もういいよ、とにかく楽しくすれば人生が良くなる。そうすれば道が開けるって話し合っていました」
明るい未来を信じていたマサと倫子。そして、マサにはもうひとつ目標があった。それが2020年東京五輪だった。
=敬称略=(取材・構成 福留 崇広)