【芸能・社会】ジャニー列伝(4) 「ジャニーズは野球愛から始まった」2019年7月14日 紙面から ジャニーズ名物の一つが、所属タレントが東京ドームで一堂に会する野球大会だ。そもそもジャニーズの始まりは少年野球チーム。ジャニー喜多川さんと野球は切っても切れないものだった。 父・喜多川諦道さんは、1940年代にプロ野球・金星スターズのチームマネジャーを務めていた人物。その影響もあってか、ジャニーさんは50年代に少年野球チームのコーチになった。本名のジョン・喜多川擴(ひろむ)の愛称「ジャニー」から、チーム名は「ジャニーズ少年野球団」になった。 「僕はジャニーズの選手兼監督で、ポジションはキャッチャーでした。金星スターズの監督だった坪内(道典)さんが『手伝うよ』と言ってくれて、ユニホームもできたんです」。親交のあったプロレスラー・力道山さんもバックアップし、活躍した選手には「力道山賞」を贈っていたという。「毒蝮(三太夫)さんのチームをこてんぱんにやっつけたんですよ(笑)」 2013年5月、長嶋茂雄さんと松井秀喜さんが国民栄誉賞をW受賞したときには、思い出を懐かしそうに語った。「(59年の)天覧試合も見てますよ。少年野球の子どもたちを連れて行って、見せたんです」 選手との交流もあった。長嶋さんのライバルで、早稲田大から中日ドラゴンズに入団、ホームラン王にもなった外野手・森徹さん。森さんは力道山さんと仲が良かったそうで、「力道山に頼まれて、徹の面倒を見ていたんです。ライト森の返球で長嶋がタッチアウトになるのを、喜んだりしてましたよ」 ジャニーさん本人がびっくりする縁もあった。 「偶然、甲子園にいたときに、田淵さん(元阪神タイガースの田淵幸一さん)が『お久しぶりです』と話しかけてきて。実は田淵さんが中学2年のとき、会ってたんです。(豊島区立)高田中学の野球部にいたとき、僕に野球を教えられていたそうなんです」 転機は突然やってくる。62年1月。雨で練習ができず、子どもたちを映画に連れて行った。前月から日本公開されていた米国のミュージカル映画「ウエスト・サイド物語」。子どもたちに「ああいう踊りをやってみたい」と言われた。 一方でジャニーさんはこう思ったという。「映画でバク転したのは1人だけ。やれば勝負できる」。ビデオもない時代。何度も一緒に見に行って「君は何小節、君は次の何小節」と覚えさせた。そうして最後まで残ったあおい輝彦ら4人が、アイドルグループ「ジャニーズ」として、62年にデビューすることになった。 (石井知明、2010~13年担当)
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