■戦争景気経て一大産地に
関西のものづくりを取材していると、大阪府はねじの生産シェアで全国1位だと聞いた。生産量は2位の愛知県の1.4倍と群を抜く。なかでもメーカーが集積しているのが東大阪市。「ねじといえば東大阪やろ?」。大阪の製造業に関わる人は口々にそう言うが、なぜ東大阪でねじ産業が発達したのか。ルーツをたどってみた。
早速、関西ねじ協同組合(大阪市)に尋ねると、東大阪市のねじメーカー、三和鋲螺(びょうら)製作所の社長を紹介された。「ねじ産業が発展したのは、生駒山の川に設置された水車小屋がルーツと言われている」と樫本宏志社長。ねじの材料である線材は金属を細長く延ばして作る。この「伸線加工」の技術が東大阪にあったのだという。
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江戸時代末期、東大阪では京都のかんざし屋に納める製品を作っていた。当時のかんざしの材料は銅で、人の力で引っ張って加工するのは重労働。そこで、地元にあった水車が活用されるようになった。当時の東大阪には和漢薬や綿実油の製造業者があり、生薬の粉砕などの動力として水車が使われていたのだ。
明治以降、鉄が普及すると、銅より硬い鉄の加工に水車では力が足りない。動力は水車から電気に切り替わった。東大阪では1914年の近鉄奈良線開通により電気の普及がはじまっており、電力への切り替えが進んだ。この頃、第1次世界大戦が勃発。鉄線業界でも需要が拡大し、東大阪は伸線加工業者の集積地になる。
ねじの生産が盛んになったのも、第1次世界大戦の頃。戦争景気で大阪では機械・造船工業が躍進し、これらの工場にねじを供給した。ねじの全国シェアは、09年に東京約6割、大阪2割だったのが、21年には大阪約5割、東京約3割に逆転した。昭和に入ると安価なねじの加工機械が開発され、中小規模の工場が増加。工場街が整備されたこともあって、ねじの一大産地になった。
東大阪のねじ産業が最盛期を迎えるのは、第2次世界大戦後の高度成長期だ。国内の自動車や家電などのメーカー向けにねじの需要が伸び、「米国などへの輸出比率が高い企業も増えた」(樫本社長)。過密化した大阪市内からの移転も相次ぎ、ねじ製造業者はさらに増加。ピークの70~80年代には東大阪に500社近くが集積した。
ねじを作るには線材の切断に始まり、プレス、熱処理、表面処理など様々な加工技術が必要だ。その技術力に支えられ、栄えた産業が他にもあったのではないか。調べてみると、くぎや金網、工具のドライバー、パチンコ玉なども伸線加工技術で作られる。なかでもパチンコ玉は大阪府が製造シェア全国1位。東大阪市とその隣の大東市で国内生産の大半を占めるという。
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パチンコ玉の製造で国内最大手の光ナノテック(大阪府大東市)を訪ねると、工場内には約40メートルに連結した磨き加工機械が設置してある。パチンコ玉を磨くだけならば半分以下の長さの機械でもできるが、高い品質を保つために、過剰ともみえる設備を持っているという。
東大阪周辺のメーカーが強い理由を同社の田中昭取締役に聞くと、「地域に蓄積された技術が高い品質を支えたから」と教えてくれた。直径11ミリメートルのパチンコ玉にはプレス、熱処理、研磨、メッキなどの金属加工の要素が詰まっているのだという。
ねじ生産で栄えた東大阪だが、近年は加工業者は減少傾向にある。80年代後半、プラザ合意後の円高進行や台湾や韓国などの台頭で「みるみる国際競争力を失った」(樫本社長)。工場の縮小や業種転換を迫られ、廃業が相次いだ。
生き残ったメーカーは、安価なねじに対抗するため、高付加価値ねじの開発に取り組む。
ハードロック工業(東大阪市)は激しい揺れや衝撃に対しても緩まないねじを開発。国内では東京スカイツリーや東海旅客鉄道(JR東海)の新幹線車両に採用され、英国や中国など海外からの発注も絶えないという。防さびねじを作る竹中製作所(同)は、石油プラントや海水淡水化プラント向けのフッ素樹脂コーティングねじで世界シェアの半分を握る。
伸線加工から発展し、ねじやパチンコ玉、くぎや金網、ドライバーなど様々な地場産業が育った東大阪。「そのペンも、ねじの技術がないと君の手元に届かないよ」。以前に出会った金属加工業のおじさんの言葉が、一層身にしみて感じられた。
(大阪経済部 西岡杏)
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