integrity

もしかしたら話してはいけないことで、この記事がブログに出たら、ひゃああー削除してください、ということになって、この冒頭の一文はなくなるのかもしれないが、lada @spicelada さんはCCさん@_cc_bangkok の奥さんで、大変聡明なひとです。
CCさんの証言によれば、酔っ払いでもあって、 こういうことを書くと、またはてなから大軍があらわれて、7年間くらいは散々囃し立てられるに決まっているが、女のひとで盛大に酔っ払うひとは、善人であるに決まっていると旧約聖書に書いてある。

旧約聖書のどこに書いてあるか、何ページの何行目か言ってみろって?
知らねーよ、そんなこと。
自分で探せよ、ばかばかしい。

ともかく、ことの発端はlada さんの発言だった。

ある勘違いおじさんについて、lada さんが、知恵をつくしての他人への攻撃にあけくれる彼のような人間が大手をふって歩けるのは、

「でもいいこともしてるじゃん」「いっぱいRTされてるじゃん」という思考で判断している人がいるからで、彼に善意があるかどうか見ていない人が多いからだ。

と述べている。
言われたわしのほうが、ほんとだよねー、でも、それはあまり英語では見かけないことで、日本語では性犯罪者が右翼系の出版社から出版した本が反体制の本として持て囃されていて、一応、「そんな人が書いたものを」と言う人も現れて、ところが、ずっとおおきな声で、「でも、いいことを書いていて、仕事は人間性とは別のところで認められるべきですよね?」という圧倒的な声にかき消されたりしていた。

見ていて、ほええええー、と思ったが、なにしろ、この頃は、相変わらず日本語世界で起きることには興味津々でも、「それは、ヘンなんじゃない?」という気持のほうは、どっかに行ってしまっているので、日本語社会では、そんなものか、で終わりになっていた。

ふと、integrityという言葉を思い出しました。

ネブラスカに、好々爺然とした、有名なじーちゃんが住んでいる。
おもしろい人で、空港に着くと、オンボロのフォードで迎えに来たりするので有名だった。
この人の名前がアメリカの国内外で噂になりだしたのは、だいたい40年くらい前で。
ネブラスカあたりで、40年も前であると、クルマがおんぼろなのは普通のことで、いわば普通のクルマで、普通の格好をした中年のおっちゃんが、なぜ話題になったかというと、1973年、ワシントンポストを買収して、アメリカ社交界のチョー有名人、社主のKatharine Grahamの親友になって、一躍知られるようになった、この風采のあがらないおっちゃんが、やたらと投資が上手な億万長者だったからです。

この人は、すさまじい読書家で、美しい、ユーモラスな文体で書かれたたくさんの書簡や報告書があるが、当然、有名になった言葉もたくさんある人だが、そのなかでも飛びきり有名な言葉に、

We look for three things when we hire people. We look for intelligence, we look for initiative or energy, and we look for integrity. And if they don’t have the latter, the first two will kill you, because if you’re going to get someone without integrity, you want them lazy and dumb.

というのがある。
たしか、フロリダ大学のビジネススクールの学生たちへの講演で述べた言葉で、あとに、おなじ内容をジョージア大学で述べている。

このintelligence、energy、integrityは、バフェットじーちゃんが、いまでもよく挙げる「成功する人間の三条件」で、しかも
「integrityはみっつのなかの最重要条件で、これがない人間には、残りのふたつ、intelligenceとenergyは、あっても仕方がない、いや、ないほうが世の中のためである」と言い切っている。

言わばintegrityこそが必要条件で、残りのふたつは十分条件であるに過ぎない、と言う。

もちろん、ツイッタでも書いたが、このバフェットじーちゃんの「人間、integrityがチョー大事なんだぜ」という考えは、じーちゃんの独創というよりは、質朴で健康な社会を好む英語人には18世紀くらいから遍く共有されている考えで、おおもとは、というよりも家庭や職場の至る所で語られていた内容が文章で書かれて、有名なものになったのは、
Samuel Johnsonの

Integrity without knowledge is weak and useless, and knowledge without integrity is dangerous and dreadful.

くらいからだろうと思います。
このイングランドのリッチフィールドに生まれたジョンソン博士も、たいへん面白い人で、書いた本の中で最も有名なのは「英語辞典」だとおもうが、
「オート麦」の語釈を「イングランドでは一般に馬が食べるが、スコットランドでは人間の食べ物」と定義して、大物議を醸したりして、傑作なおっちゃんで、読んでいると大笑いな逸話がたくさんあるが、ここでジョンソン博士の話なんかしていると、夜中になっても記事がおわらないので、やめておく。

ときどき、わしは日本の人口の半分くらいブロックしているのではないかとおもうが、甲斐があって、ヘンな人は、見えない所で、ぐだぐだ悪口を言っているだけになったので、twitterのバグで、ブロックしているのに突然タイムラインにあらわれる「やーい、ガメ・オベールのウソツキ」みたいなのを除くと、平穏で、最近ではツイッタは、ほぼ、日常のよもやま噺と、なんだかよく判らない考えやなんかが出てきたときに、みなで、これはこうなんじゃないかなあー、あっ、それは違うんですよ、ほら、こーゆーふーなの、と皆で議論する場に変わっている。
仲良し同士で話をして、くだらない、と言う人がよく来るし、ひどいのになると、信者だ、とかいう、例の、あの目も当てられないくらい低能で退屈な語彙で攻撃する人が、現れるが、言われても、なんじゃそりゃ、というか、仲良くない同士で話をして、どーするんだ、と考える。
どうも仲が良い人同士は、考えがおなじなのだと思い込んでいる様子だが、あのね、ふつーは、仲良し同士というのは、考えがまるで違うことのほうが多いんです。

だから大学の近くのパブから始まって部屋に場所を移して、明け方近くまでペールエールを飲みながら議論するのが楽しかったんでしょう?
意見がおなじだったら、さっさと酔っ払って、寮の床を踏みならして男同士でラインダンスでも踊っていた方がマシである。

わしタイムラインのなかで最も聡明で、あんたはX線か、というくらい身も蓋もない本質を一瞬で見抜いてしまう人に哲人どん@chikurin_8thがいます。
聡明なうえに、それを、よく判んないよう、とおもってうんうんうなっているわしらに、ごく簡明に、判りやすく説明する能力は、どんな国でも頑迷で、意地っ張りで、自分が頭がいいと思い込んだ結果、いろいろと理解する能力を阻害されている若者が揃っている名門大学で哲学教授として、ながいあいだ教えてきたことで身に付けた職業的なスキルなのでしょう。
ゴーゴリのヴィィに出てくる大地の精霊みたいというか、ものごとが混沌として、全員わけがわからなくなってくると、「哲人どんを呼んでこい!」という声が、タイムラインのどこからともなく起こって、ほんとは教員業で忙しい哲人どんが、やれやれよっこらせ、と腰をあげてやってくることになっている。

Wikipediaに他言語記事が並んでいるのに日本語版記事がないことから、みながもった疑惑にあっさりこたえてくれています。

個人としては日本語に、integrityという単語そのものが存在しないことは、だいびっくりのn階乗(n>5)くらいの!!!!!!で、そんなことがあるのか、ひょえええーと考えて、ぶっくらこいちまって、椅子からずり落ちそうなくらいの驚きだったが、ここから、やはりびっくりしたらしい、タイムラインのお友達たちの発言が続いていきます。今回は不用意な始め方をしたので、ぬけがあり、排列の手際もわるいが、あとでおいおいなおしていくとして目についた限りを並べてゆくと、

まあ、いつものことで、もう少しゆっくり考えて、みなで議論したりしながら考えをまとめるとして、どうやら、この「能力や業績があれば、人間性に欠点があっても、いいじゃないか」という、おもいきって言うと、日本人に特有な考えは、またしても日本の社会では「個人」は一顧だにされなくて、「日本」という全体にどれだけ奉仕するかによって価値の値札を貼り付ける、天然全体主義の価値観が関係があるように見えます。

日本の社会が、いま血を流すようにして、女のひとたちが自分たちも人間なのだ、と叫び、かつては企業戦士ともてはやされた男たちが、「もう限界なんです。お願いです。休ませてください」と声をしぼりだすように抗議しているのは、21世紀も18年目になってしまって、世界がいままでの歴史とは桁違いの生産性を社会に要求するようになって、西洋型の社会が、どれも、「他の人間にはマネができない個人の能力」を極限までひきだすことで社会の生産性をあげる方法に習熟しつつあるときに、旧態依然の全体主義文化で競合しようとしている無理が、軋んで、限界を越えてしまっているからでしょう。

その無理を無理でないかのようによそわせているのは、多分、integrityという考えが存在しないマネジメントにあるのかもしれません。
あるいは、社会が天然全体主義文化にしがみついたまま、当然の帰結として、どんどん沈み込んで、停滞を極め出すと、従来では相手にされえなかったような低劣な人間が大集団で闊歩し出すようになって、思考の軸からすでに歪んでいるような、いわば「箍が外れた」状態に転落していったのも、なんとか踏み止まって、正しいことを行おう、善から遠ざかるのはやめようという内から湧くintegrityがなくて、外からの、他人の目、企業からの評価、社会からの要請というような外からintegrityの代替として機能する「よい日本人としてふるまう強制力」が個人をすりつぶした結果、無惨なくらい人間性を軽んじた、目もあてられない品性の人間が大声で喚きちらしながら大道を往還する社会になってしまった。

日本人が、文明の仕組みをもち、個々の教育程度も高く、なにより、ごく自然な気持から勤勉に働いてくらしたい「マジメ」な国民性をもちながら、なかなか立ち直れない理由のひとつはintegrityを欠いた社会そのものの評価軸にあるのかもしれません。

実は、哲人さんやmagicpro @magicproと、前に、ツイッタをなんとか自分の思考の限界を越えて向こう側にたどりつけるような道具に変えられないかしら、と話しあったことがあった。
そのときは全然ダメで、マストドンでやってみようと考えたが、こっちは、わし自身の日本語能力が500字という大きな枠で会話することに耐えられないことが判明してダメで、あきらめてしまった。

ツイッタは問題がおおく、使いにくいSNSだが、いまのところは話して遊ぶのに使いものになりそうなのは、このくらいしかないので、使い方を工夫して、話によいところがあれば、どんどんブログに転載して、といっても、文句がでれば発言を削除しなければならないのはあたりまえだが、少しまとまった形で見られるようにして、それを見て、また会話をする、というふうに持っていきたいと考えています。

今回はintegrityという、ややおっかない、厄介なおおきな言葉が相手だったが、おいしい食べ物の話でも、逆立ちの仕方でも、多少でも話がまとまって、おおー、こんなことがあるんだ、こんな考えがあるのね、に至ったことは、ツイッタ記事としてまとめておきます。

もとよりツイッタには、Momentsのようなまとめ機能があるが、それはだいすけさんなり誰なりにまかせることにして、Togetterが日本語では広く使われているが、あれは悪意による編集が簡単で、案の定ろくでもないまとめが並んでいるので、そもそも見たくない。

ふだんは、相変わらずの茶飲み噺がよいが、なにかの弾みでおもしろい議論にいきあたったら、また、記事にまとめてみます。

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20 Responses to integrity

  1. Keko says:

    integrityについて、いい言葉を教えて下さってありがとう。勉強になります。
    一本筋の通った人、みたいな意味でしょうか?
    https://thesaurus.weblio.jp/content/一本筋の通った
    確かに現代日本の社会では重視されてない概念と思いますが
    昔からの職人さん世界などでは似た評価軸を持っていたのかも?と思いました。

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  2. > 「よい日本人としてふるまう強制力」が個人をすりつぶした

    Integrityって漱石の「坊っちゃん」が近いかしら、と思っていたら、『職場を生き抜け!:夏目漱石の「坊っちゃん」になるな!』という記事があって、すりつぶし過程が観察されているのですが、この記事自体も、勝ち負け損得しか気にしないところまで、すりつぶされた果てで書かれたようです。

    世説新語の方正篇を開いて、気をつけなくてはなりません。

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  3. kaz184 says:

    線形代数みたいな表現で面白いですね.

    最初に思い浮かんだのは「独立した精神」でしたが, 「意地」のほうが泥臭くていいですね. 短期的な経済合理性のために各人の意地を蛇蝎の如く排除してきたのが日本的なのかなと実感なく見ていました. 嘲笑の文化はそのための便利な道具として機能したように思えます.

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  4. きゅーた says:

    異国に移住を思い立ったことの理由のひとつに、自分のなかの人間性がだめになっていく恐怖を感じたのがあります。
    よく、日本には個人主義がないとききますが、わたしもよくわからなかった。
    「個人をすりつぶした結果、無残なくらい人間性を軽んじた、」
    この歳になって、自分のいままでの考えやおこないのおろかさに、ようやく気づきはじめています。
    移住のことを新しくお世話になる人に説明するとき、いままでのようなてきとうな言葉では納得してもらえません。なので正直に言葉をつくそうとするのですが、それがだんだんと心地よく感じられるようになってきました。心をひらいてお話しすると、皆さん、驚くほど親切なのです。それでわたしもよけいに、優しい、感謝の気持ちがわきあがります。
    異国の人々はふだんからこんなふうに人と接しているのだな、と想像します。
    わたしはいままで、なにをみていたのだろうと。
    今はまわりに存在する人間が、ひとりひとり、はっきりと浮かびあがってくるようです。

    integrityを意識して生きていけたら、きっと世界が変わるようなきがします。

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  5. ケイ says:

    はじめまして、ガメ・オベールさん。

    死を畏れ難に遠ざかるは降北の民なり。しかるに世これを尊びて貴生の士といふ。道を學び方
    を立つるは離法の民なり。しかるに世これを尊びて文學の士といふ。(六反篇) ここに至つて、
    韓非の法術の面目は判然とする。法を立てて權力の道具とすれば、個人が生命を大切にすること、
    學問上の眞理をもとめることは、みな法にさからうものであり、市井無賴の徒の狼藉とえらぶと
    ころなく、韓非はこれを一樣に姦僞無益の人民と見る。仁人、君子、有行、有侠、高傲、剛材の
    ともがらの、よく民心を得るものは、すべて匹夫の私譽にして爲政者の大敗にほかならない。こ
    れを用うるのは國の禍根とされる。(八說篇) 匹夫の私譽とは、むしろ齒ぎれよくいひ放つたも
    のである。このとき、個人の倫理上の非行はこれをどう見るか。じつに一段と小氣味よく、かの
    過行のごときは細人の識るところなり(難三篇) とあつて、匹夫に號令すべき大人物は惡德を鵜呑にして小腹も痛めないといふ度量を示してゐる。賢といい德といい善と呼ばれるものはつねに
    當世の實事の十露盤から割り出されなくてはならない。そして、當世の實事はつねに權力の管掌
    するところに係り、人民の個性は永遠に締め出される。

    せんだって耽読した石川淳「夷齊筆談」中、「權力について」からの抜粋です。この記事を読み、とっさに思い当たりました。

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  6. Curiosus says:

    はじめまして。ちょうどintegrityという概念について調べていたので、ガメさんが記事にしてくださって嬉しいです。英語のintegrityは「論理的一貫性」を部分だけでなく個人全体や社会全体にも広げると必然的に現れる資質なのかな、という感じがします。だとすると内部にまず確固とした論理性があり、それを貫けるだけの自我の強さがなくてはいけないのですが、これはどちらも日本人の苦手とするところですね。私が思うに、日本人は霊媒体質と言おうか心の壁がスカスカしてて外から入ってきたものに自我(のようなもの)を構成されているので、高貴なものに接続すればintegrityみたいなものも得られるし、今のようにカネカネとメディアに扇動される社会では下劣な人が人が増えるのも当然の帰結なのだと思います。さらに日本人は周囲との「和」が足かせになりますので、高貴なものに接続した人がそのままの状態で現在の低俗な日本人の集団内部で活躍するのは難しいだろうなぁと思います。

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  7. ほっち says:

    Curiosusさんのコメントでだいぶ私の中でのintegrityの輪郭がはっきりしてきたように思いますが、ガメさんが、和訳するなら「垂直性」と書かれていてふと頭をよぎったことがあるのでここに書いてみます。
    私は太極拳を学んでいて、中でも身体の内側を重視する流派なのですが、練習を積んで身体の内側の感覚がわかり始めた頃、街を歩くほとんどの日本人の身体が歪んでしまっている、ということに気付いて愕然としました。20代の若い人はまだ筋力でまっすく立っていられるのですが、中年以降筋力が衰えた年代はほとんどと言っていいほど身体の内側を繋げてまっすぐ立ってられる人がいない。それに比べて外国人、とくに欧米人は真っすぐしている。太極拳の先生がしばらく外国に滞在して目が慣れてから日本に帰国すると、歩いている日本人を見るとほとんど身体障害者のように見える、と言うほど。つまり、integrityは精神的な資質だけではなく、身体性にも関わっているのではないかと思います。精神と身体は切ってもきれない関係で、私は日本人の思考とか行動とか精神性を考える時、どうしても日本人の身体との関連を考えずにはいられません。思考が身体をつくるのか、身体が思考をつくるのかわかりませんが日本人、または日本語にintegrityが欠如していることと、「真っすぐ立てない」ということに何らかの関係があるのではと思います。うまく伝えられなくてすみません。

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  8. shimeji says:

    はじめまして。私が日本社会に対して漠然と感じる窮屈さ、卑屈さ、またそこから来る不安に言葉を与えることができた気がします。
    さて、Integrityの日本語訳についてみなさん議論されています。私の中でしっくり来た日本語は”全き”です。聖書では例えば次のように出て来ます。

    主はアブラムに現れて言われた、
    「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」(創世記 17:1)

    完全であることを意味する”全き”はヘブライ語のターミームの訳語です。その語源は、汚れのない、正しい、潔白を意味します。求められるものは全知全能ではなく、神の前における精神の潔白さや、誠実さであることが推測できます。
    と考えてたら、同様の考察をされていた方が既にいたので、紹介して筆を置きます。
    http://blog.goo.ne.jp/numano_2004/e/a7e4cd6834e94eefe443a04ae24488c5

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  9. karanotomo says:

    垂直性、って言葉で、
    「天涯に風吹いておりおみなえし」って句を思い出しました。
    物理学者で、小渕内閣の文部大臣、有馬朗人先生の句です。天の涯、故郷を離れた遠いところ。日本人って、世間にまみれているといつも背中を丸めて歩いていて、外国とか荒野とかに行かないと空を見上げない、背中がまっすぐにならない。孤独であることを恐れすぎて自分を見失ってることが多い。
    integrityって言葉と田村隆一の詩句をありがとうございました。

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  10. Gonewiththewind says:

    神と絶対善を信じ求め、自らだけでなく娘3人を教会に送り込んだ母に対し、父が森鴎外の小説「かのように」を引き合いに出して、(僕は神がいる『かのように』信じる」と宣言したことがありました。Integrity は絶対によってあり、『かのように」生きる日本的、日本語的世界には存在しないのだ、とあの時感じた違和感にようやく説明が与えられ、今腑に落ちました。学生運動から一生卒業できないまま、「かのように」生き、今認知症となった父は、自分の言葉と生活を持たない人でもありました。自分の中核をなすものとintegrity が大きく関係していると考えると、この7,8年ガメさんにつきまとっているトロル達が父の別の表現型に見えてきます。だからと言って彼らの行為が大目に見られる訳ではなく、ダメなものには断固として立ち向かいますが。

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  11. nawoto says:

    徳が高い、とか 人徳がある、とか言います。修行を積んだ禅僧あるいは人生経験豊富な村のお年寄り といったイメージです。自ら出すオーラで人を包み込んでしまう そんな人でせうか。
    志が高い人もいます。お金持ちになりたい、とか学問を究めたい そうゆーのじゃなくて 何ていいますか 意識のステージが高い。次男のことで何なんですが、高校の時の修学旅行で白馬の雪渓を見にいって、足を挫いてしまった男子生徒を麓まで負ぶって降りたさうです。もちろん私には一言も言いませんでした。荷物を持ってくれた人とかいろいろ助けてもらいながらでせうが、少なくとも私にはできません。悪いことをした人に厳しいところもありますが、正義感とゆーより 志が高いのだろうと思います。
    品がある とも言います。上流階級の人で品がある ってゆ~のもさうでしょうが、貧乏な人にもいます。人品卑しからず とゆーやつです。村松梢風の「本朝画人伝」では、画品神品画格などと書かれています。絵画にとって必要欠くべからざる要素です。北斎も画人伝に載っていますが、当時の評価は、品がない だったさうです。渡邊崋山の高見仙石像は 似すぎている ださうです。
    肖像画では源氏物語絵巻を描いた藤原何某が最高の筆手とされています。あっ いや絵のことじゃなくて描いた人のことでした。下品な人でも描いた絵は品がある とゆ~こともあります。只今展覧されている熊谷守一など絵も人も品のある存在だったんでせうね。
    integrity私に早くわかりませんが、あてはまる言葉もあるんじゃないでせうか?

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  12. DoorsSaidHello says:

    integrityについてのたくさんの発言をツィッタで読んで、不思議に思ったことがある。

    「日本語にintegrityに対応する言葉はあるか」と質問されたら、私が一番に考えるのは「自分自身の中にintegrityのようなものはあるか」ということであり、あるとすれば私はそれを(日本語で)何と呼ぶか、ということだ。そしてそれは自分の周りの人にもあるのか、社会全体に汎的に見られるのかを考え、見られるとすれば呼び名が与えられているかを考える。だが誰も自分自身を出発点にしていないので、議論はふわふわとまとまらない。

    私は自分の中の「それ」に名前をつけたことはないけれど、私自身の「尊厳」にかかわるものとして感じている。「それ」を曲げてしまうと、私が私でなくなってしまうもの。「それ」に従って行動すると、少なくとも日本の社会では常に孤立し、四面楚歌になり、ひどいトラブルを一人で引き受けることになることがわかっているのに、決して逆らえない、残酷なほどの「何か」。

    そうかきみにはintegrityという名前があったのか。知らなかったよ。また苛烈な名前をつけたものだな。きみと相対すると、私はいつも膝が震えるんだよ。

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  13. hoshigarasu says:

    はじめまして。
    拝読していて、integrity に関する各位の考察には頷かされることが多いのですが、日本語表現の有無につき。

    integrity = 高潔

    では駄目なのでしょうか。
    哲人さんの言われる「自分固有の原理に違わない感じ」という概念にも「高潔を保つ」などとすれば意が通じますし、「人々と共有する規範に違わない感じ」にも縛られないように思います。

    ツイッタのアカウントは持てどあまりTLを追っていませんので、既出でしたらごめんなさい。

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  14. MB Da Kidd says:

    ごめんなさい、自分は一方的にガメさんの意見を拝読して、ああ、そうだよねそうだよねと消費する一方なので、コメントをつけるのもおこがましいと思っていたのですが、このintegrityには反応せざるを得ませんでした。

    自分が長年日本社会に求めていて、持ってる人には出会えても、必ずそれを邪魔する人がカウンターにつく、という繰り返しを経験してきた気がします。

    ガメさんにつきまとうトロルのような連中がそのカウンターにあたるわけですけど、彼らに共通しているのは、自分を相対化する作業が絶対にできないことです。
    自分自身の中に甘さを残しているので、無の境地になれない。

    だから、そこから逃げて、他人の悪口を言うしか能がない。

    無の境地に至る、のは日本人の究極のゴールだと思うのですが、そこを目指さない、という意味で、こういう人たちはいかにも日本人を偽装しているんだなと思います。
    『日本』と『自分という個人』を一体化させ、あるいは『世間』と『自分という個人』を一体化させ、自分を肥大化させ、過大な存在へと持っていこうとしているのが、いかにも品格がないよね、と思います。

    結局integrityは、個と全体のけじめをきちっとつけた上で、他の個に対する敬意を払うことだと思います。
    それが他者を尊重したり、他者を助けたりする、という行為に表れるのではないかと感じています。

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  15. 至誠の人、だと思います。
    読んでその言葉を思い出しました。
    至誠の人とならんかな と歌ってました。剣道の会歌ですが。
    ごく当たり前に、そういう人が良いのだと刷り込まれた子供の頃。
    ごく当たり前に、そういう人々がいた。

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  16. いわし says:

    英語には不慣れなのですが、先日フロリダの高校で起きた銃乱射事件のことが気になってCNNを見ていたところ、生き延びた生徒たちが政治家や大人たちの無為無策を厳しく指摘し、銃規制を訴えるために立ち上がったというニュースをやっていて、スタジオから、「これらの若者たちの integrity に対し、大人たちの方ときたら…」という言葉が出て、ガメさんのブログを思い出しました。 同時通訳では「高潔さ」と訳されていましたが、一旦それは置いておいて、ネットに上がっていた若者たちのスピーチを、「これが integrity なのだ」と意識しながら(書き起こしも参照しつつ)聞きました。

    どんな言葉にしても、特に今回のような概念の場合は、その言葉の定義が顕現している現場に居合わせ(といっても今回はパソコンのモニター越しにですが)、そこにある波長に共振する体験を繰り返すと、少しずつ意味を体得できる気がします。これから先ずっと、integrity という言葉を見聞きするたびに、あの高校生たちのスピーチを聞きながら感じた、魂の共振を思い出すのだと思います。日本語にも似たような意味の言葉があるのかもしれませんが、言葉があるかどうかより、より深刻な問題は、言葉の意味を構築する実践の方が著しく不足していることなのかもしれません。

    その後で、鶴見俊輔が述べたという次のような一文をネットで見かけたのですが、もしかしたら彼は日本人が示すべき integrity について語っていたのかもしれないと思いました:「もし日本が、みずから称するように戦争を否定する理念をもっているならば、戦争にかかわることを嫌ってここに亡命してくるものを受けいれることが当然と思われる。亡命権を認めることは、日本の憲法を、たてまえからほんねにひきもどすために必要な一つの処置である。」

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  17. 中野 善行 says:

    鶴見俊輔は、「転向再論」という本(p30)、以下のように述べています。貴兄の慧眼に驚嘆。

     ヨーロッパの文脈で言うと、「アイデンティティ」よりも「インテグリティー」という規範をもとに考えるならば、共産党の思想からの離脱を、再建の道を断たれたと感じない方向への転機とする可能性があった。明治初期に北村透谷らのあいだでインテグリティーということばは日本に伝えられていたが、それは日本語としての定訳をもたず、外来語としても「アイデンティティー」ほどに広く使われることもなかった。

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  18. akin says:

    僕はintegrityを「言行一致」と基本的に訳しています。
    ガメ氏の「垂直性」という訳もいいですね。だるま落としの最下段の積み木を木槌で叩き出してもまだ垂直に立ち続けようとする強さが目に浮かぶようです。

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