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2007年11月30日

「J.BOY/浜田省吾」(後編)

前回に続き、9回目の今日ピックアップしたのは、浜田省吾「J.BOY」(後編)でした。

1980年10月にリリースされた6枚目のアルバム『Home Bound』。浜田省吾自身が、自分のやりたい音楽を手に入れた…と表現されるこの作品のリリース直前から、再びライブツアーはスタート。そしてそのツアーの途中に、ある一人のイベンターが浜田省吾にとって決定的転機となることを提案します。
「日本武道館でコンサートをやろう!」。
当時の浜田省吾のコンサートは、東京ではなく地方都市のホールが中心。しかも必ずしも満員にはならないという状況の中で、武道館コンサートの開催は、あまりにも無謀なことに思えました。
その“無謀”な目標に向け、「強力なアルバムをつくりたい」という強い想いを得た浜田省吾は、7枚目のアルバム『愛の世代の前に』をわずか2週間余りで作ります。
「70年代の浜田省吾は、どちらかと言うとシャイで、人に気を許さない警戒心の強い人…そんなイメージがあったんですが、80年の『Home Bound』以後は変化が見えました。心の扉を開けた…そんなイメージを受けました」とデビュー直前から30年経った今もなお浜田省吾を見つめ続けている作家の田家秀樹は、語っています。
そして、そんな浜田省吾の心の変化に合わせるかのように、周囲の評価も変わりはじめ、無謀と言われた武道館コンサートのチケットは、わずか6時間で完売するのでした。
日本武道館を成功させた勢いで、浜田省吾は、地元広島郵便貯金ホール(現在のALSOKホール)を含む全国ツアーをスタート。1982年の春と秋、合わせて約140本ものコンサートを行います。この時初めてネーミングされたのが、今もなおツアータイトルに名付けられている「On The Road」でした。
そして、そのコンサートツアーの合間をぬって9枚目のアルバム『PROMISED LAND』をリリース。「自分の中では頂点に立つアルバムだと思っています。たとえば「君が人生の時…』までを習作時代とすると、最初の、一番充実していたアルバムじゃないのかなと思います」と浜田省吾は後に振り返っています。 作家・田家秀樹も、「『Home Bound』『愛の世代の前に』『PROMISED LAND』のアルバム3部作は、浜田省吾が辿るべくして辿り着いた、アーティストとして完成されつつあることを示していた作品だ」と語っています。
その後、バラードセレクションの『SAND CASTLE』(1983年12月)のリリース、
横浜スタジアムでのライブ(1984年4月)などを経て、浜田省吾は初めてセルフプロデュースのアルバム『DOWN BY THE MAINSTREET』をリリースします。
「このアルバムの(曲の)主人公は、みんな少年なんです。小さな工業都市で育った、少年。それはまさしく自分自身に重なるんですけど、その少年たちが、その後どうなっていったか…それが次の作品に繋がっていったんですね」と浜田省吾は振り返ります。
一人の人間の成長を、アルバムとして展開すること…それが次のアルバムのテーマでした。自分の個人史を成長の記録として残したい。その想いで作られた楽曲の数々。ひとつひとつその楽曲を並べてみた時、そのどれもがアルバムのテーマにフィットして、結果的にアルバムは2枚組でリリースされます。
1986年9月、そのアルバムに付けられたタイトルは『J.BOY』。“Japanses Boy”を略したこのタイトル。「浜田省吾の“個人史”のアルバムとしても聞くことのできるアルバム『J.BOY』。その中でも、大事な曲がアルバムタイトル曲の「J.BOY」と「AMERICA」。特にアルバム1枚目のA面3曲目に収録された「AMERICA」の中で、初めて“J.BOY”という言葉が登場するんですね。アメリカに憧れ続け、アメリカン・ドリームを追い求め渡った一人の少年の、自己発見の物語。まさにその物語の主人公が、浜田省吾自身なんです」。そして、「「AMECICA」が自分への質問のような曲なら、その答えになっているのが「J.BOY」です。デビューして10年かかってたどりついた答え…それがこの「J.BOY」なんですよ」と当時、浜田省吾の姿を見つめ続けていた作家・田家秀樹は振り返ります。
1986年9月にリリースされたこの12枚目のアルバム『J-BOY』。浜田省吾自身にとって初めてのチャート1位を記録すると、4週間、その座を明け渡すことはありませんでした。
「アルバム『J-BOY』は、自分がどういう人間なのか?それを浜田省吾自分自身が証明したアルバムだったのではないでしょうか?」と作家・田家秀樹は語っています。

世代や年代を超えて、聞く人それぞれの青春の姿を重ね合わすことのできる、
ロックの名曲の誕生の瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.ラストショー/浜田省吾
M2.愛の世代の前に/浜田省吾
M3.AMERICA/浜田省吾
M4.J.BOY/浜田省吾

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2007年11月29日

VOL.9 「北海道ユニファーム産 キタアカリ」

VOL.9 「北海道ユニファーム産 キタアカリ」

フレスタが品質、おいしさ、安心、安全などにこだわった商品を、自信をもっておすすめするBimi Smileブランド。
 きょうご紹介するのは、北海道の新千歳空港から車で30分余りの場所にある、フレスタおよびBimiSmile指定農場で栽培されたじゃがいも、フレスタBimiSmile「北海道ユニファーム産 キタアカリ」です。
 
香り高く、強くて上品な甘みを持つこのじゃがいも「キタアカリ」。その甘さに加えて、果肉が黄色みを帯びてホクホクしていることから、別名「栗(くり)ジャガ」「黄金男爵(こがねだんしゃく)」とも呼ばれています。
 北海道特有の寒暖差がもたらす甘み、そして粘土質の畑で栽培されることで美味しさがしっかり詰め込まれた、このBimi Smile「北海道ユニファーム産 キタアカリ」。
雪が降り、寒さが厳しくなるこれからの季節だからこそ、よりいっそう増した甘さを楽しむことができます。

ポテトサラダ、バター添えの蒸(ふか)しいもなどはもちろん、小さく一口サイズに切って油で揚げ、さっと塩をかけて食べると、よりいっそうホクホク感を楽しめます。
肉じゃがやおでんなど煮込み料理にもおすすめですよ。

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2007年11月23日

「J.BOY/浜田省吾」(前編)

8回目の今日ピックアップしたのは、浜田省吾「J.BOY」(前編)でした。

1952年12月29日、広島県竹原市に生まれた少年は、小学生の時、江田島の警察官舎の部屋で
ラジオから流れてきたビートルズに魅せられ、自分がミュージシャンになることを夢見るようになります。少年の名前は浜田省吾(はまだ・しょうご)。浜田省吾は高校に進むと友人とバンドを結成します。当時は、ベトナム戦争の反戦運動と、大学の在り方を問う学生運動が重なりあい、世の中が揺れ動き、何かが変わろうとしている時代の真っ只中でした。
大学進学をキッカケに上京した浜田省吾は、広島時代の仲間とバンド「愛奴」(あいど)結成。プロミュージシャンという夢を追い求め活動を始めますが、行き詰まりを感じてバンドは一時広島に戻ります。しかし、1974年の春、広島フォーク村出身で、既にプロデビューを果たしていた吉田拓郎のバックバンドとして「愛奴(あいど)」は誘いを受け、浜田省吾はプロのドラマーとして初のステージを踏みます。そして翌年1975年5月、愛奴としてアルバム『愛奴』、シングル「二人の夏」をリリース。念願のプロデビューを果たします。しかし、メンバー個々の音楽性の違い、スタッフとの方向性の違いから、その年の9月に浜田省吾は早々とバンドを脱退。ソロアーティストとしての道を歩いていくことを決めます。
1975年の暮れ、レコード会社、事務所も決まらない“行きどまりの日々”を過ごしていた浜田省吾は、23歳の誕生日の前の日、ひとつの曲を完成させます。どんな青春映画のオープニングシーンよりも、鮮烈なイメージを思い浮かべさせてくれるその曲が、ロックアーティスト浜田省吾のオープニングを飾ることになります。
1976年4月、シングル「路地裏の少年」とアルバム『生まれたところを遠く離れて』でソロデビューを果たした浜田省吾。シンガー・ソング・ライター浜田省吾の本質が随所に垣間見えるこの作品ですが、リリース当時、アルバムの評価は、評論家の間でも肯定的な意見と否定的な意見に極端に分かれていました。
その後、1年おきにリリースされていくアルバム『ラブ・トレイン』(1977年5月)、『Illumination(イルミネーション)』(1978年9月)、『MIND SCREEN(マインドスクリーン)』(1979年5月)は試行錯誤のくり返しでした。浜田省吾ストーリー「陽のあたる場所」の作者であり、デビュー直前から30年経った今もなお浜田省吾を見つめ続けている作家の田家秀樹は当時の浜田省吾の印象についてこう語ってくれました。
「1970年代の浜田省吾の音楽は、シンガー・ソング・ライターとしてアルバム毎にいろいろなことを試していたような気がします。自分がどんな音楽をやりたいか?その答えを見つけようと必死でもがいていました」。
デビューアルバムのプレスはわずか3,000枚。4枚目のアルバム『MIND SCREEN』でやっと1万枚。商業的にも成功をしているとは言えない状況の中、浜田省吾はアルバムリリース後には全国をキャンペーンとコンサートで回り、少しずつ支持者を増やしていきます。そんな中CMタイアップの話が浜田省吾のもとに舞い込みます。
1979年7月、日清食品カップヌードルのCMソングに起用されたこの曲はスマッシュヒットを記録します。コンサートの本数も増え、ホールコンサートとしては初めての満員も記録します。
そして、ヒットシングル「風を感じて」をフューチャーしたアルバム『君が人生の時…』を12月にリリース。「この作品では、自分で詩を書くってのを、やる前に決めていたんです。もう作詞家なんかに頼まないって。でも、テーマは完全に煮詰まっていた。だったら、もう自分のことを歌おうと。自分のことだったら、少なくとも正直に歌えるんじゃないかなって思ったんですね」と浜田省吾は田家秀樹の「陽のあたる場所」中で語っています。ヒットは生まれた。しかし、まだ答えは出ていません。
1980年、それは突然訪れました。ソロデビュー前から浜田省吾の音楽に多大なる影響を与えていた、アメリカのロックミュージシャン、ジャクソン・ブラウン。そのバンドメンバーとのレコードディングチャンスが浜田省吾に舞い込んだのです。念願のアメリカ録音。6枚目のアルバム『Home bound』が、1980年10月リリースされます。
何も失うことがない、もう、何も要らない…それまで貯まっていたものが、堤防が決壊して溢れでるように怒濤のように流れていくような、それまでの浜田省吾の作品と、はとても同一人物が作ったものとは思えない作品が誕生した瞬間でした。「アルバム『Home Bound』は、当時アメリカの現実を歌っていたB・スプリングスティーンやJ・ブラウンの影響を受けて、ロックという音楽へ浜田省吾の心の扉が開かれた作品。日本人という立場で、ロックをどう表現すればいいのか?それまで彼らの作品を通して浜田はエールを受けていたんです。そしてこのアルバムで自分のやりたい音楽を浜田省吾は手に入れたんです」と田家秀樹さんは語っています。浜田省吾は『J.BOY』に向け走り始めたのでした。

今日OAした曲目
M1.二人の夏/愛奴
M2.路地裏の少年/浜田省吾
M3.風を感じて/浜田省吾
M4.終りなき疾走/浜田省吾

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VOL.8 「デニムエコバッグ」

VOL.8 「デニムエコバッグ」

フレスタが品質、おいしさ、安心、安全などにこだわった商品を、自信をもっておすすめするBimi Smileブランド。
 きょうご紹介するのは、使えば使うほど愛着が湧くエコバッグ、そして地元広島のもの作り文化へのリスペクト、この二つをコンセプトにした、フレスタ BimiSmile「デニムエコバッグ」です。今日は、この「デニムエコバッグ」デザインされた、担当の末広さんにお話をお伺いしてみました。

 このエコバッグは、ジーンズの縫い方のチェーンステッチだったり、太番手の糸を使ったりしてジーンズらしさを全面に出しています。たくさん物が入るので、パソコンなども入れて持ち運びできます。シンプルな形ですが、待ちが広がってたくさん物が入るし、コンパクトになって持ち運びができるところがいいですね。
また使えば使うほど持ち手の部分にあたりが出て、自分だけの一枚ができるのがポイントです。それを楽しみながら使ってもらえればと思います。

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2007年11月16日

「木蘭の涙/スターダスト・レビュー」

7回目の今日ピックアップしたのは、スターダスト・レビュー「木蘭の涙」でした。
前身となるバンド「アレレのレ」が、1976年4月、日本大学芸術学部放送学科に入学した根本要を中心に結成されます。その後「ジプシーとアレレのレ」に改名したバンドは、1979年、当時音楽を目指すアマチュアミュージシャンの登竜門ヤマハポピュラーソングコンテストに出場、楽曲「オラが鎮守の村祭り」で優秀曲賞を受賞します。
それから2年後の1981年5月、「ジプシーとアレレのレ」はバンド名を「スターダスト・レビュー」に変え、アルバム『スターダスト☆レビュー』、シングル「シュガ—はお年頃」でデビューを果たします。

彼らの音楽は、フュージョンをとり入れた歌謡曲的なブギウギ、スウィング調のコミカルなバンドサウンドが特長で、決してヒット曲を連発するようなグループではありませんでしたが、根本要のトークを中心としたエンタテインメント性タップリのライブはデビュー前から評判で、「関東十番勝負ツアー」「関西十番勝負ツアー」などと名づけられたライブツアーで、彼らは一年のほとんどを全国のライブ会場で過ごしていました。そして、それはデビューから25年を経た今も変わらずにいます。
2007年、広島市民球場で行われたさだまさしのライブにシークレットゲストで登場した根本要は、自分たちスターダストレビューがヒット曲に無縁のアーティストだと話していましたが、実は、大ヒットこそは無いものの、いくつかのタイアップソングを中心にそこそこのヒットは記録していて、中でも、カルピスのCMソングとしてリリースされたこの5枚目のシングルは、スターダストレビューの歌声の魅力を多くの人に知らしめることになります。
デビュー当初、コミカルなエンタテインメント性の高い楽曲を立て続けにリリースしたスターダストレビューでしたが、この夢伝説と前後してリリースされた4枚目のシングル「トワイライト・アヴェニュー」と6枚目のシングル「想い出にかわるまで」は、今でもスタレビファンに愛される初期の代表曲で、バラードのスターダストレビューを印象付けることになります。
しかし、「夢伝説」を除いては、どのシングルも、やはり“ヒット曲”というにはちょっとさびしい売り上げ枚数に留まります。ただ、その一方で、ライブの評判は、うなぎのぼりで、デビュー翌年の82年にはすでにイベントなどで年間67ステージを実施。「夢伝説」をリリースした84年には、広島も含めた全国のホールでツアーを実施しています。
1992年には、彼らの歌声の魅力をタップリ聞ける「FACE TO FACE」と、根本のトークを中心にエンタテインメント性を詰め込んだ「SECRET FACE」という2枚のライブアルバムを相次いでリリース。
“楽しいライブならスタレビ” が、ポップスファンの合言葉となっていきます。
そんな彼らの曲作りの基本は、メンバー全員が曲を書いたり詞を書いたりすること。ライブの合間をぬって楽曲制作を行う時には、メンバーみんなが作った曲を持ち寄って選曲会議を開き、それぞれの作品を批評し合うそうです。1993年3月にリリースされた15枚目のアルバム「SOLA」(そら)も、同じ様に選曲会議が行われ、その中にその曲がありました。
「メンバーみんな、ライバル心もあって、なかなか手放しで他のメンバーの曲を褒めることはしないんだけど、ベースの柿沼清史(かきぬま・きよし)が作ってきたこの曲だけは、みんな「これはいい曲だ」って歓声をあげたね。」と、根本要は当時の様子について振り返ります。
そして「家の近所のあぜ道を歩いている時に、思い浮かんだ…」とベースの柿沼清史が語る、どこかノスタルジックさを感じさせてくれるメロディは、「大陸の恋」と仮タイトルが付けられます。この曲に、「スタンダードナンバーを作るのが夢だった」という作詞家・山田ひろしがつけた詞は、アジアンテイストの中に、どこか和のエッセンスを感じさせる情緒的なものでした。当初、アルバム「SOLA」収録曲の1曲に過ぎなかったこの曲。直後に行われたツアーでファンの反応を感じとったメンバーは、アルバムをリリースした後にシングル化を決めます。それは「こういう曲で世の中にスタレビを知られたい」というメンバーの強い意志からのことでした。
「曲にはそれぞれ意味があって生まれてきているから、ひとつの曲がクローズアップされるのは嬉しくないんだけど…この曲が、スターダスト・レビューの名前を広めてくれているのも事実。自分の中には、こんな経験はないんだけど、聞く人の中には当然こんな経験をしている人もいるはず。だから聞く人がそれぞれ自分自身の中で受け止めて、この曲を聞いて癒してもらえることができれば嬉しい」と根本要は言います。
2005年にはピアノと歌のみのアコースティックバージョンとしてリメイク。ウイスキーのCMソングとして起用され、話題を呼びます。ウイスキー同様、時が経つにつれその味わいを増していくJ-POPの名曲の誕生でした。

最後に「ライブで演奏する時、その日の雰囲気に合わせてバンドバージョンとアコースティックバージョンを使い分けているんです。その方が曲の良さが伝わるでしょ?」と根本要は話してくれました。

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今日OAした曲目
M1.シュガーはお年頃/スターダスト・レビュー
M2.夢伝説/スターダスト・レビュー
M3.銀座ネオンパラダイス/スターダスト・レビュー
M4.木蘭の涙/スターダスト・レビュー

2007年11月15日

VOL.7 「さぬきの夢うどん(100g×4束)」

VOL.7 「さぬきの夢うどん(100g×4束)」

フレスタが品質、おいしさ、安心、安全などにこだわった商品を、自信をもっておすすめするBimi Smileブランド。
 きょうご紹介するのは、讃岐うどんのためだけに栽培された香川県産小麦「さぬきの夢2000」を使った、フレスタBimi Smile「さぬきの夢うどん」(100g×4束)です。
 この香川県産小麦「さぬきの夢 2000」は、香川県が、さぬきうどんに適した小麦粉を…との思いを込めて、8年という歳月をかけて開発に取り組み、2000年に開発に成功しました。この小麦から作られた小麦粉は、香川県で生産された農産物や農産加工品の中から、特に選りすぐったもののみを認証している『K.ブランド産品認証』商品にも選ばれています。
 この小麦粉100%に、瀬戸内海で作られた塩が入った水を加えて打ったのが、フレスタBimiSmile「さぬきの夢うどん」です。太めの麺なので、少し長めの15分程度熱湯でゆで上げたらできあがりです。
釜上げうどんがおすすめですが、生卵を割りほぐした器に、ゆで上がった熱々のうどんを入れてひと混ぜし、青ねぎを入れてだし醤油で食べる釜玉うどんなら完璧です。
 讃岐うどんの特長である、太めでコシのある、もちもちっとした食感を、フレスタBimiSmile「さぬきの夢うどん」ならご自宅で手軽に味わうことができます。
 これからの寒くなる季節、熱々のうどんで体の芯まで温めてみてはいかがですか?

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VOL.6 「ビーフカレー(200g)」

VOL.6 「ビーフカレー(200g)」

フレスタが品質、おいしさ、安心、安全などにこだわった商品を、自信をもっておすすめするBimi Smileブランド。
 きょう、ご紹介するのは、厳選したこだわり素材をベースに、30種類のスパイスを絶妙に配合した、スパイシーでコクのあるレトルトタイプのカレー、フレスタ Bimi Smile「ビーフカレー(200g)」です。
 この「ビーフカレー」、原料に国産牛、ジャガイモ、人参、たまねぎなどの国産野菜、国産小麦粉、国産丸大豆醤油に加えて、オーガニックトマトケチャップを使用しています。
 またオリジナルブレンドした30種類ものスパイスを絶妙に配合することでスパイシーでコクのあるルウに仕上がっています。ビーフエキスや化学調味料を一切使わず、国産原料を主体に開発したビーフカレーなので、素材そのものの自然な美味しさを味わうことができるんですね。
 熱湯で5分から7分間温めるだけで、炊きたて熱々のご飯の上にかけると、カレーならではのスパイシーな風味が部屋中に広がっていきます。ルゥとご飯を一緒に口にほうばると、お口の中全体に辛味がじわっと広がっていく、お子様から大人までカレーが大好きな人にはたまらない瞬間です。
 フレスタ Bimi Smile「ビーフカレー(200g)」、どうしてもカレーが食べたくなったとき、手軽にどうぞ。

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2007年11月 9日

「線路沿いの恋/Bluem of Youth」

 きょうピックアップしたのは、今から約10年前。HFMの番組をキッカケに広島エリアで大ヒットした、
Bluem of Youthの「線路沿いの恋」でした。
広島・牛田中学校の同級生だった別所ユージ(べっしょ・ゆうじ)と松ヶ下宏之(まつがした・ひろゆき)の二人が、ともに音楽活動を目指して上京した際に東京で結成した「bluem」。95年に、青春まっさかりといった意味をこめた「bluem of youth」に改名してメジャーデビューを果たします。
95年10月10日 1stシングル「最後の願い」でデビューを果たしたBluem of Youth。続いて12月に2ndシングル「10 CALLS AFTER」を、翌年96年2月には1stアルバム『bloom of youth」を立て続けにリリースしていきます。
ある日、たまたま入ったそば屋で、松ヶ下は別所から1冊のノートを渡されます。そこには別所が、自由な発想で書きとめていた幾つかの詞がありました。その中のひとつの詞が松ヶ下の目にとまります。
「その詞を見た瞬間、等身大の別所ユージの姿が見えましたね。これはどこまでが彼の実体験なのかなって。書いてある詞の内容を大事にして、何かに影響されるのではなく、素直に浮かんできたメロディをそのまま形にしていくのがベストだと思いました」と松ケ下は当時を振りかえります。こうして生まれたメロディが「線路沿いの恋」の原型となります。
別所も、「曲として陽の目を見なくてもいいって思っていた詞だから、いい意味で自分がさらけだせましたね」と語っています。

やがて曲は完成しますが、すぐにCD化にはなりませんでした。当時、ビジュアル系ユニットとして売り出されていた彼らには、この曲はイメージにそぐわない、とレコード会社から判断されました。しかし彼らは、この曲を敢えてライブで演奏。その演奏を聞いたファンからのリクエストの声が高まり、そのリクエストに応える形で遂にCD化が決定します。それも、当初はアルバムの中の1曲にというスタッフの意見を、“シングルとして発売したい”という二人の思いが押し切ります。

 リリース直前、HFMのリクエスト番組「J-POP SUPER COUNTDOWM」を中心にヘビーローテーションされたこの曲は、当時のリスナーからの圧倒的な支持を得てHFMのチャート1位を獲得します。
当時の盛り上がりについて別所は、「初めは信じられなかったですね。でも友人からもその話が伝わってくるようになり、日増しに実感が湧いてきました」と話しています。松ヶ下も「正直嬉しかった。自分たちの本意ではない、作られた形で曲が売れるのでなく、リスナーにちゃんと支持されて曲がヒットする。自分に正直にやってきて良かった」と感じたそうです。
 
 「線路沿いの恋」から3年後、レコード会社との再契約をかけたTVのバラエティ番組の企画で、ロシア国内の各地でストリートライブを決行。再契約後にリリースしたシングル「ラストツアー〜約束の場所へ〜」が、オリコンチャート初登場第2位を記録し、Bluem of Youthは一気に全国区の人気者になります。ただ、広島FMで、いまでもBluem of Youthで最もリクエストが多いのは、「線路沿いの恋」です。

今日OAした曲目
M1.BE BLUE/BOOWY
M2.最後の願い/Bluem of Youth
M3.Truth/Bluem of Youth
M4.線路沿いの恋/Bluem of Youth

2007年11月 2日

「歌うたいのバラッド/斉藤和義」

「“愛”って言葉を歌詞に使いませんよね、とインタビューで言われ、それなら使わずにおこうと思ったんですが、でもこの曲にはこの言葉がないと、何か煮え切らないと思い書いたんです」

斉藤和義本人のコメントでスタートした、第5回目の今日紹介したのは、斉藤和義『歌うたいのバラッド』でした。今回は、アーティスト本人のコメントを交えての番組でしたが、いかがでしたでしょうか?
小学6年生のとき、母親が買ってくれた1本のアコースティックギターから、斉藤和義の音楽人生は始まります。中3の文化祭で、友達と組んだバンドで人生初のステージ。高校進学後もギタリストとして活動。大学入学後、先輩の影響で曲作りを始め、21歳の時、プロミュージシャンを目指し上京します。その後、数々の経験を重ねて、93年夏、シングル「僕の見たビートルズはTVの中」で念願のプロデビュー。上京から6年が過ぎた、27歳の夏の事でした。

デビューから4年余りが経過した97年2月。31歳となった斉藤和義は、作詞・作曲・演奏・アレンジ・プロデュースそのすべてを初めて一人で手がけた5枚目のアルバム『ジレンマ』をリリースします。『ジレンマ』は、チャート初登場8位を記録。その『ジレンマ』の収録候補曲に、「歌うたいのバラッド」の原形がありました。
「当時はまだ途中までしかできてなく、曲ができていく途中で、サビの部分が、どうしても2〜3年前に録っていた曲と同じになってしまう。まぁ、このサビはこの曲のものだったんだと・・・。2〜3年越しで、ふたつの曲が合わさり曲ができました」
「ボブ・ディランのアルバム『追憶のハイウェイ61』に『やせっぽちのバラッド』って曲があるんですが、バラードじゃくて、バラッドという響きがはまったんですね。それでタイトルに使おうと思いました。」

こうして生まれた「歌うたいのバラッド」は、97年11月、ニューアルバム『ビコーズ』の先行シングルナンバーとしてリリースされます。ただもともとレコード会社がシングルカットしようとしたのは、別の曲「月影」。「長い曲はラジオでかかりにくから…と。でも俺はこっちにして欲しい、と。前作『ジレンマ』が自問自答の作品だったので、その答えが『ビコーズ』という感じで、その最たる曲だったんですね。この曲はいわばどうやって曲をつくるかって曲で。いい曲というのは、あまりこねくりまわすようなものより、ラジオにたとえるなら、色んな周波数があって、そこにはひとつの曲が流れている周波数があって、その周波数にあわせたのが俺だったって感じ。そういう風に曲ができたらいいなと。」

常日頃から、自分は歌うより、ギターを弾くことの方が楽しいと公言してきた斉藤和義が、歌うたいとなって、愛してると綴ったこの曲。男も女も泣かせるラブソングの名曲の誕生でした。


今日OAした曲
M1.君の顔が好きだ/斉藤和義
M2.やせっぽちのバラッド/ボブ・ディラン
M3.月影/斉藤和義
M4.歌うたいのバラッド/斉藤和義

2007年11月 1日

VOL.5 「田辺農園バナナ」

VOL.5 「田辺農園バナナ」

フレスタが品質、おいしさ、安心、安全などにこだわった商品を、自信をもっておすすめする
Bimi Smileブランド。
きょう、ご紹介するのは、世界的なバナナの生産地、南米エクアドルで、広島県福山市出身の田辺正裕(たなべまさひろ)さんが生産管理している、フレスタBimi Smile「田辺農園バナナ」です。
 
この「田辺農園バナナ」、食べる状態にもよりますが、バナナの王様と呼ばれるフィリピン産スウィーティオなど、糖度の高いバナナと比べてもそん色のない糖度をほこり、甘さとコクを味わうことができるバナナです。
栽培されている田辺農園は、化学肥料、除草剤、殺虫剤を使わず、土壌の特性を活かし、茎や葉など、食べられる部分以外も無駄にすることなく肥料にして畑に還元する自然循環農法でバナナを栽培しています。
もともとはヨーロッパ向けに輸出されていたこの「田辺農園バナナ」、フレスタBimi Smile「田辺農園バナナ」も同じようにヨーロッパ基準の生産管理が行われているので、より安心して食べることができるのです。
 なんといっても日本人、しかも広島県出身の方が栽培しているというのも、うれしいですよね

このBimi Smile「田辺農園バナナ」、朝食や、ちょっと小腹が空いた時に、手軽にお召し上がりください。
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