サッカーの話をしよう

No.625 北山朝徳さんと花井貫一

 先週の土曜日、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスの都心のホテルで、あるパーティーが開催された。日本サッカー協会の国際委員を務める北山朝徳さんが経営する会社「トーシン」の創立30周年を祝う会だった。
 北山さんは、大学を卒業した後、北米から南米にかけて放浪し、ブエノスアイレスにたどり着いた。そしていくつもの仕事を経験し、ふたりの友人と76年に「トーシン」を設立した。漢字で書くと「東進」。東へ東へと進むと日本にたどり着く。ブエノスアイレスで興した事業で日本まで征服しようという野望を表現したものだった。「地球の裏側」のアルゼンチンだから、「西進」でも同じ距離で日本にたどり着くのだが...。
 ようやく仕事が軌道に乗り始めたころに78年ワールドカップがアルゼンチンで開催され、日本のサッカー関係者と出会う。そして、本業のかたわらで、日本とアルゼンチン、さらには南米のサッカーを結びつける仕事が始まった。

 1999年の「コパ・アメリカ(南米選手権)」に日本代表が特別招待されたように、日本サッカー協会は南米サッカー連盟と高い信頼関係で結ばれている。韓国との激しい競争になった2002ワールドカップの招致活動で、南米サッカー連盟が終始変わることなく日本を支持してくれた背景には、北山さんが中心になって築いた南米連盟との強い「絆」があった。
 その絆は、同時に、南米のサッカーの発展にも寄与した。ブラジル、アルゼンチンなど強力なサッカー国をもち、ヨーロッパとワールドカップのタイトルを分け合っていながら、南米サッカー連盟は財政面の基盤に欠け、組織としてはけっして強くはなかった。近年、それが強固になった大きな要因が、トヨタ自動車をはじめとした日本企業からの支援だった。

 日本と南米のサッカー界の絆を深め、両者の発展に寄与した北山さんの業績を思うとき、いつも頭に浮かぶひとりの人物がいる。その人物も、世界を放浪した後にブエノスアイレスにたどり着き、数奇な半生を送った人だ。
 名前を花井貫一という。1920年代から30年代にかけて、発展の途上にあったアルゼンチンのサッカー界に「キネシオロジー(運動科学)」をもち込み、アルゼンチンのみならず、南米サッカー全体の発展に貢献した人物である。
 日本で医学を学び、ヨーロッパや南米では柔術を教え、「骨接ぎ」を仕事にしていた花井は、偶然が重なってブエノスアイレスの強豪クラブ、ボカ・ジュニアーズのトレーナーとなり、選手たちから圧倒的な信頼を得るようになる。ボカの選手たちは花井のマッサージや治療に感謝し、試合前の記念撮影のときには必ず彼をいっしょに入れた。そして優勝すると、自分たちのメダルを花井に贈ったという。

 やがて彼は自分自身の治療院を開き、ボカの選手にとどまらず、他クラブやブラジルなど南米全域の選手の治療に当たるようになる。1930年代における南米サッカーの急速な発展を支えたのは、花井を祖とするトレーナーたちの活躍だった。負傷の予防法が進み、負傷からの回復が早くなったことで、試合がよりハードになり、プレーのレベルが飛躍的に上がったのだ。
 ひとりの人間にできることなどたかが知れている。しかし損得を抜きに周囲の人びとのために誠心誠意行動したことが、考えも及ばなかった大きな結果を生むこともある。
 11月11日、「トーシン」のパーティーには350人もの人がかけつけた。アルゼンチンや南米のサッカー関係者の顔もたくさんあった。北山さんの会社は日本を征服することはできなかった。しかし雇用したたくさんのアルゼンチン人の家族の生活を支えるとともに、サッカーというこの上ない素材を生かして、日本と南米の「絆」という大きな果実を産んだ。
 
(2006年11月15日)
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