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日本のテレビCM史の流れを変えた異才 ― 今村昭物語(1)

イキですてきな仲間たち―電通を創った男たちⅡ―No.19

2016/10/08

日本のテレビCM史の流れを変えた異才 ― 今村昭物語(1)

少年はいかにして今村昭になったか

 

── 暗闇だった。少年は椅子に座り、身じろぎもしなかった。目の前を、まさに凝視していた。スクリーンでは、ラストシーンにかかっていた。西部の男ディック・パウエルは拳銃を片手に持ち、敵と最後の対決に臨もうとしていた。死か、生か? 倒すか、倒されるのか? 少年は全身全霊で興奮していた。

それは、アメリカのRKOラジオ映画「拳銃往来」である。彼が生まれて初めて観た西部劇映画だった。隣には、共に外国映画が好きな歯科医の父、母がいたはずであるが、彼にその記憶はない。

時は1950年。映画館は福島県小名浜町にあり、映画小屋と言う方がふさわしいようなものだった。少年の名は、今村昭。この時11歳であった。

今村少年が憧れた大西部。後にサッポロビールCMロケ地に選ぶことになる
今村少年が憧れた大西部。後にサッポロビールのCMロケ地に選ぶことになる
 

── 彼は、後に電通テレビCMクリエーターとなり日本のテレビCM史の流れを変えることになる。

この物語は、その今村昭の足跡と、CMの実績を追いながらも、彼が果たした電通への貢献と影響を考察しつつ、人物像を掘り下げようと試みるものである。メガ・エージェンシーにおけるクリエーターとはなにか? それはどうあるべきか、またはどうあるべきではないのか? あるいは、たんに個人の問題なのか?

巨大な組織でどうクリエーティビティーを維持していくのか? 異才、今村昭の物語から、なにかを汲みとっていただければ幸いである。

物語とは語られるものである。語り手により物語は相貌を変えるであろう。本稿の語り手は私 ─ 小田嶋である。私は電通入社時、ほどなくして今村昭の部下となった。以後、数年以上、いや、彼がリタイアした後のことも考慮すると実に30年くらいの薫陶を賜ったであろうか。だから、これは私の視点からの今村昭物語である。接したひとびとは数多く、その人脈はCM業界、広告界、はもちろん、映画界、出版界、ミステリー・SF界、漫画界に及ぶ。そのひとびとからすれば、今村昭にはまた違う物語があるはずであり、本稿はそのひとつ ─ 単なる元ひとりの部下の記述に過ぎないであろうことを一応お断りいたしたい。

─ また、この物語は私が今村昭と共に企画、制作、体験したこと、および、その時分に見聞きしたこと、彼自身から聞いていたこと、当時の銀座電通などリアルを交えながらも、各種資料、取材によることも含まれている。

── さて冒頭、今村昭が映画少年になる契機を描写した。しかし、彼はこの前に、既に漫画少年であった。それは8歳の時である。出合ったのは、手塚治虫の『新宝島』だった。これは手塚初の長編漫画単行本であり、今村は、後に、大いなる驚きを確実に味わい、これこそ、自分の、自分のためのマンガなのだと思い込んだと書いている(ペンネーム、石上三登志『定本手塚治虫の世界』より)。

後の最初の手塚漫画論の本カバー
後の最初の手塚漫画論の本カバー

少年はこの後、9歳で『魔法屋敷』に出合い、10歳で『拳銃天使』に出合う。手塚治虫はいうまでもなく、日本漫画史最大の巨人といわねばならないであろうが、その活動の初期から、子供時代で接触し、多大というよりも甚大な影響を受けた最初の世代のひとりが今村昭である。

8歳で大感動していた少年は、まさか後に電通で、手塚治虫との仕事をすることになるとは夢にも思わなかっただろう。

今村昭が後に手塚漫画を評価した自伝的評論の一部
今村昭が後に手塚漫画を評価した自伝的評論の一部

さて、ここでお断りせねばならない。読者の大多数は、これらの漫画や映画がどのような作品かはご存じないであろう。詳述すべきでもあるが、それをしているとこの連載は終わらないだろう。従って解説は、記述と読者の理解のための最小限にとどめたい。

─ 要は、今村少年は、多感なる十代にかけて、手塚漫画を初めとする、勃興期の日本漫画界、西部劇映画を端緒とするアメリカ劇映画 ─ SF(当時は空想科学ものと呼称された)、ミステリー、サスペンス、冒険、怪奇、ミュージカル、ホラー、バンパイア物、各種 ─ を摂取、吸収しながら、成長していったと考えていただきたい。

ひとの性格とか、性質とか、気質とか、気性とか、あるいは人格とかは、なにによって形成されるのであろうか。生まれつきのDNAなのか、成長過程か、環境の影響なのか? それは断言できないが、今村少年の場合は、それを物語る、あるエピソードが存在する。

それは彼が生涯にわたり、記録し続けた「映画ノート」である。

「映画ノート」とはなにか? 観た映画の感想を記述しておく日記のようなものだろうか? 映画への評点表のようなものだろうか?

彼の場合は、それが全く違っていたのだ。私は、これを彼の自宅で見せてもらったことがある。古い大学ノートに書かれたそれは、現代で言えば、一種のデータベース・ブックだった。すなわち観た映画のデータ記録なのだ。

まず、作品名だ、邦題と原題(英語、ほか)。─ この時代は外国映画のタイトルは、原題通りではなく、ほとんど意訳した日本題であるか、時にはまったく独自の題であることが多かった。

次に配給会社名だ。制作企業名がくる。そして年代。制作者名(プロデューサー)そして、やっと監督名(ディレクター)。ときには助監督名。脚本家名。原作がある場合は原作者名、キャスティングなどスタッフ名。特撮監督名、そのチーム名。撮影監督名、そのチーム名。ときには、ギャッファー、プロップ名。

また、編集関係。特殊効果。音声効果。光学効果など。そして俳優名だ。主演、助演、脇役。

─ さらには音楽関係。作曲、編曲、演奏、主題歌、その歌手。大道具、小道具、美術、衣装、メイクアップ、ヘアスタイリスト、あれやこれや。つまり、映画のプロローグ、またはエピローグのあとに来るクレジットデータなのだ。ときにロケ地もある。撮影スタジオ名もある。

なんだろうか?これは?

しかも、これは冒頭で記述した11歳の西部劇体験時からではないのである。彼がこのノートを記述、制作し始めたのは、じつに13歳からなのだ。

第1冊目の映画ノ―トの第1ページ。最初に記入されているのは、「拳銃往来」。ディック・パウエル、ジェーン・グリア主演。シドニィ・ランフィールド監督。次は「拳銃無宿」。以下、たくさんの映画作品が列記されていくのであるが…。始めたのが13歳であるから、11歳から観たものはどう書いたかというと、…つまり思い出して書いているのだ(!)。

映画ノートを元に、西部劇熱中時代を振り返った原稿の一部
映画ノートを元に、西部劇熱中時代を振り返った原稿の一部
 

─ ひとの記憶タイプは大きくは、音声的記憶型と、画像的記憶型があるそうだ。今村昭の場合は後者だったのだろうか? このおそるべき記憶力は、頭がデジタルカメラか、CPUか、と思わせる。しかも、いま、ふたつの作品を出したが、これが並んでいるのは、似たようなものを分類したり、同類をつなげる、という癖、嗜好が既に始まっていた、と今村は書いている。(詳細は、『映画宝庫』第7号、芳賀書店、増渕健編集 ─ さらば西部劇、1978年刊行 にある)

同じ第1ページの下のほうには、ある作品群が並んでいるのだが、「どうも、この頃すでにいわゆるB級映画はB級として無意識にまとめてしまっていたらしい」とも書いている。まるで植物分類学を創始したカール・リンネの映画版である。

ここに、わたしは今村昭というひとのある特質というか、特性を思わずにいられない。

映画作品や漫画作品や、後に物凄い量を読みだすことになるエンターテインメント系の小説作品への興味、嗜好はもちろんなのだが、彼のより強烈な関心は、作者、制作者、作り手たちへ向けられているのだ。ここに、生来かも知れない分類癖が加わり、制作人群の巨大な、かつ緻密な関係図世界ができあがっていく。これが少年時代初期からであるのは、才能というべきか、異才の萌芽であるというべきか。

─ かくて彼の「映画ノート」には、11歳から14歳まで観た106本の西部劇映画が記録される。それを今村は「僕の西部劇耽溺の至福時代」と書いている。子供であるがゆえに純粋に、夢想と理想に浸れる別世界の時代であった。そして西部劇以外も観ており、これ以後も、もちろん、生涯にわたり映画を観続けていくのである。ひとには原体験といわれるものがある。そのひとの生涯をある意味で決定づけていくような、原初的体験をいう。

彼は別のところで、「結局、僕という人間を造ってしまったのはアメリカ映画です、それは父親だった。また僕は手塚治虫の影響を最初からまともに受けてしまった最初の世代で、手塚治虫に育てられたようなものなんだ」という意味のことを述べている。

─ 彼には原体験的事件とも言える2本の映画があった。それは「駅馬車」と「キングコング」である。

後の、駅馬車論の扉。キングコング論を収めた評論集のカバー
後の、駅馬車論の扉。キングコング論を収めた評論集のカバー
 

─ テレビCMも、映画も集団作業という点では同じではある。目的はおおいに異なるが、こうして今村昭というひとを幼少年時から考察してみると、ひとりの個性的なCMクリエーターの骨格が形成されつつあったのではないかという気がする。

彼は1939年、東京・池上に誕生した。戦争の時代である。東京は空襲で危険なため、両親、兄弟とともに福島県に疎開(危険を避けるため、より安全と思われる地域へ避難、臨時に居住すること)。以後この地で高校を終え、明治大学文学部英米文学科へ進む。このころ、日本のテレビ放送はようやく本格化を迎えており、広告代理店とCM業界は、ある意味の青春時代を迎えようとしていた。

しかし、今村昭が電通に入社するまでには、さらに紆余曲折があり、現在テレビCMの伝説、レジェンドと言われる「レナウン・イエイエ」CMが誕生するまでには、なお10年余の年月を待たねばならない。

そして、わたし自身が今村昭と出会い、その部下(コピーライター、CMプランナー)となるまでには、さらに数年後を要することになる。

(文中敬称略)

 

◎本連載は、電通OBの有志で構成する「グループD21」が、企画・執筆をしています。
◎次回は10月9日に掲載します。