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2019-07-14

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・村田諒太の魂の一戦のことが、まだ胸にある。
 一夜明けると、さらにあの試合の周辺の
 さまざまなものごとを知ることになるので、
 物語の陰影は濃くなるし、うれしさも育ってくる。

 WBA・IBFの世界バンタム級王者の井上尚弥選手が、
 「感動した。人のボクシングを見て泣いたのは初めて。
 それだけすごい試合だった」(スポーツ報知)
 と語っている。
 昨日もテレビ中継で発見してしまったけれど、
 ラウンドガールも泣いていた。
 むろん、ぼく自身も感極まって泣いたのだけれど、
 殴り合いを見て、どうして泣けるのかうまく言えない。
 人間同士が相手を殴り続けて倒そうとする。
 とても野蛮で暴力的なこととして訴えられたら、
 百年後には無くなっているかもしれないスポーツなのに、
 ぼくらは「人のなにか偉大なもの」に触れたかのように、
 心を震わせて涙を流したりしてしまう。
 うまく説明できなくても、そういうことがあるんだよね。

 翌日になって、ぼくは、多少の作戦面のことやら、
 「人生を賭けた」という意味の重さなどを知る。
 そういうなかで、「スポーツ報知」の一面にあった
 村田諒太の「独占手記」というタイトルの文章を、
 ぼくは、特に食い入るように読んだ。
 どの発言も、しっかり考えられたことばなのだけれど、
 「王者を守るためには地道なことをするしかないのに、
 そこに気づかなくても倒せていたし、勝てていた。
 ブラントとの敗戦で気づかされた」
 という部分には、しみじみと感じるものがあった。
 ボクシングでなくてもあらゆる場で、よく、
 「失敗が大事」だとか「負けることで得るもの」
 について真剣に語られるけれど、それは、
 こういうことなのかと、とても生々しく伝わってきた。

 失敗をしてはじめて、真の「当事者」になれるのだ。
 「スペシウム光線が常に欲しいと思っていた」
 つまり「勝つための必殺技」がほしいと思っていたのは、
 村田諒太が王者として生きていたときだったという。
 それを彼は「地に足がついてなかった」と語っている。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「じぶんを省みること」のできるヒーローで、よかった。


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