第20回
マルメンライト
翌日昼に葬儀が行われ、その日の夜にはまたラジオの収録があって私はいつもどおりの仕事をこなした。翌々日にはいつもどおりの原稿を書き、午後には毎月国会図書館でやっている調べもの、兼、打ち合わせをこなし、しかし、その後、恐ろしいことに予定がなかった。この2日は朝から泣いて、夜は泣きながら寝ていた。空白の時間が来ると自動的に噴出する汚らしい涙を予定で堰き止めていたので、困った。
国会図書館からの帰り、ふだんは編集者さんといっしょに有楽町線に乗るのに、永田町の駅の入り口で雑な言い訳をして別れ、どこかに歩いて行きたくなった。薄暗くなった人の少ない千代田区の道を歩いて歩いて、文藝春秋のビルを通りすぎ、ひとけのない方を目指してさらに進むと暗がりの中に華やかな光が現れ、それはホテルニューオータニだった。そこからお濠の土手にのぼり、足下も見えない真っ暗な土の道を歩いてゆくと四ツ谷の交差点にたどりついた。四ツ谷の喫茶店「ロン」はすてきなお店だと聞いていたが、入ったことがない。
ロンの入り口の「喫煙可」の表示を見てふと思いつき、隣のファミマで、吸わないタバコを買ってきて店に入った。キツいのをやってもどうせ定着しないだろうからメンソール入りのがいい。ロンの壁際の席に座り、マルメンライトを立てつづけに3本吸った。鼻がツンとした。それでいて、いつもと何も変わらぬ私ですよと自覚させたい気持ちになり、飲みものは甘~いミルクセーキを頼んだ。本など何も持っていなかったので、スマホで雨宮さんの書評連載「本でいただく心の栄養」を読み、気になった本を心に留めた。
薄い薄い、ほとんど水のような「死にたい」という気持ちに沿うための行動として、タバコを吸う、という程度の悪ぶり方はいかにも小者らしくてよいと我ながら思った。ついでなので、タトゥーについてもスマホで調べてみた。
私が蛇好きだということについて、似合うと言って彼女は喜んでくれ、私はものの拍子に「タトゥーを入れるなら蛇がいい」と言ったことがあった。それもまた非常にチンケな自暴自棄さでなかなか上出来だと思うが、さすがに実行には移さないかもしれない。あとはピアスを増やすくらいだろうか。想像力がどうしようもなく貧困でどうしようもなくチンケだ。
ロンが閉まる時間になったので、出た。またどうしようもなくなり、新宿通りを新宿に向かって歩いた。本人の思い出の場所なんかはどうでもよい。知らないし。そんな近い場所に行ったら終わってしまうように思う。感情がゴールに着いてしまう。だから、遠いところをさまよいたかったが、なんにも思いつかなかった。途中で、誰かを誘ったら気持ちの流れも変わるかもしれない、と思い、ほとんど電話なんかしたことのない、ずいぶん昔に「これは恋愛かもしれない」という感情を持ちつつも結局何もなかった人に勢いで電話してしまった。彼は当時から既婚者だったが、その時点でも友人としての親交は続いていた。雨宮さんもこんなことをしそうだな、とうっすら思いながら電話をした。しかし、理由を言わずに「突然だけど飲みませんか」と言ってみると、仕事がかなり忙しくて、ちょっと今日はどうしても無理、ごめんね、と優しく断られた。この状況は呆れるほどにさすが私だ、と思った。ここで男なんか呼べるのは私ではないから、これでよかった。
紀伊國屋書店まで大きなアホ面を引っさげて歩いて、さっき調べた本を2冊買った。伊藤野枝、島尾ミホ、頭がおかしいほどに強く生きた人の本であった。そして、新宿の裏通りをさまよってみたら「バン」という奥深いところにある煙い喫茶店を見つけたので、そこでまたタバコを吸いながら伊藤野枝の本をパラパラと読んだ。
バンも閉まって、21時、まだ混んでいない時間だろうと思って二丁目のバー「星男」に行った。友人の宗くんがやっているから、私が二丁目で唯一気楽に入れるお店である。しかし、戸を開けるとびっしりと混んでいた。やや腰が引けたが、とりあえずそこで飲む。関係のない人と飲むと当然関係のない話になり、少し気がまぎれる。そのときカウンターで隣になったのは面識のない男の人で、もちろん私のいまの状況など何も知らずに話しかけてくる。そうだ、それでいい。気がまぎれる。まぎれるが、消えはしない。その人は私が大相撲を好きなことを知っていて、話を合わせてくれたのだろう、そんなに詳しくないと思われる相撲の話をどんどん振ってくれた。私も聞かれたことには答えた。対話が意外と長引き、少しずつ嫌になってきた。私からも話したい。吐き出したい。胃液を吐くように話したい。でも私が話す相手は何も知らないこの人ではない。日本酒を二合。
――隣の彼はまだ相撲の話をしてくれていた。私は眠いふりをしてほとんど黙った。混んだ店内でわざわざ移動する元気もなく、一時間あまりも眠いふりを続けた。ほとんど中身のないグラスを何度も啜った。その人はついに帰ると言い、上着を着ながら私に対して「もう(眠気が)限界ですか」と言ってハハハと笑ったのでついに私は耐えられなくなり、爆発的に当たり散らしたが、彼に対して怒る理由がまったくないので、「こっちは機嫌が悪いんだよ!」とあまりに率直に感情を大声で発表し、さらに勢いあまって、さっきの会話の内容について怒鳴った。「白鵬の立ち合いがどうとか相撲のことで私を論破しようとすんじゃねえよ!」少し意見が違った程度で、彼は別に論破しようとしていたわけでもなかった。本当にそんなことはどうでもよかった。あまりに些細なことで激怒したので、ものすごくまぬけになった。そしてすぐに泣き、「すいませんそういうことじゃないです。ごめんなさい」と謝った。他人から見ればまったくわけが分からない理由で、大して酔ってもいないのに数秒で感情が上下する頭のおかしい人となった。その人はオロオロして謝ってきた。心から悪いことをした。
こんなことは過去になかったから宗くんは当然心配し、私も緊張の糸が切れてしまったのでもはやどうでもよくなり、事情をぼそぼそと、故人の悪口を頻繁に挟みながら説明することになった。
生きていたときには、生き方や作品に嫉妬こそあれ、悪口を言いたいと思ったことなどなかったが、今はもうタンクにいっぱい悪口しかない。死にたい死にたいと言って周りの人にさんざん心配をかけ、迷惑をかけ、いつまでも死なない人がいる。それはとてもすばらしいことだ。それに対し、マジメに生きて他人にも真摯に優しく対応し、自分のつらい気持ちは奥底に押さえ込み、結果として死んでしまう。これはダサい。ものすごくダサい。生きたほうがいいに決まっている。心から憧れていた人がその絶対値だけを残してきれいに裏返り、心から見下す対象になった、と思うとまた状況の不条理さに汚い涙がにじんできそうになるが、もうさすがに泣くのは飽きた。
悪口は昨日の火葬についての話に移り、私はイモラルな毒づきを続けた。一般的な葬式で、葬儀場の人が故人の人生についてポエム風にふりかえるのが嫌だと言っていたのに、昨日の火葬では見事に軽めのポエムを読まれていて、私は「ダセぇ」と思ったんだ。いきなり死ぬからこんなことになるんだ。死んだら思いどおりになんかいかないし、何をされても文句を言いようがないんだ、ざまぁ見ろ、お前は今すさまじく田舎くさくてダサいぞ。
空白の時間にはとめどなく泣いていたのに、棺に入った本人を見たら憎たらしさと情けなさで涙は止まり、睨みつけるくらいしかすることがなかった。手も合わせる気になれない。棺にお花をどうぞ、と誰かに差し出されたのも無言で断った。死んでる奴にやるものなんかない。顔のそばに、著書の『東京を生きる』が置いてあり、花で隠れて「生きる」とだけ見えて、いや死んでんじゃねえかよ、バカバカしい、嘘つき、と思った。みんなが綺麗な顔だとか言ってたが、口の中から綿が見えていてまぬけだった。ちっとも綺麗じゃなかった。
こういうようなことをカウンターでずっと話していた。
怒りをぶつける対象が足りず、葬儀で、棺の周りで悲しんでる人にも腹が立ってきた。しくしく泣いたり、顔に向けて手を合わせたり、別れを惜しんだり、全部よくある芝居に見えてしまい、お前らはこんな状況になっても「大人」なのか、と煮えくりかえっていた。こんな、ゴムを伸ばしまくって遊んでいたら突然バチンと切れたというような死に方について何をお利口に悲しんでいるんだ。ゴムを限界まで伸ばすという危なっかしい行為を続けながら、楽しいよ、充実してるよ、と言い張っていた本人に怒りはないのか。そういうところに目をつむり、死という平凡な事実だけに的を絞って平凡な悲しみをぶつけられるなんて、器用すぎる。正解の顔をした人が雁首そろえてお別れに納得した涙を流しているように見えて、なんなんだこの世界は、と思った。茶番だ。私以外はすべて茶番なのだ。そう思わないと腹立ちが処理できない。
彼女が好きだったはずののっそりした男がいつの間にか棺のいちばん近くにいて、そいつだけは泣きもせず表情も変えず、この演劇空間を悠々と支配するような面構えをしており、なんとキスまでしてのけて、あまりにお見事な演技力に殺意を抱いたので私は棺からいちばん遠くに離れた。そして誰とも目を合わせないよう俯いていたので、そいつ以外に誰が来ていたのかほとんど把握していない。焼香のときも手も合わせず、ひとつかみを投げつけて終わらせた。遺族にも挨拶していない。遺族ってなんだ。地元の福岡の墓には入りたくないと言ってたけど、こんな早く死んでそれが実現できるのかよ。死んだら何もない。全部人まかせだ。
そんなことを話していた。
ただ歩いていても、要素に時々ぶつかる。好きだと言っていた宇多田ヒカルが流れてきたり、本屋に行ったときにオビに入ってる名前が目に入ったり。そのたびに「いない」ということを考える。
いない世界が襲ってくる。改札でカードをタッチするとき、外でご飯を食べるとき、エレベーターのボタンを押すとき、一つ一つの行為をもうできない世界に行ってしまった人のことを考えてしまう。いない世界になってしまって、いない世界からいる世界にはどうしても戻らない、ということを忘れるために、私は怒る。そうしたら怒る対象が、生まれる。怒りつづけないと、生まれつづけない。悲しいだけになったらいなくなる。怒りつづけ、ときどきうっかり空白になったときに悲しんでしまい、イチからゼロになることへの恐怖にも襲われる。また目盛りを怒りに戻すようにする。
「星男」に人も少なくなり、深夜4時を回るまで私はカウンターにいた。もう途中から酒はまったく飲んでいなくて、温かいお茶ばかり飲んでいて、だから私は生きられる。体が無茶をしないようにできていて、どんどんつまらなくなって、たくさん生きる。だからどうせタバコも定着しないんだろう。タトゥーなんか彫るわけがない。
会ったころのトークイベントでも言ったんだ、お互いにつまんなくなろう、幸せになってダメになろうって、言い合ったのだ。やはり、それだ。それが正しかった。