平成時代は日本映画界が低迷期にあった1988年から始まった。90年代にはミニシアターブームが起きるが、郊外に次々と建つ巨大ショッピングモールに併設されたシネコンがその勢いを凌駕していく。テレビ局主導による“製作委員会”方式の映画とシネコンは相性がよく、ゼロ年代には邦画ブームが到来。人気ドラマの劇場版から、人気コミックを実写化したキラキラ映画へとフォーマットを変え、現代に至る。一方、高畑勲、宮崎駿という二大天才アニメーターを擁したスタジオジブリは博報堂、電通という大手広告代理店と組み、『平成狸合戦ぽんぽこ』(94)や『もののけ姫』(97)などを大ヒットさせた。平成時代に日本映画界で起きた事件の数々をもとに、この30年間を振り返ってみた。
10)北野武監督、衝撃のデビュー
平成の日本映画史は、北野武監督の登場によって幕が開いた。映画監督・北野武のデビューは、まさに衝撃的な事件だった。松竹配給の『その男、凶暴につき』(89)は深作欣二監督によって撮影準備が進んでいたが、深作監督が降板するというアクシデントから、主演のビートたけしが監督も兼任することになった。そして北野武監督のデビュー作をスクリーンで観た我々は、言葉を失った。乾いた映像とバイオレンス、説明的な台詞を排したキレのある演出は、従来のじめっとした邦画のイメージを一新させるものだった。深作監督と共に脚本を練り上げた野沢尚は初号試写を見て、自分の書いたシナリオがガタガタにされたことに愕然とするも、「悔しいが、これは傑作だ」と北野監督の才能を認めざるを得なかったと小説『烈火の月』(小学館)のあとがきで語っている。
北野監督は、沖縄ロケ作品『3対4x 10月』(90)、静謐さを極めたラブストーリー『あの夏、いちばん静かな海』(91)でキタノブルーと呼ばれる世界観を確立し、再び主演&監督した『ソナチネ』(93)で北野ワールドは完成することになる。日本だけでなく、欧州でも北野映画は絶賛された。ワーナー・ブラザーズとオフィス北野の共同配給作『アウトレイジ最終章』(17)を最後にビートたけしは、オフィス北野から離脱。監督デビュー以降、北野作品を常にサポートしてきた森昌行プロデューサーとも袂を分かつことになった。2018年12月26日にオンエアされたトーク番組『チマタの噺SP』(テレビ東京系)に出演したビートたけしは「2020年には映画を撮りたい」と語った。ポスト平成時代の北野映画はどんな体制でつくられ、どんな内容になるのだろうか。
9)『紙の月』さながらの横領事件発覚
事件は「映倫」で起きた。事件が発覚したのは1992年。当時、ヘア論争で注目を集めていた「映倫(映画倫理機構)」だったが、経理担当の女性職員が映倫名義の預金を横領していたことが明るみになった。映画の審査料などが振り込まれた銀行口座から、ほぼ全額にあたる9,200万円を引き出し、そのうち7,700万円を着服していたというもの。「週刊新潮」(1993年1月7日号)によると「また、事務局長印鑑を無断で使用し、小切手を渋谷区内の会社社長あてに振り込んでおり、この社長に貢ぐための犯行という見方が強い」とある。
宮沢りえが日本アカデミー賞最優秀女優賞を受賞した『紙の月』(14)を思わせる横領事件が、映画倫理を守る「映倫」で起きたことに驚いた。女性職員は懲戒解雇処分されているが、「映倫」には映画には詳しいものの経理に明るい職員がほとんどいないために起きた事件だった。なけなしのお金を「映倫」の審査料として支払うインディーズ系の映画監督たちは「映倫」を目の敵にするが、杜撰な経理を行なっていたことへの不信感もあるようだ。
8)監督たちの“理想郷”ディレカンの崩壊
カルト映画として名高い『太陽を盗んだ男』(79)の長谷川和彦、『狂い咲きサンダーロード』(80)でインディーズ映画の旗手と呼ばれた石井聰亙(現・石井岳龍)、薬師丸ひろ子主演の大ヒット作『セーラー服と機関銃』(81)の相米慎二、ピンク映画出身の高橋伴明ら、気鋭の映画監督たちが集まり、1981年にディレクターズ・カンパニー、通称ディレカンが設立された。監督たちがお互いに協力し、大手映画会社の制約から離れた新しい映画を生み出す理想の創作集団として、大きな期待を寄せられていた。池田敏春監督の『人魚伝説』(84)、相米監督の『台風クラブ』(85)などの名作・佳作を放つものの、『光る女』(87)の興行的失敗、91年には井筒和幸監督の時代劇大作『東方見聞録』(劇場未公開)の撮影現場でキャストが事故死するなどのトラブルが続き、ディレカンは92年に倒産へと追い込まれた。
ホラーコメディ『発狂する唇』(00)などで知られる佐々木浩久監督はディレカンで助監督としてのキャリアを積んでおり、当時の体験を『衝撃の世界映画事件史』(洋泉社)に記している。才気溢れる監督たちが集まったディレカンだったが、予算を管理するプロデューサーは不在だった。佐々木監督は「映画の制作経験のないプロデューサー」を重用し始めたことがディレカン崩壊のいちばんの要因だったと指摘している。スタッフへのギャラの支払いの遅れが目立つようになったディレカン後期からは、高橋伴明監督や黒沢清監督は低予算のオリジナルビデオ作品を手掛けるようになり、90年代のVシネマブームへとつながっていくことになる。