今まで社会は平均的な人間を求めていたが、もう社会は大きく変わったのだ

今まで社会は平均的な人間を求めていたが、もう社会は大きく変わったのだ

今までの日本企業は自社で抱えている若い社員がいかに超絶的な専門知識を持っていたとしても、その専門知識に1000万円も2000万円も払うことをせず、通常の賃金の中で雇おうとしていた。

そうでなければ、せいぜい「資格手当」で数万円の差別化をするくらいである。年功序列のシステムの中でそれは当然とされてきたのである。

しかし、国外のシステムは欲しい専門知識を持つ人材がいるのであれば、1000万円でも2000万円でも、場合によっては億単位のカネを積んで雇おうとする。その知識で成果物が生み出されれば、会社に莫大な富が転がり込んでくるからだ。

そのため、日本の優秀な技術者はことごとく国外の企業に引き抜かれていった。グローバル化の中で日本の企業は根本的にシステムの見直しを余儀なくされている。もはや年功序列のシステムは維持できないのである。

逆に言えば、今後は専門的な知識を持ったスペシャリスト型の社員に大きなチャンスがあるということでもある。かつて、日本社会は「平均的な社員」を求めていたのだが、今はもう違う。

しかし、日本人はそう簡単に「平均」から突出できない呪縛がある。その呪縛は教育の現場で徹底化されているからである。いったい、どういうことなのか?(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。

平均的な人間に作り上げられた

学校は子供たちを徹底して「平均的な人間」に仕立てあげる場所である。

そこで洗脳されてしまったら多くの子供たちが、良くも悪くもない取り替え可能な規格品になり、そうした人間を求める企業に取り込まれ、ただの「平均的」なサラリーマンになっていく。

学校は、子供たちを採点する。そして、子供たちの苦手を見付けてそれを補正させる。得意な部分を伸ばすのではなく、苦手な部分を引き上げさせる教育をするのだ。

そうすると、子供たちは可もなく不可もない「普通の人間」となっていく。子供たちは、みんな平均的になっていき、子供たちも平均的であることを当たり前であると考える。

平均的であることのメリットは、「ほどほどに生きていける」ということだ。自分が嫌いなものでも取り組むことができて、耐えながら生きていくことができるようになる。

日本は昔から集団主義の国だが、集団主義の中では平均的であることが喜ばれる。なぜなら、人間がみんな平均的であると組織の歯車にするには好都合で、その人が壊れれば他の人でも取り替えが可能だからである。

サラリーマンというのも平均的な人間の集団でできている。その人が壊れても、すぐに他の人で補完できるようになっている。日本の組織が強いのは、要するにそれだけ平均的な人間の補充が山ほどあるからだ。

これは日本人にとって、今までは悪いことではなかった。

日本の企業は終身雇用をモットーにしていたし、どこの企業も社員を家族のように扱っていたから、サラリーマンになって組織の一員であり続けるというのは、安心できる生き方だったのだ。

今まではそれが正しかった。しかし、これからも正しいのかと言えば、そうでもない。

世の中がグローバル化した結果、「安価に労働力を提供する」という人間が途上国から数億人も出てくるようになった。効率化も研究され、ハイテクによって雇用を排除する技術革新が次々と生まれるようになった。

そして、平均的な能力の労働者は、いつでも使い捨てできるようになっていったのである。

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労働力の「薄利多売」が発生している

グローバル化によって企業間の競争も激しくなり、日本企業は社員を終身雇用で雇う体力がなくなった。さらに、社員を終身雇用で囲い込むメリットも消えた。

なにしろ、安い価格でも悪条件でも構わずに働く人が、世界中でうじゃうじゃと見つかるようになったのだ。労働力の「薄利多売」が発生するようになったのだ。

それなら安い労働力を使った方がいいわけで、わざわざ先進国の高い賃金の労働者などいらない。

そうした状況の中、企業は社員の給料をどんどん引き下げて「嫌なら辞めろ」と言えるようになった。辞めさせれば辞めさせるほど、低賃金の人間に置き換えられるのだから、企業にとっては好都合でもある。

実際、正社員はどんどん切られて非正規雇用に変えられており、給料も引き下げられている。そして、残った正社員をめちゃくちゃに働かせるとか、残業代を払わないとか、早期退職に追いやるような「使い捨て」まがいなことをしていくようになる。

もちろん、雇用のミスマッチに挟まれ、働き手がいなくて四苦八苦する業界もある。しかし、すぐにどこかから賃金の安い外国人労働者を発見して、彼らを雇い入れるようになるだろう。

おまけに、雇用を排除するイノベーションに向かって世の中が突き進んでいる。今後はますます人が要らなくなってしまう可能性が急激に高まっている。

もうサラリーマンという稼業を続けるメリットは失われた。それと同時に「平均的な人間」という範疇にいることが自分の人生を守ってくれることもなくなった。今後は、平均的であるというのは、じり貧になるということに直結する。

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苦手を補完しても普通の人になるだけ

現在は、労働力の価値が暴落している時代だ。労働力は100円ショップの商品並みに安いものとなっており、単に「普通の労働力」を提供するだけでは、もう生きていけない世の中になっている。

生きていくためには、専門知識や専門技術を提供できる専門家(スペシャリスト)にならないといけないのである。

スペシャリストは、知識があり、経験があり、訓練され、特別な問題解決能力が必要なので、取り替えがきかない。何らかの専門家になると、その能力が高い収入を生み出し、食いっぱぐれがなくなる。

では、何の専門家になればいいのか。もちろん、自分が得意なもの、自分の才能の発揮できるもの、自分の個性を活かせるもの、自分が好きなもの、自分の情熱が止められない対象の専門家になるべきだ。

日本人は今までの教育制度のせいで、どうしても人よりも苦手なところや、劣っているところを補完しようとする。つまり、短所を治そうと努力する癖がある。

だから、日本人の勉強は「苦手なものを補う」という勉強であり、勉強そのものが苦役になる。しかし、苦手を補完しても、せいぜい「普通の人」になるだけだ。

そうではなくて、自分の才能を遺憾なく発揮できる分野の専門家にならなければならない。のめり込むほど好きになれるものは突出できる。

自分がのめり込んでいる世界では成功しやすいというのは理由がある。突出すれば、自分自身の市場価値が上がる。専門性を持った人間は、その専門を極めることによって重要人物となる。

グローバル化した社会は、何らかの専門を極めた人間が金を稼ぐ社会である。

苦手など、どうでもいい。私たちは苦手を補完しようと努力するよりも、自分の才能に投資してそれを突出させて、世間に通用する専門家(スペシャリスト)になるべきなのである。

そういう時代になったのだから、時代に適応した方が生きやすい。(written by 鈴木傾城)

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苦手など、どうでもいい。私たちは苦手を補完しようと努力するよりも、自分の才能に投資してそれを突出させて、世間に通用する専門家(スペシャリスト)になるべきなのである。

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