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更新日:2018.12.10 / 新聞掲載日:2018.12.7(第3267号)
「ポリティカル・コレクトネス」の汚名 特集「差別と想像力」『新潮』12月号を読む
杉田水脈の「LGBTは生産性がない」発言、および『新潮45』休刊騒動について『新潮』12月号が「差別と想像力」という特集を組んでいる。星野智幸は「ポリティカル・コレクトネス」の重要性を説きながら、次のように述べる(「危機を好機に変えるために」『新潮』12月)。
「少しでも関心を持ち、ヘイトに加担したくないと思ったら、その人なりの形で声をあげてもらいたいのです。声の上げ方が不十分だ、言い訳だ、正しくない、と切り捨てていたら、その人たちは離れていくどころか、憎しみを掻きたてられて逆の力になってしまうかもしれません。憎悪はまさに、人が恐怖で沈黙することを望んでいるのだから。黙ったら思うツボです。声をあげようとしているのなら、それを歓迎して、もっともっと声をあげ学んでいくほうへと手を取り合っていくべきなのです」
しかし、今回の騒動にかんして「沈黙」などあっただろうか。むしろ、多くの人がしゃべりすぎたのではなかったか。もちろん、性的マイノリティの当事者が抗議の「声をあげ」るのは当然だろう。しかし、なぜマジョリティの人間が当事者面をして「声を上げ」ることができたのか。しかも、その多くが「その人なりの形で声をあげ」ているつもりで、結局のところ「ヘイトに対するヘイト」(大杉重男)をぶちまけているのにすぎなかった。それは、「私は、これらの出来事すべてが、そしてこの流れが、嫌でたまらない。おぞましい」と述べる桐野夏生といった小説家たちもかわらない(「すべてが嫌だ」同前)。星野がいうように「書き手」が「言葉の専門家」であるならば、「ヘイトに対するヘイト」をぶちまけるのではなく、議論を一歩でも進めてほしいというのが、「差別と想像力」特集全体の印象だった。
たとえば中村文則は、小川榮太郎の文章を引用しようとしても、「自分の性に悩む思春期のインターセクシャル〔…〕の一人の人間の姿が浮かぶ」から「反射的に引用できない」と述べている(「回復に向けて」同前)。しかし、なぜ差別を批判するために傷つきやすくかわいそうなマイノリティといったイメージを要請してしまうのか、ということを中村は想像力をもって考えてみるべきだろう。「擁護する者の発言として「私の知り合いのゲイの人はたくましく、今回の原稿を読んだ反応も……」というものも目にする」と述べるとおり、中村にとってマイノリティは傷つきやすくなければならないようなのだ。
しかし、千葉雅也が指摘するように、「そんな過剰な弱さを基準に我々当事者のことを考えてもらいたくないし、そういう弱さへの共感でもってマイノリティに接近するのは間違ってる」のであり、「ぶっちゃけ、マジョリティの「マイノリティかわいそう妄想」かなり入っている」ということではないのか(「平成最後のクィア・セオリー」同前)。
特集「差別と想像力」で、というか、「LGBTは生産性がない」発言をめぐる言説全体においても、千葉雅也だけが唯一読まれるべき発言をしていたように思う(「くだらない企画に内包されたLGBTと国家の大きな問題」『中央公論』12月)。いくつかの論点があるが、資本主義と国家という観点から分析した箇所を引用しよう。
「LGBTを含め、色々なアイデンティティが市民権を得ていく動きは、ドゥルーズ+ガタリの概念を使うならば、グローバル資本主義による「脱コード化」ないし「脱領土化」の進展であり、これは人類史の趨勢であって、止めることができないだろう。まず、僕はそのような立場で構えている。しかし、脱コード化に対してはバックラッシュが起きるのであり、それを問題にしなければならない。その最大の拠点が国家である。〔…〕ドゥルーズ+ガタリ的には、それは、脱コード化(経済)とコード化(国家)の衝突と言い換えられる。今回の件もまた、脱コード化に抗い、解体されまいとする国家のもがきであると理解できるだろう。杉田論文は、国家の存続のための生殖=再生産に寄与しない者としてのLGBTを差別している」(「平成最後のクィア・セオリー」)
杉田は単なる啓蒙すべき野蛮なのではない。国家の論理にもとづく強固な信念を持っているのだ。たとえば、岸政彦は杉田論文に「性的マイノリティの人たちを、なにか劣った、汚れた存在としてストレートに差別するというよりも、「そういう人たちにお金を使うのをやめましょう」というロジック」があることを指摘する(「権威主義・排外主義としての財政均衡主義」同前)。資本主義と国家の対比を展開させると、杉田はグローバル資本主義のなかで生き残りを模索する国家の論理=緊縮財政を内面化していると言い換えられる。
ところで、アメリカでは黒人に対する「現代的レイシズム」あるいは「象徴的レイシズム」という新しいタイプの差別が指摘されている。その差別には次のような論理構造がある。「①差別はすでに存在しない」→「②したがって現在の黒人が低い地位にとどまっているのは、差別によるものではなくたんに本人たちの努力不足によるものである」→「③それにもかかわらず黒人はありもしない差別に対する抗議を続け」→「④その結果、手厚い社会保障などの不当な特権を得ている」といったものだ(北村英哉ほか編『差別や偏見はなぜ起こる?』ちとせプレス、7月)。「現代的レイシズム」は黒人だけでなく、女性、同性愛者や在日朝鮮人への差別でも観察されるほか、「自助努力」や「自己責任」を重視する「保守イデオロギー」のバリエーションであることも指摘されている。いうまでもなく「自助努力」や「自己責任」は緊縮財政の合言葉だった。
杉田論文も「現代的レイシズム」のひとつとみなせる。しかし、それを批判するだけで済むか、というとそう簡単な話ではない。前回紹介した進化論や認知科学の知見によれば、「自助努力」や「自己責任」を重視する「保守イデオロギー」は人類が群れを維持するためのモラルだったとされる(ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか』ほか)。共同生活をするなかでフリーライダーを見つけ、罰しようとする傾向が強い人々の子孫が生き残ったというわけだ。だからこそ、このような差別が正当化される、と言いたいのではない。「自助努力」や「自己責任」を重視する「保守イデオロギー」は、血も涙もない冷徹な不道徳ではなく、道徳であるからこそ強固な信念となりうるということだ。
では、資本主義の「脱コード化」を肯定すればよいのだろうか。千葉は次のように指摘する。
「グローバル資本主義による脱コード化は、LGBTの差別を解消してゆく――しかし、だからよいと単純に言うことはできない。グローバル資本主義による脱コード化とは、異質なものごとを交換可能にしていくということである。ものごとの差異は、たんに計算可能な余剰価値の源泉として取り扱われるようになる。「本質的な差異」はなくなる。そのなかで人間は、それぞれが何らかの余剰価値の生産に関わる者として、生産者として対等になる。そして、異性愛者でも同性愛者でも、みんなで対等にグローバル資本によって搾取されましょう! というわけだ。〔…〕社会的包摂の議論は、ひじょうにしばしば資本の論理と共犯関係にある。リベラルの主張は、ひじょうにしばしば資本の論理と共犯関係にある。警戒せよ。そこでは差異は、新たなビジネスの動因に転化される。差異は計数化=脱―質化される」
ところで、いまや「ヘイトに対するヘイト」の代名詞となっている「ポリティカル・コレクトネス」という言葉は、もともとアメリカのフェミニズムや黒人運動において共産党路線に忠実な古臭い左翼を小馬鹿にした言葉だった。それが90年代に入り、保守派がスピーチコード、多文化主義教育やアファーマティブ・アクションを、全体主義のイメージに重ねて攻撃するために使いはじめた。つまり「ポリティカル・コレクトネス」は階級闘争=古臭い左翼と、反差別闘争=新しい左翼にたいするふたつの汚名なのだ。そして左翼の分断もまた刻印された汚名なのだ。11月現在、入管法改正案が国会で審議されているが、早晩成立するだろう。移民社会に移行しつつあるいま、左は経済と差別というふたつの不平等と同時に闘わなければならない。「ヘイトに対するヘイト」を超えて「ポリティカル・コレクトネス」という汚名を真に肯定することが左には求められている。(わたの・けいた=批評家)
「少しでも関心を持ち、ヘイトに加担したくないと思ったら、その人なりの形で声をあげてもらいたいのです。声の上げ方が不十分だ、言い訳だ、正しくない、と切り捨てていたら、その人たちは離れていくどころか、憎しみを掻きたてられて逆の力になってしまうかもしれません。憎悪はまさに、人が恐怖で沈黙することを望んでいるのだから。黙ったら思うツボです。声をあげようとしているのなら、それを歓迎して、もっともっと声をあげ学んでいくほうへと手を取り合っていくべきなのです」
しかし、今回の騒動にかんして「沈黙」などあっただろうか。むしろ、多くの人がしゃべりすぎたのではなかったか。もちろん、性的マイノリティの当事者が抗議の「声をあげ」るのは当然だろう。しかし、なぜマジョリティの人間が当事者面をして「声を上げ」ることができたのか。しかも、その多くが「その人なりの形で声をあげ」ているつもりで、結局のところ「ヘイトに対するヘイト」(大杉重男)をぶちまけているのにすぎなかった。それは、「私は、これらの出来事すべてが、そしてこの流れが、嫌でたまらない。おぞましい」と述べる桐野夏生といった小説家たちもかわらない(「すべてが嫌だ」同前)。星野がいうように「書き手」が「言葉の専門家」であるならば、「ヘイトに対するヘイト」をぶちまけるのではなく、議論を一歩でも進めてほしいというのが、「差別と想像力」特集全体の印象だった。
たとえば中村文則は、小川榮太郎の文章を引用しようとしても、「自分の性に悩む思春期のインターセクシャル〔…〕の一人の人間の姿が浮かぶ」から「反射的に引用できない」と述べている(「回復に向けて」同前)。しかし、なぜ差別を批判するために傷つきやすくかわいそうなマイノリティといったイメージを要請してしまうのか、ということを中村は想像力をもって考えてみるべきだろう。「擁護する者の発言として「私の知り合いのゲイの人はたくましく、今回の原稿を読んだ反応も……」というものも目にする」と述べるとおり、中村にとってマイノリティは傷つきやすくなければならないようなのだ。
しかし、千葉雅也が指摘するように、「そんな過剰な弱さを基準に我々当事者のことを考えてもらいたくないし、そういう弱さへの共感でもってマイノリティに接近するのは間違ってる」のであり、「ぶっちゃけ、マジョリティの「マイノリティかわいそう妄想」かなり入っている」ということではないのか(「平成最後のクィア・セオリー」同前)。
特集「差別と想像力」で、というか、「LGBTは生産性がない」発言をめぐる言説全体においても、千葉雅也だけが唯一読まれるべき発言をしていたように思う(「くだらない企画に内包されたLGBTと国家の大きな問題」『中央公論』12月)。いくつかの論点があるが、資本主義と国家という観点から分析した箇所を引用しよう。
「LGBTを含め、色々なアイデンティティが市民権を得ていく動きは、ドゥルーズ+ガタリの概念を使うならば、グローバル資本主義による「脱コード化」ないし「脱領土化」の進展であり、これは人類史の趨勢であって、止めることができないだろう。まず、僕はそのような立場で構えている。しかし、脱コード化に対してはバックラッシュが起きるのであり、それを問題にしなければならない。その最大の拠点が国家である。〔…〕ドゥルーズ+ガタリ的には、それは、脱コード化(経済)とコード化(国家)の衝突と言い換えられる。今回の件もまた、脱コード化に抗い、解体されまいとする国家のもがきであると理解できるだろう。杉田論文は、国家の存続のための生殖=再生産に寄与しない者としてのLGBTを差別している」(「平成最後のクィア・セオリー」)
杉田は単なる啓蒙すべき野蛮なのではない。国家の論理にもとづく強固な信念を持っているのだ。たとえば、岸政彦は杉田論文に「性的マイノリティの人たちを、なにか劣った、汚れた存在としてストレートに差別するというよりも、「そういう人たちにお金を使うのをやめましょう」というロジック」があることを指摘する(「権威主義・排外主義としての財政均衡主義」同前)。資本主義と国家の対比を展開させると、杉田はグローバル資本主義のなかで生き残りを模索する国家の論理=緊縮財政を内面化していると言い換えられる。
ところで、アメリカでは黒人に対する「現代的レイシズム」あるいは「象徴的レイシズム」という新しいタイプの差別が指摘されている。その差別には次のような論理構造がある。「①差別はすでに存在しない」→「②したがって現在の黒人が低い地位にとどまっているのは、差別によるものではなくたんに本人たちの努力不足によるものである」→「③それにもかかわらず黒人はありもしない差別に対する抗議を続け」→「④その結果、手厚い社会保障などの不当な特権を得ている」といったものだ(北村英哉ほか編『差別や偏見はなぜ起こる?』ちとせプレス、7月)。「現代的レイシズム」は黒人だけでなく、女性、同性愛者や在日朝鮮人への差別でも観察されるほか、「自助努力」や「自己責任」を重視する「保守イデオロギー」のバリエーションであることも指摘されている。いうまでもなく「自助努力」や「自己責任」は緊縮財政の合言葉だった。
杉田論文も「現代的レイシズム」のひとつとみなせる。しかし、それを批判するだけで済むか、というとそう簡単な話ではない。前回紹介した進化論や認知科学の知見によれば、「自助努力」や「自己責任」を重視する「保守イデオロギー」は人類が群れを維持するためのモラルだったとされる(ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか』ほか)。共同生活をするなかでフリーライダーを見つけ、罰しようとする傾向が強い人々の子孫が生き残ったというわけだ。だからこそ、このような差別が正当化される、と言いたいのではない。「自助努力」や「自己責任」を重視する「保守イデオロギー」は、血も涙もない冷徹な不道徳ではなく、道徳であるからこそ強固な信念となりうるということだ。
では、資本主義の「脱コード化」を肯定すればよいのだろうか。千葉は次のように指摘する。
「グローバル資本主義による脱コード化は、LGBTの差別を解消してゆく――しかし、だからよいと単純に言うことはできない。グローバル資本主義による脱コード化とは、異質なものごとを交換可能にしていくということである。ものごとの差異は、たんに計算可能な余剰価値の源泉として取り扱われるようになる。「本質的な差異」はなくなる。そのなかで人間は、それぞれが何らかの余剰価値の生産に関わる者として、生産者として対等になる。そして、異性愛者でも同性愛者でも、みんなで対等にグローバル資本によって搾取されましょう! というわけだ。〔…〕社会的包摂の議論は、ひじょうにしばしば資本の論理と共犯関係にある。リベラルの主張は、ひじょうにしばしば資本の論理と共犯関係にある。警戒せよ。そこでは差異は、新たなビジネスの動因に転化される。差異は計数化=脱―質化される」
ところで、いまや「ヘイトに対するヘイト」の代名詞となっている「ポリティカル・コレクトネス」という言葉は、もともとアメリカのフェミニズムや黒人運動において共産党路線に忠実な古臭い左翼を小馬鹿にした言葉だった。それが90年代に入り、保守派がスピーチコード、多文化主義教育やアファーマティブ・アクションを、全体主義のイメージに重ねて攻撃するために使いはじめた。つまり「ポリティカル・コレクトネス」は階級闘争=古臭い左翼と、反差別闘争=新しい左翼にたいするふたつの汚名なのだ。そして左翼の分断もまた刻印された汚名なのだ。11月現在、入管法改正案が国会で審議されているが、早晩成立するだろう。移民社会に移行しつつあるいま、左は経済と差別というふたつの不平等と同時に闘わなければならない。「ヘイトに対するヘイト」を超えて「ポリティカル・コレクトネス」という汚名を真に肯定することが左には求められている。(わたの・けいた=批評家)
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