2012-08-27

初めて月に立った人、ニール・アームストロング氏を悼んで

2012年8月25日、The Economist、T.C 筆

宇宙飛行士英雄あつかいを嫌う。

そのようにあつかわれたとき、彼らが決まって切り返すのは、

背後にいる何十万人ものエンジニア数学者技術者の苦心によって宇宙飛行は可能になっているという指摘だ。

事実、その盛り上がりが極致に達した1966年

NASAアメリカ政府の歳出全体の4.4%を占めており、

省庁職員と契約職員をあわせて40万人とも言われる労働者をかかえていた。

その事実はなかなか通じなかった。

1969年6月20日、月着陸ミッションアポロ11号を指揮したニール・アームストロングは、

とりわけ英雄視されることを疎みながら、それを甘受せざるをえなかった。

彼のクルーの成果は各テレビ局で中継され、地球全体を魅了した。

地球に帰還した後は引っ張りだこになった。

各国の大統領首相国王が先を争って表敬訪問をした。

彼らの名前をとって学校ビル、道が名付けられた。

メダルが湯水のように与えられた。

凱旋旅行は25カ国、35日に及んだ。

アームストロングは、地球以外の星にはじめて降り立った人として一躍脚光を浴びた。

宇宙飛行士生命に関わる危機さえも歯医者にふらっと行くかのようにこともなげにやりとげる、

といった一般のイメージは、誇張しすぎだと彼は静かに主張した。

彼は運命の飛行の前に「誓って言いますが、私も危険は大嫌いです」とインタビュアーに語った。

正しくやりさえすれば、宇宙飛行にはミルクシェイクミキサーくらいの危険しかない、とも言い放った。

ライトスタッフ」という言葉表現される宇宙飛行士イメージ

— 勇敢さ、競争心、堂々たるマッチョイズム — は本当の物語をすべて語っていない。

アームストロングは、モハーヴェ沙漠に位置するエドワーズ空軍基地テストパイロット学校で、軍用ジェット機試験をして長年を過ごした。

その学校シンボルは、意匠化されたジェット戦闘機の上に掲げられた計算尺だ。

National Press Club での2000年記者会見で、アームストロングは次のように自己紹介をした。

「私はこれまでもこれからもずっと、白ソックスとポケットプロテクターを愛用する、ナードエンジニアです。

 熱力学第二法則のもとに生まれ、

 蒸気表に引きこまれ、

 自由物体図に恋して、

 ラプラスに感化され、

 圧縮性流れに動かされた男です」

彼にはエンジニアらしい抑制と、生まれついての控えめさがあった。

興奮をあらわにしないことで知られる宇宙飛行士のなかでも、

アームストロングは「氷の指揮官」として知られていた。

アームストロングの月ミッションクルーの一人、マイクコリンズはこの指揮官を気に入っていたが、

ニールはなにごとも表層でしか荒立てず、そうすることもごくまれでした」と追想した。

あるとき、「空飛ぶベッド枠」という愛称で呼ばれた、月着陸の訓練に使われるマシン故障し、アームストロングはその制御を失った。

彼が緊急脱出して数秒後、マシンは地上に墜落し爆発した。

アームストロングほこりを払ってからひょうひょうと事務局に戻り、

そらく書類仕事をかたづけながらそこで残りの一日を過ごした。

月着陸に際して、彼の動揺のなさは役に立った。

本来の着陸地点は大きな岩塊だらけであることが明らかになったため、

アームストロング宇宙船原始的コンピュータを通して手入力で月表面を行き来し、

より適切な着陸場所を探した。

目当ての場所を見つけたとき、燃料は残り25秒分しかなかった。

地球へ帰還してからもその性格は役に立った。

マーキュリージェミニの飛行の前例を経て、宇宙飛行士有名人になるものであることがすでにわかっていた。

しかし、アームストロングらの成果は最高で、前例のないものであったがために、

どれだけの脚光を浴びることになるのかは誰にも分からなかった。

実践の人である宇宙屋にとって、月への旅をすることが天啓を得たことであるかのように持ち上げられるのは理解出来なかった。

人々は宗教人類未来世界平和の可能性などあらゆることについて意見を求めてきたのである

同僚飛行士(そのうち二人は上院議員になった)とは違って、

アームストロングは引退後、比較静かな生活を選び、シンシナティ大学工学を教えた。

NASAには二度、諮問委員会に従事するために戻った。

一度目は災害に比すべきアポロ13号の事故、二度目は1996年スペースシャトルチャレンジャーの分解事故だった。

晩年オハイオの辺境に農場をかまえ、暇なときにはグライダーで飛んだ

感情をあらわにしないエンジニアと言われた彼が、それは人が最も鳥に近づけるときなんだ、と言った)。

半世紀を経、関係者の多くが亡くなるにつれ、アポロ計画は生きた記憶から消え、歴史教科書の題材へと移りつつある。

それは、ビッグガバメントビッグサイエンスの強力な組み合わせによって起こった、最も力強い成果のひとつだった。

様々な意味で、戦後アメリカ政治合意の結実だった。

アメリカ政府小さな政府志向し、巨大プロジェクトが疑いの目で見られるこの時代から見れば、

年を経るにつれ、それは遠い世界の出来事に思えてくる。

いずれにしても、アポロ計画は20世紀の出来事のなかで、

30世紀になっても思い出される可能性のある数少ない出来事のひとつだ。

冷戦期の妄想国粋主義競争から生まれたものであるはいえ、

それは地球が一体となった貴重な瞬間だったと、マイクコリンズインタビューで追想する。

「『やったな、アメリカ人』ではなく、『やったな、俺たち』と皆が言っている。

 これは素晴らしいことだと思う。いっときに過ぎないが、それでも素晴らしい」

月飛行をもとに起こったこととして最も予想外だったのはおそらく、

地球のものについての意識の変容だった。

宇宙はたしかに美しい。

しかしそれは非情な、幾何学的な美だ。

アイザック・ニュートン数学時計に服従し、宇宙を流れる惑星と星々。

それは愛よりは驚嘆を呼び起こすであろうものだ。

対して地球は見事なコントラストを見せる。

完全な闇に浮かぶ宝石

空虚深淵のなかで混沌生命を守る孤高の存在

その光景宇宙飛行士に深く影響を与えた。

史上初めての地球全体をおさめた写真は、当時生まれたてだった環境運動を育てた。

彼自身は一人の人間として、際限なく抑制的だったわけではない。

アームストロングの最も有名な写真ひとつは、

この氷の指揮官がバズ・アルドリンとともに歴史的月面歩行をしたあと、月着陸モジュールで撮られたものだ。

そこでの彼は宇宙服に身を包み、3日ごしの髭をたくわえ、目に見えて疲弊している。

その顔に浮かぶのは、純粋な歓喜から起こる満面の笑みだ。

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