結婚の追求と私的追求

能町みね子

第19回

グリーンホール

 雨宮さんとは何度会ったか分かりません。
 と書くと、ものすごく頻繁に会っていたような意味合いになってしまうけれど、文字通りの意味で、分かりません。
 2か月に一度くらいは会っていたような気もするけれど、いっしょに何をしたかを具体的に思い出して、その回数を知り合ってからの期間で割ると、年に一、二度くらいしか会っていないような気もします。かなりジャンルが違うとはいえ、お互いにもともとはブログで活動していたネットジャンキーなので、直接会話するLINEはもちろん、フェイスブックやツイッターも含めればネット上ではかなりの頻度でやりとりをしていて、よく会っていたように錯覚してしまうのかもしれません。
 覚えているのは、久保ミツロウさんと、雨宮さんの家に遊びに行ったこと。手土産も手料理も用意しようとすら考えず、手ぶらで雨宮さんのマンションの最寄駅に着き、たまたま目に入った餃子店でいろんな餃子をテイクアウトし、国道沿いにある眺めのいいワンルームへ。雨宮さんの部屋はよく片づいていて、大きめの鉢植えと、お気に入りのアラブ調の派手なチェストが存在感を放っていました。餃子だの菓子だのをつまみながら、私たちはそこでだらだらとミュージカルや羽生結弦を見ていた気がします。たぶん実のあることなんか特に話していない。恋愛の話なんかもきっとしていない。
 誘われて、銀座で開かれたドゥーブルメゾンの展示会に2人で行ったこともありました。銀座なんてそもそも私には似合わなくて、しかもブランドの展示会だなんて、1人じゃこんなハードルの高い空間には行けません。雨宮さんのフィールドだ、と思いながら、それでも行ってみればかわいいお着物やら小物やらにテンションが上がって楽しくなってきます。しかも、私が「装苑」でお仕事をしているせいで、たまたま面識のあるスタイリストさんに会い、少し言葉を交わすという「業界人」っぽいことが起こってしまいました。こんなおしゃれな場所で仕事の知人に会うなんて雨宮さんにこそふさわしいことだ、と思い、私は分不相応さに大いに気まずくなってしまいました。
 そのあとは、休日だというのにあまりお客さんのいない穴場の中国茶のお店に行って、まただらだらと無駄話。私にとってはとらえどころのない街である銀座に雨宮さんがこんなお店を持っている(オーナーであるという意味ではなく、頭にストックしてある)なんて、やはり彼女にふさわしいことだ、と思いました。大きな窓ガラスのそばの明るい席でいっしょに花茶なんか啜れることをひそかに誇りに思いながらの無駄話。
 ふと思い出したように、LINEで延々と長電話のようなやりとりをすることもありました。これも毎日とか毎週とかいうわけじゃなく、数か月に一回、不意に雨宮さんが、こんな新作が出たけど能町さん絶対これ好きだと思うんだよね、とか、こんな記事があったから能町さんに教えるしかないと思って、とか、そんな話を送ってきて、そこからずるずると最近の身近な噂だのゴシップだのを言い合う流れになるのです。文字での会話の中で、雨宮さんはサラリと恋愛の愚痴や悩みを言ってくることもありました。そのとき私はちょっと緊張し、私には縁のないような経験を語ってくる雨宮さんの話を内心かなり驚きながらも平静を装って聞き、なんなら知ったかのような口調でアドバイスを送ることもありました。
 しかし、私は雨宮さんが語る恋愛の中身にまで憧れていたわけではありませんでした。むしろまったくもって理解ができませんでした。時に、偉そうにどこかで聞いたようなアドバイスなんかしてしまうのは、自分の思いは棚に上げ、通り一遍のことを言っておかないとうっかり本音を言ってしまいそうだったからです。
 そのほかの部分はいつも私の憧れであるのに、恋愛に関してはなぜ毎度毎度よりによってそんな身を窶すようなことをしているのか。なぜそんな、どう考えても報われないことをしているのか。恋愛の話を聞いている間は、こんな身も蓋もない言葉がずっと脳内にこだましていました。どうせならしっかり幸せであってほしい、という思いももちろんありました。でも、私が夢中になれない「恋愛」ってのは、きっとこういうものなんだろう。私は半ばあきらめ、その執心ぶりに半ば羨望や嫉妬も感じていました。「恋愛の話なんかしないでほしい」とは思いませんでした。雨宮さんは自分の恋愛についてのあれこれを作品内で仄めかすことはあっても、具体的な話にまで迫ることはなかったため、プライベートの芯の部分をこんな私に打ち明けてしまっているという状態に私は選民意識のようなものすら感じ、いい気分にもなっていました。
 私は、2つ年上の雨宮さんに対し、なぜか早い段階でほぼタメ口になっていました。私はふだん、年下の知人でも初対面からしばらくは敬語で接するし、年上ならかなり親しくなっても敬語を崩すことは滅多にないのですが、雨宮さんについては自分でもなぜこんなにすんなりタメ口に移行できたのか分かりません。会話しているときの、彼女の柔らかい言葉の受け止め方は私を異様に安心させてくれるので、私も早く2人の間の壁を壊したくなったのかもしれません。不思議なバランスでした。こちらは雨宮さんと接するときに、憧れから明らかに背伸びをしている自覚があったのに、彼女はまったく気づいていないようなところがあり、私もそこに甘えさせてもらっていました。
 知り合ってから5年弱、40歳になってからの雨宮さんはやや暴走していると思えるほどに活発でした。クラブなどに行って強くないはずの酒をやたら飲み、家でも飲み、高そうな服を買って自撮りをインスタに上げ、ひょいひょいと遠くに出かけていました。結婚式を模したような自らの誕生パーティを盛大に開いたのには驚きましたが、その写真は心から楽しそうでした。
 こういった集まりに私が呼ばれたことはありませんでしたが、それは私にとってもありがたいことでした。私は知らない人だらけの大勢のパーティは苦手ですし、雨宮さんとの関係では一対一でいることに何より満足していたので、私と関係ない場所で充実した生活を送っている雨宮さんの輝きを見るのは単純にうれしいことでした。おそらく彼女もこんな私の性格を察していたはずです。だから、お互いに共通の友達を増やそうと試みることはなく、私たちは疎であり密な心地よい関係性を保っていました。

 その日のことは、驚くほど覚えていないのでした。
 スケジュールを確認してみると、私はどうやら19時近くまでテレビの収録現場にいたようですが、その後どこでどうして知ったのか、まるで思い出せない。21時だか22時だか、そのくらいにタクシーで向かっていたところから記憶がある。向かった先は野方のなんとかというホール。
 雨宮さんが亡くなったということを、私はどこからか、誰からか聞いた。共通の知り合いがほとんどいないので、久保さんから聞いたのか、私が誰かから聞いて久保さんに教えたのか、どっちかだろうと思う。何が何やら、通夜だかなんだか知らないが、ただその野方のホールにいるとのことで、向かうことになった。タクシーにひとりで乗っていたのか、久保さんと乗っていたのか、それすら覚えていない。
 信じられないとか、噓であってほしいとか、まったく思っていなかった。ものすごく強固に信じていた。亡くなった、ということを信じすぎていた。こんな知らせが噓のわけがないのだ。こんな悪質な冗談を言う人はいないのだ。絶対に本当だった。絶対に本当なので、大人としてこういう場合は誰か知り合いに伝えなきゃいけないのだ、と思ったけれど、考えても共通の知り合いは久保さん以外に思いつかなかった。そうか、私たちは学校や職場で出会ったわけじゃないから、共通の知り合いがほとんどいないのだ。だから私に情報が届くのが遅かったんだな、とタクシーの中で気づいたのを覚えている。
 真っ暗な環七をタクシーは走り、目的地に着いた。グリーンホールという、銀座には絶対にない、名前からしてすべてがサイディング材で固められたような場所だった。遅くなってしまったのでホールはすでに閉まっていて、顔を見ることはできないということだった。みんなでわいわい仲良くやっていた友達グループのような関係性じゃないから、こういうことも起こる。閉まった施設の前に、黒い服を着た知らない人たちが、悲しいというよりは呆けたような表情で案山子みたいに突っ立っていて、小さく挨拶など交わしながら一人また一人と帰っていた。そんななかに私も、そこにいる唯一の知り合いである久保さんといっしょにこわばった形で突っ立っていて、亡くなった理由を、自ら誰かに聞いたのか、誰かがしゃべっていたのが耳に入ったのか、事実か噂か分からないことをポツポツと脳の隙間に差し入れた。だんだん人も少なくなるなか、粘ったところでどうやっても施設には入れないということが分かり、この日に顔を見せてもらえない自らの関係性を恨んだ。そして、久保さんと、もう一人の思い出せない誰かと、野方駅の近くにあるらしいマックに向かってやっと歩きはじめた。
 私は環七の歩道を、雨宮さんが亡くなったということを、墨汁をどっぷり含ませた大筆で顔面に何度も塗りたくるかのように信じ、また信じ、信じながら一歩一歩進み、人のまばらな深夜のマックに着いたときにはもうそこにいたほかの二人を差し置いて信じられないほど泣いていた。何かを注文してから店の2階にあがって席に座り、泣いてるせいで整わない息に腹を立て、悲しさや思い出を語るわけじゃなく、裏返ってしまう声をどうにか抑えながら、雨宮さんに対する怒りばかりを小汚いマックのテーブルに向かって小声で投げつけつづけた。事故死だと。ふざけるな。ふざけんなよ。ちょっと背伸びして生きるのが楽しい、開き直れた今のほうが昔よりいい、という態度を示していた人が死んじゃったら、今まで言ってたことがすべてただの強がりってことになるじゃないか。憧れもすべて覆った。ただの虚飾。ただの無理。ただの嘘だ。

プロフィール

能町みね子

1979年北海道生まれ、茨城県育ち。漫画・コラム・エッセイの執筆を中心に、最近ではテレビ、ラジオへも活動の場を広げている。