東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 社説・コラム > 社説一覧 > 記事

ここから本文

【社説】

海の日に考える 海は広いし、大きいが

 母なる海の包容力を感じる季節。だがいつまでも甘えて奪うばかりでは-。母親にも我慢の限度がある。身も心も疲れ果て、堪忍袋の緒が切れる。 

 水俣病特措法の成立から、七月八日で十年になりました。

 公害健康被害補償法に基づく水俣病患者とは認定せずに、わずかな一時金などを支給することで「被害者」として“救済”し、事件の収束を図ろうという、特別な措置を定めた法律です。

◆今もなお事件は続く

 水俣病。熊本県水俣市のチッソ水俣工場から不知火海に廃水として流されたメチル水銀の影響で、魚を食べた住民に現れた手足のしびれや視野狭窄(きょうさく)などの脳障害。一九五六年五月一日、チッソ付属病院の院長が保健所に届け出て「公式確認」されました。

 公式確認。何とおかしな言葉でしょう。多くの住民がそのずっと以前から、症状を訴えていたにもかかわらず-。

 公式に確認されたあとも長らく、国や県は漁獲禁止や排水停止の措置を怠りました。

 廃水の毒は、妊娠中の母親の胎内にまで及び、生まれながらの胎児性患者は一生、重すぎる障害を背負わされることになりました。ゆえに「水俣事件」です。

 特措法の制定で約三万八千人の被害者が、一応は救済を受けられることになりました。ところが、一万人近い人々が依然対象外とされ、裁判闘争も続いています。潜在患者は五十万人ともいわれています。水俣事件は続いています。

 毎年その五月一日が近づくと、事件の「語り部」として知られ、二〇〇八年に亡くなったシロゴ(カタクチイワシの幼魚)漁師の杉本栄子さんの言葉が、思い出されてなりません。子育ての時期に約十年間、床に就いたままだったこともあるという水俣病患者です。

◆海は両親、海は恋人

 前世紀の終わりごろ、茂道(もどう)という集落にある杉本さんのお宅を訪ねたことがありました。

 お昼時、杉本さんはその朝捕れたタチウオを台所で刺し身に造り、缶ビールと一緒に勧めてくれました。

 かみしめながら、お話を伺いました。

 「私には、海がお父さんだし、お母さんだし、恋人なんよ。人がしたことを海にかぶせたり、魚にかぶせたり…。そげんこつ、できるわけがなかとです」

 窓外に広がる海に視線を向けて、杉本さんはしばしば声を震わせました。

 胎児性水俣病を立証し、潜在患者の発掘に取り組んだ医師の原田正純さんは、水俣病患者の証言を記録した「魚湧(いおわ)く海」の巻頭に書いています。

 <海に生き、海に生かされ、海を愛(いとお)しんだ人たちの語りはやさしいのです。この人たちにとって海は母親の胎内を想(おも)い起こさせるようなのでしょう>

 その海をだれが「苦海」に変えたのでしょう。

 「当時の化学工業技術者の感覚としては、海水の希釈効果は無限。有害物質を流しても大丈夫という考え方が一般的だった」

 公害研究の第一人者だった宇井純さんの言葉も忘れられません。

 高度経済成長前夜のチッソだけではありません。今、私たちは、どうなのか-。

 プラスチックごみによる海の汚染は今や、温暖化と並ぶ地球環境の大問題。一年に少なくとも八百万トンのプラごみが陸から海に流れています。私たちの暮らしの中から出るごみです。

 海に入ったプラごみは、希釈どころか分解されず、千年先まで海中を漂い続けるともいわれます。

 「五〇年までに海洋中に存在するプラスチックの総重量が、魚のそれを超過する」

 三年前のダボス会議で報告された試算結果も衝撃でした。

 その時、海や海の生き物や人体に、どんな影響が及ぶのか。想像もつきません。

 しかし、私たちは今もなお、母なる海への甘えをやめず、母なる海を傷つけている-。それだけは確かです。

◆堪忍袋の緒は切れる

 福島第一原発事故で放出された放射性セシウムが、時計回りに太平洋をひと巡りして、一年で日本近海に戻って来たそうです。

 マグロ、ウナギ、スルメイカ…。漁業資源の枯渇が心配されています。

 「海だって巨大なバケツのようなもの。ひたすらむさぼり続けていれば、いつかはからっぽになるはずさ」

 大手水産会社幹部の口癖は、何やら予言めいています。

 海は広いし、大きいけれど、無限大ではありません。甘えにも限度があるということです。

 

この記事を印刷する

東京新聞の購読はこちら 【1週間ためしよみ】 【電子版】 【電子版学割】