日米のマット界でトップレスラーとして活躍したマサ斎藤さん(本名・斎藤昌典。享年75)がパーキンソン病で亡くなって14日に一周忌を迎えた。明大4年時に1964年の東京五輪でレスリング日本代表として出場。卒業後に日本プロレスに入門、その後、東京プロレスへ移籍し同団体が崩壊後は、単身、米国マットに乗り込みトップヒールとして活躍した。80年代後半から日本マットに定着し、選手としてだけでなく新日本プロレスの渉外部長として日米マット界の懸け橋となりドーム興行で隆盛を極めた90年代の新日本プロレスの黄金時代に大きく貢献した。引退した99年にパーキンソン病を発症し、亡くなるまでモットーの「GO FOR BROKE(当たって砕けろ)」を掲げ、懸命に病と闘った75年の人生。「WEB報知」では、マサさんの妻・斎藤倫子さんを取材。「甦るマサ斎藤、永遠のGO FOR BROKE」と題し、マサさんの秘話を連載。最終回は、「マサが抱いた最後の夢」。
1964年の東京五輪にレスリング日本代表として出場したマサ。それだけに2020年の東京五輪が決まった時は、喜びで「すごくエキサイトしていた」と倫子は振り返った。
「マサさんは、東京五輪に“オレは出るんだって”って、“絶対にオレは呼ばれる”って言ってました。それは、聖火ランナーをやりたいとかではなくて、テレビのゲスト解説とかで呼ばれるという意味でした。私が“どうして呼ばれると思うの?”と聞くと“ゲストとしてオレを置いておくだけでも面白いから”って言ってました。それぐらい最後までレスリングにこだわっていたんです。ただ、日本人でヘビー級は難しいと言ってましたが、ある時、テレビで体の大きな選手を見て“この選手を自分で育てたい。誰かに聞いてつないでくれないか?”と頼まれました。それは、今から思えば最後の夢でした。今は、それをやって上げられなかったことが残念です」
マサと倫子は、1993年に知り合った。語学が堪能だった倫子は、自ら会社を運営し主に日本テレビの番組の海外コーディネーター、通訳の仕事に没頭していた。仕事柄、国内外の様々なVIPと接してきた倫子だったがマサのクレバーで温かい人柄は、抜群だった。
「私がマサさんを好きになったのは、めちゃめちゃ頭がいいところです。色んな方とお会いしてきましたが、マサさんは別格です。それと、勘が良くて機転が効く人でした。空気が読めるなんてもんじゃない。常にどんな状況でも何をしたらいいか判断ができる。なおかつ己をよく知っているし我慢強い。プロに徹している。とにかく優しい。あと時の流れに逆らわないでうまく乗れた人でした。例えば、後輩に対してもいつも道を開いてあげていました。マサさんがよく言っていたことは“絶対に若い者に言っちゃいけない言葉がある。それは、オレの時代はってということだよ。それを言ったら若い人は付いてこない。時は流れているんだ”と言っていました。先輩であろうと後輩であろうと誰に対してもリスペクトして寛大な姿勢で接していました。どれだけ、裏切られても3回までは必ず許していました。ただ、3回やるとノーでしたが…」
大恋愛を経て、マサのたっての願いで、マサの誕生日で両親の結婚記念日でもある94年8月7日に婚姻届を提出した。マサの抜群にクレバーで誰に対しても平等に接する姿勢は、プロレスラーとして若手時代から米国で単身、生き抜いてきたことが大きいと倫子は明かす。
「アメリカで1人でやってきたからこそ、機転が効くし頭の良さが磨かれたんじゃないかなって思います。人は悪いところばっかり見る人がいますが、彼は、人のいいところを見る才能を持っていました。友人のブラッド・レイガンズが“マサほど、エゴのないレスラーはいない”と言ってました。決してオレがオレがじゃなくて引き立て役に徹した。そして、その中で己を知ることになり、哲学を持っているから迷わないし即断ができるようになったんだと思います。マサさんは、自分の信じた道で思いっきり可能性を最大限に発揮することを常に考えていました。絶対に不可能はない。絶対に曲げない。信じた道は譲らない。あきらめない…それが彼の哲学でした」
プロレスラーとしての誇りも語っていた。
「ファンが“プロレスラーって強いの?”って聞くと“レスラーはみんな強い。うまいか下手かだ”って言ってました。知人の中には“プロレスがうそか本当か”と聞く人もいましたが、そんな時、マサさんは“いつでもリングにあげてやる”って言っていました」
結婚生活は、最初の5年は幸せに満ちていた。しかし、99年2月に引退し直後にパーキンソン病を発した。亡くなった今、アルバムをめくると倫子は、驚いたという。
「今、マサさんとの思い出は残念ながら闘病生活がほとんどなんです。いいことを思い出したいんですけど、どうしても辛く苦しかった時が浮かんできます。ですから写真を整理していた時に、結婚した当時の写真を見ると、私たちにそんな時代があったのかってビックリするんです。こんな笑顔があったのかって。結婚生活の4分の3が闘病生活でした。パーキンソンは、恐ろしい残酷な病気で真綿でじょじょに体を締めるように、いろんなところを苦しめて最後には死に至らしめる。多分、マサさんにとって昨年の7月が心身共に限界なんだろうなって今は思います。亡くなった時はあまりにも急で頭の中が真っ白になったんですけど、今は“逝くべき時に逝ったんだ”と言い聞かせています」
遺品を整理した時、1通のはがきが出てきた。それは、闘病中に全国の病院を転院していた時、徳島県内の病院でリハビリ中にマサが書いたはがきだった。あて名は、父親の斎藤忠祐さんだった。文面にはこうつづられていた。
『お父上どの。ボクは今、徳島県の徳島病院に入院しています。2か月の予定です。東京に帰ったら電話します。父上どのも元気でいてください』
レスリングで五輪に出場した明大を卒業し高校教師の道が決まっていた。しかし、力道山に憧れた子供のころの夢を捨てきれずプロレスラーになると伝えた時、父から殴られたという。それでも厳格な父をマサは常に尊敬していた。忠祐さんは102歳の今も健在だ。
「そのはがきは、出さずにいたから見つかったんですが、亡くなった後にそれを見つけたから余計に私は…」
尊敬する父と大好きだった母、最愛の妻を残して75歳の人生を全うしたマサ斎藤。家族、そしてプロレスを愛する人々の中に記憶は永遠に語り継がれる。(終わり)=敬称略=(取材・構成 福留 崇広)