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日本のテレビCM史の流れを変えた異才 ― 今村昭物語(14)

イキですてきな仲間たち―電通を創った男たちⅡ―No.32

2016/11/20

日本のテレビCM史の流れを変えた異才 ― 今村昭物語(14)

カンヌ金賞、続き銅賞。そして今村昭は、CMクリエーターの枠を超え、いかなる映像世界に挑戦していったのか(後編)

 

広川プロデューサーの努力で、ラッシュ・フィルムは結構な量になっていったが、一方、大林監督は映画撮影との都合が合えば、その地で監督した。そんな時は、大林さんは今村さんを、たまには現場に来なさいよ、と誘いだした。管理職とはいえ、現場の血が騒ぐ今村さんは、尾道や、九州柳川に出張して行った。傑作なのは、今村さんが行くと、大林監督は、広川さんのラッシュの前に、尾道3部作のひとつ「さびしんぼう」(主演富田靖子)のラッシュを見せていたことだ。九州柳川(掘割、川下りの水景で有名)では、広川さん談では、撮影は任せられ、お二人は屋形船で一献傾けながら、談笑していたとのことである(いい仕事だなあ・・語り手独白)。── この「多様な国土」70ミリ映像は、冒頭、黒部峡谷ダムの壮烈な放水から始まる、まさに水の国巡りであり、当時開始したばかりの山梨リニアモーターカー実験線風景なども織り交ぜられている。つまり、日本国のCMでもあると言える。つくば博は、1985年春から開催され、上映された。

ところで、この映像制作が奇しくも、次に今村さんが東宝映画「竹取物語」の脚本を書くことにつながる、と言えば、なぜ?と思われるだろう。わけはこうである。この70ミリ映像は当時、「ジャパックス」という国産の技術の初の作業でもあり、初期はもめごとが多かった。開発したのは東宝映像だが、ここで今村さんは映画的というより、CM的に技術を使いたいと同社に相談した。ここである人物が、今村さんが東宝映像社長、田中友幸と親しいと思い込み、社長に引き合わせようとした。実はこの時点では今村さんは、親しくもなにもない。石上三登志名で、ゴジラの生みの親であり、優れたプロデューサーの田中友幸論を書き、いちどだけインタビューしたことがある程度だった。

…ともあれ、会うことになると、田中社長だけでなく、東宝の高名プロデューサーの馬場和夫も同席した。ここでの話が「竹取物語」の映画化に協力を、であったのだ。当時「E.T.」が大ヒットもしており、田中友幸は宿願の企画で、宇宙人と地球人との交流というテーマは共通しているし、いまこそ実現したい、と話す。それには各種スポンサー協力が必要である。ぜひ、お知恵を。電通の人間として会っている今村さんは、では売れる映像を考えます、と引き受けた。つまり、これが真相であって、べつに石上三登志に依頼したのではなく、電通への作業依頼なのだ。

かくして、この作業が始まった。…とは言え、これは今村部のメンバーが大変な過程を経ていくので、ほぼ省略する。とにかく最終的には、今村さんが脚本を書くことになる、というか、させられる。日本独自の超SFファンタジー、原典に忠実でありながらも、SF的ビジュアルの提示は豊富にし、独自のキャラクターをも立て、2時間に及ぶシナリオを必死で書き上げていった。

この2年近い間に、語り手はなんどか、今村部を訪れたが、コンテマンの剣持潔さんが、海竜の絵だの、その上にいる帆船だの、蓮の花の宇宙船だの、を描きまくっているのに、びっくりもした。

初期のイメージ「龍」
初期のイメージが「龍」と「落下」
初期のイメージ「落下」

「竹取物語」は1987年、完成。今日でもDVDが市販されている。主演、沢口靖子(かぐや姫)、三船敏郎(竹取の造、翁のこと)、若尾文子(その妻)、中井貴一、など。製作、田中友幸、羽佐間重彰。監督、市川崑。と脚本は4人の名が並ぶ。菊島隆三、石上三登志、日高真也、市川崑。なぜ、こうなっているのか?と思われるだろう。

菊島は東宝の重鎮の脚本家で実は最初の脚本を書いた。それは原典に沿ったもので、文芸映画にはよかったが、田中の悲願である日本のSFファンタジーには合っていなかった。それを完全に具現化したのが石上(つまり今村さん)脚本である。これを撮影用の最終稿に補助したのが日高で、市川監督がこれを監修、了承した。脚本の経緯が4名の併記になったのだ。映画の骨格は今村さんなのである。特技監督、中野昭慶。衣装、ワダエミ。

「竹取物語」DVD
製作スタッフ
「竹取物語」DVD(上)、製作スタッフ

── 奇しくも2016年、市川崑生誕100周年であるが、「竹取物語」は、市川崑唯一のSF映画で傑作であり、そしておそらくCMとは違う意味で、今村さんの傑作でもある。

語り手は聞いたことがある。「スペース・コンヴォイ」でのシナリオ初体験は役に立ったのですか?── まあ、役には立った、ただマインドで。竹取は、ほんとに苦労した。

「竹取物語」の撮影風景01
「竹取物語」の撮影風景
「竹取物語」の撮影風景02

この当時、今村さんは自分のCM企画はほぼなくなったが、部のCMは多数ディレクションしており、受賞作品も多く、電通データベースに残されている。…そして、電通の大物CDのひとりとなっていた、1990年、今村さんは電通プロックス事業・映像制作本部副本部長へ就任する。

電通映画社は、1988年に商号を電通プロックスと改称、組織と人材の大刷新をおこなっていた。そして1996年には、電通アクティスなど3社と合併し、電通テックと改称する。── これは電通がメガエージェンシーとしてグループ全体の世界への躍進と生き残りを図る大きな流れのひとつと考えられるが、その中の映像関係の発展が今村さんに託されたとも言えるだろうか。

今村さんはプロモーション系の大型映像やパビリオン用の特殊映像に新技術を持ち込み、企画監修しながら、1993年、こんどはCM制作本部副本部長に就任した。翌年にはプレゼンテーションセンター長に就任している。今村さんはこのころ、50歳代半ば。このまま大勢の部下の人材育成をしつつ、定年に、とのんびり思っていたかもしれないが、1998年、いきなり本社に戻れと社命がきた。

それは本社内で「電通プロジェクト21」と称され秘密に進行していた、ある特命チームへの参画要請だった。内容は、手塚治虫テーマパークの建設、企画、運営、ほか計画立案というものである。つまりディズニーランドの手塚治虫版だ。手塚治虫は、1989年に逝去している。奇しくも昭和が終わった年になる。会社は、もうずっと前から今村さんは石上三登志であり、手塚治虫を知る専門家であることに期待したのだった。敬愛する手塚治虫先生だ、企画には着手したが今村さんは危惧を覚えた。膨大な予算が必要になるであろうが、日本は既にデフレ経済が顕著になり始めて不景気である。会社はクライアント先から協力資金調達の考えだったらしいが、どこへ行っても不調であった。…こうして1年後の1999年、今村さんは円満なる定年退職を迎えた。

電通をリタイアした今村さんは畏友、岡田高治が率いる太陽企画顧問に迎えられた。これと前後して、毎日映画コンクール、手塚治虫文化賞、日本映画衛星放送、などの審議員、デザイン学校講師などを務めている。なお、手塚パークは2002年に、土地を提供していた川崎市が資金困難で中止を発表した。

── さて、この今村昭物語は映画で言えば最終チャプターに入った。どのような電通人仲間であり、CMクリエーター像であるのか感じていただけただろうか。語り手の視点に過ぎない偏った物語であるのを自覚しつつ、最後に、もしかすると誰も気づいていない、今村昭の終生の習慣を紹介しておきたい。

第1回で、少年時からの映画ノートに触れたが、彼は一種のメモ魔、記録魔、整理魔であった。いまも覚えているが、デスクの上はメモで溢れていた。たぶん、電ノートの中、自宅デスクもメモだらけであった。なにかが気にいる、気になる、と同種のものを収集し始める。集まるから整理し始める。それが膨大になるので、整理のための別のノートを作成する、という始末である。例えば映画スターだが監督もした作品のリストとかはこうして生まれた。興味は常に「人」にあり、それはCMにも結実した。自宅にある膨大なビデオ・コレクションのラベルの記述はそれを反映して、詳細なものであったのを思い出す。

今村昭は、エンターテインメントの人の、心のコレクターでもあり、それを愛してやまない人であった。

(文中敬称略)

〈 完 〉


◎本連載は、電通OBの有志で構成する「グループD21」が、企画・執筆をしています。