千五百七十六年 二月中旬
近江有数の
彼の見立てによると、本願寺との連携を失った毛利では織田家の覇業を阻むことは出来ず、遠からず戦火は九州へ迫ると読んでいた。
そうなれば戦災での遺失を避けるべく、静子が芸事保護に乗り出すのは自明であり、その為の足掛かりとして自らが乗り込んで現地で静子を支援できる体制を作りあげるべく奮闘していた。
商人との取引と異なり、武家たる国人たちとの取引に於いて現金や現物以外では説得力に欠ける。
とは言え、流石の静子といえども遠く離れた九州の地で、大金やそれに準じた価値ある現物を用立てるには海路を通じて輸送するほかない。
そこで御用商人でもある自分が九州に先んじて拠点を持ち、現金や現物が都合を付けられるとしたらどうだろう?
到着するまでに日数を要する上に、海難事故等による全損すらあり得る海運と異なり、現地に信用のおける商人が居て、その場で資金を用立ててくれるのだ、これを利用しない手はない。
国人同士の取引ともなれば莫大な金額が動くことになり、それに応じて久次郎が得られる手数料も莫大なものとなる。
更に静子の御用商人として名を売ることができ、近江から遠く離れた九州の地でも地盤を固める事が出来る。
後は九州の特産品を東国に流し、東国の各種物品を西国にと循環させれば、得られる利益はどれ程のものになるか判らない。
久次郎は今までの静子との付き合いから、現代式の企業運営を聞き出し、自分なりに解釈して実践していた。
それは株式を発行する事により資本関係で結びついたグループ企業の構築であった。
静子としてはそれぞれに特色を持たせた分社化を語ったのだが、基礎知識で劣る久次郎は
しかし、資本関係だけで繋がった冷徹な分社独立よりも、家族的な性格を引きずった久次郎の暖簾分け方式の方が時代にマッチしており、奇しくも彼の策は成功した。
お陰で久次郎の屋号である『田上屋』は異例の全国区で名の知られた大店となり、日ノ本で最も広い版図を持つ一大商業コングロマリッツに成長していた。
この田上屋が作り上げたグループ企業網を利用すれば、尾張で現金を預けて九州で現金を引き出すことが可能となる。現代社会の銀行が担う送金機能を確立していた。
この功績を評価され、九州の国人にも広く静子の御用商人として周知された結果、商人でありながら芸事保護に関する現地総代理人の地位を得て、現地の国人たちと交渉を任されるまでになった。
「久次郎さんは、
現代に於いては太平洋戦争終結時の混乱期に所在不明となった、
史実では阿蘇氏が島津氏に下った事を機会に戦国大名としての阿蘇氏は滅亡し、後に豊臣秀吉の九州制圧の際に阿蘇神社の大宮司として再興した。
その過酷な変遷の
そこで静子は己の持てるコネクションを総動員することにした。
即ち、義父である
そしてそれらすべての背景に、天下人に最も近いとされる織田家の重鎮であるという武力の裏打ちがあった。
ここまでしても、相手が頷くまでには相応の時間を要するのが人間と言う生き物の難しい処だと言える。
「借用が叶ったら、まずは現物の写真を撮ってファイリングし、その後に写しを製造かな」
静子が所有する刀剣は3種類に分類されている。一つ目は本科と呼ばれる所謂本物。二つ目は本科が失われた写し、三つ目は本科が存在する写しとなる。
本科とは本歌とも書き、写しの元となる刀剣を指す。今回の阿蘇氏のように借用には応じても、譲渡は望めない場合等に本科を手本に写しを作ることになる。
製造過程が明らかになっていれば、それなりに精巧な写しが望めるが、多くの名刀は刀剣を打った本人にして、二度と同じものが作れるか判らない。
それでも刀剣の研究をする上で、写しを製造することに意味があると静子は考え、精力的に刀鍛冶を支援し写しを作らせている。
今では静子の愛刀として知られる
本科はより精巧な写しを作るために刀箱に収められ厳重に管理されている。
本科の大包平を目に出来るのは、静子もしくは静子に許された刀鍛冶のみであり、特別な行事以外では静子自身も身に着けることはない。
また付属の資料等が遺失しても本科と写しが混同されないよう、静子が作らせた写しには
普段は柄に装飾され見えない部分だが、そこに製造年月日と『静写』の銘を切ることが義務付けられている。
因みに刀工たちが製造の為に本科に触れる際には、周辺を静子軍の正規兵が固め、更に間者までが動員される念の入れようとなる。
監視される側の刀工たちは、安全が確保される上に、衣食住から材料に至るまでが保障される為、刀鍛冶に専念できるとむしろ歓迎すらしていた。
「『にっかり
静子は呟きながら床に仰向けに寝転がった。
『にっかり青江』とは備中青江派作の
この幽霊を斬ったとされる武士も三人の名が上がり、斬った場所の他にも女と子供の二人連れの幽霊だなどと細部の違いが確認できる。
また他にも似たような逸話を持つ刀剣があり、そちらは備前
「柴田様は名より実を取っちゃったから、嬉しい反面寂しくもあったなあ」
にっかり青江の所有者は柴田勝家であり、静子としては交渉し易い反面、借用だけに留まるだろうと想像していた。
しかし、蓋を開けてみれば柴田は二つ返事で譲渡を約束し、代わりにと彼の領地経営を補佐することとなる。
勿論、織田家にとっても柴田が北陸の地を繁栄させ、しっかりと治めてくれることは望むところであり、信長の許可を得て協力する運びとなった。
静子は勝手に柴田を同じく刀剣を愛する同好の士と認定しており、買い取りが叶って嬉しい反面、裏切られたような複雑な心境となっている。
なお
「研究のために本科を使うのはリスクが伴うし、かと言って何でもかんでも写しを作るのは懐が痛むなあ」
刀剣が高値で取引されると言う認識が広まれば、当然のように邪な輩が湧いて出てくる。仮に静子の借用している刀剣が盗難に遭えば、理由如何に拠らず彼女の信用は失墜する。
信用は失うに容易く、勝ち得るには長い時間を要するものである。一度でも盗難を許せば、以降の借用は難しくなる。
権力や武力を背景にごり押しすることはできるだろうが、無理に横車を押した代償は必ず付き纏い、いずれ自分を窮地に追い詰める可能性がある。
そうしたリスクを排除するためにも、借用した刀剣は写真を始めとした詳細な計測データを取った後、信用できる刀工に写しの制作を依頼する。
写しの制作中は勿論、本科については運送中も子飼いの部隊が警備を務め、借用期間に余裕があればその間保管するため、最も警備が厳重な静子邸にある蔵へと運び込まれる。
こうして制作された写しは、所定の処置を施した上で静子の許へと届けられる。
近頃は静子が所有したというだけで箔が付くのか、写しにも一定の価値が生じるようになり、写しの取扱いについても注意が必要になってしまった。
「さーて、休憩は終わり。仕事に取り掛かるか」
大の字で天井を仰いでいた姿勢から、勢いを付けて起き上がると、静子は文机に置かれた書類入れに手を付ける。
この頃、静子自らが手掛けなければいけない仕事と言えば事務処理になっていた。
自分でなければできない仕事を減らしていった結果ではあるが、それでも統括する立場でなければ判断できない決裁事務は残るものであり、忙殺される程ではないが楽はさせて貰えない。
静子自身が甲冑を身に纏い行軍するような事態は、東国征伐以来絶えて久しい。
仮に出陣することがあったとしても、静子の立場では後方に陣取って指示を出すのみである。
弓の扱いこそ秀でているものの、近接戦闘力は皆無に等しく、体力腕力で男性に勝るわけもない。
それでも静子配下の将兵たちが静子を侮るようなことは決してない。
それは彼女の類まれな采配能力や、広く大きくものを見る視点により軍の生命線である兵站を維持し続けている姿をその目で見ているからだ。
兵站の何たるかを知らないような外様の部隊ならば女人であるだけで静子を侮る事もあるが、静子軍に組み込まれ座学を始めとした軍事訓練を終えた精兵は腕力だけが力ではない事を知っている。
「ふーむ。これは可決、こっちは却下かな? これだけの予算を必要とする根拠を添えて再提出っと」
書類を一枚ずつ確認し、問題なければ決裁の判を捺して決裁済みの書類箱へと移し、却下するものには却下理由を書き加えて別の書類箱に分別する。
全ての書類について裁可が終われば、小姓がそれぞれの書類箱を事務方の詰める部屋へと運び、以降の処理が引き継がれることになる。
休憩によって一息いれた静子は、集中力を発揮して次々と決裁待ちの書類を片付けていった。
「かかさま、おしごとおわりました?」
最後の書類を決裁済みの書類箱へと移したところで、静子は室外から掛けられた声に気付いて振り返る。見ると
「ええ、丁度今終わったところ。どうかした?」
そう問いつつも静子は自分の記憶を掘り返し、器と何か約束をしていたかを思い出そうとする。
こちらから話しかければ応えもするが、滅多に自分から話しかけない器がそれをしたという事が静子には気掛かりだった。
「あのね、きょうはあやがほめてくれたの」
「おお! それは凄いね! あのツンデレの彩ちゃんがそれと判るように褒めてくれるなんて、よく頑張ったね!」
「つんでれ?」
「コホン、何でもありません。それよりもそんな処に居ないで、こちらにおいで?」
そう言うと静子は体ごと背後に振り返り、器に向かって手招きをする。少し迷った器だが、静子の浮かべる笑みにつられて室内に入ると、静子の差し出す両手の間に収まった。
静子は自分の膝の上に器を座らせて、まるで抱き合うかのようにお互いに向かい合って器の話に相槌を打っている。
戦国の常識からすれば目を
それを癒してやれるのは、誰の目にも明らかな愛情と肌の触れ合いだと静子は信じてやまない。性別の差があるためか、四六は照れて抱かせてくれないのが目下の悩みだ。
幸いにして二人とも静子には心を開いてくれているし、四六には少々素行が悪いが慶次と言う同性で頼れる兄貴分が居る。
静子自身が異性との感情の機微については壊滅的であるため、慶次が兄貴分に収まってくれたのは嬉しい誤算であった。
「きょうはね、さんすうのしけんがあったの。むずかしかったけどがんばったら、あやがよくがんばりましたって」
「うん」
「それとごはんものこさずたべたの。おふろもひとりではいれたよ」
たどたどしく話す器の言葉によると、言われなくても自分の事を自分でする器を褒めたようだ。
「うん(茶々様や初様と比べたら……いや、あの二人は規格外か)」
「いつもはこわいけど、ほめてくれるときはわらってくれるの」
「そうだね。彩ちゃんは普段無表情だけど、その分笑ってくれた時は可愛いよね。良い事をしたら褒めて、悪い事をしたら叱る。これは皆と一緒に暮らす上で、とても大事なことなんだよ」
「うん。ほんとはいつもほめられたいけど、やっぱりしかられることもあるから。すこしずつしかられないようになりたい」
「焦らなくても良いんだよ。それに叱られないようにするよりも、褒められることを増やす方が楽しいよ? 私も彩ちゃんも器が大好きだから、本当は毎日でも器を褒めたいんだ」
器の頭を胸に抱きこむようにして、静子は器の髪を優しくなでる。器は嫌がる素振りもなく、静子に身を任せると目を細めて心地よさそうにしていた。
ネグレクトの影響は未だ色濃く器に影を落としている。自分が何かをしたいではなく、叱られないようにしたいと言うのは子供の発想としてはやや不健全だ。
器には普通の子供よりもよりはっきりと言葉と態度で愛情を伝える必要がある。
実際に子を産んだことのない自分が母親の真似事をするのは少し気恥ずかしくもあるが、器の生育と天秤に掛けられるものではない。
「ほんとうはあにさまみたいにはなせるようになってからいうつもりだったんだけど、うれしくってきちゃった」
器は成長の過程で殆ど言葉を発さなかったため、恐らく脳の言語野の発達が遅れている。
兄と二人だけの生活から、他の子どももいる環境に身を置いたことで、器自身も自分が上手に会話できないことを気にしていると報告では聞いていた。
「上手に話せているよ。
「うん」
「失礼します、静子様。
器ととりとめのない会話を続け、ふと会話が途切れたタイミングで彩が報告に現れる。
まるで見計らったかのようなタイミングの良さに、彼女の気遣いを感じて嬉しくなった静子は、器を抱きかかえたまま彩の方へ向き直った。
「つんでれ」
ありがとうと静子が声を掛けるよりも早く、器が彩を指さして言葉を発した。途端に彩の顔面から感情の色が抜け落ちて、能面のような無表情へと変じる。
「静子様、少しお話がございます。器様、夕餉の支度が出来ておりますので、皆と一緒に食事になさってください。私も追って参りますので」
「うん、わかった」
「ありがとうございます」
彩の事を指してツンデレと呼んだ器に、彩は上品な笑みを浮かべている。しかし、静子にはその綺麗な笑みの背後に怨嗟の表情を浮かべた般若の影を見た。
その後、締め切られた室内での出来事について静子は決して語ろうとはしなかった。
足満は最近、技術街に足しげく通い木工職人や金物細工師、鋳物師などと綿密な打ち合わせを繰り返していた。
木材を加工するとどうしても
この他にも山の整備で出る間伐材や
通常は割り箸や、爪楊枝等の小物へと加工して再利用している。
現代でも割り箸が資源の無駄遣いの象徴のようにあげつらわれ、エコの大義名分の元に断罪されたが、本来は廃材を有効活用し森林資源を支える工夫の一つであった。
史実に於いて割り箸が初めて登場した時期は不明だが、一般的に流通している事が確認できるのは江戸後期、文政(1818~1831年)頃と言われている。
江戸時代後期の江戸、京、大阪の事物を紹介した百科事典のような書物、
歴史に先んじて技術街で生産される割り箸は、幸いにして「割る」という行為が「事をはじめる」と言う意味をもつため、神事や祝い事など衆目の前で使用され、庶民にも広まっていった。
木製だけでなく竹製の割り箸も生産され、飲食店でも割り箸を使える程度には安価で供給されるようになっていた。
そうした背景もあり、手頃な大きさの端材が手に入らない足満は、林地残材を人まで雇って回収した上で買い取り、木工職人達に声をかけて様々な形に加工するよう依頼していた。
色々な職人にバラバラに発注しているため、足満以外は全体像が判らないが、かなり精巧な機構を備えた何かを作ろうとしていることを職人たちは察しており、足満の要求に応えるべく奮闘していた。
足満は全ての部品が手許に届くと、接着剤やネジを用いて組み立てを開始し、現代人の男性であれば郷愁を掻き立てられるような形へと組み上げた。
「よし! 期待以上の精度だ。がたつきもなくしっかりと組み上がった」
原理的には割り箸で作る輪ゴム鉄砲を大きく、銃身やグリップにも気を使った大人の玩具と言った仕上がりだ。
足満は鋳物のトリガーガードで守られた鍛鉄製のトリガーを引いて、固定具が正常に動作する事を確認すると満足げに頷いた。
「理想を言うならニスを塗ったり、塗装をしたりしたいところだが……まずは形になっただけでも良しとしよう!」
足満が端材を用いて作ったのは、オートマチックハンドガン型のゴム銃だ。
工業化が進むにつれて硫酸や硝酸と言った必須基材となる酸の需要が増え、副産物として樹脂やファクチスの余りを利用した輪ゴムが大量に普及していた。
勿論天然ゴム程の弾性は無いのだが、それ相応の太さのものを見繕えば十分にゴム銃に使えると閃いた途端、足満の中に住まう少年魂が叫び始めた。
足満の好みはオートマチックよりもリボルバータイプのハンドガンなのだが、回転式弾倉と輪ゴム銃は相性が悪いため断念していた。
「まずはゴム銃で連発式銃を見せれば、その有用性が示せよう。いずれはリボルバーを携帯したいものだ」
実際に実包を射撃できる拳銃を作れれば良いが、ボルトアクションライフルですらセミオート止まりの現状、一足飛びの技術革新は望めない。
実弾と異なり、全く同じ個所に複数の弾体(この場合は輪ゴム)を装填できるゴム銃は、連発式の仕組みを理解する教材として適していると言えた。
「撃鉄代わりの歯車に引っ掛ける形で、12発まで輪ゴムを装填できる。試しに5丁作ったから、みつおや五郎、四郎にも声をかけて試しに撃ち合ってみるか」
金属製のフレームを持つ実銃ならば難しい二丁拳銃も、機構部を除けば殆どが木製のゴム銃ならば余裕で扱う事が可能だ。
自分用に二丁確保して、腰の両側で帯に差し込んで吊るすと、残りの三丁と輪ゴムを風呂敷に包んでいそいそと出かけていった。
数日後、練兵場の片隅で良い歳をしたおっさん4人がそれは楽しそうに撃ち合いをする姿を多くの兵士が目撃することになる。
何故か皆も心惹かれるものがあったのか、密かなブームとなり、鉄砲鍛冶が図面を引いて工夫を凝らすなど、魔改造が始まった。
時は巡り、二月半ば。仁王立ちする彩と、その前で悄然と座る静子と言ういつもの構図があった。
「静子様、いつになったらあの面妖な呼称から解放して頂けるのですか?」
彩の静かな怒りを前に、静子は己の力不足を嘆いていた。即ち、器が彩のことを『ツンデレ』と呼ぶ癖がついてしまったのだ。
「貴女は自分の娘に何を教えているのですか?」
「ごめんね。決して悪い意味じゃないんだよ? 一見とっつきにくいけど、内心は優しい女性を指す言葉だからね?」
彩の目を見つめる事が出来ず、静子は俯いたままで辛うじて嘘ではない言い訳を口にする。
「つまり?」
「悪口じゃなくて誉め言葉だって器にも説明したら、音の響きが気に入ったみたいで……」
静子は器に対して、誉め言葉だけど余り上品な言葉じゃないから言わないように説得を試みたが、短いセンテンスで的確に彩を表現する語彙を気に入ってしまい、多用するようになってしまった。
静子の態度を見るに、それだけの意味とは思えないが、少なくとも悪意があるわけではないと理解し、不本意だが彩は自分が我慢をすることを選択した。
「自分を指さして、何だか判らない言葉を掛けられるというのは意外に気になるものです」
「ごめんね」
「もう構いません。気にしないと言えば嘘になりますが、慣れるよう努力します」
彩からすれば聞き慣れない呼び名だが、過剰に反応するから器も気に入っている節があるため、器が早く飽きてくれることを願うことにした。
「この話はもう良いでしょう。しかし、今はこの問題にどう対応するかを決めなければなりません」
そう言いつつも、彩は自分が静子に酷な事を強いているという自覚があった。
静子が意図的に
非情だと
この問題から逃げたところで、一番後悔するのは静子自身となる、彩は心を鬼にする覚悟でいた。
「彩ちゃんが言わんとしていることは理解してる。頭では理解してるし、何年も前から覚悟はしていた……いや、していたつもりだったんだ。でも、いざ目の前に突き付けられると駄目だな……」
いつもの静子とは異なり、疲れ果てた老人のような力ない呟きだった。思わず流れそうになる何かに耐えるため、静子は天井を見上げて小さく息を吐いた。
余りの痛々しさに彩は一瞬目を逸らしそうになったが、強く意識を引き締めることで踏みとどまった。
彩の前に居るのは、どんな苦境でも何処か暢気で朗らかな静子の姿ではなく、己の家族を失う事を受け入れられずにいる唯の女の姿であった。
「頭では解ってるんだ、長生きした方だって。薬も専門の医者も居ないなか、ここまで生き永らえたことがさ。知ってる? 野生の寿命なら今の半分もないんだよ」
「……心中お察しいたします。しかし、先延ばしするにも限界が――」
「判ってる!」
力任せに拳を机に打ち付けて静子が叫ぶ。
大きな物音がしたが、彩はポーカーフェイスを崩さず、誰も駆けつけてくる様子もない。
ただ、彩は静子から見えない位置で爪が手に食い込むほどに拳を握りしめていた。
「ごめんね。判ってはいるんだ。私がこの体たらくなため仕事に支障を来たしているのも、彩ちゃんが本当に私を思いやってくれているのも判ってはいるんだ……」
「支障など――」
「それでも、今回ばかりは心がついてこないの。ごめんね、自分でもこのままじゃダメだって判ってる。時間が無いのも判ってるけど、もう少し時間を頂戴……」
幾つもの言葉が脳裏を過るが、そのどれもが彩の口から放たれることは無かった。
呆れるほどお人よしだけれど、必要とあらば冷酷にもなれる静子が感情を制御できずに振り回される姿を前に、彩は言葉を失ってしまった。
そして辛い時にいつも寄り添ってくれた静子に対して、力になれない己が歯がゆかった。
「ごめん。暫く一人にしてくれるかな? 仕事は何とか片付けるから」
「分かりました」
彩は己の無力さを噛みしめながら、静子の部屋を後にした。
静子は己の感情に身を任せるには偉くなり過ぎた。彼女が発する一言は、時として人の生死をも左右する一言となる。
もし仮に静子が苛立ちのまま、誰かを感情的に強く叱責したとする。この時代のそれはされた方にとって死刑宣告にも等しい。
主人の勘気を被った家人の立ち位置など、腫物もかくやといったものになる。最悪の場合、家族もろとも領外へと放逐されることすら珍しい事ではない。
「(貴女は今まで己を殺し、世の為人の為に尽くしてきた。
彩は深く頭を下げて、室内と外を隔てる襖を閉めた。しかし、室内から
「……静子の様子はどうじゃ?」
廊下の角を曲がったところで、彩は横合いから声を掛けられた。声の主を探せば、そこに居たのは市であった。
憂えた面持ちで彩を見つめる彼女からは、我が物顔で静子邸を闊歩する女性の姿は無かった。
市の問いかけに彩は無言で首を横に振った。市もその答えを予測していたかのように、切なげなため息が漏れる。
「お主でも無理か」
「仕方ありません。相手が相手……ですし」
そう口にしながら彩は数日前を思い返していた。静子が塞ぎ込むようになった発端は、二月初旬の冷たい
前日の温かさが嘘のように鳴りを潜め、急激な冷え込みと共に陰陰滅滅とした湿気が入り込んでくる。
こう悪天候だと他にすることもなく、静子の仕事も順調に片付いてしまい、昼餉を終える頃には手隙となっていた。
常ならば前倒しで進めるべく新たな仕事に取り掛かるのだが、何故かそんな気分になれず
いつもなら静子が眠りに就くまで、狼たちが見守るのだが、その日はそうならなかった。
静子がカイザーにもたれ掛かり、目を閉じてから一刻ほど経った頃。ヴィットマンが突然咳込み、ぜいぜいと荒い息を吐き始めた。
濁った
老化の兆候として以前よりも睡眠時間が長くなり、呼びかけに反応しないことが増えていたこともありある程度は予測していたのだが、ここまで急激な症状は予期していなかった。
焦った静子はとにかく医者を呼ぶように命じ、その間ヴィットマンに寄り添って看病を続けた。
パルディやカイザー達も荒い呼吸を繰り返すヴィットマンを心配するのか、遠巻きに見守っている。
やがて他の犬科の健康状況を診ている医師が到着し、ヴィットマンは担架に乗せられて運ばれていった。
ヴィットマンが吐き出した吐瀉物も回収され、周囲はヴィットマンが居ないこと以外は以前と同じ状態を取り戻した。
肉親にも等しい相棒の容態を突き付けられ、静子の顔色はわら半紙のようになっていた。
彩としては慰めたいところだが、素人が気休めを口にする事も憚られ、静子に寄り添って背中をさするにとどめている。
そうした彩の献身もあって、ようやく少し落ち着いた静子は、呆然自失のままぽつりと言葉を漏らした。
「もう長くないかもしれない」
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