第15章 リズム、リズム、リズム 2013・5・2記 クラーゲスのリズム論(2) クラーゲスと表現よみ クラーゲスは、著書『リズムの本質』の中で音声表現(音読、朗読、表現 よみ)を主題にしては書いてはいない。しかし、音声表現についてほんのち ょっとした断片的な文章個所はある。以下で、音声表現について書いてある 文章個所、あるいは音声表現に結びつきそうな文章個所を引用します。そし て荒木の簡単なコメントを書いていくことにします。 音群形成の志向性 (B)9ぺより引用 振子時計の音に耳を澄ませていると「タックタックタック」と言い表され るような音が聞こえるのではなく、間違いなく「チックタック」という語で 表わされるような音を聞く。さてしかし振子が反転する個所で実際に二つの はっきり異なる音を立てている場合はどうであろうか。そのときでもなお何 かが聞き取られる。つまりわれわれがいまチックタックチックとタックチッ クタックあるいは古代韻律学の用語を用いれば長短長格(アムピマクロス) と短長短格(アムピブラキュス)とが規則正しく交代しているのが聞こえる と思い込むことを妨げるものは何一つないはずなのである。しかしそうはな らずにチックタックと聞くので、そのことから次のことが分かる。つまり、 聞こえるものを拍子で区切ったり拍子に合わせて「朗誦したり」するように 促す力や威力がわれわれ自身の内部にあって、それが可能なかぎり単純な音 群形成を志向しているということである。 【荒木のコメント】 振子時計の音に耳を澄ませていると「タックタックタック」とは聞こえて こない。「チックタック」という二音ごとまとまりの連続で聞こえてくる。 「タックタック」ではなく、「チックタック」の二音交代で聞きこえてくる、 と語っている。 この事実から分かることは、人間の内部に、そのような拍子で区切ったり 拍子に合わせて音読・朗読をさせる力(威力・動機づけ)があるからだ、で きるだけ単純な音群形成を求めている働きがあるからだ、とクラーゲスは語 っている。つづく段落で人間精神への同化(内面化)は、感知形象を加工変 形する(区分する、区切る)作業である、とも語っている。 「チック、タック」と言えば、荒木が40代の教師時代に小学校1年生の 国語教材に物語文「チックとタック」(千葉省三)という教材文があった。 光村版国語教科書1年下に昭和40年から昭和60年まで21年間の長きに わたって掲載された物語文である。1年生を何度か担任したときに授業した 楽しい思い出が残っている作品である。 おじさんの うちの ボンボンどけいの 中には 子どもが ふたり、す んで いるんですよ。うそな もんですか。このおじさん、ゆうべ ちゃん と 見たんだから。 おじさんは、名まえまで しって いるんです。ひとりは チック。ひと りは タック。 チックと タック。チック、タック、チック、タック。そうらね、ちゃん と とけいの 音に なんじゃ ありませんか。 その うちに チックと タックは、するすると はしらを すべって、 たたみに 上に ストンと おりて きました。 「なにを して あそぼうか。ねえ、タック。」 「かけっこしようか。かくれんぼしようか。」 以上が冒頭文章である。チックとタックは、時計の中に住んでいる二人の 子ども(小人?)。二人が夜中にこっそりと時計から抜け出して、いたずら を始める。ここから物語がスタートする。 昔の思い出話はこれぐらいで止めて、クラーゲスは、振子時計の音に耳を 澄ませていると「タックタック/タックタック」でなく「チックタック/チッ クタック」と聞こえてくる、と語っている。「チックタック」の二交代で拍 子づけて聞かしめる、そういう動機づけの力(威力)が人間内部にある。単 純な音群形成を求める働きがある、と語っている。感知形象(直観像)を分 割する行為、可能なかぎり単純な音群形成を志向している力・威力、こうし た境界設定をする行為は精神の活動である、と語っている。 ここからは、クラーゲスと直接には関係ない話になるが、文章を音声表現 するとき、一文の数個所で分節して、境界を設定して読むのが通常の姿であ る。これを音声表現では「区切り」とか「ピース分け」とか、ややニュアン スが違うが「間をあける、間をとる」と言う。上記冒頭文章に四種類の区切 り方を書き入れてみよう。 (1) おじさんの/うちの/ボンボンどけいの/中には/子どもが/ふたり/すんで/ いるんですよ/うそな/もんですか/このおじさん/ゆうべ/ちゃんと/見たん だから/ (2) おじさんのうちの/ボンボンどけいの中には/子どもがふたり/すんでいる んですよ/うそなもんですか/このおじさん/ゆうべ/ちゃんと見たんだから / (3) おじさんのうちのボンボンどけいの中には/子どもがふたりすんでいるん ですよ/うそなもんですか/このおじさん/ゆうべちゃんと見たんだから/ (4) おじさんのうちのボンボンどけいの中には子どもがふたりすんでいるんで すよ/うそなもんですか/このおじさんゆうべちゃんと見たんだから/ これ以外にもいろいろあるでしょう。だが、「おじ/さんのう/ちの/ボン ボ/ンど/けいの中に/は」のような区切り方は絶対に許されない。区切りの 役割は、文章の意味内容をはっきりと伝えることから必要であり、また呼吸 のリズムを整える(呼気と吸気とを適切な間隔にして十分な肺気量で能率的 に呼気を使って読み上げるため)ことからも適切な個所での区切りは絶対に 必要である。 (1)は一文節ごとに区切っている。(2)と(3)は連文節の区切りで あり、しだいに大きな連文節になっている。(4)は、文ごとによる区切り である。通常の音声表現では、区切り方は(1)を根底におきながら、 (2)と(3)の区切り方があらわれとして多くなるでしょうし、読み手に よって、文章内容の抑揚・メリハリの付け方、強調の仕方や緩急変化や上げ 下げ変化などの付け方の違いが出てきて多様な音声表現になる。ある個所を、 強めたり弱めたり、伸ばしたり縮めたり、上げたり下げたり、区切りの間を 長く取ったり短く取ったり全く取らなかったり、読み手によっていろいろな 音声表現の仕方が出てくるでしょう。クラーゲス流に言えば、これらは、拍 子とリズムとの融合・共応・協働によるメリハリづけの読み手個人の違い、 その現れと言うことができる。クラーゲスは「拍子で区切ったり拍子に合わ せて「朗誦したり」するように促す力や威力がわれわれ自身の内部にあって、 それが可能なかぎり単純な音群形成を志向している」と書いていることは、 これらのことを言っていると読みとってよい。 荒木に言わせれば、「単純な音群形成を促す力や威力」とは、音声表現に おいては「文意を押し出すリズムの力動的な波形」であると思う。拍子の区 切りと力動的なリズムとの相乗効果(クラーゲスのいう融合・共応・協働) による表れということができる。もちろん、読み手内部の情感を揺さぶる深 い感動による生命の脈動・拍動・鼓動のリズムが文意の区切り(単語・文 節・連文節・文という拍子)を支配していることは言うまでもない。これら ダイナミズムが総体的なメリハリづけを増殖させて音声表現を形成すること になっている。 リズムは身体生命を活性化させる。クラーゲスは、「韻律や拍子をあえて 作り出そうとする恣意によってでなく、感動によってだけ、リズムをつくる ことができる。恣意が弱まって、リズムの脈動にのせられたとき、形成者の 独自の行為がリズムを形成する」と語っている。 「拍子による演奏」と「リズムによる演奏」 (B)55~56ぺより引用 いまや、何によってことさらな慎重さで拍子をつける初心者の機械的演奏 から完成された芸術家のリズム的な演奏が区別されるのかが分かる。後者で は一つにはメロディーの運動があらゆる節目に橋を架け、休止さえ生き生き とした振動で満たすことである。次にまだリズムが妨害されるまでにはなら ないかすかに感じ取れる範囲内で、テンポが絶え間なく動揺することである。 この動揺に対しては決して推移の法則を見い出すことも、もちろんずれの大 きさの法則を見い出すこともできない。まったく同じ特徴は、ダンスがパ レードの行進よりすぐれていること、また本当に心をとらえる詩の朗読がむ しろ滑稽な子供の杓子定規に韻律に従った詩の朗読よりすぐれていることの 根拠を示している。 【荒木のコメント】 分かりやすい例を挙げてみよう。小学校一年生が担任教師のタクトに合わ せてピアニカやハーモニカを演奏する。これと、ベルリン・フィルが小沢征 爾やカラヤンのタクトに合わせて演奏する。どこが違うか。前者は「拍子」 表現による杓子定規な機械的なメロディーの演奏であり、後者は「リズム」 表現による芸術的演奏である、ここが違うとクラーゲスは語っている。また 「本当に心をとらえる詩の朗読がむしろ滑稽な子供の杓子定規に韻律に従っ た詩の朗読よりすぐれている」とも語っている。 クラーゲスはここで「拍子による演奏」と「リズムによる演奏」との違い を語っている。荒木が挙げた例は分かりやすい事例としてあげた。前者では、 教師のタクトまたはカスタネットの拍子に合わせてメロディーが速まったり、 遅れたりしないで最後まで演奏できたら、まずは合格である。学級の中には 上手な子もいれば下手な子もいる。教師のタクトに合わせられない子もいる。 全員が揃って最後まで演奏できれば合格である。後者では、芸術性を高める には若干の拍子の破格も許されることになる。美的芸術性は機械的反復の拍 子を超越した演奏であるからだ。 荒木が注目したのは「休止さえ生き生きとした振動で満たす」と書いてい ることである。両者に休止の演奏に大きな違いがあると書いていることだ。 音楽芸術家の休止の演奏は生き生きした、生気ある振動で満たされていると 書いてある。音楽の「休止・休符」のことを、音声表現(音読・朗読・表現 よみ)では「間」と言うが、ここでも生き生きした、生気ある振動で満たさ れることが求められている。間の表現は、芸術表現のすべてに言えることで ある。落語、講談、漫談、浪曲、歌舞伎、ダンス、バレエ、舞踊、舞踏など 芸術表現すべてにおいて、間は魔物、生かすも殺すも間しだい、と言われて 重要視されている。 音声表現では、間とは単なる休止・休憩、休みではない。機械的な時間の 流れの単なる隙間ではない。間は、最も過激な、饒舌な表現をしていると言 われる。子どもたちの音読を聞いていると、子どもは上手な読み方とはつっ かえないで、とちらないで、すらすらと読むことだと考えている。だから早 口読みやすらすら読みになりやすい。また、読み間違えないで読むのが上手 な方という考えもあり、すらすら速読みになりやすい。間をたっぷりと開け て読みなさいと指示すると、間があり過ぎる読み方、ぶつぎり読み、間のび した読み方になりやすい。平板なずらずら読みに間を機械的に開けるので、 間の抜けた読み方になりやすい。音読・語り・踊り・浪曲などの音声表現に おいては間のとりかたは、とっても難しい。リズムと共応し、観客を魅了す る間の取り方が上手にできたら、一人前の芸術表現者と言えるだろう。 一年生のピアニカやハーモニカの演奏は間違えないで、つっかえないで、 やっと拍子にだけは合わせられる演奏である。一年生とは限らず、中学生や 高校生でも初期練習では、ややもするとのんべんだらりと間のびした一本調 子の演奏になるのが通常だろう。間のない音読・朗読は、平板なのんべんだ らり、ずらずらした一本調子、呼吸の仕方がせかせかして、ただ文字を声に しているだけという死んだ読み方になりやすい。クラーゲス流にいえば、こ れら演奏や朗読の表現には、拍子はかろうじてあるが、リズム・心情が全く ない、と言うことになる。 拍子とリズムとの協働 (B)15ぺより引用 もしリズムが拍子と同じものであったなら、リズムの完全性という点で、 メトロノームに従ってまったく正確に演奏している初心者がメトロノームど おりには正確には決して演奏しない名手を凌駕し、詩を杓子定規に韻律に従 って読む子供が決してそのようにはしない朗読家を凌駕し、分列行進がこの 上なく愛らしいメヌエットを凌駕することになってしまうであろう。そして 結局はリズム的完全性に達すると人間のあらゆるリズム的作業は何であれ作 動中の機械と同じものになってしまう。振子時計のチックタック、蒸気ピス トンのシュッポシュッポ、発動機のあげるポンポンという音の交代と比較す れば、舞踏や歌は下位階段のリズム的現象であると解されることになってし まう。こんなことを認める人は一人もいないであろう。すぐさま、楽曲のメ トロノームに正確に従う演奏、杓子定規に韻律に従って朗読される詩、分列 行進、その他類似のものに喩えて言えば、心情をもたない死んだものとして 体験し、そのような作業を「機械的」と呼ぶのがふつうであることに注目し よう。そうすると次のように表現できるであろう。もっとも完全な規則的現 象は機械であり、機械的運動はリズムを抹殺する、と。 【荒木のコメント】 クラーゲスは、リズムと拍子との違いについていろいろな事例を挙げて説 明している。もしも、リズムと拍子が同じものであったとしたらという仮定 で説明する。メトロノームの拍子の指示どおりにきっちりと杓子定規に演奏 した初心者は、メトロノームどおりに演奏しないプロ演奏家の演奏と比べた ら、初心者の方が優れた演奏と評価されることになる、とクラーゲスは書く。 この例でクラーゲスは、メトロノームが刻む拍子は規則的交代が完璧になっ たもので、機械的完璧さは逆にリズムとしての生気を失わせてしまう、と書 いている。 同じ理屈で、定型詩の韻律(例、575・575・575)どおりに機械 的に区切ってずらずら朗読した子どもは、韻律どおりに朗読しないプロ朗読 家より優れた朗読と評価されることになる、と書いている。能面のように無 表情で一糸乱れず整然とした軍隊や運動部学生の分列行進の方が、優美で愛 らしいメヌエットのバレエの舞踏よりも優れていると評価されることになる、 と書いている。これら優れていると評価された表現は、生気なく死んだモノ であり、魂や心情なきモノである。これら上位評価の運動表現は、作動中の 機械と同じであり、機械的な運動はリズムを抹殺するのだ、とクラーゲスは 語っている。 これら荒木が書いた分かりやすい説明から、クラーゲスの、次のような言 葉はよく理解できるだろう。 「持続的交代で規則性において完璧になるとメトロノームが刻む拍子のよう に機械的完璧さゆえにリズムとしては逆に生気を失ってしまう」 「拍子は機械的な同一者の反復である。リズムは類似者の回帰であり、更新 である」 「拍子は意識的な精神作業の所産である。人間の精神作用のみが同一のもの を反復実現させる」 「リズムは、拍子を超えた、生気づけられた分節の持続である」 「リズムは体験的・無意識的な生命現象である。リズム体験は緊張を解い て夢見心地にさせ、ついに寝入らせてしまう」 また、クラーゲスは、次のようにも書いている。 「運動の持続性がリズムとして体験されるためには拍子が加わる。リズムと 拍子は、人間の中で互いに融合しうる」 「あるリズムでさえ拍子をつけることによって場合によってはリズムの作用 「リズムは拍子がまったくなくてももっとも完全な形で現象しうるが、それ に対して拍子はリズムが同時にはたらいていなければ現象できない」 これらリズムと拍子との融合・共応・協働については著書『リズムの本 質』の第五章、第九章に集中して書いている。拍子のあるところにリズムは あるのであり、リズムはテクストに内在しているのである。音声表現(音読、 朗読、表現よみ)においては何らかの融合・共応・協働が働くのである。そ のレベルはいろいろあるであろう。 なお、クラーゲスは、「機械的リズム」と「芸術的リズム」とについて次 のように書いている。 「機械的作業には、拍子づけられた歩みをリズム的な振動で満たすことがで きる唯一のもの、つまり拍動する波打ちが欠けているのである」 「単に傍観者であることを超えて、リズムに心をうばわれるときだけ、私は リズムを体験できる」 「リズムは体験的(無意識的)生命現象である」 「私(形成者)は、あえて拍子や韻律を作り出そうとする恣意によってでは なく、感動によって、リズムを作り出す」 「リズムの中で振動することは、生命の脈動の中で振動することを意味する。 人間にとって精神をして生命の脈動を狭めせしめている抑制から一時的に 解放されることを意味する」 「リズム体験は、情緒の動きによるものでなく、ある種の精神的抑制からの 解放や感動により引き起こされる。」 「生命体に抵抗を与えると、かえって生命力を増進させると同じく、リズム に命に抵抗を与えると、リズムは屈折し、リズム価を高める。精神は生命 に抵抗することで、かえって生命を刺激し、活発ならしめる」 「芸術は生命の発現であって、精神作業である機械の仕事よりもリズム価に おいて優れている」 以上の言葉の断片については、前節「クラーゲスのリズム論(1)」の 中で荒木は集中的に解説してきたつもりである。上述解説と合わせるとよく 理解できるでしょう。 生命概念の拡張 『心情の敵対者としての精神』第五十六章116ぺより もろもろの個体生命の生命リズムは疑いなく互いに異なっており、それも 特に種と属とに従って異なってくる。だがらといって、これらのリズムがそ れにもかかわらず同じ形を示すということの、つまりすべて任意の個体のリ ズムと万象を包み込む宇宙のリズムとのあいだにある連関のために同じ形を 示すことの妨げになるわけではない。人間の睡眠と覚醒の交代や、多くの動 物のそれに対応する交代だけが昼夜の交代と一致するのではなく、人類とか け離れた生をいとなむ植物世界の生命のメロディーもこのリズムに従ってい るのである。(これに関しては第六十四章でいっそう厳密に示そう)。そし て単に植物だけが成長、開花、結実によって四季の輪舞に従っているのでは なく、人間さえも、身長や体重の成長の増大期と停滞期、睡眠の持続と深さ の年内リズム、気分変動の相期性などによってそれに従っている。この季節 的な気分変動の結果、大まかな計算であるがヨーロッパ全民族の頻度統計の 示すところによれば、例えば妊娠と風俗犯罪と自殺とが同じ季節的変動を示 しているのである。爬虫類や両生類の脱皮、鳥の羽替わり、哺乳動物の毛替 わり、渡り鳥の長距離飛行、さまざまな種類のいわゆる冬眠、発情期と妊娠 期と出産期、鮭や鰻や鯡の移動、蜻蛉や蝶の巣立ちの時期、それらのすべて や、その他の数え切れない多くのものが宇宙リズムの中に組み込まれている のが見られる。そして太陽のリズムと月のリズムが交叉する。その場合、象 徴的思考の太古の知恵を確証することになるが、月経や妊娠期間などに人間 の男性より女性のより密接な月親縁性が現れている。月親縁性は単により密 接な地球との結びつきと対をなす星辰的結びつきを言っているだけである。 したがってそのような非科学的研究を疑わしいものと見る先入見がしばらく 続いた後に消え去ってみると、古代にも広く広まっており未開民族に同じよ うに見出される植物の成長過程は月齢に依存するとする信仰が幾つかの点で 実証されることは全く考えられないことではない。 (中略) もろもろのリズムの偉大な交響曲に心を通わせ人は、早晩、生命体的生命 の推移と宇宙の推移とを一つのリズム的全体の極性的対立形態と見なさざる をえないと感じるであろう。したがってこのリズム的全体は、超生命的なも のであるにせよ、生きていると言ってよいであろう。ともかく少なくともわ れわれの地球は絶え間ない拍動の影響を強く受けている。 【荒木のコメント】 クラーゲスの生きた時代のドイツの思想潮流は「生の哲学」であった。 「生の哲学」のアウトラインはこうである。 「”生”を世界のいっさいの事物に優先させ根本的なものとみなし、これ をとらえ理解するには合理的な知的認識では不可能だとして科学に背を向け、 非合理な直観や心情的体験によらねばならにと説く。ここに明らかにされる 〝生”とは活動的、不断の躍動、多様な姿を取って表れる年人間の生もこれ によって真に具体的、全的なものになると主張される。」(「哲学辞典」青 木書店)より 「「ここでは“生”ないし“体験”が標語とされ、固定した存在に対する 生成と躍動、硬直した形式に対する内的充溢、外面性に対する内的直接性、 技巧に対する真実、抑圧と強制に対する自発性、画一性に対する個性、理性 や知性に対する感情・直観・体験、などが主張される」(「岩波哲学思想事 典」)より 「生の哲学」に解説はこれぐらいで止める。以上のクラーゲスの引用文は、 クラーゲスの主著『心情の敵対者としての精神』第五十六章1116ぺにある文 章である。この引用個所は、(B)『リズムの本質について』の付録からの 引用である。 前節「クラーゲスのリズム論(1)」の第六章「反復と更新」の中で、荒 木のコメントで、<クラーゲスは「昼と夜、潮の満ち干、月の満ち欠け、四 季交代」などにもリズムがあると書いている。「荒木のコメント」で<「こ れはクラーゲスの独特なリズム観であり、わたしたちの常識的なリズム観と は違っている。わたしたちは、昼と夜、潮の満ち干、月の満ち欠け、四季交 代などに生命があるとは通常は考えない。」>と書いた。 上記した引用個所にも、<人間の睡眠と覚醒の交代、昼夜の交代、植物の 成長、開花、結実が四季の輪舞に従う、妊娠と風俗犯罪と自殺とが同じ季節 的変動を示す、爬虫類や両生類の脱皮、鳥の羽替わり、哺乳動物の毛替わり、 渡り鳥の長距離飛行、さまざまな種類のいわゆる冬眠、発情期と妊娠期と出 産期、鮭や鰻や鯡の移動、蜻蛉や蝶の巣立ちの時期なづはすべて、宇宙リズ ムの中に組み込まれているのが見られる。そして太陽のリズムと月のリズム に従っている、>と、いろいろなリズム例を列挙している。 つまりクラーゲスは、古典的なロゴス中心の的客観主義に反旗を翻して、 機械的な反復の拍子とは一線を画した、宇宙リズムにすべてが組み込まれて いる波動を「生命」と呼び、「リズム」と呼んでいるのだ。クラーゲスの言 う「生命」とは、「動植物の生命・いのち」だけでなく、ずっとずっと広い 意味、宇宙リズムに従うすべてのものを「生命」と言っているのだと理解で きる。リズムの本質はここにあるのだと主張しているのだと思う。 これらについて具体的に分かりやすく書いているのが、下記の「三木成夫 のリズム論」である。下記の文章を読むとクラーゲスのリズムについて明解 に理解できるでしょう。 三木成夫のリズム論 クラーゲスの影響を強く受けた日本の解剖学者がいる。三木成夫(みき しげお)である。略歴。1925~1987。香川県丸亀市の産婦人科医の 四男として生まれる。東大医学部卒、東京医科歯科大助教授、東京芸大教授。 解剖学者、発生学者。三木成夫の詳細は、下記ホームぺージを参照のこと。 http://www.geocities.jp/seto_no_shorai/index.html 以下に、三木成夫の著書の中からリズムや拍子に関わる文章個所を読者の ために抜粋して引用する。三木成夫の文章は、クラーゲスと違って、分かり やすい文章なので、らくに読むことができる。荒木のコメントは、だからひ とことだけにする。前節「クラーゲスのリズム論(1)」を読んで、漠然と しか分からなかった事柄が、三木成夫を読むことでよく理解できるようにな るでしょう。、三木氏はクラーゲスと直接に会ったことはなく、クラーゲス をドイツ語で読んで影響を受けたのでしょうが、クラーゲスの世界的な継承 発展者(高弟)ということができるでしょう。 三木成夫『胎児の世界』(1983、中公新書)より引用、185~186ぺ ギリシャの哲人ヘラクレイトスは「万物流転」といった。森羅万象はリズ ムをもつの謂である。ドイツのルードヴィッヒ・クラーゲスは、このリズム を水波に譬え、その波形のなめらかな“更新”の中に、機械運動の“反復” とは一線を画したリズムの本質を見い出し、やがてそこから「分節性」と 「双極性」の二大性格を導き出すのである。 「分節性」とは、波の連なりが、たとえば山頂か谷底、あるいは上り下り の途中にある湾曲点など、同じ位相点に順番にほどこされた“節”の列によ って、観念的に分割されることをいったものである。音楽を聞くとき、ほと んど無意識に拍子をとる。布を織るとき、それぞれの好みでカスリを入れた りする。そうした「分節」の行為をうながすものが、音楽の流れの中に、あ るいは機織りの手仕事のなかに、秘めやかに波打ちつづけているのであろう。 それは、流れというもののもつ「分節可能性」で、これあって初めてわたし たち人間は、そのような位相交代の地点に“節をつける”、いいかえれば “タクトを揮う”ことができるのであろう。 クラーゲスは、この分節を人間独自のものと見なし、この“拍子づけ”が 隠されたリズムを顕わにし、また衰えたリズムをよみがえらせることを、繰 り返し指摘する。 「双極性」は、この波の連なりの中に、山と谷あるいは上り下りといった、 量的ではなく質的に向かい合うものが分極していることをいったものである。 これらは「双極的に連関する」と呼ばれる。振子時計の一方の音を「チク」 と聞けば、他方をタクと聞き、また左近に”桜”を配せば、右近に“橘”を もってくる、などなど、およそ「対」のものとして分けずにいられない、そ ういったものが、時間の世界にも空間の世界にも充満しているのであろう。 「分節可能性」に対してそれは「分極可能性」とでもいえようか。私たちが 日常生活の中で、さまざまの対比を見てとり、とりどりの“とりあわせ”を 楽しむのは、その生活がリズムの世界と密着していることを物語るものであ ろう。真の理性とは、こうした基盤の上で発揮されるものでないかとわたく しは思う。 【荒木のコメント】 三木成夫氏は、ここで「クラーゲスのリズム論(1)」の中のあちこちに 散りばめられていたキーワードを使用して語っている。リズム、水波、山頂 と谷底、上り下り、波打ち、更新、反復、双極性、分節など。これらのキー ワードについて荒木は「クラーゲスのリズム論(1)」でできる限り取り上 げて説明したつもりである。上で三木氏は分かりやすい言葉表現で具体例を 挙げ、クラーゲスよりずっと分かりやすく、クラーゲスの思想を語っている。 三木成夫『胎児の世界』(1983、中公新書)より引用、187~188ぺ 江戸の俳人宝井其角は、交尾を終えたカマキリの雄が、そのまま雌にかじ られていく光景に、稔りを終えた草が葉を枯らせていく光景をダブらせて、 「蟷螂の尋常に死ぬ枯野かな」の句を詠んでいる。 食から性への位相転換は、動物には親の死を、植物には葉の枯れをそれぞ れもたらす。そこでは、だから、蟷螂の死が、あたかも枯れるがごとき尋常 の姿として映し出される。ただ位相が変わったそれだけだ。しかもこれが、 四季の流れに沿った永遠回帰の一コマとして描きだされる。「いのちの波」 の本質がこれほど端的に示した世界はあまりないだろう。 【荒木のコメント】 三木もクラーゲスも、「生命・いのち」をこのように考える。生命は消滅 しない。類似現象として永遠に更新・回帰すると。動物も植物の生死も、そ こに宇宙リズムが隠れていると。四季の反復はニーチェの永劫回帰の一コマ であると。ただしクラーゲスは、自分のはニーチェの永劫回帰とは違うと書 いている。ニーチェのは「同一物が無限に繰り返される」ことであり、自分 のは「無限のものが更新される」ことであると書いている。詳細は、(B) 付録131ぺにあるクラーゲスの主著『心情の敵対者としての精神』からの 引用集録文を参照のこと。 三木成夫『胎児の世界』(1983、中公新書)より引用、189~190ぺ 生物リズムと四大リズムを並べてみると、そこには、これらを緩急さまざ まに結びつける、ある不可思議な糸の存在を思わずにはいられない。どんな 動物の食と性の営みも、年・月・日のいずれかのリズムと厳密に結びつくの である。農作物の“種まき”から“収穫”までの一生に附された「節}が十 干十二支となっていることは、それぞれの文字の象形がこれを証す。一方、 立春から大寒まで、古来、一年の暦は二十四節気に丹念に区切られる。この 二群のリズムが切っても切れぬ間柄にあることは周知の事実であろう。 サケが故郷の川へ産卵のためにのぼっていく。雁が南の餌をもとめて大空 を渡っていく。これらが季節の風物詩として定着していることは、だれも否 定できない。ゴカイの類が海底の食の営みから海面の性の営みへと大挙浮上 するさまを見て、南方の原住民は暦をつくる。それほど生物リズムと四大リ ズムは一致する。動物の世界では、ふつう餌場と産卵場は離れている。とき には地球を東西・南北にひとまたぎする距離が観測される。これらは機動力 をもつ魚鳥の世界のものだが、かれらは、この食の場と性の場を巨大な振子 運動のように、それも地球的な規模で行き来する。この振子と天体の周期が 一致することはいうまでもない。植物の世界にはこの振子運動はない。その かわり、春の到来を告げる開化前線の北上と、秋を彩る紅葉前線の南下が見 られるであろう。この地球のあでやかな衣替えがそのまま自然の周期を告げ る“人文字”の流れとなることは、これまた衆知の事実である。 こうして生物リズムと四大リズムを代表する食と性の波は、四大リズムを 代表する太陽系のもろもろの波に乗って無理なく流れ、そこにいわゆる生と 無生の違いこそあれ、両者は完全に融け合って、一つの大きなハーモニーを かもしだす。まさに「宇宙交響」の名にふさわしいものであろう。 【荒木のコメント】 生物リズムとは、心臓リズム、呼吸リズム、細胞リズム、睡眠と覚醒リズ ム、季節の活動と休息の波のリズム、種の興亡の波のリズムなどをさしてい る。四大リズムとは、地・水・火・風の世界のことで、水波のリズム、光 波・電波・音波のリズム、昼夜交代のリズム、四季の交代のリズム、地殻変 動リズム、氷河期の繰り返しリズム、天体の自転公転リズムなどをさしてい る。宇宙世界の節・タクトが、動物や植物の世界の節・タクトとなり、タク トとリズムの協働が起こる。生物リズムと四大リズムとの一致(協働、共 応)があることは、まさに宇宙交響曲の大ハーモニーである、と三木は書い ている。 三木成夫『人間生命の誕生』(1966、筑地書館)より引用、114から5ぺ 三木成夫氏と坂本玄子氏の対談の中から一個所を引用する。。 三木 地球上の生物はみな太陽系の周期、もっと大きく言えば、宇宙リズム と歩調を合わせて「休眠と活動」の交代を繰り返しますね。ただ人間 だけが年中無休で動き回って、そこでは冬眠を予定に組んだりする人 はいない(笑)。しかし、考えてみれば、このからだの奥底に、そう した生物発生以来の根強い生理が滲みついていることも否定できませ ん。 手っとり早く言えば、要するにあの「季節感覚」を大切にする、とい うこと。これはこうしたお天とうさまと、めいめいのからだとの個性 的つながりを、しっかり自覚することだ、と私は思うんです。 坂本 そうですね。そういう人間にとって大切なものを小学校教育の中で本 当に素朴な問題として考えること。もういっぺん個々の持っているか らだの感覚を呼び起こしてやるということは必要ですね。 三木 私どもの祖先は、四季の移り変わりの感じを、おのれの肉体でもって、 しみじみと味わっていたのでしょう。あの春夏秋冬の波の変わり目に、 文字どおり「節」をつけて、言いかえればタクトを振るって、そのリ ズム感をいやが上にも昂揚させていたんですね。ただ問題は、こうし たタクトをむやみに入れますと、その時こそ、自然のリズムが破壊さ れる。つまり本当の意味での”落ちこぼれ”が出てくることになるん ですから……。 【荒木のコメント】 三木氏は、子どもの時から「年リズム」にしたがった生活リズムを身につ けることの大切さを語っている。人間には冬眠という「生物発生以来の根強 い生理が滲みついている」と言う。へびや熊は冬眠する季節リズムが身体奥 深くに潜在している、だから夜更かしなどは生活リズムを狂わせる、子ども の夜更かしは止めさせよ、と強調している。節(季節感覚)のリズムにした がった生活をすべきだと語っている。子どもの生活も、宇宙リズム(太陽系 の周期)にしたがえば身体不調にならない。季節の移り変わりに従うべきで、 そこに変な節・節目・タクトを入れると、子どもの身体リズムに不調・破壊 をきたす、落ちこぼれになる、と主張している。 三木成夫『胎児の世界』(1983、中公新書)より引用、190~191ぺ 最初の生命物質は、いまを去る三十億年むかしの海水に生まれたという。 それは、この地球をつくるすべての元素を少しずつもらい受けた一個の球体 であったと考えられる。それは、一つの界面をとおして、周囲から一定の物 質を吸収し、それを素材としてみずからのからだを組み立てる一方、つくっ たものを片っ端からこわして、周囲に戻していく。つまり、吸収と排泄の双 極的な営みによって絶えざる自己更新をおこなう、まことに新奇な存在であ ったという。地球という特殊な「水惑星」の場において初めて現れた、それ は運命的な出来事と思われる。この原始の生命球は、したがって「母なる地 球」から、あたかも餅がちぎられるようにして生まれた、いわば「地球の子 ども」ということができる。この極微の「生きた惑星」は、だから引力だけ で繋がる天体惑星とはおのずから異なる。それは「界面」という名の胎盤を とおしての母胎すなわち原始の海と生命的に繋がる、まさに「星の胎児」と 呼ばれるにふさわしいものとなるであろう。 この生きた小さな星たちは、こうして「母なる地球」と手を携えて太陽系 の軌道に組み込まれ、「兄弟の月」そして「叔父・叔母の惑星たち」と厳密 な交流をおこなう一方、「祖母の太陽」を介して、さらに広大な銀河系の一 員として、そこに交錯する幾重もの螺旋軌道に乗っかることとなる。この銀 河系も、もう一つの大きな星雲の渦にとりこまれる……。そうして際限なく ひろがっていく。その星雲の果てに、無辺の虚空のなかを宇宙球の最後の渦 がゆるやかにまわりつづけるのだという。 最近の調査によると、生命に起源は、ある惑星間の空域からほうき星のし っぽに乗ってもたらされたともいわれるが、もしそうだとすれば、わたした ちの故郷は、かなり具体的に文字どおり「星のかなた」ということになるで あろう。 今日、地球上に生息するすべての生きものは、こうして、その出生の遠近 を問わず、ことごとく原初の生命球を介して宇宙と臍の緒で繋がることとな る。したがって、その生の波は、どの一つをとっても、宇宙リズムのどれか と交流する。191~192ぺ 【荒木のコメント】 地球上に生息するすべての生きものには原初の生命球が組み込まれて沈殿 しており、DNAが残っており、広大な銀河系の一員として、太陽や地球の リズムに影響を受けながら、それらと交流しながら日常生活を送っているの だ、と語っている。「私たちのからだは、常に過去を引きずって今日にいた っている。言いかえれば、からだの中には過去のおもかげが、一種の年輪構 造として深くきざまれているのである」と。地球に生命が誕生してから三十 億年になろうとしているが、あの海の時代の生命の「生命記憶」が現代人の 細胞原形質に沈殿している、浸み込んでいる、それはからだが一番よく知っ ている、と語っている。ここの後半「 」内文章・三木成夫『人間生命の誕 生』(1966、筑地書館)132~3ぺより引用。 三木成夫『人間生命の誕生』(1966、筑地書館)より引用、89ぺ 私たち人間のからだには無数のリズムがあります。そのリズムというもの には二つの性質があります。その一つは周囲の環境の変化によって変わると いう性質です。もう一つは周囲の環境と関係なく、宇宙リズム、早くいえば 太陽系の持っている大きなリズムに関わっているものです。地球が一日かか って一回転しながら太陽の周りを一年かかってまわります。その地球の周り をひと月かかって月がまわります。つまり年・月・日という大きなリズムが あります。われわれのからだの営みは日常の身の回りの出来事と関係なく、 そうした年月日の大きなリズムによって操られるわけです。どんなリズムに も、以上のような身近なものによって影響される側面と、もう一つの身近な ものとは無関係に宇宙の遠いかなたと共振する側面のこの二つがあります。 その身近なものに左右されるものと申しますと、例えば心臓などもびっく りするとどきどきする。呼吸も荒くなる。睡眠のリズムでも心配事があると 眠気がこなくて一晩まんじりしないことがあります。また、婦人の月のもの でも生活環境が変わると、すぐに影響を受ける。例えば学生の健康相談を受 けていますと、東京に出て来た途端になくなったなど申しまして、われわれ の肉体というものには周囲の環境に左右されやすいそのような側面がありま す。 【荒木のコメント】 人間のからだには無数のリズムがある。そのリズムには大きく二つあり、 一つは周囲の環境の変化によって変わるという性質、もう一つは、宇宙リズ ム(太陽系のリズム)によって操られる性質、と語っている。 三木成夫『人間生命の誕生』(1966、筑地書館)より引用、90~91ぺ 宇宙リズムがどれ程われわれの生理に大きな影響を与えるかということは 皆さん方十分にご存じかと思います。われわれは太陽が昇ると目が覚める。 太陽が沈むと眠りに入る。鳥類などは非常にそのリズムがはっきりしており ます。また、子どもなどは夜ご飯を食べながら船をこいでいる。これは太陽 を基準にして地球が一回転する、いわゆる日リズムに一致した目覚めと眠り のリズムです。ところが夜が来れば段々元気がよくなって、十二時近くまで 起きていてなかなか寝ない子どもが最近よく見受けられます。そのような子 どもは朝は保育園に母親が連れていっても昼ごろまで寝ている。それが小学 校になりますと朝起きても食事しない。しまいには学校に行かなくなる。こ ういう位相のズレたのが大学生の中にたくさんおります。これは不殺生とか 不道徳と世間では単純に割り切っていますが、医学や生物学をやっておりま すと、こうした精神的な問題だけで片付くものでないことが次第にわかって まいります。 【荒木のコメント】 人間の目覚めと眠りのリズムは 宇宙リズムと共応・協働しているのが正 常な姿である、と語っている。夜更かし、朝寝坊は、宇宙リズムとうまく共 応してないことからきている、と。つづく文章では、満潮と干潮のリズムが、 鰓呼吸・肺呼吸などにおいて心臓の拍動と呼吸の周期に連動しており、それ が人間の呼吸リズムのルーツであるとも語っている。 人間の生命リズムは、地球生命の故郷である大海原のうねり、潮汐リズム と深いきずなで結ばれている、と語る。「三十億年の昔、原始の海面に小さ な生命のタマができたときもうその中には、地球を構成するすべての元素が 入っていた」三木成夫『内臓のはたらきと子どものころ』(1982、筑地書 館)79ぺと書いている。 「潮の干潮リズム」が、生命誕生以来三十億年になろうとする、あの海の 時代の“生命記憶”が、細胞原形質にしみついている。それはからだがいち ばんよく知っている。私たちのからだは、常に過去を引きずって今日に至っ ている。からだの中には過去のおもかげが、一種の年輪構造として深くきざ み込まれている」133ぺと書く。人間生命が海から陸へあがった、そのとき の「生命記憶」が「年輪構造」として「細胞原形質」に、身体下層にかすか に埋めこまれている、ということである。 三木成夫『人間生命の誕生』(1966、筑地書館)より、125~126ぺ 夜型人間、日リズムの失調、この社会で生活する以上、夜型は少しでも昼 型に切替え、休眠期間をなんとかしてやりすごす方法を考えることです。 人間の特長は、リズム(調子)に対して、タクト(拍子)をふるう能力を 持っていることだと言われます。拍子を付けたり、拍子を抜いたり、要する に拍子を加減することができるのです。この能力を利用して、目覚め山を前 へ持ってきたり、ダラダラの波を回復させたりするのです。 昔の人びとが子どもにしつけたもの、あるいはこの社会ですでに習慣とな っているものを、いま、ここでふり返ってみますと、そこには、この夜行と 冬眠に対応する、まことに血のにじむような苦心の跡が、まざまざとうかが われるような気がするではありませんか。その一つ一つは、ここで列挙する までもないでしょう。 ただこの際、くれぐれも注意しなければならないのは、この拍子の加減が ワンパターンであってはならないということです。あくまでも、その人その 人の波形が、まず確実に把握された上での”手加減”でなければならないの です。ホンのちょっとしたズレから頑固な昼夜の逆転まで、あるいは四十八 時間リズムから冬眠の無律状態まで、これら不調の波形はまことに色とりど りで、けっして留まることなく、進行か回復へ向けて刻一刻と変化していく。 私どもはこのような、まさに生きた波形をまず冷静に、いわば”道徳感情” を抜きにして観察し、その上で初めて、この拍子の加減をなすべきもの、と 思うのです。 シンフォニーの頂点に加えられたシンバルの一撃は、その打ちおろし点の 微妙な差によって、演奏を生かしも殺しもします。それは人体デッサンのツ ボに付せられるホンのわずかのアクセントについてもいえることでしょう。 『愛の鞭』とは、まさにこのことをいったものではないでしょうか。 【荒木のコメント】 クラーゲスは、第五章と第九章でリズムと拍子との融合・共応・協働につ いて書いていた。ここで三木成夫は、宇宙リズムに人間リズムを合致させる ことの大切さ、人間はリズムにタクトを共応させる能力があること、「拍子 を付けたり、拍子を抜いたり、要するに拍子を加減すること」が人間の身体 不調に重要だと語っている。さらに言えば、宇宙リズムに合致させることが 人間本来の姿だと語っている。 当初の問題意識に戻って いつまでもクラーゲスに関わっいることはできない。そろそろまとめなけ ればならない。第16章「リズム、リズム、リズム」の当初の問題意識に戻 ってまとめよう。当初の問題意識については、前節「リズムとは何か」で述 べておいたので、ここに再度、書くには及ばない。が、本稿まとめ全体を牽 引している問題意識でもあるので、再度、くどいが書くことにする。再び荒 木の言葉で同じことを書くのは野暮である。これについて(A)の翻訳者・ 杉浦氏が巻末の解説で簡明にまとめている文章があるので、それを下記に引 用することで代える。 (A)131ぺから引用。 「リズム」Rhythmus の語が使われている領域はきわめて多方面にわたり、 それだけにこの概念の理解のされかたも一様でない。星辰の運行や四季の変 遷のリズム、波の運動や植物の生長のリズム、動物の身体運動のリズム、生 理のリズム、生活のリズム、音楽のリズム、色彩・紋様のリズム、線のリズ ム、詩のリズム、……しごく便利な言葉だけに不用意に、気軽に使われてい る。学問分野でもしばしば口にされるけれども、学問用語としてまだ定着し ていない。いずれにせよ、周期的反復運動(または現象)としてリズムは理 解されているようである。ところが、おなじ周期的反復運動(現象)を表す 語として一般に使われているものに「拍子」Takt がある。はたして「リズ ム」と「拍子」はおなじものなのか。事実はひとつであって、たんに言葉の 相違にすぎないものなのか──周期的反復運動(現象)と一口に言っても、 すこしふり返って省察してみると、そこには根源を異にする顕著な現象が見 出されるのである。たとえば、機械の仕事におけるような数学的な正確な意 識的人為的反復運動と、鳥の飛翔におけるような変化に富んだ無意識的自然 的反復運動のあいだには、根源的に区別されるべき本質的相違がある。もし 事実相違があるならば、学問の対象として取り扱う場合にはことさら、それ に対して別々の言葉を与えるのが道理である。クラーゲスは意識的人為的反 復運動を「拍子」と名づけ、無意識的自然的反復運動を「リズム」と呼んだ。 上記と荒木の問題意識「音声表現(音読・朗読・表現よみ)におけるリズ ムとは何か」とを連結させればよいわけだ。 「拍子」の辞書解説 「リズムとは何か」。「リズム」と「拍子」との違いはどこにあるか。日 本語では「リズム」と「拍子」とは混同して使われており、その相違が判然 としていない現状にある。クラーゲスのリズム論では「リズム」と「拍子」 とを明確に区別して論じている。学ぶべきことが多い。 日本語では、通常、「拍子」はどう使われているか。先に「リズム」につ いて六冊の国語辞書から、その辞書的意義について整理して書いた。ここで は、「拍子」について国語辞書にはどう書かれているかを紹介したい。六冊 の国語辞書で「拍子」項目を調べてみた。 『クラうン学習国語百科辞典』(三省堂、2004) ①音楽で、音の強いところと弱いところが規則正しくくり返されること。 ②音楽で、節を助ける調子。例、手拍子。 ③はずみ、とたん。例、すべった拍子に足をねじった。 『例解新国語辞典』(第四版、三省堂) ①音楽や舞踊に合わせて、手を打ったり、かけ声をかけたりすること。 (句例)──をとる。(語例)手拍子。足拍子。 ②[音楽]リズムの単位になる、強い音と弱い音との組み合わせ。 (語例)三拍子。 ③(「……の拍子に」の形で、全体で)……をしたそのはずみに。 (文例)ころんだ──に忘れてしまった。 『大辞林』第三版(三省堂) [打ち鳴らす物・音・事の意] ①音楽(主に西洋音楽)で、一小節内の拍数を表す単位。例えば、行進曲は 二拍子、ワルツは三拍子など。 ②音楽(主に日本音楽)で、拍節を明確にするために打ち鳴らされる音。ま た、その楽器。手拍子、足拍子などはこの義による造語。 ③日本音楽で、拍節法またはリズム型。雅楽の早ハヤ拍子、延ノベ拍子、只 タダ拍子など。 ④雅楽・近世邦楽で、楽曲・楽章などの長さを表す単位。 ⑤拍に同じ。 ⑥物事の調子・具合・勢いなど。「オールの──が乱れる」 ⑦音楽や踊りに合わせて、手を打ったり声をかけたりして調子をとること。 ⑧(「……した──に」の形で)ある動作をしたちょうどその時。そのはず み。とたん。「転んだ──に靴がぬげる」 ⑨俳諧で、支考が唱えた付合方法論。「七名八体」の七名の一。 『国語辞典』(第一版、集英社) ①[音]楽曲のリズムのもとになる、強弱の音の周期的な組み合わせ「4拍子 の曲」 ②手を打ったりして、音楽や踊りなどの調子をとること。「調子をとる」 ③[芸」能楽などで用いる楽器。笛・太鼓・大鼓・小鼓を四拍子という。ま たそれを演奏すること。 ④[芸](能楽で)足拍子。「…を踏む」 ⑤[芸]神楽・催馬楽・東遊(あずまあそび)などの雅楽に用いる楽器。錫を 縦に割った形の板で、打ち合わせて拍節をとる。 ⑥(「……した拍子に」の形で)ちょうどその時。はずみ。途端。「走り出 した拍子に足をくじいた」 拍子木──手にもって打ち合わせて鳴らす、二本の直方体の堅い木。 拍子抜け──張り詰めていた気持ちが急に緩んでがっかりすること。気抜け。 拍子舞──歌舞伎舞踊の一つ。長唄を曲とし、演者が唄いながら拍子をとっ て踊る。 『大辞泉』増補新装版(小学館) [1]音楽用語①音楽のリズムを形成する基本単位。一定数の拍の集まりで、 強拍と弱拍との組み合わせからなる。拍の数により、二拍子、三拍子な どという。雅楽では早ハヤ拍子、延ノベ拍子など。②雅楽の笏拍子のこ と。また、その奏者。③雅楽で、ある楽曲中での太鼓の打拍数。④能楽 で、四つの伴奏楽器、笛・太鼓・大鼓・小鼓のこと。⑤能楽・舞踊で、 足拍子のこと。 [2]何かが行われたちょうどそのとき。とたん。「立ち上がった──に頭 をぶつける」─── [3]物事の進む勢い。調子。「──に乗る」「とんとん──」 [4]連句の付合手法の一つ。七名八体。 拍子木──堅い木で、打ち合わせて鳴らす。 拍子記号──楽曲の拍子を示す記号。四分の三拍子など。 拍子抜け──張り合いがなくなること。 拍子盤──能、長唄などで、太鼓・大鼓・小鼓の代わりに用いる木製の長方 形の台。 拍子舞──歌舞伎で演者が拍子に合わせ舞うこと。 拍子幕──歌舞伎で幕切れの拍子木の打ち方の一つ。 拍子物──その時のはずみで成否が決まること。 拍子を取る──音楽・歌舞などの調子に合わせて、掛け声をかけたり、手を 打ったりすること。 『広辞苑』第六版(岩波書店) ①[音](ア)西洋音楽で、一定の数の拍がひとまとまりになって周期的に反 復され、リズムの基礎をなすもの。拍の数により二拍子、三拍子などとい う。(イ)日本音楽で、雅楽の延ノベ拍子・早ハヤ拍子、能の八拍子ヤツ ビョウシなど、種目独自の名があり、多くの場合、拍子とリズムを意味す るため、(ア)より広義に用いられる。間拍子マビョウシ(ウ)雅楽で楽 句を数える 単位となる太鼓の強打音を指す。(エ)能などで、伴奏楽器 を指す。(オ)催馬楽サイバラなどで用いる笏拍子および、それを打つ人。 (カ)手拍子、足拍子の略。「──をとる」「──を踏む」 ②ぐあい。調子。浄、堀川波鼓「ええ、──に乗ったる先を折る」 ③(多く助詞ニを伴って)ちょうどその時。はずみ。とたん。柳樽拾遺ニ 「雷の落ちる──に後家も落ち」。「ころんだ──に」 [拍子扇]扇で語物カタリモノや歌唱の拍子をとること。扇拍子。 [拍子木]ふたつ打ち合わせて鳴らす四角い柱形の木。拍子をとったり、劇 場の幕の開閉や夜回りの警戒などに打ち鳴らしたりするもの。 [拍子利き]リズム感のすぐれた人。リズム楽器に堪能な人。 [拍子記号]楽譜の冒頭につけて、曲の拍子を示す記号。四分の二拍子。四分 の四拍子・しばしばCと略記する。分母は一拍分の単位となる音符の種類。 分子は一小節中の拍数を示す。 [拍子事]偶然の出来事。 [拍子抜け]はりあいの抜けること。「──の感がある」 [拍子盤]能や歌舞伎囃子の稽古や申し合せで、太鼓・大鼓・小鼓の代わりに、 張扇ハリオウギで打って拍子をとる堅木製の長方形の台。張盤ハリバン。 打盤ウチバン。 [拍子舞]歌舞着舞踊で、一曲のうちの一部を、演者自ら歌いながら舞うもの。 [拍子幕]歌舞伎で、拍子木を打つにつれて閉じる幕。また、その時の拍子木 の打ち方。大きく一つ打って、あとは細かく刻んで打つ。 [拍子物]①祭礼の余興などに舞囃子・太鼓などで拍子をとるもの。②その時 のはずみで、良くもなり悪くもなるもの。紅葉、紫「試験は──だともい ふし」 [拍子に掛かる]①拍子すなわち音楽のリズムに乗って物事をする。狂、金津 地蔵「拍子に掛かって申そう」②調子に乗る。鳩翁道話「拍子に掛かって 身の上の難儀話」 「拍子」辞書解説の整理 これら辞書解説文をひとまとめに分類整理してまとめることは難しいが、 あえて強引に我流で整理してみる。 (1)音楽や舞踊に合わせて手をうったり、足を上下させたり、かけ声をか けたりすること。全員で手拍子、足拍子をうつこと。手や足や身体全体 で、拍子をうつ、拍子をとる、拍子を踏むこと。 例 ・小学校で一年生がメロディーに合わせカスタネットをうって拍子をとる。 ・宴会で演者の演芸発表(歌、踊り)に参列者全員が手拍子をうったり、か け声をかけたりして会を盛り上げる。 ・バレーボール試合の応援で観客たちが一斉に声を合わせて「ニッポンチャ チャチャ」など、かけ声をかけたり手をうったりして声援を送る。 (2)西洋音楽で、一定の拍の集まり、強拍と弱拍との組み合わせのこと。 拍の数により二拍子、三拍子、四拍子などがある。 例 ・行進曲は二拍子、ワルツは三拍子である。「かごめかごめ」は、4分の2 拍子の曲で、一小節の中に4分音符が2個入っている長さの曲だ。 (3)日本音楽で、雅楽の延ノベ拍子・早ハヤ拍子、能の八拍子などのこと。 雅楽で太鼓の強打音のこと。能楽で伴奏楽器のこと。催馬楽で用いる笏拍 子および、それを打つ人のこと。 (4)物事の進む調子・具合・勢いのこと。 例 ・仕事がとんとん拍子に進んでいる。 ・オールの拍子が乱れて、結果、負けてしまった。 (5)「……の拍子に」の形で、「……したはずみに、ちょうどそのとき、 そのとたん」の用例で使われる。 例 ・立ち上がった拍子に頭をぶつけた。 ・転んだ拍子に運悪く右足首の骨にひび がはいった。 ・雷が落ちた拍子に、わたしも階段から落ちてしまった。 ・転んだ拍子に靴が脱げてしまった。 以上のように五つの分類してみた。「拍子」に「機械的な反復」という 性格をもたせるとすれば、上記の(1)と(2)が該当することになる。 (3)の雅楽・能・能楽・催馬楽の拍子については、わたしは無知であり 論ずる資格はなく、勝手であるがここでは一応除外する。辞書文章を読む限 りでは、リズムと拍子、両方がごちゃまぜに含まれているように思う。 (4)と(5)の「拍子」の付いた複合語や慣用句では、(4)は「機械 的な同一行動の反復」である例もあるし、そうでない例もある。クラーゲス は、「拍子」は「意識的人為的反復運動」だと書いている。だから(4)は クラーゲスのいう「拍子」には該当しないことになる。(5)は一瞬の動作 事態なので当然に該当しない。 クラーゲスの「拍子」の範疇に入るのは、(1)と(2)であるというこ とになる。 「リズム」辞書解説の整理 前節「クラーゲスのリズム論(1)」で、リズムについての辞書解説の整 理で四つに分類した。もう一度、再録しよう。 (1)リズムとは、周期的な反復・循環・動き・律動のことである、規則的 な繰り返しのある動き・変化のことである。 (2)リズムは、メロディー・ハーモニーとともに音楽の基本的三要素を構 成する。規則的に反復する拍節的なリズムである。音の長さに単位のない自 由リズムもある。 (3)日本語では、詩歌の音数律のことをいう。五七調や七五調などをいう。 また、語句連続に同じ母音の繰り返しがあるなどもいう。 文章・話しの音声化に伴って表れ出る抑揚・律動・節奏などの調子のこと をいう。つまり音声の上げ下げ変化、強調変化、明暗変化、遅速変化、緩急 変化、音色変化などがつくりだす律動のことをいう。 (4)事物の形態変化の周期的な繰り返しをいう。視覚領域における図形を 単位とする形・色彩・明暗などの規則的な変化、その連続的な動きの繰り返 しのことをいう。 聴覚領域(物理音、音楽、音声)の周期的繰り返しのことをいう。これは (2)と(3)とに重なるものもある。 以上の四分類を、クラーゲスのリズム論にしたがって区分けしてみよう。 (1)は、総花的(総論的)な定義であるので、これには「機械的な同一の 反復」という「拍子」もあるし、「宇宙の脈動にしたがう類似的反復」とい う「リズム」も含んでいる。 (2)は、規則的な拍節リズムは「拍子」と言えるでしょう。「自由リズ ム」は規則的な拍節を破る(超越した)音楽(芸術)表現なので、「リズ ム」と言うことになる。 (3)は詩歌の一定の拍数を順番に繰り返す詩文は「拍子」と言えるでしょ う。だだし、これが音声表現として読み手のメリハリ調子や音調が加わった 表現となってくると、美的芸術的なレベルはいろいろだが「リズム」という ことになる。 (4)単純な同一物の繰り返しなので「拍子」と言えるでしょう。 なお、「規則的な周期反復」と「ルーズな周期反復」という対立で語った 場合は、前者は「拍子」、後者は「リズム」と大雑把に言えるでしょう。 リズム使用場面からの拍子抜粋 前節「クラーゲスのリズム論(1)」の中で「自然界におけるリズム」と、 「人間界におけるリズム」の使用場面に大きく区分けして、リズム事例を列 挙した。これらの中で、クラーゲスのリズム論から言えば「リズム」でなく 「拍子」であると言われるものを抜粋してみた。どちらかと言えば、これは 「拍子」と言えるなあ、という曖昧な頼りない区分けにしかすぎないが、一 応、拍子に当たるものを書き出してみた。 例えば、小学校1年生のハーモニカ演奏は教師のタクトにあわせた機械的 な拍子演奏であり、ベルリン・フィルの演奏は「リズム」が横溢してる芸術 的演奏である、と簡単すぎるほど簡単にいってしまうが、どこからどこまで が「拍子」演奏であり、どこからが「リズム」演奏になるかという区分け・ 基準は、難しい。1年生は永遠に芸術演奏は不可能なのか。言い出したらか なり困難な側面があるだろう。論者によってもなかり違ってくるだろう。 下記の抜粋は、どの側面を取り出すかによって、「拍子」になったり「リ ズム」になったりする、という限定つきで、「拍子」のカテゴリーに入りそ うだと思われる側面が多い、という自信のない抜粋になるが、以下に書き出 してみる。 これは拍子だという事例は意外に少なかった。リズムまたはリズムと拍子 との融合・共応という事例が大多数だった。 ○エスカレーターの上昇機と下降機が、左右の両側で規則正しいリズムで上 がり降りしつつ人々を運んでいる。自動感知で昇降する人がなければ停止 する。 ○バレーボールの試合の応援で、観衆が「ニッポンチャチャチャ」と言いな がら手拍子をリズム調子よく合わせて打つ。会場が割れんばかりに盛り上 がってる。 ○宴会で、歌い手の歌のリズムに合わせて全員が手拍子を打って宴会の雰囲 気を盛り上げてる。 ○1分間に120のリズムで走る。リズムに合わせて走る。音楽のリズムに合 わせて行進する。 〇音楽には三つの基本要素がある。メロディー、ハーモニー、リズムである。 メロディーやハーモニーのない音楽は考えられるが、リズムのない音楽は 考えられない。 〇音楽用語で、拍子は、音の進行で強拍と弱拍を一定の法則で単位とした ものをいう。楽譜では小節と一致する。2拍子、3拍子、4拍子、6拍子 などのリズムがある。 〇一つの小節の中の個々の拍は、その位置によって強弱のリズムがつくもの とつかないものが決まっている。四分の二拍子は強弱・強弱・強弱であり、 四分の三拍子は強弱弱・強弱弱・強弱弱である。 〇リズムが構成されるいちばん基底にあるのは、等拍のパルスの連続的な進 行である。 ○俳句は、575のリズムである。 ○短歌は、57577のリズムである。 ○この詩は、57調(または75調)のリズムがある。 ○定型詩には、音の強弱からくることば調子、長短からくることば調子のリ ズムがある。 ○コンパスで円の中に描いた図形に順序よく色を塗った紋様のリズムがきれ いだ。その下図の、色をまだ塗ってない線だけの紋様リズムも美しい。 ○赤(大)・青(中)・黄(小)の色と形の順番が順序よく並んでいて、 その繰り返し模様にはリズムがあって、きれいだ。 〇交差点の信号機は、緑・黄・赤の点滅リズムを繰り返して発信している。 〇ネオンサインが、くるりくるりと規則正しい色変わり変化のリズムで回転 しているのが見える。 ○女島灯台は、単閃白光15秒に1閃光のリズムで光を発している灯台であ る。 以上、クラーゲスのリズム論にそって考察を進めてきた。拍子とリズム については幕が上ったばかりで、今後も、おもしろい問題がたくさんあり そうだ。 このページのトップへ戻る | ||