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2019-07-04

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

「ほぼ日の学校」をよく聴講させてもらっているのですが
 昨夜も「ダーウィンの贈りもの」の授業に出ていました。
 テーマは「胎児の世界」です。
 お話くださったのは、産婦人科医の増﨑英明さんと、
 ノンフィクション作家の最相葉月さん。
 動く映像などもたくさん紹介されて、
 まったく新しい世界に踏み込んだという時間でした。
 詳しい内容は、いずれオンラインで発表されますが、
 いますぐに知りたい人は、「ほぼ日の学校」の
 ニュースのページをごらんください。

 なんていうんだろう、宇宙の話を聴いてるときとか、
 深海の話を聴いてるときと、同じかそれ以上の、
 大きな大きなストーリーを感じていました。
 当人として、胎児だったじぶんを想像する。
 講義のなかに貫かれていたのは、その、
 「じぶんが胎児であったという事実」だったと思います。
 そして、その胎児たちが「いのち」そのものであること。
 こう簡単に言ってしまうとあっけないのですが、
 ぼく自身はじぶんが胎児であったという事実に出会って、
 いままで感じたことのなかった感情が湧き起こりました。
 胎児だったじぶんを感じるというのは、
 知ってるつもりだったほんとのことに出会うということ。
 あの「未知との遭遇」という映画の宇宙人は、
 ほんとうは胎児だったのではないかとさえ思いました。

 「おれもさ、何センチという小さな胎児だったけど、
 そこからまぁまぁ、思えば長く生きてきたものだよ」と、
 ぼくは、冗談めかして友人たちに話しました。
 機械だったらとっくに壊れているだろうし、
 どれだけのマシンだって、これほどいろんな、
 たくさんの物語に出会えるものじゃないでしょう。
 ちょっとの偶然で、死んでいた可能性もあるし、
 曲がりくねった道の片隅で倒れていたかもしれない。
 でもね、老いてからでも長い間生きているものなぁ。
 こういう語りに「はじめは胎児だったんだよ、おれ」
 と付け加えると、なんだかとてもしみじみします。
 みんなそうなんですよ、みんな胎児だったんですよね。
 それが、背丈も伸びてさ、少々苦労もしてきたけれど、
 生きてるだけでもたいしたもんだよ、と、思うんです。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
いまに至ること、ぜんぶ胎児が覚えてきたんだもんなあ。


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