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日本のテレビCM史の流れを変えた異才 ― 今村昭物語(13)

イキですてきな仲間たち―電通を創った男たちⅡ―No.31

2016/11/19

日本のテレビCM史の流れを変えた異才 ― 今村昭物語(13)

カンヌ金賞、続き銅賞。そして今村昭は、CMクリエーターの枠を超え、いかなる映像世界に挑戦していったのか(前編)

 
 

資生堂ロングCM「色」は1979年正月、特別番組「ウエストサイド物語」(ノーカット放映)で、ただいちどのみオンエアされている。撮影、編集ほかは前年の晩秋であった。かなりタイトではあったのだ。

松本ロケに行く前の日に、例えばこんなことがあった。実相寺監督のコンテでは、少女は最後に口紅を薄く引く(つまり塗る)ことになっていた。資生堂の担当、中尾さんも了承してはいたが、前日、NGを出してきた。中学生では問題になると困るという会社の決定だ、という。代案で中尾さんも交え、大騒ぎ会議になり、珍妙な案が数多く出た…が略す。

今村さんの本よりCMカット。78年となっているのは制作年。年末に局納した
今村さんの本よりCMカット
(78年となっているのは制作年。年末に局納した)

いちどはくさった実相寺監督が、よし、やる、と決めた。── 翌日からの松本郊外は、寒かった。しかし、監督の頭の中にはすべてのイメージがあり、若き名匠、中堀正夫はそれを受け巧みにカメラを回す。その相性は夫婦かね、というものだ。寒い中、ただ一点の灯がともっていた。主役の薬師丸ひろ子である。

今日では日本の大女優のひとりとも言えるであろうから、イメージも湧かないかも、であるが、本当に聖少女、無垢なる大器、神話的な存在感を発揮していた。14歳にしてオーラが見える。待ち時間では、大きなラジカセを抱え、大事そうにイヤホンで聞いている。聞いたら、「野生の証明」で共演した健さん、つまり高倉健からもらったのだと言う。…もう当時から、愛されるタイプの女優であった、としか言いようがない。

『月刊アドバタイジング』に、発表したCM制作記。連名にしているが、制作記なんてお前が書け、と言われ、語り手が書いた
『月刊アドバタイジング』に発表したCM制作記。連名にしているが、制作記なんてお前が書け、と言われ、語り手が書いた
 

かくして仮編集に入る。クラシック音楽に造詣が深い実相寺監督は、はじめからモーツァルトのディヴェルティメントK155、第一楽章(弦楽四重奏曲第二番)を使うつもりでおり、これが素晴らしく合う。まさに、恋の高まりが音で語られている(語り手は、「2001年宇宙の旅」の音楽の使われ方を連想した)。── 映像は格調と気品に満ちながらもドラマティックで、カットの切り替えも鋭い。薬師丸ひろ子の天使的な、つぶらな瞳が印象的だ。セリフもナレーションもなく、感情、世界観、すべてはモーツァルトの音楽が語る。問題は、最後の言葉 ─ コピーだった。未定であった。本編集に入った。これがなんのCMであるのかは、最後のコピーに託されている。何案も出したが決まらない。このCMにはコピーは不要ではないかと思っていたわたしは遂に「資生堂の口紅(いま)108色」という無機質なコピーを相談、中尾さんは、うん、とうなずいた。これが最後に出るタイトルとナレーションになった。

こうして資生堂として、たぶん初の長編、180秒CMが完成した。1979年ACC秀作賞、広告電通賞優秀作品賞、そしてカンヌ国際広告祭金賞を受賞した。さて、このCMは1回のみオンエアにも関わらず好評を呼び、テレビではない場であちこち上映された。

ここで電通営業は翌年度正月の特番と180秒CM独占枠を、またも提案、資生堂はただちに了承し、続けて企画作業に入った。今度は明確に商品ジャンルが提示された。アイメークである。今村さんとわたしたちは企画の前にアイメークとなれば必然的に眼力、眼に印象的なパワーが感じられることだが、CM制作側から言うと、「眼で演技ができる」女優ということになる。そこで、前回書いたように、浅野温子に白羽の矢を立てた。当時、彼女は18歳。15歳で山口百恵主演の「エデンの海」で、そのクラスメート役でデビューしており、光る新人女優だった。企画に、中尾さんから注文が出た。原案者には女性を入れろ、という。誰がいいか? 当時「綿の国星」が注目されていた少女漫画家、大島弓子に頼むことにして会いに行った。長編CM原案? 確かに短編漫画みたいなもの?で考えてみる、ということになり…案が出てきた。片思いの少女が、男性をひそかに駅で見送るというドラマ。わるくない、が…。なんだか浅野温子には向いていない。彼女に、そういう時、どうするか聞いてみた。明快にも、そんな彼氏は奪う、との答え! 浅野温子には、片思いだの、ひそかに、などまるで似合わないのがよくわかった。

大島原案から今村さんはシナリオを練った。アイメークは一種の女の戦いのツールのようにして、少女は、別の女性に恋をしている男を奪いに行く。奪うシーンは映画「卒業」(1967年)の逆パロディで、花婿を連れ出してしまう。(少女の空想ともとれる)その男性と空港で旅立とうとするところへ、かの女性が現れ、決闘となる(この決闘とは平手打ち合いである)。

読ませてもらったわたしは「西部劇ですね」と言うと、今村さんはうむうんとうなずいた。いちどオンナの決闘を描いてみたかったのだそうだ(映画「大砂塵」が女同士の決闘を描いている。1954年)。

── このCM制作は太陽企画。プロデューサーは岡田高治。演出は柳瀬三郎。撮影はスタジオから都内あちこち、成田空港まで至った。

── CMは冒頭から入念にアイメークを描く浅野温子のアップ。実に眼がものを言う。思いを賭ける男性をめざし、街を颯爽と行く、時に花束を渡そうとしたりする。が、男性は結婚式を挙げようとしている、そこから連れ出してしまう、混乱の式場。一転、空港。奪われた女性が現れ、浅野を平手打ち。浅野も相手を平手打ち、が、またもひっぱたかれ、思わず「お姉ちゃん!」と言ってしまう。─ つまり姉妹だったのである。

浅野温子主演のCM01
浅野温子主演のCM02
浅野温子主演のCM

なお空港ロビーで新聞を読んでいる紳士のエキストラは岡田プロデューサーである。完成したCMは落ちがあるショートショート・ストーリーで、評判はよかった。1980年正月オンエア、またもカンヌ国際広告祭で銅賞を受賞した。IBAとクリオ賞のファイナリストにも入っている。

そしてこの年早々、資生堂の信頼を得られた電通と今村さんに、遂に夏キャンペーンの依頼がきた。前年の「ナツコの夏」(モデルは小野みゆき。音楽の「燃えろ、いい女」が大ヒット)を受けての気の重い仕事ではあった。夏キャンのスポットCM量は膨大、予算が大きい。営業は喜んでいるが、CRは最低でも前年並みのヒットを求められる。そこで夏と言えば、おきまりのハワイ、グアムロケをまず止めた。新鮮度がない。コンセプトを「アフリカの休日」とした。むろん映画「ローマの休日」のもじりである。モデルは探し回ったあげく、田中ちはる(新人)。制作は電通映画社。演出、関谷宗介。撮影、中堀正夫。プロデューサーは喜多村寿信。かくしてケニヤ・ロケが慣行された。実はかなりの珍道中だったが、ともあれマサイ族との共演や、大自然、動物たちの画も収め、夏キャン・オンエアへ進んだ。同年のACC秀作賞を受賞している。またACCラジオCMでACC賞となった。音楽はクリスタルキングである。

── 以後も資生堂ほかCMを制作し続けるのだが、今村さんの自筆年譜では、このあたりから、自分を、まとめ役としている。CMプランナーであるより、管理職だ、という自負でもあり、現場から離れるという諦観でもあろう。実際、1981年を過ぎるころから、部の人間も増え、今村さんは部員の企画を見て、クライアントに責任者としてプレゼンするとか、競合案件のディレクションとか、編集・納品立ち合いとかの仕事がメインになっていく。

とはいえ、である。今村さん自身に、あんたがやってほしい、という依頼がくるのも、今村さんのクリエーター履歴を反映している。1983年、この2年後に開催予定の通称、つくば科学万博(正式には、国際科学技術博覧会)の、政府館のテーマ映像70ミリ版を企画、制作せよ、との依頼が社内からきた。

この万博はほぼ電通扱いで、関連のコンテンツは電通制作か、それに準じるカタチである。映像のテーマは、たんに国土である。CMとは全然違う。これを企画するのか? ── 語り手はこのころは別の部にいたが、いつも顔は出していた。

── 部長なのに、なにを企画しているのですか。

── 国土を映像化する、なんていうのがきているの。70ミリの大画面、長尺の企画だよ。

── ふうん、ディズニーの映画「砂漠は生きている」みたいな話ですね。

── お、その手があったか!

…注釈。ウオルト・ディズニーは初期アニメ映画と共に、自然ドキュメンタリー映画にも熱心だった。「砂漠は生きている」(1953年)は、アメリカの国土 ─ アリゾナの広大な砂漠やモニュメントバレーを舞台に、死の世界と見られがちな環境に生きる、あらゆる生物を描き出す驚異的な作品である。

── 今村さんは、「多様な国土」というシナリオを書いた。日本の国土を、水の国として、縦糸にし、北から南まで各地に多彩に展開する水がからむ風景と事物、人々を横糸にする。春夏秋冬、四季を織り交ぜたため、撮影、収録に1年半はかかるか?という企画になったが、博覧会協会には了承されてしまった。

監督には大林宜彦が起用された。ただ、1年以上もかかる、四季ごとの各地へのロケということで、実際にはほぼ電通映画社に任された。ここで活躍したのが当時気鋭のプロデューサー、広川正三さんである。彼は詳細なスケジュールを立て、池永助監督と映画社撮影部隊を各地、各季節、引き連れ、精力的にロケ撮影して回った。

(文中敬称略)


◎本連載は、電通OBの有志で構成する「グループD21」が、企画・執筆をしています。
◎次回は11月20日に掲載します。