深夜遅い時間になってすみません。
一昨日の記事に関し、たくさんのコメントを頂きまして本当にありがとうございます。
肯定的なご意見、否定的なご意見、私とは違う着眼点を示してくださったご意見など、今もコメントが増え続けていますが、本日3:18までに頂いたコメントは全て拝読しました。
これまでの本ブログ運営では折角頂いたコメントには原則として全てコメント返しをさせて頂いていましたが、今回は本当に多数のコメントを頂きましたので、恐縮ですが個別のコメント返しに代えて、複数のコメントで言及のあった点や特に補足したい点を中心にご回答することにさせて頂きます(コメント返しのつもりなので、記事とは違い、ですます調にしています)。
日中に時間の取れない社会人の個人ブログですので、ご容赦頂ければと思います。
>「脚本の人そこまで考えてない」
>制作陣のインタビューやツイッターなどでの発言(動物ファースト、優しい世界、など)と整合性が取れていないので、制作陣はそんなことは狙っていない。
集計はしていませんが、一番多かったご指摘はこの趣旨だと思います。
そして、その可能性はあるだろう、と私も思います。少なくとも各話単位の脚本・演出担当者のレベルでは、テーマ性を丁寧に織り込んだ緻密な脚本であるとはお世辞にも言えないと思いますし、色々とご指摘を頂いているような制作陣の発言などからも、本作の統一的なコンセプトが明確に意識されて作られたものであるかは疑わしいと思っています(特に制作開始当初は、前作と同様の優しい世界を目指していた可能性もあると思います)。
それでも、本作が曲がりなりにも作品として世に出た以上、作品は創作者の手を離れ、受け手(視聴者)に解釈を委ねるしかありません。創作者が何を考えていたかは受け手が作品を受け取るための大きな手助けとはなりますが、決して創作者の意図に拘束されなければならないわけではありません。
ですから、作品をどう受け取ったかを語る上で、創作者の意図と離れた受け取り方が生じることは避けられないことですし、逆に言えば、そうして創作者自身も気付いていない作品の解釈が発見されることもあるかもしれません。作品の受け取り方や楽しみ方として、創作者の意図と離れて、ただその作品を解釈する、という見方があっても良いのではないかと考えています。
そして、出来上がりとしての本作を観た時、制作陣が優しい世界を作ろうとして失敗してこうなった、あるいは制作陣が何も考えていなかったためにこうなった、という解釈よりも、最初から前作とは別のコンセプトで作ろうとしていた、と解釈する方が自然であるように感じたのです。それほどまでに、放映された本作は前作とは異質な支配と管理に満ちていると感じました。
上記のコメントをくださった方の趣旨は、大きく3つに分かれると思います。
①制作陣は単なる無能であって、何も考えずに適当に作られた子供の落書きに過ぎない。
②制作陣は本当に優しい世界を作ろうとしたのだが、能力不足により失敗した。
③制作陣は、テーマ性やコンセプトではなく前作を破壊する悪意によって本作を創造した。
①の方からすれば、私が制作陣を買いかぶっているようにも見えるかもしれません。ただ、創作者は何かしら表現したいものがあるから創作活動を行うのだと思いますし、何の意図もない偶然の産物という見方は、仮にそれが一面の事実だとしても、少々つまらない作品の受け取り方ではないかと思います。わざわざ時間を割いて視聴するのであれば、それよりは、創作された作品には何かしらの意図ないし作為があることを想定して受け取った方が、一つの筋が通った楽しみ方ができるのではないかと思っています。
②の方は、ある意味で私よりも優しいのかもしれません。そうだとすれば、結果として正反対の作品を作ってしまったものの、制作者の意図は前作ファンに沿っていたということになります。その見方もあり得るとは思いますが、出来上がりの作品を最後まで観て、私にはとてもそうは思えませんでした、という感想に留めておきます。
③の方への応答は、次のコメント群への回答の中で示そうと思います。
>言いたいことは分かったが、それを『けものフレンズ』の2期でやる必要はなかった。
>そもそも『けものフレンズ』の続編として出したことが間違い。
これが次に多いご指摘だったと思います。
そしてこれは、まさに私が本稿を書いた最大の理由に呼応するものです。
本作は、結果として前作を徹底的に否定し台無しにして、多くの前作ファンを傷つけたのだと思います。本作が放映終了後の今なおこれだけの熱量をもって語られること自体、そのことを何よりも明白に裏付けています。
前作の続編を称することなく、前作のキャラクターを登場させなくても、本作のコンセプトは実現できたのだから、不必要に前作を巻き込む必要はなかった、という意見にも理があります。その方がずっと自然で、ずっと楽です。実際、私も中間感想で「全く別の世界、あるいは前作からは遠い未来の話であるとすれば何の違和感もなかったのに、前作と同じ個体を登場させてしまったがために、それらのキャラクターが変質せざるを得なくなった。」と書きました。
一方で、単純にオリジナル作品で本作と同じことをやったとしても、そのインパクトは本作よりも圧倒的に小さなものにとどまったことも容易に想像できます。
本作は前作の続編だったからこそ、前作からの落差を非常に強烈に描き、良くも悪くも(結果としては悪い方に振れてしまったようですが)多くの前作ファンの心を動かしたということもまた言えると思います。
本作は、前作の承継という安定路線を捨て、舵取りを間違えれば前作を台無しにするというリスクを負って前作から決別しました。上手くいけば前作をバネとして単発のオリジナル作品よりも大きなインパクトを与える表現を生み出せるかもしれない代わりに、失敗すれば前作を愛したファンを傷つけ、『けものフレンズ』というコンセプトさえ茶番に帰すことになる選択です。
普通はある作品が賭けるのはその作品の評判だけですが、本作は、(制作陣がそれを意識的に行ったかどうかは別にして)本作自身の評判に加えて前作も一緒に賭けたのだと思います。私が本作を「ギャンブル」あるいは「挑戦」と評した理由もそこにあります。
本作は前作とは違うコンセプトで描くという極めて困難な挑戦を行い、そしてそれは多くの人の目には酷い失敗と映りました。私とて、それが成功したとは全く思っていません。ただ、その挑戦が残した結果、やりたかったかもしれないことの片鱗に対して一定の評価を与えたい、ということを書きたくて、この感想記事を書きました。
ですから、前作ファンから見れば、前作を巻き込んで失敗した酷い作品だと言わざるを得ないことはよく分かりますし、その批判は正当だと思います。
それでも、それこそ制作陣のインタビューなどを見ても、いくらなんでも制作陣は最初から意図的に失敗するつもりではなかったと思っています。失敗したこと自体は責められても仕方がなく、それは結果に対する批判として正当ですが、前作を賭けたこと(前作を否定するコンセプトに挑戦したこと)自体が悪意に基づくものだった、というのは穿ち過ぎではないかと考えています。
ここは色々な見方のあるところで、穿った見方をすれば意図的に前作を破壊することそのものが目的だったということは考えられなくもないですが(そして前作ファンを中心にそのような考えを持つ方も多いようですが)、外部からは真相を知りようがないのと、なにより敢えてそれをする意味が外部からは見えませんので、不必要に制作陣を貶めることは控えたいと思います。
それよりは、前作を否定するコンセプトで前作以上に成功することを夢見ていたが力及ばなかった、という穏当な結論に、私の中では落ち着いています。
>最終話のキュルルの「大好きなんだ」はコンセプトと矛盾するのではないか
細かい台詞回しを論じるつもりは(本作の脚本の精度を考えると不毛なので)あまりないのですが、一つのクライマックスであることは確かで、気になった方が複数名いらっしゃったようなので言及します。
確かにキュルルはフレンズが好きなのでしょう。しかしその「好き」はあくまでヒトとケモノの関係性における片面的な、いわば愛玩動物の類に対する「好き」であって、双方向性を帯びたものとしては受け取ることができませんでした。
本作10話のフレンズたちは、自主的にキュルルのために集まってくるのではなく、「かばん」が運転するトラクターに乗って、フレンズ型セルリアン騒ぎの元凶であるだろうという理由でキュルルの居場所へ連れられて集まってきました。そんなフレンズたちは、はたしてキュルルの「好き」に応えるのでしょうか。もう一つ、イエイヌがキュルルを慕うのも、「ヒトだから」という理由付けを超えて「キュルルだから」がきちんと描かれたとは言えないように思えます。
結局、キュルル自身はケモノが好きなヒトですが、個体として(サーバルとカラカルを除く)ケモノに好かれている、という描写はついに見出すことができませんでした。あれだけ情熱的に「大好きなんだ」と叫んだのに、当のフレンズたちにはその気が無いように見えるというこの構図は、多少の滑稽さと共に、見た目とは裏腹なキュルルの孤独を象徴的に表していたシーンであるように思われたのです。
>出来があまりにも悪いので、テーマやコンセプトを論じる水準にない。単純につまらない。
>出来上がったものの酷さから、真剣に挑戦したなどとは言えない。
本作の客観的な完成度が低いことは、私も同意見です。③のところで端的に酷評したつもりでしたが、うまく伝わらなかったようであれば私の表現力不足です。
その感想はとても素直だと思いますし、敢えて書きますが「真っ当な」アニメが観たかった人には合わなかったのだと思います。そして、結果が出せなければそこに至る努力が評価されないのも、プロである以上当然のことであり、本作が酷評されることについては全く違和感はありません。
それは十分に承知した上で、私は、商業作品に対して失礼を承知で同人作品の比喩を挙げて、出来の良くない作品の中にも心に残った部分がある、という感想を記しました。
ですから、商業作品としての水準に達していない、つまらなかった、というコメントには、仰る通りだと思います、としか答えようがありません。あとはその中にも何かを見出すか、という受け取り方の問題だと思います。
>前作の解釈が違う。前作はそんな単純な話ではなく、前作でもヒトの業は随所に描かれている。
これはご指摘を尊重します。
私は前作ファンにはなれなかったので、前作をそこまで深く掘り下げられていない、という面があります。前作が本当に好きな方からすると理解不足の点があるのかもしれませんので、ご指摘は有り難く頂戴します。
(完遂できず申し訳ありませんが、以下、明日の夜に回させてください。4:00)
一昨日の記事に関し、たくさんのコメントを頂きまして本当にありがとうございます。
肯定的なご意見、否定的なご意見、私とは違う着眼点を示してくださったご意見など、今もコメントが増え続けていますが、本日3:18までに頂いたコメントは全て拝読しました。
これまでの本ブログ運営では折角頂いたコメントには原則として全てコメント返しをさせて頂いていましたが、今回は本当に多数のコメントを頂きましたので、恐縮ですが個別のコメント返しに代えて、複数のコメントで言及のあった点や特に補足したい点を中心にご回答することにさせて頂きます(コメント返しのつもりなので、記事とは違い、ですます調にしています)。
日中に時間の取れない社会人の個人ブログですので、ご容赦頂ければと思います。
>「脚本の人そこまで考えてない」
>制作陣のインタビューやツイッターなどでの発言(動物ファースト、優しい世界、など)と整合性が取れていないので、制作陣はそんなことは狙っていない。
集計はしていませんが、一番多かったご指摘はこの趣旨だと思います。
そして、その可能性はあるだろう、と私も思います。少なくとも各話単位の脚本・演出担当者のレベルでは、テーマ性を丁寧に織り込んだ緻密な脚本であるとはお世辞にも言えないと思いますし、色々とご指摘を頂いているような制作陣の発言などからも、本作の統一的なコンセプトが明確に意識されて作られたものであるかは疑わしいと思っています(特に制作開始当初は、前作と同様の優しい世界を目指していた可能性もあると思います)。
それでも、本作が曲がりなりにも作品として世に出た以上、作品は創作者の手を離れ、受け手(視聴者)に解釈を委ねるしかありません。創作者が何を考えていたかは受け手が作品を受け取るための大きな手助けとはなりますが、決して創作者の意図に拘束されなければならないわけではありません。
ですから、作品をどう受け取ったかを語る上で、創作者の意図と離れた受け取り方が生じることは避けられないことですし、逆に言えば、そうして創作者自身も気付いていない作品の解釈が発見されることもあるかもしれません。作品の受け取り方や楽しみ方として、創作者の意図と離れて、ただその作品を解釈する、という見方があっても良いのではないかと考えています。
そして、出来上がりとしての本作を観た時、制作陣が優しい世界を作ろうとして失敗してこうなった、あるいは制作陣が何も考えていなかったためにこうなった、という解釈よりも、最初から前作とは別のコンセプトで作ろうとしていた、と解釈する方が自然であるように感じたのです。それほどまでに、放映された本作は前作とは異質な支配と管理に満ちていると感じました。
上記のコメントをくださった方の趣旨は、大きく3つに分かれると思います。
①制作陣は単なる無能であって、何も考えずに適当に作られた子供の落書きに過ぎない。
②制作陣は本当に優しい世界を作ろうとしたのだが、能力不足により失敗した。
③制作陣は、テーマ性やコンセプトではなく前作を破壊する悪意によって本作を創造した。
①の方からすれば、私が制作陣を買いかぶっているようにも見えるかもしれません。ただ、創作者は何かしら表現したいものがあるから創作活動を行うのだと思いますし、何の意図もない偶然の産物という見方は、仮にそれが一面の事実だとしても、少々つまらない作品の受け取り方ではないかと思います。わざわざ時間を割いて視聴するのであれば、それよりは、創作された作品には何かしらの意図ないし作為があることを想定して受け取った方が、一つの筋が通った楽しみ方ができるのではないかと思っています。
②の方は、ある意味で私よりも優しいのかもしれません。そうだとすれば、結果として正反対の作品を作ってしまったものの、制作者の意図は前作ファンに沿っていたということになります。その見方もあり得るとは思いますが、出来上がりの作品を最後まで観て、私にはとてもそうは思えませんでした、という感想に留めておきます。
③の方への応答は、次のコメント群への回答の中で示そうと思います。
>言いたいことは分かったが、それを『けものフレンズ』の2期でやる必要はなかった。
>そもそも『けものフレンズ』の続編として出したことが間違い。
これが次に多いご指摘だったと思います。
そしてこれは、まさに私が本稿を書いた最大の理由に呼応するものです。
本作は、結果として前作を徹底的に否定し台無しにして、多くの前作ファンを傷つけたのだと思います。本作が放映終了後の今なおこれだけの熱量をもって語られること自体、そのことを何よりも明白に裏付けています。
前作の続編を称することなく、前作のキャラクターを登場させなくても、本作のコンセプトは実現できたのだから、不必要に前作を巻き込む必要はなかった、という意見にも理があります。その方がずっと自然で、ずっと楽です。実際、私も中間感想で「全く別の世界、あるいは前作からは遠い未来の話であるとすれば何の違和感もなかったのに、前作と同じ個体を登場させてしまったがために、それらのキャラクターが変質せざるを得なくなった。」と書きました。
一方で、単純にオリジナル作品で本作と同じことをやったとしても、そのインパクトは本作よりも圧倒的に小さなものにとどまったことも容易に想像できます。
本作は前作の続編だったからこそ、前作からの落差を非常に強烈に描き、良くも悪くも(結果としては悪い方に振れてしまったようですが)多くの前作ファンの心を動かしたということもまた言えると思います。
本作は、前作の承継という安定路線を捨て、舵取りを間違えれば前作を台無しにするというリスクを負って前作から決別しました。上手くいけば前作をバネとして単発のオリジナル作品よりも大きなインパクトを与える表現を生み出せるかもしれない代わりに、失敗すれば前作を愛したファンを傷つけ、『けものフレンズ』というコンセプトさえ茶番に帰すことになる選択です。
普通はある作品が賭けるのはその作品の評判だけですが、本作は、(制作陣がそれを意識的に行ったかどうかは別にして)本作自身の評判に加えて前作も一緒に賭けたのだと思います。私が本作を「ギャンブル」あるいは「挑戦」と評した理由もそこにあります。
本作は前作とは違うコンセプトで描くという極めて困難な挑戦を行い、そしてそれは多くの人の目には酷い失敗と映りました。私とて、それが成功したとは全く思っていません。ただ、その挑戦が残した結果、やりたかったかもしれないことの片鱗に対して一定の評価を与えたい、ということを書きたくて、この感想記事を書きました。
ですから、前作ファンから見れば、前作を巻き込んで失敗した酷い作品だと言わざるを得ないことはよく分かりますし、その批判は正当だと思います。
それでも、それこそ制作陣のインタビューなどを見ても、いくらなんでも制作陣は最初から意図的に失敗するつもりではなかったと思っています。失敗したこと自体は責められても仕方がなく、それは結果に対する批判として正当ですが、前作を賭けたこと(前作を否定するコンセプトに挑戦したこと)自体が悪意に基づくものだった、というのは穿ち過ぎではないかと考えています。
ここは色々な見方のあるところで、穿った見方をすれば意図的に前作を破壊することそのものが目的だったということは考えられなくもないですが(そして前作ファンを中心にそのような考えを持つ方も多いようですが)、外部からは真相を知りようがないのと、なにより敢えてそれをする意味が外部からは見えませんので、不必要に制作陣を貶めることは控えたいと思います。
それよりは、前作を否定するコンセプトで前作以上に成功することを夢見ていたが力及ばなかった、という穏当な結論に、私の中では落ち着いています。
>最終話のキュルルの「大好きなんだ」はコンセプトと矛盾するのではないか
細かい台詞回しを論じるつもりは(本作の脚本の精度を考えると不毛なので)あまりないのですが、一つのクライマックスであることは確かで、気になった方が複数名いらっしゃったようなので言及します。
確かにキュルルはフレンズが好きなのでしょう。しかしその「好き」はあくまでヒトとケモノの関係性における片面的な、いわば愛玩動物の類に対する「好き」であって、双方向性を帯びたものとしては受け取ることができませんでした。
本作10話のフレンズたちは、自主的にキュルルのために集まってくるのではなく、「かばん」が運転するトラクターに乗って、フレンズ型セルリアン騒ぎの元凶であるだろうという理由でキュルルの居場所へ連れられて集まってきました。そんなフレンズたちは、はたしてキュルルの「好き」に応えるのでしょうか。もう一つ、イエイヌがキュルルを慕うのも、「ヒトだから」という理由付けを超えて「キュルルだから」がきちんと描かれたとは言えないように思えます。
結局、キュルル自身はケモノが好きなヒトですが、個体として(サーバルとカラカルを除く)ケモノに好かれている、という描写はついに見出すことができませんでした。あれだけ情熱的に「大好きなんだ」と叫んだのに、当のフレンズたちにはその気が無いように見えるというこの構図は、多少の滑稽さと共に、見た目とは裏腹なキュルルの孤独を象徴的に表していたシーンであるように思われたのです。
>出来があまりにも悪いので、テーマやコンセプトを論じる水準にない。単純につまらない。
>出来上がったものの酷さから、真剣に挑戦したなどとは言えない。
本作の客観的な完成度が低いことは、私も同意見です。③のところで端的に酷評したつもりでしたが、うまく伝わらなかったようであれば私の表現力不足です。
その感想はとても素直だと思いますし、敢えて書きますが「真っ当な」アニメが観たかった人には合わなかったのだと思います。そして、結果が出せなければそこに至る努力が評価されないのも、プロである以上当然のことであり、本作が酷評されることについては全く違和感はありません。
それは十分に承知した上で、私は、商業作品に対して失礼を承知で同人作品の比喩を挙げて、出来の良くない作品の中にも心に残った部分がある、という感想を記しました。
ですから、商業作品としての水準に達していない、つまらなかった、というコメントには、仰る通りだと思います、としか答えようがありません。あとはその中にも何かを見出すか、という受け取り方の問題だと思います。
>前作の解釈が違う。前作はそんな単純な話ではなく、前作でもヒトの業は随所に描かれている。
これはご指摘を尊重します。
私は前作ファンにはなれなかったので、前作をそこまで深く掘り下げられていない、という面があります。前作が本当に好きな方からすると理解不足の点があるのかもしれませんので、ご指摘は有り難く頂戴します。
(完遂できず申し訳ありませんが、以下、明日の夜に回させてください。4:00)
同じようなことを考えている人がいるということに安心もしました。
すばらしい感想が読めたと思います。ありがとうございます。