なぜ「おっさん差別」だけが、この社会で喝采を浴びるのか

「ただしさ」を確認するための生贄
御田寺 圭 プロフィール

「ただしさの再確認」の道具として

――「おっさん叩き」は、いまなぜ熾烈をきわめているのだろうか。

それはおそらく、現代社会に生きる大勢の人が「ただしさ」に飢えているからであり、なおかつ「悪」とみなされた存在を大勢で一緒に叩くことによって「自分はただしい側にいるのだ」ということを確認できるからだ。

高度に情報化し複雑化した現代社会では、「世の中には、善悪で二元論的に単純処理できるような事柄はそれほど多くない」ということが明らかになってしまった。ある事象には必ずといってよいほど「よい側面」と「わるい側面」が表裏一体となっている。

 

私たちは「これがただしい」「あれがわるい」とばっさり断じ、カタルシスを得る機会をことごとく失ってしまった。対人関係だけでなく、社会問題の理解にも多大な時間的・精神的リソースが求められる時代となっているのだ。

複雑な社会のなかで、私たちはなにも間違ったことはしていないが、しかし「ただしい」と褒められるようなこともほとんどなくなってしまった。それゆえに、私たちは「ただしい」と言われたいし、「ただしさ」を実感したくて仕方ない。

そして私たちは「ただしさ」を渇望するあまり、「ただしさ」を与えてくれる「わかりやすくシンプルで、裏表のない悪」を求めるようになった。その「悪」に向かってみんなで一斉に礫(つぶて)を投げながら、隣を横目で覗き合えば、「私たちはいま、ただしい側に立って行動している」という保障と安心を得ることができる――そのような存在として「おっさん」は生贄になっているのだ。

私たちの「高コストな対人コミュニケーションが求められ、事象の理解も複雑で困難な社会のガス抜き」として、また「横並びの“ただしさ”を保障してくれる存在」として「おっさん」たちは磔刑台に立ち、群衆から放たれる石を今日も全身で受けとめている。