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最近、よく思うのですが、たいせつなことは、ほんの身近なところにあります。 それが古い歴史を持つ日本人の知恵だったのです。 |
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画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)我が国では1〜10までの数字を数えるとき、
昔ながらの「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、いつ、むぅ、なな、や、ここ、とぉ」
という言い方と、
「いち、にぃ、さん、しぃ、ご、ろく、なな、はち、くぅ、じゅう」という言い方があります。
これを数詞(すうし)といいます。
江戸時代でもそろばんなどでも明らかなように、算術に使うときは「いち、にぃ、さん、し・・・」の方を用います。
昔も今も「1+2」を、「ひぃたすみぃ」とは言いません。
「いちたすに」です。
にもかかわらず、ほんの少し前までの日本では、小学校にあがる前の子どもたちに数を教えるときは「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ・・」という数え方を教えました。
算術では「いちたすに」なのに、どうして「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ・・」という言い方を教えたのかというと、そこに実に深い意味があります。
このことは、以前にも一度当ブログに書いているのですが、あらためて考察してみようと思います。『ねずさんのひとりごとメールマガジン』 登録会員募集中 ¥864(税込)/月 初月無料! |
日本は3万年前には磨製石器を用いていた、世界最古の国です。
なぜここで磨製石器なのかというと、なんの加工もしていないただの自然石を道具として用いたのが旧石器時代、石を人が使いやすいように加工して用いるようになったのが新石器時代で、新石器時代に使われた「人が加工した石器」のことを磨製石器と呼びます。
世界で磨製石器が用いられるようになったのは、いまからおよそ8千年前だと言われています。
ところが日本では3万年前にはすでに磨製石器が使われていたことが、明らかになっています。
最初に発見されたのは昭和21年で、群馬県の岩宿遺跡からおよそ3万年前の磨製石器を発掘しています。
ところがその後の調査で、さらに下層から、およそ3万5千年前の磨製石器が発掘され、他にも日本国内では、秋田から奄美群島まで135箇所から400点余の磨製石器が出土しています。
いずれも3〜4万年前のものです。
このことについて、英国のJ・ラボックという考古学者は、
「日本列島の住民は世界に
先駆けること二万数千~三万年前に
新石器時代を迎えていた。」
と述べています。
世界の磨製石器の出現は、紀元前9千年~7千年頃に出現しますが、突出して早い時期に出現したものとして、
シベリアの2万年前のもの
ロシア南西部の紀元前1万6000年前のもの。
オーストリア中部の2万9000年〜2万1500年前のもの
など数例があります。
ところがこれらは異常に早過ぎる磨製石器であり、作成経緯等が研究されているのですけれど、すべて不明とされています。
ところが日本では、3万5千年前の石器から、1万6500年前の土器、その後の縄文式土器の変遷へと、歴史がちゃんと連続しているわけです。
これは実にすごいことです。
ちなみに長野県の貫ノ木(かんのき)遺跡から出土の55点、および沼津で発掘された3万年前の磨製石器は、いずれも伊豆諸島の神津島から運ばれてきた石材を用いていることが確認されています。
万年の単位で歴史を考えるときには、海面の高さがいまよりも140メートルも低く、いま大陸棚を形成しているところが、かつては陸地だったりもしたのですが、伊豆半島から神津島までは、水深が深いため、神津島が本州と陸続きになったことはありません。
つまり3万年前に日本列島に住んでいた私達の祖先は、そんな途方もない大昔に伊豆半島と神津島を往復して、しかも石を運んでくるということができるだけの航海術をすでに持っていたということです。
これまた、実にすごいことです。
ちなみに縄文時代の船としては、全国で約160艘がこれまでに発見されていますが、それらはいずれも丸木舟であるといわれています。
いずれも木を焦がして中を削ってくり抜いて船にしたものとされていますが、内海で航海するには、それで良いとしても、外洋航海をするときには、船の安定を増すために、おそらくアウトリガー付きの船を用いていたであろうといわれています。
ちなみにアウトリガー付きの船は、いまでもポリネシア地方などで使われていますが、十分に外交航海に耐えるものです。
3万年という歳月は、途方もない歳月です。
ここでなぜ磨製石器にこだわるかというと、一般に世界中の民族がもつ神話は、磨製石器登場の時代に作られたとされているからです。
なぜかというと、神話という体系を持つためには、一族が統一された目的を持って社会を維持する社会体制が必要だからです。
社会体制保持のために神話的思想が必要になるのです。
そして体制が生まれるためには、磨製石器の登場が要素となるというのが世界の考古学会の常識です。
すこし余計な話をしますと、猿の集団がそうなのですが、だいたい50頭くらいの集団なら、「アーウー」とか「キッキキー」といった擬態語だけでおよその意思疎通はできてしまうのだそうです。
ところが集団が150名を超えるようになると、集団内で社会的分業が始まり、互いの意思疎通のために言語が発達するようになるのだそうです。
とりわけ男性は狩りのために村を長期間留守にしたりしますが、そうなると村に残った女性たちにとっては、夫の浮気が一番の気がかりで、そのため特に情報交換のための言語中枢が発達したのだとか。
いまでも口喧嘩で、女房に旦那が勝てないのは、人類誕生以来の歴史が土台になっているわけです(笑)。
さて、集団組成のための神話が発達するようになると、集団の規模は食料をもたらすことができる範囲で、次第に大きなものとなっていきます。
そうして生成されたのが人々が生活する「ムラ」で、ムラの向こうにはお腹を満たすための「ハラ」があり、その向こうには「ウミ」と「ヤマ」があります。
そして「ムラ」の中には、「イエ」があります。
こうして日本語が形成されていくわけですが、神話に基づく神々と交信するために、人々は鹿の骨や亀の甲羅(こうら)を焼いて占いをし、神々の神託を得ようとしました。
骨を焼くと、そこにひび割れができます。
そのひび割れのパターンで、神様のご意向を知ろうとしたわけです。
ひび割れは、縦の一本割れから、二本割れ、ギザギザ割れ、穴が開くもの等々、様々な形を生みますが、私達の祖先は、それらを47種類にパターン分けし、それぞれに47音の音を当てることで名前を付けました。
その名前が、「あいうえお」の母音と、「かきくけこ、さしすせそ」といった母音+子音による音となり、その一音ごとにひび割れのパターンが当てられ、それが次第に記号化して、これが文字になりました。
いわゆる神代文字のはじまりです。
ただし、「/」や「\」といった記号だけでは、その意味がわかりません。
そのために、一音ごとの意味を解説するための記号も開発されました。
それがホツマ文字やカタカムナなどの記号文字です。
神代文字には、ひび割れのパターンそのものを示す文字と、これを解説するための記号文字の二種があるのはこのためです。
なかでも大切な音は、そのままものを数えるときに使う数詞にすることで、誰もが共通する文化にまで育てています。
それが「ひぃ、ふぅ、みぃ・・・」の数詞です。
ですから昔は「ひふみ」といえば、そのまま神様のお言葉とさえも言われたものです。
では、その「ひふみよ・・」はどのような意味を持っているのかと言うと、これは歴史が古いだけに諸説あります。
たとえば「ひふみ」は、それぞれ火・風・水を意味するという説もありますし、「ひ」は太陽だという説もありますし、あるいは根源のことという説、開くことを意味するという説、どれもそれぞれに歴史があり、説得力があります。
そうしたなかで私なりに納得できた意味が次のものです。
「ひ」 霊(ひ)のことです。
「ふ」 生(ふ)のことです。霊(ひ)から生命が誕生します。
「み」 身(み)誕生するのが「身」です。
「よ」 世(よ)身が織りなす世です。
「い」 齋(い)「いつき」とも言いますが、不浄を清めた神聖なという意味です。
「む」 無(む)は神聖を意味し無であることによって億兆に心が通います。
「な」 菜(な)食のことです。
「や」 家(や)住まいです。
「こ」 子(こ)子供たちです。
「と」 戸(と)戸がひらきます。
昔は子供が2歳か3歳くらいになると、たとえばお風呂から出るときに、お父さんに「十数えたら上がって良いよ」などと言われて、子どもたちは熱心に指を折りながら「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、いつ、むぅ、なな、やぁ・・・」と数えたわけです。
そして氏神様に参拝に行くと、そこで二礼二拍手一礼をして、神様にご挨拶をします。
そのとき、二拍するとき、はじめに両手を合わせ、右手をちょっとだけ(左手の第一関節くらいまで)引きます。
なぜそうするのかというと、何事も「ひ(霊)」が上、「み(身)」が下だからです。
そして神様と対話するのは、肉体である「み(身)」ではなく、自分の「ひ(霊)」です。
だから両手を合わすときも、「み(身)」をちょっと引きます。
二泊手したあとには、元通りに両手の指先を合わせます。
ご祈念が終わったら「ひ」と「み」を元通りに合わせておかないと、体と魂が別々になってしまったままになるからです。
「ひ」と「み」の関係がわかると、なぜ左大臣と右大臣なら左大臣が上なのかもわかります。
やはり「ひ」と「み」の関係だからです。
明治のはじめに、太政官を右院、左院、正院が置かれましたが、これなども「ひ」と「み」の関係がわかると、その趣旨が普通に理解できます。
つまり、「ひ」と「み」の関係は、我が国古来の文化なのです。
このように、日本語の47音(50音とも言いますが、わ行が3文字欠けますので実際には47音になります)には、それぞれに意味があります。
せっかくですので、「と」のあとを記すと次のようになります。
「ひふみ よいむなや こともちろらね
しきる ゆゐつわぬ そをたはめくか
うおえ にさりへて のますあせゑほれけ」
これが大祓詞(おほはらいことば)の「ひふみ祝詞(のりと)」で、限りない神の弥栄を言い表したものといわれています。
ちなみに「も」以下は次のようになります。
「も」 百(も)
「ち」 千(ち)
「ろ」 萬(ろ)よろずとも言います。
「ら」 億(ら)
「ね」 兆(ね)
「し」以下はご興味あったらご自身でお調べいただければと思います。
要するに、「ひぃ、ふぅ、みぃ・・・」という数詞は、それがそのまま祓詞(はらいことば)になっていることに加え、すくなくとも1〜10までを知ることで、そのまま日本文化の奥底を知ることになるわけです。
これを物覚えの良い幼いうちに魂に叩き込む。
そのために幼な子に、計算用の「いち、にぃ、さん」とは別に、というより先に、「ひぃ、ふぅ、みぃ・・・」と教えたのです。
最近、よく思うのですが、たいせつなことは、ほんの身近なところにあります。
それが古い歴史を持つ日本人の知恵だったのです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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御後がよろしいようで
信憑性はあるのでしょうか?
珈琲をやりながら、のんびり「ねずブロ」を読んでます。
ひぃふぅみぃ
いちにぃさん
今朝も「ねずブロ」はサラリと書かれています。
とても重たい内容だな~と熟々感じています。
事実と史実…史実と歴史
『その場に居た訳でも有るまいに、拡大解釈するな!』
こんなコメントが時々きます。
「では無理して読まなければいいじゃないですか」
そう申し上げると、ねずブロも本もロクに読んで無いのはバレバレですから、必ずねずさん個人の攻撃に切り替わり、最後は『似非!』と張紙されます。
「そう思うならそれで結構」
最近は遠い景色を眺めてることが多くなりました。