『けものフレンズ2』の最終話を視聴したので、全体感想を。
私の本作に対する視聴スタンスについては6話までの中間感想も参照頂きたい。
さて、あくまでも「私の感想」を記すつもりでいるし、そこに世間の評判は本来関係ないが、これだけ話題になった本作を語る上で、本作が控えめに言っても「とても嫌われている」ことを完全に無視して語るのも誠実でないように思われるので、まずは最初に本作のネガティブな面を整理して、その上で私の感想を書こうと思う。
簡単に書けばこうだ。
本作の評価が低い理由は非常によく理解できるし、納得もする。
それでも、私は前作の「暖かく優しい世界」よりも本作の「冷たく孤独な世界」が好みなのだ。
100人中99人が本作を評価しないとしても、また、本作の試みが到底成功したとは言えないとしても、私は本作の挑戦に一定の評価を与えたい。
以下、続きで。
中間感想の時と同様に、前作のファン及び本作を観て不愉快になった人は読み進めないことを強く勧める。
私の本作に対する視聴スタンスについては6話までの中間感想も参照頂きたい。
さて、あくまでも「私の感想」を記すつもりでいるし、そこに世間の評判は本来関係ないが、これだけ話題になった本作を語る上で、本作が控えめに言っても「とても嫌われている」ことを完全に無視して語るのも誠実でないように思われるので、まずは最初に本作のネガティブな面を整理して、その上で私の感想を書こうと思う。
簡単に書けばこうだ。
本作の評価が低い理由は非常によく理解できるし、納得もする。
それでも、私は前作の「暖かく優しい世界」よりも本作の「冷たく孤独な世界」が好みなのだ。
100人中99人が本作を評価しないとしても、また、本作の試みが到底成功したとは言えないとしても、私は本作の挑戦に一定の評価を与えたい。
以下、続きで。
中間感想の時と同様に、前作のファン及び本作を観て不愉快になった人は読み進めないことを強く勧める。
まず、本作の評価が著しく低い理由は、大きく分けて3つあると考えている。
①前作のキャラクターを徹底的に破壊したこと
②ケモノが「フレンズ」であるという前提を破壊したこと
③純粋に脚本と演出の完成度が高いとは言えないこと
①は、大筋として中間感想の時に書いた通りなので、ここで改めて事細かに論じることはしない。本作の脚本においてフレンズを支配し管理する存在としてのヒトを登場させる必要は理解できても、それが前作の「かばん」である必要は全くなかったし、むしろ前作の「かばんちゃん」との中途半端な連続性によりキャラクター造形の一貫性を損なっていたとさえ言えるだろう(「かばん」を徹底的に(キュルルとは違って)冷徹なヒトの象徴として描くのであれば、6話ラストと12話ラストこそが余計だった)。
サーバルその他の共通の登場人物についても、前作との違いが違和感として残り続けたことは否めない。単純に本作だけの物語の完成度を考えれば前作の要素はノイズでしかなく、案の定、それらの相違は最終話に至っても全くと言っていいほど解決されなかった。
前作との関連性という観点からは、本作はただ前作のキャラクターを破壊しただけだった、という厳しい評価も首肯できる側面がある。
②は①ともオーバーラップするが、本作は、ケモノを終始ヒトの下に置く。
6話と12話はフレンズが主役でない特殊な回なので置くとして、1話から順に、「規律し」「評価し」「調教し」「移住させ」「支配し」「競争させ」「見世物にし」「隷属させ」「使役し」「(人工的に)生み出す」という、ヒトがケモノに対して行ってきたありとあらゆる管理と支配の形態が戯画的に描かれた。最終話Bパートの最後の動物紹介がヒトによって絶滅させられたリョコウバトであるという点からも、この点の本作の構成は意図的なものだろう。
この文脈で11話のフレンズ型セルリアンが人工繁殖もしくはクローン生物の暗喩(そう考えると、本作におけるセルリアンの都合の良さや脆弱さも意図的な演出であるように思える)であるという解釈に思い至ることは難しいことではなかったが、キュルルがデザインによってフレンズ型セルリアンを生み出しておいて、ケモノを使役して倒す(敢えて現実に即した表現をすれば「殺す」)、という物語の構造は、ある意味ではケモノの生命に対する傲慢さを最も象徴的に描き出したものとさえ理解し得る。
それはきっと、まさに作品タイトル通りケモノを「フレンズ」だと思っていた視聴者にとっては、友人の尊厳を侮辱され、蹂躙されることに似て、あまりにも不愉快だったはずだ。
①及び②は全体的な物語構造レベルの話だが、③はどちらかというと個々の脚本と演出の問題になる。単純に伏線が回収されていなかったり、演出の整合性が取れていなかったり、世界観における知識レベルの設定に統一感がなかったり、というレベルの粗を拾い上げ始めるときりがないのでわざわざ紙幅を割いて語る必要も感じないが、1話から引っ張ってきたキュルルを探す存在=イエイヌが物語の本筋に全くと言っていいほど絡んでこなかったのはシリーズ構成として他に類を見ないレベルで致命的であったように思う。キュルルの「おうち」を探すという本作全体の表向きのテーマに対する回答と解決も、本筋と無関係な話が多いなど、決して質が高いとは言い難い。
前作への個人的な相性は別にして前作の脚本・演出の完成度が高かったことは私も認めるし、同監督が手掛けた今期の『ケムリクサ』も最後まで視聴した(余談だが、これも質は高いが私には決定的に合わない作品であった)が、やはり本作との脚本の完成度の差は歴然であったと言わざるを得ないだろう。
そうして、本作は「前作が好きだったファンに対しては前作の徹底的な否定によって」「前作に特に思入れのないファンに対しても脚本の不愉快さと完成度の低さによって」、いずれも低く評価されるに至った。
普通は前作が好きでなかった人は本作をわざわざ観ることはないから、残った大部分の前作ファンと一部の新規ファンに嫌われれば、評価が見るも無残なことになるのは当然の帰結だ。
そのことを、私は十分に理解して納得している。
そして、だからこそ、数少ない「前作が好きではなかった」本作の視聴者である私がここに感想を書く意義がある。
前作とはどうしようもなく相性が悪かった私は、本作に前作とは別の確固たる意志を感じたのだ。
その意志こそが、私が本作を評価する唯一にして最大のポイントである。
『前作の「暖かく優しい世界」は、幻想であり欺瞞だ。』
『ヒトに管理されるケモノには、ヒトの想いは分からない。』
『真の肯定は、ヒトならざる他者からではなく自己によってのみ与えられる。』
本作のキュルルは、フレンズを管理するヒトとしての立ち位置を、誰にも与えられることなく、自らの在り方として確立した。前作の「かばんちゃん」がフレンズに支えられて、フレンズと並び立つヒトとしての存在を確立したのとは実に対照的に。
前作ラストではフレンズが「かばんちゃん」のために駆け付けたが、本作ラストではキュルルがフレンズのためにビーストを連れてきて戦わせる。キュルルは自分で工夫するのではなく、自分の代わりに戦ってくれるケモノを連れてくる。キュルルはそれを「仲間」と呼ぶが、それは対等な「友達」ではなく、ポケモン的な使役の対象としての「仲間」だ(最終話で言われた通りの「ヒトの手下」)。
キュルルの世界は、前作の「かばんちゃん」の世界と比較すると、ずっと孤独で、ずっと冷たい。周りにいるフレンズは結局のところヒトに管理されるケモノに過ぎず、役割としてのヒト(管理者)が求められてはいても、キュルルが求められているわけではない。最終回でサーバルとカラカル以外のフレンズが心配していたのは、主にサーバルとカラカルであってキュルルではない。(そう改変されたことの是非はさておき)「かばん」もまた、キュルルを保護すべきヒトとして取り扱うだけで、手を差し伸べたりはしない。
そうして、キュルルはフレンズに囲まれながらも本質的にはたった一人でパークに放り出され、意識的に無意識的にせよケモノを管理するヒトの業に触れ、ついには自らがパークの危機の元凶であるとさえ知る中で、その果てに自らの居場所を確立する。フレンズはもとより、野生動物たるビーストさえも自らの道具として使役して使い捨てる、究極の管理者としての立ち位置を。
そこでは、他のフレンズの誰もキュルルの存在を肯定しない。
本作としては残念なことに、そして現実的には当然のこととして、最終話ラストの会話でさえ、ケモノであるサーバルとカラカルはヒトであるキュルルの想いを理解して受け取れはしないのだ。精々一緒に遊ぶ程度で、ヒトが自らの想いを勝手にケモノに投影するだけの、一方通行のコミュニケーション。
ケモノはあくまでケモノであって、「友達」にはなり得ない。ヒトにできるのは、ただ、ケモノを鏡として自らの内面と向き合い、ヒトとしての在り方を獲得していくことだけだ。
前作が「他者による絶対肯定の物語」であったとすれば、本作はその対極にある「孤独と自己肯定の物語」。本作は、ヒトとケモノ、管理する側と管理される側、という題材を通して、永遠に交わらない隔絶したコミュニケーション、ケモノとは異なるヒトの業を逆説的に描き出した。
本作では、ケモノがヒトと「友達」になる=『けものフレンズ』という、前作の「優しい世界」という名の奇跡は起こらない。
前作が暖かい奇跡だったからこそ、その反動として本作の冷たい現実が際立つ。『けものフレンズ2』という作品タイトルからは到底想像もできないようなその冷たさが私にはとても印象的で、ヒトなどこんなものだ、とでもいうかのような諦観と絶望が少しだけ心地よかった。
本作は、言うまでもなく前作の続編として商業的にも、作品的にも大失敗だろう。
前作のみならず『けものフレンズ』というシリーズコンセプトさえ徹底的に破壊し尽くした本作は、どう考えても公式の続編として作られるべき作品ではなかったのだと思う。作品自体のクオリティとしても高いとは言えないし、作品を通じて描きたかったことも十分に描かれたとは到底言えない。
けれど時として、出来の良い商業作品よりも、客観的な出来は今一つでも、たった一つのコンセプトが心に残る作品がある(余談だが、私が好むフリーゲームの世界でも、稀にそうした作品に出会えることがある)。
本作は私に、そんな異端の同人作品に似た印象を残した。
『けものフレンズ』という暖かい奇跡を否定するというただその一点だけのために、その他の全てを犠牲にした異例中の異例の作品。
結果としては大失敗とされることが避けられないとしても、私はその挑戦は嫌いではなかったと評して、本作に対する感想を終えようと思う。
①前作のキャラクターを徹底的に破壊したこと
②ケモノが「フレンズ」であるという前提を破壊したこと
③純粋に脚本と演出の完成度が高いとは言えないこと
①は、大筋として中間感想の時に書いた通りなので、ここで改めて事細かに論じることはしない。本作の脚本においてフレンズを支配し管理する存在としてのヒトを登場させる必要は理解できても、それが前作の「かばん」である必要は全くなかったし、むしろ前作の「かばんちゃん」との中途半端な連続性によりキャラクター造形の一貫性を損なっていたとさえ言えるだろう(「かばん」を徹底的に(キュルルとは違って)冷徹なヒトの象徴として描くのであれば、6話ラストと12話ラストこそが余計だった)。
サーバルその他の共通の登場人物についても、前作との違いが違和感として残り続けたことは否めない。単純に本作だけの物語の完成度を考えれば前作の要素はノイズでしかなく、案の定、それらの相違は最終話に至っても全くと言っていいほど解決されなかった。
前作との関連性という観点からは、本作はただ前作のキャラクターを破壊しただけだった、という厳しい評価も首肯できる側面がある。
②は①ともオーバーラップするが、本作は、ケモノを終始ヒトの下に置く。
6話と12話はフレンズが主役でない特殊な回なので置くとして、1話から順に、「規律し」「評価し」「調教し」「移住させ」「支配し」「競争させ」「見世物にし」「隷属させ」「使役し」「(人工的に)生み出す」という、ヒトがケモノに対して行ってきたありとあらゆる管理と支配の形態が戯画的に描かれた。最終話Bパートの最後の動物紹介がヒトによって絶滅させられたリョコウバトであるという点からも、この点の本作の構成は意図的なものだろう。
この文脈で11話のフレンズ型セルリアンが人工繁殖もしくはクローン生物の暗喩(そう考えると、本作におけるセルリアンの都合の良さや脆弱さも意図的な演出であるように思える)であるという解釈に思い至ることは難しいことではなかったが、キュルルがデザインによってフレンズ型セルリアンを生み出しておいて、ケモノを使役して倒す(敢えて現実に即した表現をすれば「殺す」)、という物語の構造は、ある意味ではケモノの生命に対する傲慢さを最も象徴的に描き出したものとさえ理解し得る。
それはきっと、まさに作品タイトル通りケモノを「フレンズ」だと思っていた視聴者にとっては、友人の尊厳を侮辱され、蹂躙されることに似て、あまりにも不愉快だったはずだ。
①及び②は全体的な物語構造レベルの話だが、③はどちらかというと個々の脚本と演出の問題になる。単純に伏線が回収されていなかったり、演出の整合性が取れていなかったり、世界観における知識レベルの設定に統一感がなかったり、というレベルの粗を拾い上げ始めるときりがないのでわざわざ紙幅を割いて語る必要も感じないが、1話から引っ張ってきたキュルルを探す存在=イエイヌが物語の本筋に全くと言っていいほど絡んでこなかったのはシリーズ構成として他に類を見ないレベルで致命的であったように思う。キュルルの「おうち」を探すという本作全体の表向きのテーマに対する回答と解決も、本筋と無関係な話が多いなど、決して質が高いとは言い難い。
前作への個人的な相性は別にして前作の脚本・演出の完成度が高かったことは私も認めるし、同監督が手掛けた今期の『ケムリクサ』も最後まで視聴した(余談だが、これも質は高いが私には決定的に合わない作品であった)が、やはり本作との脚本の完成度の差は歴然であったと言わざるを得ないだろう。
そうして、本作は「前作が好きだったファンに対しては前作の徹底的な否定によって」「前作に特に思入れのないファンに対しても脚本の不愉快さと完成度の低さによって」、いずれも低く評価されるに至った。
普通は前作が好きでなかった人は本作をわざわざ観ることはないから、残った大部分の前作ファンと一部の新規ファンに嫌われれば、評価が見るも無残なことになるのは当然の帰結だ。
そのことを、私は十分に理解して納得している。
そして、だからこそ、数少ない「前作が好きではなかった」本作の視聴者である私がここに感想を書く意義がある。
前作とはどうしようもなく相性が悪かった私は、本作に前作とは別の確固たる意志を感じたのだ。
その意志こそが、私が本作を評価する唯一にして最大のポイントである。
『前作の「暖かく優しい世界」は、幻想であり欺瞞だ。』
『ヒトに管理されるケモノには、ヒトの想いは分からない。』
『真の肯定は、ヒトならざる他者からではなく自己によってのみ与えられる。』
本作のキュルルは、フレンズを管理するヒトとしての立ち位置を、誰にも与えられることなく、自らの在り方として確立した。前作の「かばんちゃん」がフレンズに支えられて、フレンズと並び立つヒトとしての存在を確立したのとは実に対照的に。
前作ラストではフレンズが「かばんちゃん」のために駆け付けたが、本作ラストではキュルルがフレンズのためにビーストを連れてきて戦わせる。キュルルは自分で工夫するのではなく、自分の代わりに戦ってくれるケモノを連れてくる。キュルルはそれを「仲間」と呼ぶが、それは対等な「友達」ではなく、ポケモン的な使役の対象としての「仲間」だ(最終話で言われた通りの「ヒトの手下」)。
キュルルの世界は、前作の「かばんちゃん」の世界と比較すると、ずっと孤独で、ずっと冷たい。周りにいるフレンズは結局のところヒトに管理されるケモノに過ぎず、役割としてのヒト(管理者)が求められてはいても、キュルルが求められているわけではない。最終回でサーバルとカラカル以外のフレンズが心配していたのは、主にサーバルとカラカルであってキュルルではない。(そう改変されたことの是非はさておき)「かばん」もまた、キュルルを保護すべきヒトとして取り扱うだけで、手を差し伸べたりはしない。
そうして、キュルルはフレンズに囲まれながらも本質的にはたった一人でパークに放り出され、意識的に無意識的にせよケモノを管理するヒトの業に触れ、ついには自らがパークの危機の元凶であるとさえ知る中で、その果てに自らの居場所を確立する。フレンズはもとより、野生動物たるビーストさえも自らの道具として使役して使い捨てる、究極の管理者としての立ち位置を。
そこでは、他のフレンズの誰もキュルルの存在を肯定しない。
本作としては残念なことに、そして現実的には当然のこととして、最終話ラストの会話でさえ、ケモノであるサーバルとカラカルはヒトであるキュルルの想いを理解して受け取れはしないのだ。精々一緒に遊ぶ程度で、ヒトが自らの想いを勝手にケモノに投影するだけの、一方通行のコミュニケーション。
ケモノはあくまでケモノであって、「友達」にはなり得ない。ヒトにできるのは、ただ、ケモノを鏡として自らの内面と向き合い、ヒトとしての在り方を獲得していくことだけだ。
前作が「他者による絶対肯定の物語」であったとすれば、本作はその対極にある「孤独と自己肯定の物語」。本作は、ヒトとケモノ、管理する側と管理される側、という題材を通して、永遠に交わらない隔絶したコミュニケーション、ケモノとは異なるヒトの業を逆説的に描き出した。
本作では、ケモノがヒトと「友達」になる=『けものフレンズ』という、前作の「優しい世界」という名の奇跡は起こらない。
前作が暖かい奇跡だったからこそ、その反動として本作の冷たい現実が際立つ。『けものフレンズ2』という作品タイトルからは到底想像もできないようなその冷たさが私にはとても印象的で、ヒトなどこんなものだ、とでもいうかのような諦観と絶望が少しだけ心地よかった。
本作は、言うまでもなく前作の続編として商業的にも、作品的にも大失敗だろう。
前作のみならず『けものフレンズ』というシリーズコンセプトさえ徹底的に破壊し尽くした本作は、どう考えても公式の続編として作られるべき作品ではなかったのだと思う。作品自体のクオリティとしても高いとは言えないし、作品を通じて描きたかったことも十分に描かれたとは到底言えない。
けれど時として、出来の良い商業作品よりも、客観的な出来は今一つでも、たった一つのコンセプトが心に残る作品がある(余談だが、私が好むフリーゲームの世界でも、稀にそうした作品に出会えることがある)。
本作は私に、そんな異端の同人作品に似た印象を残した。
『けものフレンズ』という暖かい奇跡を否定するというただその一点だけのために、その他の全てを犠牲にした異例中の異例の作品。
結果としては大失敗とされることが避けられないとしても、私はその挑戦は嫌いではなかったと評して、本作に対する感想を終えようと思う。