第5部-2 査問事件/浜田幸一元自民党代議士の貴重な事件分析

 自民党の暴れん坊の異名をとったハマコーこと浜田幸一元代議士の「小畑中央委員リンチ致死事件国会質疑事件というのがある。以外に大事だということが分かってきたので、本章を設けて検討してみたい。二つの視点から考察を要する。一つは、ハマコーの事件の認識の仕方である。れんだいこは、ハマコーの「小畑中央委員リンチ致死事件」に対する認識は、部分的なヶ所の誤差は別として極めて正確に理解していると評価する。ハマコーはその上で、左様な胡散臭さを持つ宮顕をトップに据えて数十年経過している共産党の体質をいかがわしいと主張している。「そういう宮本氏を幹部として戴き、国政に関与させてきた日本共産党の姿勢に、大きな懸念を禁じえない」と云う。これは非常にまっとうな見解ではなかろうか。

 次に、ハマコーがこの質疑の責任を取って予算委員長辞任に追い込まれ、実質的に見てこれが代議士引退へつながっているという重大性である。このことは見過ごされているが、ハマコーが開けてはいけない禁断の扉を開けたということの他に理由が考えられない。恐らく、ハマコーは未だ釈然としていないように思われるのでれんだいこがその背景を解析しておきたい。

 「小畑中央委員リンチ致死事件」の開示がなぜタブーなのか。それは現指導部につながる共産党中央が宮顕系譜であり、「小畑中央委員リンチ致死事件」の真相が明らかになると現下党中央の異邦人性が白日の下に晒されることになるからである。しかしてそれは、現下公安当局の統治システム上の重要な策略を表面化させることになる。この事実を明らかにすることは、党内のみならず左翼界全体ひいては政界総体に一種パニックを起こさずには済まされないからである。このこと故に、不認識に禁断の扉に接近したハマコーが葬られねばならなかった。そう読むべきではなかろうか。怖い話だがそういうことである。


浜田幸一元代議士の「小畑中央委員リンチ致死事件国会質疑事件」】

 ところで、この「小畑中央委員リンチ致死事件」がはるか50年後、突如国会で質疑されることになった。1988.2.7日衆院予算委員会で、共産党の正森成二議員と浜田幸一委員長の遣り取りで勃発している。ケッタイナことにこの時正森議員は、国会議員のミニ権力を利用して政府に対し「過激派をもっと取り締まれ」と圧力をかけていた。この党の性癖であるが、自身が権力に対して立ち向かう闘争はおざなりを得手として、左派系他党派の運動に対してはまことに手厳しく批判する。

 この時は、直前の中核派による自民党襲撃事件を受けて、概要「過激派の取り締まりを廻って政府が泳がせているのではないのか。断固として取締りを強化すべきである」と質疑していた。その際、共産党のよくやる手法であり姑息な話法であるが、政府側の中にも同様の見解を持っている者が居るとして、浜田委員長の過去のテレビワイドショー出演時の発言を例に引き出した。、概要「1984.9.19日の中核派による自民党襲撃事件の際に浜田議員が、『この責任は誰にあるかというと、泳がしていた我々にもある』との発言をしている。この点では意見が一致します」と例示した。

 ところが、これに対し、浜田委員長がその恣意的な利用に突如抗議し始め、事件が勃発する。浜田委員長は、正森議員の質疑中に割って入り、概要「私の発言の真意は手ぬるいという意味である。政策として意図的に泳がせていることを認めているかのように利用されるのは曲解である」と抗議し始め、概要「殺人者である宮本顕治氏をトップに据えているような共産党と不肖ハマコーの言説が一致していると云われることは心外」とも発言した。

 正森議員は、「過激派の泳がせ政策」の質疑が急転直下「共産党の最高指導者宮本議長の戦前のリンチ事件」に話題が転じたことに動揺し、「そういう発言は断じて許せない」と待ったをかけた。浜田委員長は、既に勢い止まらず、概要「戦前の宮本氏らによる小畑氏リンチ事件疑惑を持ち出し、これを隠蔽している共産党の体質とは政治信条から相容れるものがない」ことを論述した。委員会内にヤジが飛び交い、議場は大混乱騒然となった。

 浜田委員長の発言は後で為すことで決着させ、正森議員の質問が次に移ったため、議場の混乱は収まった。これが【第二幕】となる。この間、関係資料を整える時間が与えられた。浜田委員長は、「このままでは、テレビを見ていた人に、あたかも私と、殺人者を最高幹部とする日本共産党とが同じ意見であるかのような印象を与えたままで終わってしまう。それは私としては我慢のならないことだった」ようで、頃合の良い頃を見計らってシロクロの決着をつけようとしたが、故意か偶然か正森議員の宮沢蔵相に対する質問が長引き、まもなくテレビ放送時間を終わろうとしていた。

 浜田委員長待ちきれず、正森議員の質疑中に再度無理やり割って入った。これが【第三幕】となる。「正森君ちょっとお待ちください」、「いいですか、そうでないと後悔しますよ。それはどういうことかというと、昭和8年12.24日、宮本顕治他数名により、当時の財務部長小畑達夫を股間に---針金で締め、リンチで殺した。このことだけは的確に申し上げておきますからね。いいですね」と発言し始めた。正森議員は、「何を云っておるんだ。そんなこと、聞いておらないことを何を云っているんだ」と抗弁し、この後「発言取り消せ、取り消さない」で揉めた。

 【第四幕】。同委の質疑終了後、与野党理事が問題の取り扱いを協議、野党各党は「質問中に、それをさえぎって委員長が勝手に発言したのは問題だ」とし、特に共産党は、「委員長は更迭されるべきだ」と主張した。結局、この時の発言によって、浜田氏は2.12日辞任となる。


 その浜田氏が1993.12.9日「日本をダメにした9人の政治家」を出版し、第5章で「一人独裁の宮本顕治は、即みそぎを」のタイトルを設け、「小畑中央委員リンチ致死事件」を次のように解析している。「死んだ小畑という人がスパイでなかったことは、その後の調査によっても確実になっている。彼は最後まで、自分がスパイであることを認めなかった。しかし、宮本氏らは、初めからスパイと決め付けており、相手の言い分を聞こうともせず、一方的にいためつけた。こんなのは、査問とは云わない。明らかなリンチである。裁判記録や関係者の調書によれば、殴る蹴る、さらには薪割り用の斧で頭を打ったりした。それでもスパイであることを認めなかったので、今度は目隠しし、猿轡をし、耳には飯粒を押し込んで、両手を後ろに回し、針金と縄で縛り、足も同様にグルグル巻きにして身動きが出来ない状態にして、暴行を加え続けた。リンチは翌日も続いた。苦痛のあまり、小畑氏は『いっそ、ひと思いに殺してくれ』と叫んだ。しかし、宮本氏らは、頭から黒い布を被せて体を縛り上げ、火鉢の火を取ってきて足の甲に乗せたり、股間を露出させて絞めたり殴ったり、下腹部に硫酸を垂らしたりして責めたてた。その結果、小畑氏は悶死した。宮本氏は仲間に命じて、死体を床下に埋めさせた。以上は、リンチに加わった人たちや関係者らの供述調書に書かれていることで、内容的には、宮本氏以外ほぼ一致しているし、死体の傷とも符合する。死体は頭のてっぺんから足の爪先まで、全身傷だらけ。共犯者らの証言があるにも関わらず、これを宮本氏は、『小畑が逃げようとして、自分で勝手に付けた傷だ』とか、『死んだのは、小畑が特異体質だったからだ』などとうそぶいている」。

 浜田氏のこのまとめ方はかなり的確であるように思われる。細部では、「目隠しし、猿轡をし、耳には飯粒を押し込んで、両手を後ろに回し、針金と縄で縛り、足も同様にグルグル巻きにして身動きが出来ない状態」の発言での、「足も同様にグルグル巻きにして身動きが出来ない状態」のところがやや過剰であったり、「その結果、小畑氏は悶死した」とあるように、逃亡過程の暴行致死事件であることの分析が舌足らずである点とか問題もあるが、全体の構図はこの通リであったであろう。

 これがごく普通の調書の読み方であり、浜田氏の纏め方は的確である。ところが、なぜか共産党員となるやあるいは左派界隈では同じ調書を読んでもこの理解に達しないという変調世界になってしまう。この現象はなへんにありや。一言で云えば、日頃賢こぶる割には能力不足ということを証左しているのではなかろうか。



【浜田幸一代議士辞任秘話
 その後浜田氏は数奇な運命を辿る。予算委員長辞任秘話が次のように明かされている。「宮本議長のリンチ行為を指摘したら、こっちがリンチを受ける羽目になってしまった。これではシャレにならない」とあるように、「小畑中央委員リンチ致死事件国会質疑事件」の顛末は、マスコミとそれに操作された世間による「ハマコー辞めろ」大合唱を巻き起こさせ、袋叩き状態に陥ることになった。この時浜田氏は、①・質疑発言を取り消し、議事録から抹消するか、②・予算委員長の辞任かのどちらかを選ばねばならないことになった。

 浜田氏はその両方を拒否した。数時間審議はストップし、与野党理事会で「裏」の折衝が行われることになった。その後手打ち式を誘うかのように、派閥の親分である金丸氏が登場し、次のような纏め案を呑むよう指図したという。概要「予算委員会で陳謝し、人殺しの部分を議事録から削除すれば、何とかお前の首がつながるように、話をつけるメドはついている。それが嫌だというなら、辞めるほかないな。二つに一つを取れ」。

 この提案の眼目が、「質疑発言の中の人殺し部分を取り消し、議事録から抹消する」ことにウェイトがあることが見て取れる。このことは何を意味するのであろうか。常識的に見て、実質的に審議された遣り取りを「議事録から抹消」するなどという事が許されて良いわけが無かろう。単に、議場の混乱の責任を取らせるのなら分かる。この時金丸は、当然共産党は、何ゆえ「議事録から抹消」に拘ったのであろうか。もう一つ、「何とかお前の首がつながるように、話をつけるメドはついている」とあるが、金丸氏は誰とそのような話をつけていたのだろうか。ここに大きな闇がある。

 結局、浜田氏は、審議を混乱に導いた責任に対しては陳謝するが、議事録抹消は政治信条に関わるから出来ない旨を最終返答した。「私の発言の議事録からの削除だけは、絶対に認めるわけにはいかなかった」とある。金丸氏との縁が事切れた瞬間であった。

 かくて浜田氏は、2.12日突如辞任声明をすることとなった。その後、自民党公報委員長などを歴任し、1993.6月衆議院議員を引退し現在に至っている。浜田氏にはあまりにも高くついた「小畑中央委員リンチ致死事件国会質疑事件」となった。