日米のマット界でトップレスラーとして活躍したマサ斎藤さん(本名・斎藤昌典。享年75)がパーキンソン病で亡くなって14日に一周忌を迎える。明大4年時に1964年の東京五輪でレスリング日本代表として出場。卒業後に日本プロレスに入門、その後、東京プロレスへ移籍し同団体が崩壊後は、単身、米国マットに乗り込みトップヒールとして活躍した。80年代後半から日本マットに定着し、選手としてだけでなく新日本プロレスの渉外部長として日米マット界の懸け橋となりドーム興行で隆盛を極めた90年代の新日本プロレスの黄金時代に大きく貢献した。引退した99年にパーキンソン病を発症し、亡くなるまでモットーの「GO FOR BROKE(当たって砕けろ)」を掲げ、懸命に病と闘った75年の人生。「WEB報知」では、マサさんの妻・斎藤倫子さんを取材。「甦るマサ斎藤、永遠のGO FOR BROKE」と題し、マサさんの秘話を連載します。第1回は「叶わなかった復帰戦」。
2019年2月15日、大阪市城東区の城東KADO―YAがもよんホールでマサ斎藤の追悼興行が行われた。会場には、マサと厚い親交を築いた元WCWの現場責任者のエリック・ビショフ氏が来場。ハルク・ホーガン、リック・フレアー、マスクド・スーパースター、スコット・ノートンら全米のトップレスラーがビデオメッセージを寄せるなど日米で絶大な信頼を築いたマサだからこそ、成し遂げることができたイベントとなった。最後にリングで挨拶したのが夫人の倫子だった。
「私がここに立っているのが悔しい。本来、ここに立っているのはマサ斎藤のはずです。マサさんは、もういない」
涙を流しマイクを持ったリング。あれから、まもなく5か月が経ち「悔しい」と吐露した思いを明かした。
「本当に急死でした。亡くなった朝までリハビリを一生懸命やっていたんです。2月15日の試合に向けて特訓のリハビリを始めたばかりでした」
追悼試合となった2・15。実は、本当ならこのリングは、マサの復帰戦のはずだった。前回は2016年12月2日、大阪の城東区民センター。元新日本プロレスの執行役員の上井文彦がプロデュースした闘病中のマサへの支援が目的の興行で最後に挨拶したマサへ海賊男に扮した武藤敬司が襲撃する形で“復帰”した。倫子によると、マサは、「もう1度、リングに上がりたい」と上井に伝え、復帰戦という形で2・15の試合が決まっていたという。
「1年ぐらい前に試合することが決まっていたんです。マサさんが、やっぱりリングに出たいと希望して、そこへ向けて走り出していたんです。闘病生活は本当に地獄でした。その中でも、プロレスの話になるマサさんは、水を得た魚のように元気になるんです。ですから、私も何とかもう1度リングに立たせてあげたいと思っていました」
対戦相手も前回と同じ武藤敬司を希望していた。
「マサさんがやりたい相手は、もちろん武藤さんでした。マサさんは、武藤さんのことを“天才よ”と表現していたように、武藤さんのことが大好きだったんです。しかもマサさんは、パーキソンです。下手な人だったら危ないですよね。マサさんの相手をできるのは、武藤さんしかいません」
武藤との試合を心待ちにリハビリも熱が入り充実していたという。
「ただ、前回の試合の後に蜂か織炎を2回やってしまって、膝を痛めてしまって約3か月間入院したんです。その時に完全に歩けなくなって車イスが多くなって身体的には落ちていたんですが、試合が決まって、喜んでリハビリもやる気があって、さぁこれからもっと良くなると思っていた矢先に…だから、今も信じられないんです」
叶わなかった武藤との復帰戦。思いも寄らなかった旅立った夜を倫子が語り始めた。=続く=(敬称略。取材・構成 福留 崇広)