この数年間、協同組合研究者と実務家が開く研究会に参加している。興味のあるテーマの時にしか参加しないが、時々は東京に出掛けている。煙草休憩で毎回出会う若手研究者が政治学者の齋藤純一さんのゼミ出身であり、彼らの問題意識を聞いたのがきっかけで、同氏の本には目を通すようになった。そんな時、京障連の機関紙『ひゅーまん京都』に連載している「つどめ」(津止正敏)さんのエッセイを読んで、彼も齋藤さんを読んでいるのかと興味を感じた。 津止さんは齋藤さんのいう「人称的連帯」と「非人称的連帯」を引いて、自説を展開していた。齋藤さんは、「人称的連帯」とは「人びとが互いの具体的な生を支え合う自発的な連帯」を指し、「非人称的連帯」とは「見知らぬ人びとの間に成立し、社会保障制度に媒介されるものである」と述べている(「社会的連帯の理由」『政治と複数性――民主的な公共性にむけて』岩波書店、2008年)。 齋藤さんの論文の課題は「人びとが互いの生活を相互に保障するために形成する社会的連帯の理由を問いなおすことにある」と述べ、誰かが一方的な犠牲を強いられることのない、「相互性」(reciprocity)のあり方を探求することにある。齋藤さんは、犠牲を強いられている人たちに蓄積される憤懣や鬱憤が、犠牲をもたらした「強者」にではなく「弱者」に向かう例(ヨーロッパでは移民)をあげて警鐘を鳴らしているが、この点は、今日の生活保護受給者に向けられる低所得層の「冷たい視線」とも重なる。 同論文では、「相互性」の内容に立ち入って興味深い分析が行われているのでご参照願いたいが、本欄では、齋藤さんが言う「人称的連帯」と「非人称的連帯」という概念に触発されて考えた愚見を紹介したい。 ① 生命を守り合うのは人間の本性 アフリカのジャングルの中から始まった種としての「ヒト」は、動物界でもっとも弱い存在であり、助け合わなければその生存はありえなかった。人類史でもっとも長く続いた原始共産制社会の末期には、障害がある人も自分の役割をもって、共同体から生存を保障されていた。つまり、この時代の人々は「人称的連帯」(群れの中での人々の助け合い)の中で生きてきたのであり、弱い人を包み込む群れが強い集団であった。弱い人を排除する集団は維持できず死滅した。 ② 生命・暮らしを守る社会制度(福祉国家)は「非人称的連帯」のかたち 時代は一挙に飛ぶが、19世紀末から20世紀初頭にかけてのイギリスで「発見」された大量の貧困の原因は、不安定雇用と低賃金にあった。ロンドン調査を通じてこの事実を指摘したチャールス・ブースは富裕な実業家であり、当初の意図とは異なった結果ではあったがこの事実を公表し、貧困の個人責任説から社会責任説への転換に大きな貢献を行った。貧困者の資質の矯正ではなく、貧困を生み出す社会こそが糺されるべきであり、貧困の防止のために政府は産業活動に積極的に介入する必要があるという世論が高まった。20世紀初頭のイギリスは「社会改良の時代」と呼ばれ、資本の自由競争を規制する労働者保護制度・社会保障制度の萌芽が生まれた。 その後、20世紀の中葉には先進諸国では「福祉国家」という「非人称的連帯」のかたちを具現化し、各国に広まっていく。協同行動が高度に発達した社会では、知っている人同士の顔の見える「人称的関係」だけではなくて、「非人称」の見知らぬ人々の連帯によって人が結び合い、貧困からの解放を図る「福祉国家」を成立させたのである。助け合い、分かち合いをそもそもの本性として今日まで人類を生き延びさせた力は、新しい社会制度として福祉国家を成立させたともいえるのではないか。 しかし、新自由主義の台頭とともに、英米では1970年代後半以降、福祉国家の下での福祉財源の拡大と非効率な行政運営に対する資本の側からの批判(サッチャーリズム、レーガノミックス)が高まり、福祉国家の解体の動きが表面化し、雇用の不安定化と社会保障制度の後退が始まった。「未成熟な福祉国家」である日本も、「臨調・行革」の強行により西欧型福祉国家への歩みは阻止され、新自由主義改革の本格作動というべき「構造改革」によって福祉国家の基礎は損なわれた。 ③ 福祉国家を支える分権型福祉社会 福祉の後退と雇用の劣化の帰結は、わが国では今年早々から「餓死・孤立死」の頻発として現象していることから、これを阻止するためにも、福祉国家の確立は依然として重要な国民的な課題というべきであろう。つまり、「餓死・孤立死」の発生を根絶する社会システムである福祉国家を再構築することが、われわれの使命であるといえる。 しかしその際、福祉は国家が提供し、国民がそれを受けるという関係でとらえるのではなくて、国民が主権者として、政府・自治体に対して必要な医療・福祉・保育・教育を要求し、またそれらの地域配置や税などの財源をどのように捻出するか自ら考え、提案する分権型福祉社会づくりが重要な論点となる。福祉を受動的に受け取るのではなく、積極的に要求し、場合によっては自主的な事業体をつくり(障害者共同作業所、共同保育所、富山発の地域共生ケアなど)、当事者の暮らしと発達を支え、これに要する費用負担のあり方について住民の討論に委ね、各級議会はそこでの結論を尊重して、政府・自治体が必要な財源(税・社会保険料)を支出する(させる)という構造に転換することが大切である。 つまり、齋藤純一さんのいう「非人称的連帯」のかたちである福祉国家を、地域ごとに多様な形で営まれる「人称的連帯」(多様なアソシエーションによって構成される分権型福祉社会)で支え、発展させるという戦略である。このとき地域住民は、その根を家族・地域に置きながらも、社会保障・雇用保障等のあり方とそれを賄う税・社会保険料の徴収方法の検討など、国全体の運営を視野に収めた能動的な市民になるといえるのではないだろうか。 |