本放送時には視聴していなかった『けものフレンズ』を最近視聴してみたので、感想でも。
話題になった本作を今さら視聴してみようと思ったきっかけはいくつかあるが、『魔法少女まどか☆マギカ』(リンクは感想記事)を後発で観た時と同様に、日本SF大賞に複数人から推薦があったと聞いたこと(第38回日本SF大賞エントリー一覧。なお、最終候補5作には漏れたようである)が大きく、私と比較的趣味の合う何人かが推奨していたことも後押しとなっている。

さて、本作の表層的な脚本について語りたいことはあまりない。伏線の設置と回収は丁寧で、綺麗にまとまっていると思うが、仕掛け自体は(誰でも理解できるという意味で)単純で、それ自体を取り立てて語りたいとは思わない。
SF的な仕掛けはあるにしても、舞台装置としての意味合いが強く(後述するが、本作の突飛に思える設定には舞台装置としての重要な意味があると考えている)、仕掛け自体は詳細に描写されていないことからも、特筆に値するものではないように思える。

それでも、私は本作に語るべき点を見出した。
視聴者・読者層の重なりの少なさによるものであろうか、明示的に語られることは多くはないようだが、本作には、冲方先生の初期の作品である『ばいばい、アース』との類似点を多く見出すことができる。作品の到達点と、それを描くための舞台設定には近しいものがありながら、しかし、そこに至る道程はあまりにも対照的だ。

その観点から一言で言うなら、本作は「絶対肯定の物語」だ。

『ばいばい、アース』は(また、他の冲方作品も)懐疑や自己否定の先に存在の肯定を見出すのに対し、本作は絶対肯定そのものをダイレクトに力強く描写する。その描き方の対比が実に興味深かった。

以下の内容は、上記の文脈での感想となるため、本作の内容に関する言及に加えて、『ばいばい、アース』の核心部分のネタバレを含むので、未読で読む予定のある方が読むことは推奨しない。
(ネタバレ事故回避のため意図的に空白)




















(ここから)

さて、前書きで触れたとおり、本作と『ばいばい、アース』は、物語の大きな構造において多くの類似点を有している。解釈違いの点もありうるだろうが、少々乱暴に私の理解に基づいて簡単にまとめると、以下のようになるだろうか。

「かつて「ヒト」が作り、「ヒト」のいなくなった後のテーマパークにおいて、唯一の「ヒト」である少女が、「ヒト」を模した存在との交流を通じて、自らを知り、「ヒトとして存在する」ことを確立する物語」

率直に言うと本作について事前知識がほとんどなかった私であるが、1話の終盤から2話冒頭にかけて物語の設定が示唆された後は、上記の類似点故に常に『ばいばい、アース』を念頭に置きながら視聴しており、かばんちゃんはどのような経験を経て「ヒト」であることを知り、確立していくのだろうか、という点が物語への期待の大部分を占めていた。
私の好む物語の傾向ということもあるが、「ヒトは絶滅した」と語られた辺りでは、『ばいばい、アース』において主人公のラブラック=ベルが経験した「ただ一人で存在することの苦しみ」が描かれた上で、それを克服して「ヒトとして存在する」ことを選ぶのではないかと予想していた。

そんな私の予想は、半分的中し、半分は外れた。
確かに、かばんちゃんは多くのフレンズとの交流を通じて「ヒト」は何ができるのかを知り、最終話においては「ヒトとして存在する」ことに対する肯定を獲得したように見える。しかし、本作においてその過程は常に肯定で満ちたものだった。
冲方先生流の「絶望から希望へ」の転換を好む私としては、否定を徹底的に描くことで逆説的に最後に残された肯定を浮かび上がらせる、という物語の文法には親しみがある(「積極的な自己否定の先にあるのは、絶対的な肯定だ」(『蒼穹のファフナー』1期12話より))し、ある意味で慣れている。しかし、本作の「肯定し続けることで肯定する」という手法には、それに共感できるかどうかは別にして、少なくとも新鮮な驚きがあった。


本作は、2つの意味で「絶対肯定の物語」だった。

① 「絶対に」肯定する物語
本作の登場人物は徹底的に、「絶対に」他者の存在を肯定する。
それは、物語冒頭のかばんちゃんとサーバルの何気ないやり取りからも窺える。

「しっぽと耳のないフレンズ?珍しいね!」(1話)

ここでは、ある意味で異形である「ヒト」の外見的特徴が、実に自然に、肯定的に受け容れられている。『ばいばい、アース』では同じように異形である「ヒト」の外見が、「……なンだか、気味が悪いサ」(『ばいばい、アースⅠ』(角川文庫版)11頁)と否定的に捉えられるところから物語が始まることとは実に対照的に。
その後の物語においても、本作は「できないこと」を否定しない。精々、「フレンズによって、得意なこと違うから」(1話)とか、「個性的なフレンズだったね」(複数回)とか、個性の範疇として捉えるのだ。一方で、他者の「できること」に対しては素直に称賛を口にする。

結果、本作は「たのしー!」「すごーい!」という印象的に繰り返されるフレーズに象徴されるように、「肯定の言葉」の奔流とも呼べるほどに、全編にわたって徹底的に「肯定の言葉」を投げかけ続けた。

② 「絶対的に」肯定する物語
そしてもう一つ、本作の構造に直結する重要な点として「登場人物は、1種類の動物につき1人しか登場しない」という点がある。つまり、作中においてジャパリパークに現在する人物として登場する限りにおいて、同じ種類の生物は他に登場しない。
私としては、本作のサンドスター周りのSF的仕掛けは、本来群れで生活する生物が個体で存在しているという不自然な状況を作り出すために設定された舞台装置であることが最も重要な物語構成上の意義であるように思うのだ。

すなわち、この設定の効果として、上記の①によって与えられる肯定は、「相対的な」肯定ではなく「絶対的な」肯定となる。あらゆる種における相対的な内部比較から解放され、その肯定は、種そのものに対する絶対的肯定として取り扱われることになる。
かばんちゃんが道具の使い方が上手いと肯定されるのは、かばんちゃんという個体が「ヒト」という種の中で相対的に上手いからではなく、「ヒト」という種が持つ特長として絶対的に肯定されているのだ。


かくして、本作における「絶対肯定の言葉」の奔流は、メタ的に言えばかばんちゃんという媒介を通じて、視聴者である「ヒト」に遍く浴びせられる。

それは、(私には実感できないが)世間の反応を見る限りは、少なくないヒトにとっては心地良かったのだろう。
そのヒトが個人として(ヒトの中で相対的に)優秀であるかどうかとは全く異なる次元において、ヒトという種そのものに対して無条件に与えられる絶対肯定。本作においてかばんちゃんが至ったように、そうして与えられる他者からの肯定を自己肯定へと導くことができるのであれば、きっと健全で優しい在り方だ。

他方で、他者との比較において自己肯定感が失われがちであると指摘される現代人(特に成人)にとって、それは実は、(誤解を恐れずに比喩的に言えば)ある種の薬物のような暴力的な多幸感を生じさせるものであったのではないかと思うのだ。
本作にある種のユーモアを込めて「中毒」や「依存症」が語られる理由もそこにあるように思う。日常では容易に手に入らない他者からの絶対肯定が、本作ではこんなにも簡単に、繰り返し、強烈なインパクトを伴って手に入る。他者からの肯定を求めていればいるほど、あるいは、自己に内在する肯定感が低ければ低いほど、本作は「気持ちの良い」作品であっただろう。ジャパリパークという理想郷があまりにも甘美で、そこから出たくなくなるほどに。
無論、他にも本作の魅力を色々と挙げることはできるだろうが、本作が社会問題と呼べるレベルで熱狂的に支持された要因の一つは、きっとそんなところにあるのではないだろうか。


最後に私の個人的な評価を。

評価:6(普通に満足)

色々な作品を観てきた中でも本作の客観的な完成度は高い方であると思うし、観ている間はまずまず楽しめたと思う。ただ、観ていて楽しい作品であるということとは別に、純粋な好みの問題として、私はこの作品にどうしても入り込みきれなかった。
常日頃から他人の評価に関心はないと語っている通り、私は他人からの肯定に価値を見出さないし、それがどれだけ繰り返されたところで、それによって自己肯定に至ることはない。その意味で、本作は私には響かなかったし、かばんちゃんが他者からの肯定を通じて自己肯定に至るという物語全体の構造にも共感することは難しかった。
私は、他者による絶対肯定に囲まれて幸せに見えるかばんちゃんよりも、孤独や懐疑、自己否定を超えて自己を絶対肯定する在り方を獲得したラブラック=ベルに、より人間としての魅力を感じる。
冲方先生の作品の中でも『ばいばい、アース』が上位3つには確実に入ってくるくらい好きな私が本作への評価を下げ過ぎているきらいがあるかもしれないが、ともかく、この作品は私には優し過ぎたし、暖か過ぎた。もう少し孤独で冷たい物語の方が、私には合っている。

この作品を素直に楽しめる感性が私に備わっていなかったことは残念だったが、ともあれ、単に観ていて楽しいという以上に、ヒトの存在の肯定というテーマ性からも興味深い作品であった。