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2019-07-02

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・いろんな罪に対して罰というものがあります。
 罪を犯したこと自体が罰である、というような考えも、
 あるにはありますが、やはり罪には罰が追いかけます。

 その罰のなかに、自由を奪い取るという刑があります。
 いや、近代では死やら痛みやらをともなう刑は、
 ほとんどなくなっているから、
 ほとんどの刑罰は、自由を制限するものでしょう。

 「刑務所に暮らして、決められた労働をしなさい」
 という懲役が基本的な刑なのでしょうが。
 雨露しのげる屋根も壁もある場所で寝起きして、
 食事も、選べないけれど、三度々々いただけて、
 入浴も最低限だけれどできて、作業義務という労働も、
 辛いことをさせられて懲らしめられるわけじゃない。
 だとしたら、刑務所の外にいる人と、
 ほとんど同じとも言えそうじゃないですか。
 シャバと呼ばれる外の世界とのちがいは、
 どこかに出かけたり、好きなものを食べたり、遊んだり、
 というような自由が制限されているということだけ。
 「だけ」とあえて書いたけれど、その「だけ」が、
 どれほどつらいものなのか、ということですよね。
 仕事が忙しくて、食べものだって選んでられなくて、
 移動は家と仕事場の往復だけで、
 なにかして遊んでるという実感もない…なんて人、
 刑務所の外だって、けっこういると思うんです。
 でも、外の人は「遊ぶぞ」とか「うまいもの食うぞ」とか
 「できるけれどしてない」んですね。
 あ、あと、会いたい人に会うというのも重要だな。
 つまり、人間が罰を受けるというのは、
 「自由」でなくさせられること、なんです。
 そう、それだけ。

 「自由」というものが、意識しない空気みたいにあって、
 それを当たり前のように呼吸して生きているって、
 すごいことなんだよなぁと、思うんですよ。
 新しい場所に行き、新しい人に会い、こころを通わせる。
 こういうことが、きみもぼくも、いつでもできる。
 刑務所にいたら、そういうことに憧れるだろうなぁ。
 あと、まぁ、大福とかあんぱんとかもね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ほんとに嫌なことなら逃げ出せる。これが自由の定義かも。


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