[経済づくり]持続可能経済事業の推進と援助

経済づくりコラム


第1回 グローバリズムの限界

現在、グローバリズムという言葉はいくつかの異なる意味に使われている。ある人々にとっては、グローバリズムとは、世界平和と人種間の平等を意味する肯定的な理念である。他の人々にとっては、グローバリズムとは、先進国資本による低開発国の搾取を意味する否定的なコンセプトである。環境・生態系の調和という観点からすれば、確かに人類を含む地球上の生命は大きな運命共同体である。そういう意味で用いるなら、グローバリズムは一つの現実である。

しかし今、グローバリズムという言葉の最も一般的な意味は『世界中の国々の市場を統一しグローバル・ワン・マーケットをつくるべきである。それが世界中の人々の幸福になる』という思想である。特に金融界では、この考え方が強い。金融に重きを置くグローバル・ワン・マーケット主義を『金融グローバリズム』と呼ぶ事にしよう。

『金融グローバリズム』は人類を幸せにするであろうか。筆者の答えは明確に『否=NO』である。世界経済のバランスのとれた発展を実現する為には、グローバル・ワン・マーケット主義(グローバリズム)は有害である。特に、金融グローバリズムは、人々を幸福にしないどころか、人々の生活の基礎となっている実体経済をすら破壊してしまうことがあるのだ。


自由貿易からグローバリズムへ
今の経済グローバリズムの原点はどこから来ているのであろうか。それは、1930年代の保護貿易主義とブロック経済化への反省からである。1929年アメリカのウォール・ストリートから始まった世界大恐慌は、各国に保護貿易主義を引き起こし、世界をブロック経済化させた。そして、保護貿易主義とブロック経済化は、世界経済をさらなる不況に陥れた。

これを機に、ドイツではナチズムが、イタリアではファシズムが抬頭した。この二国は、国家社会主義による復活の道を歩んだ。1932年(昭和7年)日本は満州国を建国した。これを悪く言う人もいるが、日本としては、満州国という新天地を造る事により、大不況からの脱出を画策したのである。アメリカ風に言えば、満州国自体が日本にとっての『ニューディール』であったのである。

米英仏と日独伊の対立は、当時『持てる国』The Haves と『持たざる国』The Have-nots との対立といわれた。日独伊の後進資本主義国は、国内資源が乏しいだけでなく、植民地も少なかった。結局は『持てる国』と『持たざる国』の対立が、第二次世界大戦に発展したのである。第二次世界大戦後は、このプロセスへの反省から、自由貿易こそが世界各国の繁栄と平和をもたらすものと考えられ、貿易自由化交渉が世界的に継続的に行われて来た。その中心となったのが、GATT(General Agreement on Tariffs and Trade) 「ガット」(関税と貿易に関する一般協定)という協定であり、同名の国際機関であった。これが、現在のWHO世界貿易機構の前身である。

確かに、第二次大戦後の日本経済の高度成長を支えた柱の一つは、ガットに基づく自由貿易であった。1930年代にこの体制があったなら、日本は戦争をする必要などなかったのである。しかし、この自由貿易推進の過程で、過度に単純なイメージ化が進行していた事は否定できない。 「自由貿易=善」「反自由貿易=悪」という短絡的な思考パターンが、多くの人々の心を支配していった。この自由貿易主義が、更に進化をとげて、グローバリズムへと変身していったのである。


国内事情を支配するグローバリズム
ソ連が崩壊したのは1991年。この前後を境として、自由貿易主義がグローバリズムに変身する。『モノの貿易から、サービスの貿易の自由化へ』というモットーが、当時さかんに宣伝された。筆者がハーバード大学の大学院・国際問題研究所で研究生活をしている1980年代前半、すでにこのモットーが研究者の間で公然と議論されていた。

しかし、貿易自由化論議が『モノからサービスへ』と変質した事は、実に重大な事を意味する。サービス貿易とは何か。それは分かりやすく言えば、アメリカの生命保険会社が日本人に保険を売る、という事である。アメリカの銀行や証券会社が、日本人相手に日本で商売するという事なのである。という事は、即ち国内の法的規制を変えさせる事を意味する。

外資から見れば、郵便貯金や簡易保険は、政府の保護を受けていて公正な競争ができないという不満を持っている。だから郵政を民営化しろ、という要求になってくる。つまり、『サービス貿易の自由化』といわれていたものは、各国の国内法の規制を排除する『グローバリズム』、特に『金融グローバリズム』を意味したのである。

各国にはそれぞれの国内事情がある。それを無視して、世界均一の市場をつくっていこうという事になってしまうのである。それは即ち投機的資金が一瞬にして、世界を駆け巡り、世界経済を撹乱する事をも可能にしてしまう。1997~98年にタイから起きて、東アジアを席捲した経済危機などは、その好例であろう。

農業を含むモノ造りにはスピードと移動に限界がある。しかし、マネーの移動には限界がない。正確に言うならば、マネーの移動に限界を設けていた規制を撤廃すべきだ、というのが金融グローバリズムの主張であり、世界はその方向に動かされてきた。

本当に規制緩和が正しいのか、金融グローバリズムが世界を幸福にするのか。その検証はなされていない。アメリカを代表する経済学者にジョセフ・スティグリッツという人がいる。クリントン政権の大統領経済諮問委員会委員長を務めた人物で、かつてはグローバリスト派であったが、5年ほど前に転向して『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』(邦訳・徳間書店刊)という本を出版した。専門家の中でも、見えている人には、グローバリズムの危険性は見えているのである。

純経済的な事に加えて、国際テロリズムや鳥インフルエンザやSARSのような新しい感染症の問題も、グローバルなヒトとモノの移動がもたらす危険である。グローバリズムに適当な限界を設けるべき時が到来しているのである。