【芸能・社会】ジャニーさん連載(1)「男性アイドルの歴史が始まった」2019年7月11日 紙面から エンターテインメント界をけん引し続けてきた巨星、ジャニー喜多川さんが亡くなった。日本の芸能界で男性アイドルという新たなジャンルを生み出し、和洋折衷の唯一無二なショービジネスを築いた足跡をエピソードとともに振り返る。 ◇ 「あの日、あの人に会わなかったら僕はここにいなかったと思う。あの日、雨が降らなければこの伝説も生まれなかったかもしれません」。昨年上演されたA.B.C-Zの主演舞台「ABC座 2018 ジャニーズ伝説」。ジャニーズ事務所の第1号タレントとなった「ジャニーズ」のメンバー、あおい輝彦(71)による冒頭のナレーションの言葉だ。 「あの人」とはもちろんジャニー喜多川さん。同作は、事務所発足の原点となったジャニーズのドラマチックな物語をジャニーさんは自らの演出と構成によって描いた作品だ。 1960年初頭、ジャニーさんは米国大使館軍事顧問団に勤務。東京・代々木のGHQ宿舎「ワシントンハウス」に居住していた。勤務のかたわら、近所の子供たちにコーチとして野球を教え、チーム名を「ジャニーズ」と名付けた。 渋谷区立代々木中学校の生徒だったあおいもチームに加入。雨が降って練習が中止となったある日、ジャニーさんは彼らを映画館に連れて行き「ウエスト・サイド物語」を鑑賞した。同作に衝撃を受けた4人の少年たちはスクリーンの中のヒーローたちにあこがれを抱いた。「僕もこんな人になりたい」。その思いをかなえるため、ジャニーさんはショービジネスの世界で勝負することを決意。62年6月に「ジャニーズ事務所」を立ち上げた。 その手腕は抜群だった。あおいの本名は「青井輝彦」だが「堅苦しい」という理由で、当時では斬新なひらがなを芸名に取り入れた。同様に「真家ひろみ」「飯野おさみ」など。彼らは映画館に何度も足を運び「ウエスト・サイド物語」を見ながら歌やダンスの技術を磨いた。 4人を初めてテレビ出演させたのは、日本テレビ系歌謡バラエティー「味の素ホイ・ホイ・ミュージックスクール」だった。最初の1カ月はシルエットダンサーとして、素性を一切明かさずに視聴者の注意を引き、正体を明かすやいなや人気が爆発。男性アイドルの歴史がここから始まった。
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