拉致被害者は“工作員村”にいた
明かされた新事実
今年1月、横田めぐみさんの母、早紀江さんの元に手紙が届きました。
差出人は曽我ひとみさんでした。
早紀江さんは、“めぐみのことで思い出したことがあれば何でも知らせてほしい”と曽我さんに頼んでいました。
1977年、13歳で拉致されためぐみさんは、当初曽我さんと暮らしていました。
曽我ひとみさんの手紙より
“めぐみさんと初めて会ったのは、1978年8月18日です。
車に乗り、めぐみさんの住んでいた2階建ての家に行きました。
私が家に入ると、めぐみさんはにっこりと笑って私を迎えてくれました。”
手紙には、初めて知らされる事実が書かれていました。
めぐみさんはこの頃、大物工作員から教育を受けていたと言うのです。
曽我ひとみさんの手紙より
“朝鮮語の勉強も始まり、北朝鮮のチュチェ思想の勉強、朝鮮の歴史の勉強、その他めぐみさんは数学と物理、科学の勉強をしていました。
めぐみさんは頭がよくて、すぐに覚えてしまいます。”
横田早紀江さん
「そんな難しいものをなぜ勉強するんだろう。
やっぱりあちらの工作員の日本語教師としてだけでなくて、いろんなものに難しいことを学んで、利用するために、こういうことを、難しいことを学ばされていたのかなって。」
3年前に帰国した拉致被害者の5人は、当時、家族を北朝鮮に残したままで多くを語ろうとはしませんでした。
横田さん夫妻は、めぐみさんの北朝鮮での消息を聞く機会を待っていました。
そのきっかけは去年(2004年)、訪れました。
5人が家族との再会を果たしたからです。
横田さん夫妻が面会を申し込んだのは、蓮池薫さん夫妻でした。
北朝鮮で一時、めぐみさんの近くに住んでいたと聞いていました。
蓮池さんが家族との再会を果たした1か月後、面会が実現しました。
面会場所のホテルに入る横田さん夫妻です。
この部屋での面会は夜の7時半から深夜の0時過ぎまで5時間に及びました。
この席で蓮池さんは、拉致被害者が集められていた秘密の場所について初めて語り始めました。
その言葉をめぐみさんの弟、拓也さんが書き留めていました。
蓮池さんの話
“私たちはめぐみさんと一緒の地区にいました。
それはピョンヤンから車で1時間ほどのチュンハ郡チュンノンリという場所でした。”
チュンノンリ。
蓮池さんが帰国してから初めて明かした地名は、正式には「チュンリョン里」。
ピョンヤンの南東およそ20キロのところにありました。
北朝鮮の最新の事典に載っていたチュンリョン里の写真です。
山に囲まれた静かな農村地帯と説明されています。
蓮池さんの話
“人里離れた山間の地区の谷間に、私たち日本人拉致被害者が暮らす招待所が作られていました。”
“工作員村”の実態
この時、蓮池さんが書いた見取り図です。
山の谷間に招待所が建てられ、互いに見えないようになっていたと言います。
7つの住居があり、それぞれに番号が付けられていました。
蓮池さん夫妻が来たのは1980年。
地村さん夫妻も一緒でした。
めぐみさんが加わったのは4年後の84年でした。
当時めぐみさんは20歳。
チュンリョン里での日本人の行動は厳しく監視されていました。
蓮池さんの話
“日本人同士が会うことは禁じられていました。
地村さんとは山の裏で時間を決めて密会していました。”
めぐみさんがいた3号棟には、もう1人の日本人女性がいました。
同じ拉致被害者の田口八重子さんでした。
3号棟には更にもう1人、北朝鮮の女性工作員がいました。
めぐみさんと八重子さんは女性工作員に日本語を教えていたと言います。
2号棟にも若い工作員が住んでいて、毎日蓮池さんの住居に通っていました。
蓮池さんの話
“私たちは工作員に日本語を教える任務を命じられていました。
それは、1日数時間にも及びました。”
蓮池さんが語ったのは、6人の拉致被害者が同じ場所に集められ、工作員教育にあてられていたという新たな事実でした。
横田早紀江さん
「それほどすごいことを、考えられないことをやり遂げる国なんだっていうことがわかって、だからそういうところに置かれていたっていうことは、本当に気の毒でね。」
めぐみさんが来た1年後、6人は山の裏側に移動を命じられました。
そこには6つの住居がありました。
5号棟には1人の男性工作員が住んでいました。
しばらくたって八重子さんが一時入院し、めぐみさんは1人になりました。
工作員はめぐみさんの元に通い、日本語を習うようになったと言います。
蓮池さんの話
“工作員の名はキム・チョルジュン、後にめぐみさんと結婚しました。
北朝鮮は2人を結婚させようと計画して、そのような状況を作ったのだと思います。”
めぐみさんが22歳になった1986年、日本人は全員チュンリョン里を離れることを命じられ、ピョンヤンに移ったと言います。
“工作員村”でめぐみさんは
●自由のない隔離生活や工作員養成 この事実は両親にとってつらいものだったのでは?
ええ、そう思いますよね。
めぐみさんの北朝鮮での暮らしについては、これまで一般の人とさほど変わらない日常的な話が多かっただけに、今回の話はめぐみさんの両親も衝撃を受けたと話しています。
こちらをご覧ください。
横田めぐみさんについてこれまで明らかになっていたのは、拉致された後、曽我ひとみさんとピョンヤン市内で暮らしていた時期。
そして1986年から94年にかけて蓮池さんや地村さんとピョンヤン市内で暮らしていた時期、同じ地区で暮らしていた時期なんです。
蓮池さんらが帰国当初に語っていたのはこの時期のことでした。
めぐみさんとは子ども同士が同じ幼稚園で、一緒に映画やハイキングに出かけたこともあったという幸せな家庭生活をうかがわせる内容でした。
ところが、今回明らかになったのは、これまで空白だったこちらの時期なんです。
1984年から86年にかけてのチュンリョン里での生活なんです。
めぐみさんはこの時期には、VTRに出てきました工作員村で厳しく監視される中、工作員の日本語教育に当たらされていたんです。
●拉致の目的は工作員養成か 今回の証言は裏付けにもなるのでは?
はい、そうなんです。
めぐみさんは拉致された翌年から、曽我ひとみさんと共に北朝鮮の工作員から高いレベルの教育を受けました。
その教育の後、他の拉致被害者と一緒にチュンリョン里に集められて、夫となる工作員や女性工作員の日本語教育に当たらされたんです。
拉致被害者が北朝鮮の工作活動を支援する役割を担わされていた実態が浮かび上がってきたんです。
●工作員村の存在や生活についてやっと語れるようになってきた?
まあそうですね。
蓮池さんたち5人の被害者は、帰国当初は子どもたちを北朝鮮に残したままでした。
それが去年、子どもたちが相次いで帰国を果たしたことで、拉致の真相に踏み込む部分も話せるようになったとめぐみさんの両親は考えています。
蓮池さん夫妻は、その後も被害者の家族の求めに応じる形で、拉致の真相を少しずつ語り始めています。
ただ、最も知りたいめぐみさんの安否につながる情報はなくて、めぐみさんの両親は焦りやいらだちの気持ちも感じているということなんです。
八重子さんの安否を求めて
先月(8月)、徳島市で田口八重子さんの救出を求める集会が開かれました。
兄 飯塚繁雄さん
「いとしい妹を早く帰してくださいと。」
八重子さんの兄、飯塚繁雄さん。
妹の救出を訴え全国を回っています。
息子の耕一郎さん。
1歳の時、母親の八重子さんが拉致され、繁雄さんの養子として育ちました。
飯塚耕一郎さん
「このパンフレットの後ろに写真があります。
この写真というのは、本当に母と私が写っている最初で最後の写真です。
これのもう27年後の形の写真を僕はぜひ撮りたいと思っています。」
去年6月、飯塚さん親子は福井県小浜市を訪ねました。
八重子さんと一緒に暮らしたことがあるという地村富貴恵さんに会うためでした。
面会は市役所の3階にある応接室で家族だけで行われました。
そこで富貴恵さんが語ったのは、2人が全く聞いたことがない話ばかりでした。
地村富貴恵さんの話
“北朝鮮に上陸した時、八重子さんは拉致の担当者におなかの妊娠線を見せながら、子どもがいるから帰してほしいと訴えたと言います。
しかし、聞き入れてはもらえませんでした。
映画を観ている時、親子が離ればなれになるシーンが出てくると、八重子さんはいつも泣いていました。”
飯塚耕一郎さん
「その悔しさ、つらさっていうのは、想像しようにも想像できないですよね。
何でここまで、何もない罪のない人間が、こんだけ苦しい思いをさせられるのかと。」
富貴恵さんと八重子さんはチュンリョン里にいた時も厳しい監視の中で時より会って話をしていました。
地村富貴恵さんの話
“八重子さんは工作員になってでも海外に行こうとしたと話していました。
海外で日本大使館に駆け込もうとしていたのです。
しかし、北朝鮮の工作員に、私も工作員になれるかと聞くと「絶対に無理だ」と言われ、断念したと話していました。”
兄 飯塚繁雄さん
「向こうでも何とか生きなくちゃならないっていう決意って言うか、決断をした時の気持ち。
これがね、もうほんと、かわいそうですよね。」
飯塚さんの元に去年の暮れ、新たな情報が入りました。
富貴恵さんが八重子さんの安否に関わる情報を思い出したと言うのです。
飯塚さんは本人に確かめるため、富貴恵さんに電話をしました。
兄 飯塚繁雄さん
「家族会の飯塚です。
すいません、夜分また。」
富貴恵さんは、知り合いがピョンヤン市内で八重子さんを目撃していたと話しました。
兄 飯塚繁雄さん
「店?テイソン?
テイソン百貨店、はい。
ああ、そうなんですか。」
飯塚さんが驚いたのは、八重子さんが目撃された時期でした。
北朝鮮は1986年7月に交通事故で死亡したとしてきました。
しかし目撃されていたのは、その3か月以上も後のことでした。
兄 飯塚繁雄さん
「いや、ほんと助かりました。
私たちにとってね、これがすごく今回重要なね、ポイントになりますので。」
妹は必ず生きている、この時初めて確信しました。
飯塚さんは蓮池さん夫妻にも会うことにしました。
今月(9月)11日、飯塚さんは妻のエイコさんと共に蓮池さんが住む柏崎を訪れました。
この日、蓮池さんの自宅で撮影した写真です。
蓮池さんが覚えていたのは、帰国を決してあきらめない八重子さんの姿でした。
蓮池さんの話
“八重子さんはいつも明るく振る舞い、優しくてすべての人に好かれました。
帰りたいという一念から北朝鮮で生き抜くために一生懸命頑張っていました。”
蓮池さんは、八重子さんや自分たち日本人がいつも怯えながら暮らしていたことを打ち明けました。
蓮池さんの話
“日本の政治家が北朝鮮に来た時やテロ事件が起きた時には、自分たちの情報が漏れないようにいつも隔離されました。
突然、隔離されるので殺されるのではないかと恐怖を感じました。”
蓮池さんは、その後八重子さんが連れていかれたという場所についても明かしていました。
日本ではその存在さえ知られていない場所でした。
蓮池さんの話
“八重子さんは敵工地と呼ばれるところに行ったと聞きました。”
敵工地とは、敵地工作地の略だと言います。
蓮池さんの話
“敵工地は、偵察や工作活動をする軍の特殊機関の拠点で、韓国人が7割、日本人や白人もいると聞きました。
私たちが関われるようなところではなく、それ以上のことは全くわかりません。”
兄 飯塚繁雄さん
「ここから先は絶対漏らしちゃだめだというような境目があって、まあある意味帰ってこられた方は、この人たちは帰してもいいだろうっていう判断だと思うんですよ。
それを考えると、それと逆になるとこれまたものすごく大変だなっていう気がしますよね。」
八重子さん 新事実
●蓮池さんの証言と北朝鮮側の説明 大きく違う?
はい。
帰国した5人の被害者の話と北朝鮮側の説明が大きく食い違っていることが、改めてわかったんです。
こちらをご覧ください。
田口八重子さんについての北朝鮮側の説明です。
1981年から3年間横田めぐみさんと一緒に暮らした後、84年に拉致被害者の原敕晁さんと結婚し、86年に交通事故で死亡したとしています。
しかし警察庁によりますと、八重子さんは81年から2年間、大韓航空機爆破事件の実行犯、キム・ヒョンヒ元死刑囚に日本語を教えていたことがわかっています。
そして今回の蓮池さんの証言で、84年から2年間、チュンリョン里でめぐみさんと暮らしていたことが明らかになり、原さんと結婚していないことも裏付けられました。
さらに交通事故で死亡したとされる時期も、地村富貴恵さんの証言で否定されています。
(なぜこれだけの食い違いが出るのか?)
家族や政府は、北朝鮮が八重子さんとキム元死刑囚との関わりを隠そうとしているためと見ています。
北朝鮮は大韓航空機爆破事件への関与を一切認めていません。
八重子さんがキム元死刑囚に日本語を教えていた事実を隠すために、北朝鮮はうそを重ねていると飯塚さんは考えています。
●敵地工作地に連れて行かれたと聞いた家族たちの受け止めは?
蓮池薫さんは敵工地について、北朝鮮が敵と位置付けていた韓国などに対する軍部の工作活動の拠点ではないかと話しています。
しかし、それ以上のことは北朝鮮のどこにあったかさえ全くわからないということで、機密に包まれた場所と言えます。
このため飯塚さんは、八重子さんが北朝鮮の機密情報に関わってしまい、帰ってこれないのではないかと考えています。
見方を変えれば、八重子さんは生きている可能性が高まったとして、救出への思いを新たにしているんです。
●他の安否不明者の新しい情報は?
一部の家族も5人から話を聞いているんですが、被害者の安否を始め、北朝鮮での暮らしに関わる情報も、残念ながら新しい情報はほとんどないということです。
拉致問題はこう着状態が続いています。
被害者の家族たちは事態の打開のために全国各地で拉致問題の解決を訴えると共に、被害者の救出や事件の真相の解明のため、今後も帰国した5人に一層の協力を求めていきたいとしています。