■働く側の事情

 さらに、援助を妨げる基本構造は、援助を受ける貧困層の側にも強固に存在する。社会に格差が生じるとき、その原因は抑圧・搾取する側にあると誰もが考えがちだが、実は、虐げられている側の方が、より強く現状維持を望む傾向があるのだ。ちなみに、この現象は沖縄のみならず、人間社会に固有のものである。

 人が好ましくない環境にどのように反応するかを調査した、アメリカの政治心理学者ジョン・ジョスト(John Jost)によると、人は、それが自分に対して不利益なものであったとしても、現状維持を望む傾向がある。その中でも、特に苦しんでいる人ほど、現状に疑問を呈したり、変化を起こそうとしたりはしない、というのだ。

 ジョストが行ったある調査では、低所得者層は高額所得層に比べて、格差を「仕方がないもの」と受容する率が17%も高かった。驚くことに、現状維持を望むのは、富める者よりもむしろ持たざる人々なのだ。貧困は既得権層によってではなく、虐げられている層が自ら作り出している可能性がある。このことを理解しなければ、貧困問題に正しくアプローチすることはできない。

 虐げられている人たちが現状を肯定する行為は、一見理屈に合わないようだが、そこには一定の合理性がある。現状維持には心理的な「痛み止め」効果があるからだ。痛みの多い貧困層ほど現状維持を望むのは、むしろ当然でもある。「痛み止め」は感覚を麻痺させる薬なので、その副作用として、現実直視を妨げるなど、価値ある活動を社会から奪ってしまうことになる。

 私はこのことを「ちゅらさん効果」と呼んでいる。「世の中にたくさん問題はあるけれど、社会はこの通りでいいのであって、不満を感じるべきではない、なんくるないさ」というモチーフは、沖縄を舞台とする映画やドラマに溢れている。このようなストーリーが沖縄で支持されるのは、「痛み止め」を必要とする貧困社会の存在と無関係ではないと思うのだが、どうだろう?

 先に、「沖縄は、現状維持が社会の重大な原則であり、その社会特性が貧困を生み出している」と述べたが、同時に、「沖縄が日本最大の貧困社会だからこそ、現状維持が社会原則になっている」という逆の側面もまた存在し、貧困の悪循環を生み出しているのではないだろうか。

■貧困問題は心の問題である

 繰り返しになるが、沖縄の労働者の所得が低いのは、沖縄の経営者が給料を十分に支払わないからだ。その理由は、経営者がそもそもその意思を持たないからであり、労働者も自分の付加価値を高めることを重要視しないからだ。

 経営者は従業員に多くの報酬を支払おうとは考えていないし、仮にそう考える経営者がいたとしても、周囲とのバランスを考えると、その一歩が踏み出せない。一方で、従業員は自分の能力を高めたり、環境を改善しようとする意欲に乏しい。自分にとって不都合な環境であっても現状維持を望みがちで、挑戦することへの勇気がくじかれてしまっている。

 つまり、援助を妨げる沖縄社会の基本構造とは、経営者側においても、従業員側においても、心の問題なのだ。沖縄の貧困問題は、政治問題でも、経済問題でも、教育の問題ですらない。経営者が、従業員に本気で報いることが企業の最善であると信じられるようになるまで、そして貧困者にとって、豊かな暮らしが実現可能であり、その実現プロセスもまた幸福なのだと信じられるようになるまで、この問題は解決しないのかもしれない。

 貧困は経済が作るのではなく、人の心が作る。心が変わらないのに、援助を拡充しても、税金は砂に水をまくように消えてしまう。地域の再生は人の再生である。人の再生は心の再生である。援助を行うのであれば、そのお金は、人の心が自立に向かう手助けとなるような使われ方でなければ、問題を悪化させるだけなのだ。

■制度で社会は変わらない

 制度やしくみが社会を正常化するのではなく、人が自分らしく生きるようになって、制度やしくみが生きる。それにもかかわらず、私たち一人一人の心の問題を政治と経済で解決しようとするところに、根源的な問題が生じているように見える。心の問題に手をつけず、44年間、援助を続け、制度やしくみの構築によって対症療法を繰り返してきたことが、現在の沖縄を作っているのだ。政府がどれだけ援助を行っても、援助される側の心が変わらなければ、いかなる問題解決も、対症療法に過ぎないのである。

 貧困を解消するために、ある政治家が財源を確保して、法案を通過させ、最低賃金を大幅に引き上げたとする。このような善意ある対症療法は貧困を解消するどころか、増幅する可能性があるのだ。制度的に賃金だけを引き上げれば、経営者は会社を守るために別の形でバランスを取ろうとする。売上が変わらない中で人件費が上昇すれば、経営者は利益を確保するために雇用を抑制するだろう。これによって従業員一人当たりの仕事量が増える可能性が高く、多くの場合新たな社員は補充されず、サービス残業が増えるなど、残された従業員の労働環境は逆に悪化して、職場の鬱などの健康問題が増幅するかも知れない。そうすれば労働生産性が大きく低下して、企業の負担が増え、それをカバーするために労働環境がさらに悪化する可能性がある。

 あるいは、より人件費の安い海外に工場などを移転する企業も増えるだろう。労働者のためによかれと思って導入された制度が、逆に労働者の職を奪うことになるかもしれない。
 制度変更だけでは社会は変わらない。労働の賃金が持続的に増加するためには、次の要素がすべてそろわなければならないからだ。

 第1に、労働者一人当たり、時間当たりの生産性が飛躍的に向上すること。

 第2に、それによって企業収益が増えること。企業が儲からなければ、従業員に支払うことは不可能であり、企業が儲かるためには、労働者の生産性が現在よりも高まらなければならない。当然のことだ。

 そして第3に、その収益を労働者に分配する意思を持つ経営者がいることだ。企業がどれだけ儲けても、その収益を積極的に従業員に還元する意思が存在しなければならない。しかし企業はボランティアではない。企業収益を圧迫しながら従業員に支払うだけでは、事業へ十分な再投資ができず、激しい競争に負けて、持続性を失ってしまうかも知れない。第三の条件を持続的に満たすためには、経営者が、「従業員に多く還元するからこそ、逆に企業収益が伸びる」という経営バランスを実現しなければならないのだ。そして、そのカギは、人の心に火が灯るかどうかにかかっている。制度やお金は本質的に無関係である。

 沖縄社会が生産性の向上によって貧困を解消するためには、人を活かす人材登用を通じて、異なるレベルのイノベーションを実現しなければならないが、それは人をコントロールすることによってではなく、自由な働き方で成果に結びつけなければならない。現在沖縄に(そして日本に)存在する産業の多くは、事業モデルを根源的に見直さざるを得なくなるだろう。(続く)

(※注1) ただし、この事実は反対のことを意味している可能性もある。援助は彼らが大惨事に陥るのを救ってくれたのかもしれない。