夜が明ける

Eugene Lee Yamgのyoutubeビデオを教えてくれてありがとう。

The Try Guysのメンバーなのは知っていたが、こんなすごい作品をつくれる人だったとは!

初めて観たときは後半が涙で目がくもってちゃんと観られなかった。
あれから2週間、毎日、一日に一度は観ている。

まわりの激しく言い争う声のなかでアップになるたたずむ青いドレスのEugene Lee Yamgの表情が素晴らしい。

初めに出てくる伝統的な家族と最後に出てくる「新しい家族」との対比が素晴らしい。

こんなものすごいビデオがたった4日で出来てしまったことは、Eugene Lee Yamgがつねにこの問題を考えて、悩み、苦しんでいたことを示しているとおもいます。

ずっとむかし、サンフランシスコのユニオンスクエアに面したThe Westin St. Francis San Franciscoで、ロビーで、カフェの片隅の店で花を買っている母親を待っていたぼくは、なんども入り口を振り返っては、人待ち顔の若い女の人を見ていた。

小さな頃からなんでもかんでも観察するのが好きないけすかないガキだったぼくは、見ているだけで、この紺色のコートを着た女の人の佇まいが気に入ってしまった。
小柄な、金色の髪に、ハシバミ色の目で、やさしい体つきの人。

見ているうちに、ほら、大輪の花がひらくように、という表現があるでしょう?
あの表現がそのままあてはまりそうな表情になって、視線をおったら、そこには小太りの中年の、なんだか調子外れにでっかい花束をもった女の人が立っていた。

どういう機会なのか、しらない。
ふたりとも固く固く抱き合って、涙を流しているの。
子供で妹にいわせれば鈍感王のぼくにすら、このふたりの女の人が恋人同士なのがわかりました。

ところが。

抱き合っているふたりを、すさまじい憎悪がこもった目で見ている男のひとたちがいるの。

それも、ひとりやふたり、ひとつのグループというようなことではなくて、バーのなかのすべての男たちが、と、いいたくなるくらい、そこに居合わせた男たちが、抱擁したまま動かないふたりの女の人を睨み付けている。

もうその頃は、というのは1990年代の初めのサンフランシスコなので、そんな町ではなかったはずだけど、あるいはウエスティンというホテルのバーであったせいかも知れません。

ロンドンの家で、ほとんど生まれたときから知っている善意の人びとの笑顔に囲まれて育ったぼくにとっては、そのおとなの男達の女のひとふたりに向けられた悪意と憎悪が、異様で、とても怖かった。

あるいは、いまはなくなってしまったニューヨークのチェルシーのカフェvinylで、コーヒーをちびちび飲みながら、金曜日の夕暮れ、舗道を行き交う人を眺めているのが好きだった。

あの道は週末はゲイのカップルがたくさん通るんだけど、店のウエイターも、みんなゲイで、冗談がうまくて、こっちは笑いころげてばかりいて、せっかく運んできてもらったばかりのコーヒーがジーンズの染みになってしまったりしていた。

21世紀になるころから、どんどん安全になっていったマンハッタンは、イーストビレッジですら夜の2時に女の人がひとりで歩いても、たいして緊張しなくてすむくらい犯罪が少ない町になっていたが、それにつれて、と言ってもいいのだとおもう、クルマのなかから侮辱的な言葉を投げる人間も少なくなって、同性カップルのひとたちが周りに目を配って注意しなくてもいい町になっていった。

だから小公園のベンチに座るゲイのカップルばかり狙ってバットで重傷を負わせる犯罪が続いたときには、やっぱり人間は呪われているのだとショックを受けました。

むかし、ぼくが学生時代に住んでいた小さな部屋のドアの上には、いまでも自分の部屋のドアに架けてある扁額

Beer in the Answer…I Don’t Remember the Question

の前には、

Lasciate ogne speranza, voi ch’intrate

という扁額が長いあいだかかっていた。

あるとき、きみがやってきて、あの扁額は内側にかかっているべきものなのに外にかかっている、と述べた。

きみがデモで重傷を負ったのは、次の週のことだった。

ときどき、なんのために戦っているのかわからなくなるんだよ、とデモに参加していたころすら知らなくて、びっくりして駆け付けたぼくにきみは、いつもの、あの柔和で知的な顔を向けて、唐突に口にした。

「だって、ぼくは、この世界も、人間も好きじゃないんだ」

涙がにじんできて、かっこわるいので、起ち上がって帰ろうとしたぼくに、きみが言った言葉をいまでもおぼえているよ。

「ガメ、きみは自分の最大の美点を知っているかい?
いつも、肝腎なところになると、何も言わないで、どこかへ立ち去ってしまう。
それが、きみのいいところで、みんな羨ましくてしかたないのさ」

ぼくは冬の雨がふりしきるロンドンの舗道で、雨が激しくなってくると、もう誰にもわかりゃしないさ、と考えて、我慢すらしなくなって、泣きながら帰った。

帰ってきた? どこに?

ぼくは自分に、自分の言葉の家に帰ってきたのさ。
自分の言葉の家にもどって、明け方まで目を赤くして、きみのことや、ぼくのことを考えている。

窓を少し開けて、世界中の、コンゴの荒れ果てたスラムの通りや、シリアの国境で空に向かって泣き叫ぶ母親の声を聴いている。

そして遠くに、遠くの仄かな影がうつっているような空の下で、嗚咽をもらしている、あのやさしい人の声を聴いている。

ぼくは兎に角いまは出て行かなければ、この言葉の家をもういちど出て、探しにいかなければ。

まだ知らない言語の地平を。
夜が明ける土地を。

光を

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