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日本のテレビCM史の流れを変えた異才 ― 今村昭物語(2)

イキですてきな仲間たち―電通を創った男たちⅡ―No.20

2016/10/09

日本のテレビCM史の流れを変えた異才 ― 今村昭物語(2)

今村昭はいかにして「レナウン・イエイエ」を実現したか

 

─ さて彼も大学を卒業する時期に入ってきた。内心では、やはり(当然に?)映画関係に就職したいと思う。しかし当時の映画業界は新卒を採用することはほぼない。遠縁に東映動画(現在は、東映アニメーション)のプロデューサー兼監督の藪下泰司というひとがいた。では東映動画に入社か?というとこれが違う。

─ ちょっと余談であるが、ここで東映動画を説明したい。1948年に日本動画が設立されている(後に日動映画に変更)。1955年に、日動映画にいた藪下泰司と山本善次郎は東映を訪ね、会社の存続について相談、交渉をもちかけた。当時の東映社長・大川博は、ディズニーのアニメ映画の隆盛ぶりに危機感を抱いていたらしく、即座に日動映画の買収に応じた。これが東映動画の始まりである。そして短時日のうちに日本初のカラー長編アニメ映画「白蛇伝」を完成させることになる。語り手は、「白蛇伝」を幼少期に観ているが、極めて感動的であった(いまもビデオを持っているくらいである)。

「白蛇伝」は、中国の伝説、伝奇的ファンタジーであり、同じ時代に東宝映画で「白夫人の妖恋」があるが、こちらは実写(一部が特撮)で原典は同じ。極めて官能的で異世界的なファンタジーを描く傑作である。

東映動画にはこのころ、手塚治虫が嘱託で参加していた(宮崎駿など、後に日本アニメ界を率いることになるビッグネームの大半は東映動画に若いころ参加している)。手塚はここでアニメのノウハウを吸収し、後に虫プロでのアニメ制作に生かしたと思われる。東映動画は今日、東映アニメとなり、「ドラゴンボール」や「ワンピース」などで世界屈指のアニメ企業となっている。

学生時代から親交を深めた今村昭と手塚治虫―ある対談にて
学生時代から親交を深めた今村昭と手塚治虫 ─ ある対談にて
 

つまり、藪下氏は仕事の関係で手塚治虫と知己だった。これを知った今村は手塚に会わせてくれと頼み込み、実際に会いに行ったのである(!)。もちろんファンであるから、手持ちの手塚本だの、自作の絵だのを持ち込み、サインしてもらったり、手塚の子供時代の原画を(膨大な量)見せてもらったり、なのだが…実は本音は就職の世話願いだった(!)。とはいえ、結局言えなかったのだ。なにしろ、相手は子供時代からの神様である。結局、藪下氏の昔の仲間が経営している、CMプロダクション京映が候補にあがり、今村はそこへ就職した。時代的にはテレビCMは勃興期だが、今村は後に「CMのことなどなにも知らないで、もぐりこみ、── 従ってそもそも手塚先生あればこその僕のCM人生というわけだ」と書いている。

その会社でたぶんCMの基本を覚えながら、後に第一企画という代理店へ転社している。ここでエージェンシーの内実を知ったのだろうか。そして、ある先輩の推薦で1964年、電通へ入社するのである。

このころ、電通の築地本社ビルは工事中であり、本社は銀座電通ビルであった。築地が竣工するのは1967年、以後2002年まで本社であり、以後は汐留ビルへ本社機能を集約した。今村昭は、この銀座電通(略して銀電)へ、経歴上、最初からCMクリエーターとして採用された。当時こうした新卒採用でない、途中入社は珍しくなかったと思われる。4代目社長、吉田秀雄の果敢なる指揮によりクライアントのあらゆるニーズに応えるメガエージェンシーへの道を、電通は歩み出していた。次の5代目、日比野社長時代にも、電通はさまざまな業界、分野から多彩、有能な人材は積極的に採用していたからである。今村が入社したのは、このころに当たる。

では今村は、京映や第一企画では、どんなCMを手がけていたのだろうか? 処女作というものは知りたいところだが、実は調べてもわからないのだ。本人の仕事年譜には、1962年 ─ 早川電機(現在のシャープ)など、と出てくる。1963年、東京ガスなど、とも出てはいる。だが、どんなCMなのかさっぱり不明である。

電通での実質的な最初のCMから観て行くことにしよう。以下とりあげる大半は電通データベースに入っている。1966年、森永乳業の「マミー」30秒シリーズが、まずある。モノクロ映像である(!)。いや、驚かないでほしい。日本のテレビは1960年にカラー本放送が開始されているが、いきなり全てがカラー化したわけではない。モノクローム映像と混在しつつ、次第にカラー化が進んだのである。ちなみにこの年、第1回CM合同研究会が開催されており、これが現在まで続くACC(全日本シーエム放送連盟)の前身である。

今村昭は、後にACC賞をはじめ各種の賞を受賞することになる。

さて「マミー」とは当時、森永乳業が主に子供向けに発売していた健康飲料である。

この3本のCMは、マミー夢シリーズというタイトルで、内容は10歳くらいの男の子がライオンをあやつる猛獣使い、飛行機からスカイダイビング、危険な山登りをしたりするのだが実はそれらは夢で、覚めるとライオンは子猫だった、ベッドから落ちていた、ザイルではなくカーテンにつかまっていたりしてたというオチになる。セリフはなく、MEで、わ、朝だ、みんなでマミー、森永マミー、商品カットという訴求である。

これは語り手の感想に過ぎないが、こんな時代にはやくもテレビCMのある構造方程式の典型が表現されていることに驚く。つまり、緊張と解放の対立で、解決策を提示するという方法である。健康飲料のシズル感は、緊張と、その解放での飲みのシーンで全編に貫通している。このCMは3本すべてが、ACCの秀作賞、または広告電通賞の優秀作品賞を受賞している。

ところで、この1966年に今村昭は、初めて映画評を書き『映画評論』誌へ読者投稿をしており、掲載されている。このペンネームが石上三登志なのだ。意味は、石の上にも三年ということわざから名付けたという。CMクリエ―ターと映画評論家を兼業するという、彼の映像人生はこうして始まったわけだ。

翌1967年から1969年にかけ、今村昭は、レナウンの様々なブランドのCMを多数、企画、制作している。レナウンは当時電通の最重要広告主のひとつであり、営業努力も手伝い、仕事は次々に舞い込んできた。

『昭和CF100選』(発行:JAC)、『ACC40周年記念CM殿堂』(発行:宣伝会議)に収載されたイエイエのCM
『昭和CF100選』(発行:JAC)、『ACC40周年記念CM殿堂』(発行:宣伝会議)に収載されたイエイエのCM
 

このひとつがレナウン「イエイエ」のシリ―ズである。第1作の「イエイエ67」は、制作会社が電通映画社(現在の電通テックの前身、源流に当たる会社で、当時から最大級のCM制作会社だった。このCM制作機能は現在の電通クロスに継承されている)。それに日本アニメーション映画社。プロデューサーは泣く子も黙ると言われた電通映画社の喜多村寿信。演出、岩本力。作曲、サウンドデザインは当時新進だった小林亜星。歌手が朱理エイコ。映像で主役的になるイラスト制作は川村みづえ。川村はレナウン宣伝部にいたひとで小林亜星の実の妹である。

布陣スタッフを紹介するのは、CMをご覧いただければ、おわかりいただけると思うが、各パートが実に有機的に統合されているのだ。イエイエキャラクターの女性二人のイラストとロゴに、最新モードのモデルたちが、都市を踊り回る実写との合成、そこへ極めてビートが効いてる音楽と歌声。吹き出し(バルーン)も添えられる斬新なポップアートが全面的に活用され、極めてダイナミックな快感を呼ぶ。

著者「石上」名での、アイ・ラブ・コマーシャルのページ
著者「石上」名での、アイ・ラブ・コマーシャルのページ
 

この第1作だけで、1967年のACCグランプリを受賞した。また音楽が技術特別賞である。翌年度になるが、広告電通賞テレビ広告カラー部門優秀作品賞、クリオ最優秀賞、また後にJAC(日本テレビCM制作社連盟)が創立30周年記念に刊行した「昭和のCF100選」に収載されている(1991年)。ただ特筆すべきは、ACCが後に設立したCM殿堂へ、まっさきに入っていることだろう。CM殿堂とは、膨大なCMから、歴史に残すべきとされる名作を選定し顕彰、永久保存する制度で1983年にこのパーマネントコレクションは始められた。

ACCは、創立40周年記念として、2000年に『CM殿堂』(発行:宣伝会議)を刊行している。この本は関係者に取材した記事を同載しており、そこから今村昭のナマの声を抜粋してみよう。

─ 川村さんが描いたキャラクターを見て、これを使い、それに合わせてポップアート調にしようとまず(最初に)決めました。小林亜星さんの曲は単純だけどダイナミックないい曲だったので、その曲に合わせた、アメリカのミュージカル映画のようなものがいいと思った。(前から)アニメーションで、しかもマンガの吹き出しを使ったCMを作りたいと思っていました。キャラクターのイラストを見たら吹き出しがついてる、こりゃいい、と思った。─ 目がぐるぐる回ったり、星を出してバンザイするスチールとイラストのコラージュは、(電通映画社の演出監督の)松尾さんと私が出しあったアイデア。女性の勢いに(男が)負けるといっても、ただ参りましたではイヤだからマンガっぽく。ポップアートだから可能なんです。

レナウンはふだん、松尾さん演出だが、都合でできなくなった。そこで(松尾監督の助手監督をしていた)岩本さんの出番!だと思った。マンガチックなアニメなので岩本さんにやってもらうしかない。(演出コンテは)アニメーター出身だけあって秒ごとにコンテを描いた。(制作全体の感想は)-とくに思いだすような苦労はない、結果的に観れば、それぞれのひとの技能やエネルギーが化合したから、楽にできたんだと思います。小林亜星さんの音楽といい、素敵な仲間たちが緊密につながっていました。

── こうして「イエイエ以後」という言葉を生みだした稀代のCMがオンエアされた(テレビ朝日「日曜洋画劇場」)。反響は実に大きかった。現在でもネットで検索すると、このCMの社会学的、文化史的、広告学的分析が多数頻出する。また今村昭の証言に、映画少年、漫画少年であった体験が、深く内実化されていることに気づく。

だが、これはまだ第一歩に過ぎないのだ。今村昭はこのころ30代目前、CMクリエーター人生はさらに続く。

(文中敬称略)

 

◎本連載は、電通OBの有志で構成する「グループD21」が、企画・執筆をしています。
◎次回は10月15日に掲載します。