Duh

ネット上を跋扈してアカウントやブログに嫌がらせを繰り返している集団を可視化して、誰が見ても日本のネット世界でどんなことが起きていて、どんなふうに議論が阻害されているのかが判るようにしておこうと考えて、2週間を用意したが、結局、一ヶ月半もかかってしまった。

予期せぬことに主にtwitterで知り合った、このブログの記事が好きなのだというひとたちが起ち上がってくれて、デザイナーもいれば、勤め人も、物理学者も、哲学者もいる、共通項がなにもないひとたちが、てんでばらばらに素手の論理で、随分助けてもらってしまった。

いろいろ学んだことがあって、最もおおきなのは「敵が可視化されれば味方も可視化される」ということだった。
味方、というのが剣呑なら、「真の友」と言い直してもいい。

なんのことはない現実の世界とおなじことでネットの上でも、おもいもかけない人が味方に立ってくれて、自分の低い次元の泥沼に相手を引きずり込むことを得意とするトロルたちから伸びてくる手で服を泥まみれにされながら、毅然と、というのはクリシェで冴えない言葉だが、ほかに適当な言葉も見つからない、毅然とした姿で戦って、突き出される言葉の鉾を、前に出て盾で受け止めてくれる。

全員に了解ができていたことはトロルに反撃すれば、不思議な感受性を持つ日本の社会では自分たちが悪く言われることで、日本の文明においては悪と戦うものも悪なのは、常識なのであることを前もってよく知っていた。

うまく行ったほうではないだろうか。

フォロワー数が半分になることを見込んでいたのに200くらいしか減らなかったのには驚いてしまった。
立ち去る人の理由はわからないし、あんまり興味もないが、7000くらいの減少を予想していたのに200というのは、これはこれで考えなければならないことができたと感じます。

トロルと争っているのだと勘違いする人もいたが、読めばわかる、そういうことではなくて、トロルと同種類の人間であるならともかく、トロルというのはこういうものだと顕在化させて自分の目で見て判断してもらおうとみんな考えているだけであるのは、別にお互いに言葉を交わさなくても一目瞭然で、第一、争っているのなら勝敗があるだろうが、英語でもおなじことだけれども、どちらがどんな人間かというのは使っている言葉や表現をみれば、どんな人間にもあきらかで、それがあきらかでない、未分明な社会だとおもっていれば、初めからトロルの可視化なんてやりはしない。

ともかく、duh、な一ヶ月半が終わってみると、自分で考えるときに使える言語のうち日本語はトロルが嘔きかける汚物を浴びて、ばっちいこと夥しくて使いものにならず、現代詩の言葉や、明治の文語を使って悪魔祓いを必要としている。

おなじ日本語を使って生活もこなさなければならない日本語のお友達たちが心配だが、自分自身は、コンピュータから目を離してしまえば、いきなり悪い夢に似る経験で、生活に使っている母語である英語のほうは、おもしろや、トロルが書いた嘘八百、悪口雑言のアホな恫喝と作り話に満ちた、ようやるよ、日本語を熟読している最中でも、例えば一日の最後のおやすみなさいtweetでも、別に影響を受けることはなくて、いまさらながら、年来の主張である、「母語と後天的に習得した言語とのあいだに本質的な差異はない」を疑わせる材料が自分の手で、またひとつ追加されてしまいました。

日本語社会がトロルの跋扈に対して無力なだけで、トロル自体はどんな言語でもたくさんいる。

理由は、わかりません。

一般に信じられている説は、自分の生活がうまくいかなくてネットのなかで自分の支配欲を実現しようとしているのだろう、とか、現実の生活では何の益もない人間なので、せめてネットの世界で「生産的な」人間と演じているのだとか、いろいろな説があるが、どれも、もっともらしいといえば、もっともらしいけれども、嘘くさいといえば嘘くさくて、なにより前に、ネット時代の、ひとつの社会にとっての有効なsabotage(破壊的な活動)としてのトロルには興味があるが、トロル自体に興味があるわけではないので、こういうことは内藤朝雄のような重戦車知性が専門である「いじめ」とつなげて考究するか、各自、集団トロルの前で、裸尻をみせて、ペンペンと叩いてみせて、けけけ、ばあーかをしてもらって、襲ってもらって実体験して研究の対象とするか、他に任せたほうがいいような気がする。

トロルという存在には万国共通の神の手で額に焼印されたような特徴があって、理解力と創造性に著しく欠けている。

創造者として劣っているというような生やさしいものではなくて、創造性がまるきしのゼロであることを通例としている。

例えば、集団で中傷誹謗をしてはいかんではないか、と述べると、まるで木霊のように、しばらくすると「集団で中傷誹謗するな。やっているのは、おまえのほうではないか」と必ず言い出す。

「ウソツキめ」というと「ウソツキめ」と返ってくる。
ヤッホーをしたくなるほどで、おもしろいほどです。

論法も表現も全部借り物で、この手の人は他の言語でも研究者ならば研究者で、論文はたいてい剽窃を巧くつなぎあわせたもので、その結果、まとまりのある長い論文は書けずに、だいたい「共著」や「論文集」のような形でしか本にまとめられない。

まして、さっきも例にあげた内藤朝雄のように、あるいは、今回は起ち上がってしまって自分でも驚いたのではないかとおもうが通称哲人どん、実の名を田村均というが、その人が書いた「自己犠牲について」のように、初めは、ふんふん、教科書みたいなもんだな、わかりやすい、と心に呟きながら読み進めていくと、第八章目くらいから急激に論理が稠密になって、胸突き八丁とはよく言ったもので、ぜいぜい言いながら読んで、しまいには「やっぱり日本語は難しいわ」と日本語のせいにして投げ出したくなる独創的な視点などは、金輪際もてない。

まあ、いま書いていておもったが、だから朝から晩までトロルやってるんだろうけど。

日本の社会には殆ど興味がなくなってしまって、これは日本の社会がダメになったというようなことではなくて、日本の社会や文化は相変わらず他の社会とは、うんとこさ異なっていておもしろいのだけれども、いかんせん本人が、妹の表現によれば「1000年にひとり」「カリギュラ以来」「ネロも顔負け」という飽きっぽさなので、断続的にでもいままで興味が続いていたほうが奇跡なので、日本語よりはわしのほうに理由がある。

それでも日本語だけは、なにしろ美しい情緒を表現するには最高の言葉で、しかも「遠くのものを結びつける」には最適のいっぽうのはしっこなので、飽きることはないだろうとおもっていたが、あきっぽい人間というのは怖ろしいもので、こっちも興味の持続が怪しくなっていた。

なにしろ大好きな「こわいおはなし」、世界で最も程度が高く洗練されているのではないかとおもわれる怪談本が一冊読めなくて、途中からいつのまにかTeju Coleの評論を読んでしまっている自分を発見する。

もうこれは我が内なる言語としての寿命ではないかと考えて、言語ごとなげだそうとおもっていたら、あな不思議、トロルの薄汚い日本語に読み耽っていたら、わが内なる言語としての日本語は若返って、いまちょっとくたびれているが、またなんだかいくらでも書いたり読んだり出来そうな案配になって新しいセルを買わなくても再生バッテリーで十分なハイブリッドカーなみで、言語の鼓動がまた聞こえるようになってきた。

自分では、え?とおもうくらい不思議な現象だが、これも理由はわかりません。
もしかしてトロルさまさまだったりして、とおもうと、なんだか複雑な気持ちでなくもない。

もうひとつ良かったのは、日本語が飽きるのに先だって飽きていた母語の英語が、新鮮に見えだしたことで、先週、ある人(←日本の人です)に言われて、英語でも、おおむかしのバカタレな若者風の日本語をひきうつすつもりで書いてみたら、書けてしまった。

これはびっくりどころか、おおびっくりで、1000の階乗くらいの巨大なびっくりで、もともとは、静謐で平明な冷たい水の透明な小川のような英語をこころがけていたのに、そこのきみ、何を笑っておる、静聴するよーに、ちゃんと英語でも、わっしはぶっくらこいてしまっただよ、が書けてしまった。

おそるべきことであると思います。

言葉よ、言葉、とあらためて思う。

いままでの言語に関する理論も発見も、ほとんどどっかに行っていまいそうだが、そんなものはまた考えなおして構築しなおせばよい。

日本語というもの、あるいは日本語のユーラシアプレートにもぐりこんだ西洋語の太平洋プレートというべきなのか、そこに生みだされるエネルギーはすごいもので、なるほど言語を習得するというのは、こういうことなのね、と思っているところです。

され、ここまで読めばわかるとおり、これはお友達たちへのメモ書きです。

言い換えると、こんなに長々と書かなくても、
「ほんとうに、ありがとう、みんな」と書けば足りることを、長くお礼を述べて感謝を示したい一心で、文章にしているにすぎない。

あのね。
おなじ母語でも、心からの友達ができるというのは、たいへんなことなんです。
まして外国語においておや。
矢面に立って戦ってくれたお友達たちはもちろん、裏のslackやtwitterのダイレクトメールやemailで、ほんとうはtwitterでやっていたかった文学論や哲学論、社会や政治についての議論を続けてくれたお友達たちに感謝します。

日本人は、すごく変わっている人たちだが、今回、神秘的といいたいくらい感動したのは日本人というひとびとの「無条件な友情の厚さ」でした。
西洋人とは、まるで異なる、と言ってしまってもいいとおもう。

まだ日本語人について知らないことがいっぱいある、と心から考えた。
わしは日本人について、なにも知らないのではないだろうか。

人間は、見知らぬ美しいものを目撃する一瞬のために生きている。
日本の人は、不思議なくらい、そういう一瞬を、しかも何度も見せてくれる。

さっき、トロルのひとびとをちょっと覗いたら
「しかし、それでもガメ・オベールは悪人であることは間違いない」と書いている人がいて、ずるっこけてしまった。
まるで科学に敵対することにしたガリレオ・ガリレイみたいな人である。

それでも、わしは人間が親切なので、ちゃんときみにも別れの言葉をあげます。
英語で我慢してね。

はいはい、わたしは悪人でございますともさ。

Duh

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