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これからの日本は愚民を目指すのでしょうか。 それとも良民を目指すのでしょうか。 |
韓国独立記念館の拷問の蝋人形
画像出所=http://blog.goo.ne.jp/toki_1/e/e04d3335c55ae9c5478fe5836f81769d
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)Chinaには南京虐殺事件の資料館があり、朝鮮には日帝支配資料館があります。
写真は、韓国「大韓民国独立記念館」にある、日本人による韓国人への拷問の様子を等身大の蝋人形です。
ちゃんとハングル文字で解説もつけられていて、要するに、日本帝国主義者が我ら同胞にこのような非道をしたから、自分たちはたちあがり、民族の独立を図ったと書いてあります。
要するに韓国の独立記念館には、日本官憲による独立運動家に対する拷問の光景を再現した蝋人形が展示され、日本人は残虐な民族だという強烈な印象を訪問者に植え付けているわけです。
残酷な仕打ちをしているのは、日本統治時代の憲兵や警察官であり、殴られているのはKoreanだと書いてあります。
ところが不思議な事に、責めている官憲の顔は、どれも典型的なエラの張った朝鮮顔、責められている側は日本人顔です。
蝋人形をつくった人は、ちゃんとわかっていたのでしょうね。
それにしても韓国では、この記念館が小中学生の修学旅行の定番コースとなっています。
当然、ここにやってきた韓国の小中学生たちは、日本への恐怖と憎しみをかきたてられる、ということなのですが、そもそもこういう残酷なものを小中学生に見せようとする神経が、そもそも異常です。『ねずさんのひとりごとメールマガジン』 登録会員募集中 ¥864(税込)/月 初月無料! |
実際には、憲兵も警察官も、地域の防犯を担いますから、言葉や地理に詳しい現地人を採用せざるをえません。
つまり日本は朝鮮半島の統治にあたり、現地のKoreanを補助員として大量に採用していたのです。
そして犯人を捜し、検挙し、尋問するのは、かれら現地採用のKoreanの役割でした。
なぜそうなるかというと、言葉が通じないからです。
ですから直接の取調べは、言葉の判るKoreanにやらせるしかない。
つまりこの資料館で拷問をしている蝋人形は、日本人ではなくKoreanです。
日本は明治四十三(1910)年の日韓併合のとき、Koreaの警察制度の近代化を図りました。
警務総長には日本の憲兵司令官を当て、憲兵と警察を一元化しています。
なぜ軍の憲兵と警察の一元化を図ったかというと、Korean官憲による横暴、拷問、暴力、強姦が、あまりに無差別に行われていたからです。
また当時、「義兵」を自称するKoreanが山賊団を形成し、一般の非武装の民間人を襲い、とりわけ親日派のKoreanへのテロ行為を盛んに行なっていました。
ですからこれらによる被害を防ぐためには、断固とした措置が必要でした。
そのためやむを得ず、普通ではあり得ない「警察力と軍事力(本来両者は全くの別物)との融合」が行われたわけです。
そして憲兵・警察の補助要員として、Koreanを大量に募集しました。
日韓併合当時、日本が朝鮮半島に派遣した日本人憲兵は1,007人です。
そして当初採用されたKoreanの「憲兵補助員」(あくまで補助員です)は1,012人でした。
その後増員されますが、それでも日本人の巡査は、半島全域でわずかに2,265人、Koreanの巡査補助員は3,428人です。
この時代のKoreaの人口はおよそ1300万人で、ほぼいまの東京都の人口と同じでした。
その東京の警視庁の警察官の数はおよそ4万7千人です。
つまりKoreaに配置された巡査および巡査補助員は、日韓合わせても、いまの警視庁の10分の1でした。
しかもそれが半島全域です。
そして日本は法律で、李氏朝鮮時代に行われていた拷問を禁止しました。
ところが法で禁止したにもかかわらず、法の執行を行うべく採用したKorean補助員たちは、これを無視しました。
そしてこれまでの私怨を、日本の警察権を借りて晴らそうとしました。
そして同胞であるはずのKoreanたちに、過酷な暴行をはじめました。
これが冒頭の蝋人形館の姿です。
今村鞆(いまむらとも)といえば、明治41(1908)年に渡韓し、朝鮮半島内の警察部長や警察署長などを歴任し、その博学を活かして半島文化の啓発に貢献した人として知られる人です。
その今村鞆は、著書の「歴史民俗朝鮮漫談」(昭和三年刊)で、次のように書いています。
「Koreanは日本の両班取締りを感謝したが、
下級補助員(補助憲兵、Korean巡査、Korean通訳)の横暴こそ、
後の日本に対する悪感情を生んだ。
いかに横暴だったか
驚くべき事例を沢山知っており、
一冊の本ができる」
その「横暴」とはいったいどのようなものであったのか。
スウェーデンのジャーナリスト(アーソン・グレブスト)が、1904年に朝鮮国内を旅行取材した『悲劇の朝鮮』に、朝鮮の監獄内を彼自身が自分の眼で見たムチ打ち刑と、チュリの刑の光景が記載されています。
チュリの刑というのは、拷問してから殺す(死刑にする)という刑です。
何をするかというと、
死刑囚の脚の間に棒をはさみ、
死刑執行人がその端に体重をかけて
死刑囚の脚の骨を砕き、
悲鳴をあげる死刑囚に、
追い打ちをかけるように腕と肋骨を折る。
そして最後に絹紐で首を絞めて殺す、
そしてそれを大勢で見物する
というものです。
近代以前というより、もはや文明以前の鬼畜です。
マッケンジーの『朝鮮の悲劇』(原著1908年)には次の記載があります。
ここでは、死刑囚でない単なる禁固刑の者も、監獄の都合で殺害してしまうのが、朝鮮の刑務所の常識であった事実が記されています。
「監獄は呪詛のまとであり、
拷問は自由に行われ、
周期的な監獄清掃に際しては
一時に数十名の囚人を絞首してしまい、
裁判は売買された」
シャルル・ダレの『朝鮮事情』には、次のように書かれています。
「死刑に際して面耳それぞれに
矢じりを突き刺して首を刎ねるし、
首を切り落としたあと
手足をバラバラに切断したりする」
実際、福澤諭吉など多くの日本と親交の深かったKoreanの金玉均は、1894年3月に上海で暗殺されたあと、翌年4月、朝鮮政府によって、遣体に対して
「首を刎ね、四肢を切断する」と
いう刑罰が科せられました。
しかも胴体は漢江に遺棄し、頭や四肢は京畿道の竹山に廃棄しています。
ムチ打ち刑も日本ではまるで考えられないものでした。
このムチ打ちは、李朝の太祖李成桂以来、数百年間つづいた朝鮮半島の伝統的な刑罰で、旧韓国(日本統治直前韓国)の「刑法大全」(1905年)にも定められているものです。
この刑は、主に姦通罪の女性に対して行われていたものですが、長さ三尺五寸(106cm)、厚み二分七厘(8.2mm)といいますから、これはもうムチではなく、杖です。
その杖で罪人の臀部を打ち据える。
叩くムチは、その長さが長く、厚みがあるほど酷いものとなります。
この長さと厚みでは、罪人は皮膚のみならず、肉も裂け、腰骨まで骨折してしまう。
刑務所(監獄)も酷いものです。
その不潔と残酷さは言語に絶するもので、食事はおかずなしの雑穀のみ。
大小便は垂れ流しで、もちろん風呂もない。
獄舎は狭く、一坪(畳二枚分)のスペースに、十五〜六人が収容されていたというですから、酷い話です。
そして収容しきれない囚人数を滅らすために、獄吏が勝手に囚人を殺して、「処理」をしていました。
国分三亥(こくぶさんがい、1908年に旧韓国の検事総長、のち統監府・総督府高等法院検事長)は、朝鮮には司法はなく行政(警察)の一部であったとして、次のように回想しています。
「(京城の)鐘路監獄のごときさえも、
未決・既決の区別はほとんどなく、
獄内は狭隘陰鬱にしてほとんど土窟のやうであり、
乱雑と不潔とは実に想像も及ばぬほどでありました」
(『朝鮮における司法制度近代化の足跡』友邦協会)
柿原琢郎(1920~22年の総督府監獄課長)も実際に訪れた(韓国併合直前の)平壌の監獄を、次のように思い出しています。
「狭隘なる監房は到底それに応ずることできず、
ただ無理押しに押し寵めてゐました。
一坪(畳二枚分)に十五、六人も押込むありさまで、
在監者(は同時に横臥睡眠をとれないので一日に)を
三、四回交替にて横臥せしめてゐた。
作業上の設備も被服交換の準備なく、
終日終夜着のみ着のままで在房してゐますから、
監内の熱気と臭気とは
短時間の参観にも堪えられませんでした」
(『朝鮮における司法制度近代化の足跡』友邦協会)
刑事事件の被告人や収監者だけではありません。
李氏朝鮮の時代の半島では、なんと民事でもその被告を拘留し投獄し拷問するという不条理まで行われています。
こうした朝鮮にもとからあった、政府による極めて残酷かつ凄惨な無法行為に対し、服役囚にも人権を認め、人として処遇するように取り払ったのが日本です。
明治43(1910)年、条約に基づいて朝鮮半島を併合した日本は、この年の末には、まず「首チュリの刑」を全面廃止するとともに、すべての朝鮮の監獄での一坪当りの収監者数を三分の一の「約五人以内」に下げています。
さらに京城監獄(のち西大門刑務所と名称変更)をはじめ、半島内の全ての刑務所施設を、近代的刑務所に改善し、大正2(1913)年には、全道の獄舎において、獄舎一坪あたりの収監者数を約2.9人にまで大改善しました。
これにより、立ったままで横になることさえもままならなかった収監者たちが、「畳二枚に三名」、つまり少なくとも寝ることができるまでに大改造が施されたのです。
収監者たちにとって、これはまるで地獄が天国になったようなものであったと伝えられています。
またムチ打ちについても明治44(1912)年には「笞刑令施行規則」を定め、この第一条によって、笞刑執行前に医師が受刑者の健康を診断すること、および笞を小さくして、執行中に受刑者に飲水を与えることを定めています。
さらにこの法の第五条では、女性や16歳未満の男児への笞刑を禁止し、さらにムチの長さも、従来の半分の一尺八寸(55cm)、厚みは二分五厘(7.6mm)と薄くし、痛みをそれ以前の朝鮮笞刑の数分の一に下げています。
できるだけ肉体に傷をつけないように配慮したのです。
ちなみに朝鮮笞刑令について、その第13条に「Koreanに限り之を適用す」とあることから、一部の学者は、これを、
「Koreanと日本人とを刑罰上で差別するために制定した」
「異民族弾圧法であった」
などとデタラメを述べています。
完全に間違いです。
ムチ打ち刑は、李氏朝鮮の後にできた旧韓国の「刑法大全」(明治38(1905)年にも定められています。
李氏朝鮮時代から続く、韓国に古くからある刑罰です。
これを日本は、まず女子供へのムチ刑執行を禁止し、さらにムチそのものを軽く小さなものにし、半島人がある程度の経済力をつけたとみなされた大正9(1920)年には、日本はこれを完全に全廃したのです。
刑罰の中にムチ打ちを残したことにも明確な理由があります。
当時の朝鮮の最も貧しい階層では、家族4〜5名が、月5円あれば1ヶ月食べていくことができました。
1円がそれほどまでに高額なものだったのです。
そしてその1円が、ムチ1回で済むのなら、その方が良いと考える収監者が後を絶たなかったし、そうすることで収監者は、家族を救うことができたのです。
要するに日本が朝鮮でムチ打ち刑を残したのは、刑罰を温情的に軽滅するためのことに他なりません。
しかも日本はわずか8年後には、ムチ打ち刑を全廃しているのです。
ところが、せっかくこうして法を定め、施設や食事を改良し、刑執行時における残虐性を排除して近代化を押し進めようとしても、日本人の下で補助員として働くKoreanの憲兵や警察官、刑務官などは、日本人から隠れてまで、同国人に対して酷い振る舞いを止めませんでした。
裁判所も同じで、日本ではたとえ刑事事件といえども、裁判所の法廷内で被告人に対して拷問や暴行が行われるなどおよそ考えられないことですが、朝鮮では、裁判所自体が被疑者を平気で拷問するということが日常的に行われていいました。
旧韓国政府の首席「法務補佐官」であった中村竹蔵は、次のように書き遺しています。
「平理院では法廷の取調の際に
しばしば拷問を行ふことがあつたから、
たびたび院長(李允用。李完用の兄)に対して
之を廃止するよう厳重に要求すると、
院長は午後遅くなって出勤するようになつた。
私が退庁するのをまつて
夜中に依然拷問行ふことが判り・・・」
(『朝鮮における司法制度近代化の足跡』友邦協会)。
いやはやなんともすさまじい限りです。
謝永光さんが書いた『日本軍は香港で何をしたか』という本の抜粋をご紹介します。
香港で実際にあった出来事です。
最初の数日間は平穏無事で、
日本軍の姿は全く無かった。
ところがある日、
突然五、六人の動物のような兵隊が現れ、
麻雀をしていた四人の女優を強姦した。
前述の女優は日本軍の馬を管理する男達に暴行されたが、
この男達はKoreanであった。
香港占領期間中、
多くのKoreanが日本の軍服を着ていたが、
一般の日本人よりも背が高く、
日本の正規軍よりも凶暴だった。
この時、民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、
殆ど日本人の手先となって
悪事を働いていたKoreanであった。
当時、香港住民は日本軍よりも
Koreanを激しく憎んだ。
要するに彼らKoreanは、当時の日本という虎の威を借りて、好き放題の横暴を働いていたということです。
そして戦後、日本がおとなしくなる(=弱くなる)と、途端に手のひらを返したように日本人への暴行を始め、さらには自分たちが行った悪辣非道な振舞を、全部日本人がやったこととして宣伝しはじめました。
いまの日本に、韓国や北朝鮮が居丈高になり、竹島を勝手に領有宣言したり、日本人を拉致したり、領海を越えてゴミの不法投棄をしたり、児童公園を勝手に横取りしたり、日本人の土地を奪って駅前でパチンコ屋を営んだり、政治を壟断しようとしたりするのは、要するに、
「日本人は弱い」
「日本人は恫喝すれば
すぐに言うことを聞いて金を出す」
「日本人はやさしいから
何をやっても許される」
等と思われているからです。
ChineseやKoreanが、なぜ西洋人には媚びたのか。
それは彼らが徹底的に「報復」をする民族であることを、ChineseやKoreanに、行動をもって教え込んだからです。これはかつてのジンギスカンの元帝国の統治手法と同じです。
おもしろいもので、虎の威を借りるタイプの者は、自分より弱い者には必ず居丈高になり、自分より強い者には、いやらしいほど卑屈になります。
これは獣(けもの)と同じ習性です。
日本は半島を併合して統治するにあたり、できる限りの仁政をもって彼らの民度を上げようとしました。
そのために様々な社会インフラも整えました。
しかし結果から見れば、日本は大金をはたいて行った半島の社会インフラへの投資をすべて失ったし、いまなお彼らの民度は変わらずにいます。
それどころか、李承晩ラインのときには、すでに日本がなくさせたはずの2畳に15人を収容するという酷い収容が彼らによって拉致された日本人漁民4千名に対して行われたし、旧満州から半島にいたる各地で彼らの李氏朝鮮時代の刑罰と同じ刑を日本人に対して彼らは行いました。
このことが示していることは、彼らは日本が統治する前も後もいまも、何も変わっていないということです。
このことについて福沢諭吉は『学問のすすめ』の中で次のように述べています。
「愚民を支配するには
とても道理をもって諭(さと)すべき方便なければ、
ただ威をもって畏(おど)すのみ。
西洋の諺ことわざに
『愚民の上に苛(から)き政府あり』
とはこのことなり。
こは政府の苛きにあらず、
愚民のみずから招く災(わざわ)いなり。
愚民の上に苛き政府あれば、
良民の上には良き政府あるの理なり。
ゆえに今わが日本国においても
この人民ありてこの政治あるなり。
仮りに人民の徳義今日よりも衰えて
なお無学文盲に沈むことあらば、
政府の法も今一段厳重になるべく、
もしまた、人民みな学問に志して、
物事の理を知り、
文明の風に赴(おもむ)くことあらば、
政府の法もなおまた寛仁大度の場合に及ぶべし。
法の苛(から)きと寛(ゆるやか)なるとは、
ただ人民の徳不徳によりておのずから加減あるのみ。
人誰か苛政を好みて良政を悪にくむ者あらん、
誰か本国の富強を祈らざる者あらん、
誰か外国の侮りを甘んずる者あらん、
これすなわち人たる者の常の情なり。』
これからの日本は愚民を目指すのでしょうか。
それとも良民を目指すのでしょうか。
お読みいただき、ありがとうございました。
※この記事は2010年1月の記事のリニューアルです。
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