コメント
死に笛教に意見するよりか、
個人的な意見は差し控えます。
ただし、
サバンナ山根RX7の
くそ長いブログを見るよりも
価値的です。
池◯先生の弟子だとは
私ぜんぜん思った事がないし、
日蓮大聖人さまの弟子として、
三大秘法について考察を深めたく
存じます。駄文失礼こきました。
ただし、
サバンナ山根RX7の
くそ長いブログを見るよりも
価値的です。
池◯先生の弟子だとは
私ぜんぜん思った事がないし、
日蓮大聖人さまの弟子として、
三大秘法について考察を深めたく
存じます。駄文失礼こきました。
承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです
承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです
はじめまして
管理人様
はじめまして、学会を脱会して法華講に
戻りましたひごです。
管理人様も含め学会員の方は
開眼供養を不要と言われてますが、
まず開眼供養が要らないのなら、誰でも本尊を書いても構わないと言う事ですよね。
それなら、管理人様ご自身が紙と墨で和紙に本尊を書いて拝んだらいいのではありませんか?
学会に居なくて良くなり、お金や時間を有効に使える様になりますよ。
それと開眼供養は御書に書いていないって書かれていますが、なら御書に全く書いていない選挙や新聞啓蒙や在家に対しての財務はどう説明されますか?
開眼供養はちゃんと大聖人様や戸田会長も説かれています。
ダメ出しの管理人さんも書いておられる
木絵二像開眼之事に
「法華を心得たる人木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。」
大聖人様は、真言宗だけではなく、念仏も禅宗も破折している関係からしてこの御文を真言だけと読む方が無理があります。
それと御書の読み方は佐後から佐前を読まなければ、正しい読み方ではありません。
戸田会長もこう指導されています。
「末法の現在においては、絶対に戒壇の大御本尊様こそ、われわれが即身成仏できる生身の御本仏様であらせられるのです。また、われわれがいただいている御本尊様も、文底事の一念三千、真の草木成仏の理によって開眼された、これまた生身の御本仏様であります。この御本尊様こそ、真の木絵二像開眼の御姿でなくてなんでありましょうか。これは日蓮正宗以外の邪宗では絶対になしえないところであり、ただ日蓮正宗のみのもつ深秘の法門であります。邪宗がいくら日蓮正宗の御本尊をマネて作ってみたところが、それこそ馬の骨なのであります。否、恐ろしい毒薬の働きをもつのであります 」昭和31年7月 『大白蓮華』
今の学会は正宗の正当な日寛上人の常住御本尊様を勝手に改竄し、コピーして会員に配っていて、戸田会長の指導からも外れていますが如何ですか?
最後に学会は御尊師を誹謗し、僧侶不要と指導していますが、
大聖人様は
四恩抄に「仏宝・法宝は必ず僧によって住す」と説かれていますが、「凡そ謗法とは謗仏謗僧なり、三宝一体なる故なり」から言えば、学会は謗法の団体でなりますよ。
はじめまして、学会を脱会して法華講に
戻りましたひごです。
管理人様も含め学会員の方は
開眼供養を不要と言われてますが、
まず開眼供養が要らないのなら、誰でも本尊を書いても構わないと言う事ですよね。
それなら、管理人様ご自身が紙と墨で和紙に本尊を書いて拝んだらいいのではありませんか?
学会に居なくて良くなり、お金や時間を有効に使える様になりますよ。
それと開眼供養は御書に書いていないって書かれていますが、なら御書に全く書いていない選挙や新聞啓蒙や在家に対しての財務はどう説明されますか?
開眼供養はちゃんと大聖人様や戸田会長も説かれています。
ダメ出しの管理人さんも書いておられる
木絵二像開眼之事に
「法華を心得たる人木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。」
大聖人様は、真言宗だけではなく、念仏も禅宗も破折している関係からしてこの御文を真言だけと読む方が無理があります。
それと御書の読み方は佐後から佐前を読まなければ、正しい読み方ではありません。
戸田会長もこう指導されています。
「末法の現在においては、絶対に戒壇の大御本尊様こそ、われわれが即身成仏できる生身の御本仏様であらせられるのです。また、われわれがいただいている御本尊様も、文底事の一念三千、真の草木成仏の理によって開眼された、これまた生身の御本仏様であります。この御本尊様こそ、真の木絵二像開眼の御姿でなくてなんでありましょうか。これは日蓮正宗以外の邪宗では絶対になしえないところであり、ただ日蓮正宗のみのもつ深秘の法門であります。邪宗がいくら日蓮正宗の御本尊をマネて作ってみたところが、それこそ馬の骨なのであります。否、恐ろしい毒薬の働きをもつのであります 」昭和31年7月 『大白蓮華』
今の学会は正宗の正当な日寛上人の常住御本尊様を勝手に改竄し、コピーして会員に配っていて、戸田会長の指導からも外れていますが如何ですか?
最後に学会は御尊師を誹謗し、僧侶不要と指導していますが、
大聖人様は
四恩抄に「仏宝・法宝は必ず僧によって住す」と説かれていますが、「凡そ謗法とは謗仏謗僧なり、三宝一体なる故なり」から言えば、学会は謗法の団体でなりますよ。
元気ですかー!
お久しぶりです。
鯛焼きさん、tSさん、
本年も宜しくお願いします。
新規事業の立ち上げでスッカリ
創価のことを忘れておりました。
この前久々覗いたら、
な〜に〜!やっちまったな〜!
ついに、本尊論書きましたね。
期待したような飛び道具は無かったけど、
ダメ出しさんとも渡り合うつもりですネ。
大変興味深く拝見させていただきます。
それでは!
鯛焼きさん、tSさん、
本年も宜しくお願いします。
新規事業の立ち上げでスッカリ
創価のことを忘れておりました。
この前久々覗いたら、
な〜に〜!やっちまったな〜!
ついに、本尊論書きましたね。
期待したような飛び道具は無かったけど、
ダメ出しさんとも渡り合うつもりですネ。
大変興味深く拝見させていただきます。
それでは!
Re: 元気ですかー!
元気ですよーー!
元気があれば本尊論も書ける!
>期待したような飛び道具は無かったけど、
だから言ったじゃないですか、そんなにハードルあげないでねって。
あくまでもノーマル解釈なんですから(笑)
>ダメ出しさんとも渡り合うつもりですネ。
とりあえず「木絵二像」の件、当ブログにて投げ返しました。
彼が「大人の文章」でしっかり御文を使って回答くださったら考えます。喧嘩じゃありませんので。
元気があれば本尊論も書ける!
>期待したような飛び道具は無かったけど、
だから言ったじゃないですか、そんなにハードルあげないでねって。
あくまでもノーマル解釈なんですから(笑)
>ダメ出しさんとも渡り合うつもりですネ。
とりあえず「木絵二像」の件、当ブログにて投げ返しました。
彼が「大人の文章」でしっかり御文を使って回答くださったら考えます。喧嘩じゃありませんので。
Re: はじめまして
コメントをくださいましてどうもありがとうございます。「大人の文章」で冷静に対話できましたら幸いです。よろしくお願いします。
さっそくですが、
>まず開眼供養が要らないのなら、誰でも本尊を書いても構わないと言う事ですよね。
まず「理論的にできること」と「実際に実践できるかどうか」は別問題です。
御本尊の相貌が正しければ、構わないと思います。
過去に信者さんが作成した本尊を宗門が認めた史実もございますのでレアケースではありますが、可能と言えましょう。
ただし、実際にその御本尊に「信」を持って拝せるかどうかは別問題です。おそらく実践できないでしょう。
>それと開眼供養は御書に書いていないって書かれていますが、なら御書に全く書いていない選挙や新聞啓蒙や在家に対しての財務はどう説明されますか?
まず、選挙は立正安国論「汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」等を依文とし、聖教啓蒙は「文字は是れ三世諸仏の気命なり」「仏は文字に依って衆生を度し給うなり」等が、また財務は「すこしきの物なれども・まことの人に供養すれば・こう大なり、何に況や心ざしありて・まことの法を供養せん人人をや」等が依文になるでしょう。
ただし、これら(選挙、聖教啓蒙、財務)は、全会員が必ずやらねばならないというものではありません。事情により財務や啓蒙が出来ない方や国籍等で選挙権を行使できない方になりますが、それでも信仰することは可能です。
それに対して「開眼供養」は必須事項ですよね?
法主がそれを行われなければ御本尊としては認められない、つまり教義にあたりますよね?
ですので、御書に即して確立しなければ教義とは言えないと思います。
財務等と開眼供養、まったく性質が異なるものですので混同されないほうがよろしいかと思います。
>開眼供養はちゃんと大聖人様や戸田会長も説かれています。
>木絵二像開眼之事に
>「法華を心得たる人木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。」
>大聖人様は、真言宗だけではなく、念仏も禅宗も破折している関係からしてこの御文を真言だけと読む方が無理があります。
>それと御書の読み方は佐後から佐前を読まなければ、正しい読み方ではありません。
真言、念仏等も含めてで結構なんですが「三十一面で不完全な仏像は結局「法華経」で供養すべし」が主題なはずです。
なのに、御本尊を木絵二像と一緒に扱ってよいのでしょうか?
富士一跡門徒存知の事
「日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」
日興門流であれば、この御文との整合性はどうつけるのでしょうか?
ぜひご教示ください。
>戸田会長もこう指導されています。「末法の現在においては、絶対に戒壇の大御本尊様こそ、われわれが即身成仏できる生身の御本仏様であらせられるのです。(中略)恐ろしい毒薬の働きをもつのであります 」昭和31年7月 『大白蓮華』
いつもこの手の(昔の)ご指導を持ってくる方に言うのですが、日蓮正宗を外護していた時代と今とではまったく状況が異なります。あくまでも宗門サイドに立ったご発言で「その当時は」なんら違和感がありませんし、問題ではないです。
「今とは違うがどうなんだ?」という難癖になりますが、では逆に、過去に宗門が創価学会や池田会長(当時)を讃嘆している御講義等がありますが、それも間違っているとみなして良いのでしょうか?
>今の学会は正宗の正当な日寛上人の常住御本尊様を勝手に改竄し、コピーして会員に配っていて、戸田会長の指導からも外れていますが如何ですか?
創価学会は、少なくとも日達上人の時代までは「日蓮正宗」として認めておりますが、日顕上人が破門されてからは、それまでの「日蓮正宗」ではないとの立場です。
また「正宗の正当な日寛上人」であることは間違いなく、さらに保有されてた栃木・浄圓寺は1992年に日蓮正宗から離れております。つまり、今の宗門とは何ら関係がありません。
>最後に学会は御尊師を誹謗し、僧侶不要と指導していますが、
>大聖人様は
>四恩抄に「仏宝・法宝は必ず僧によって住す」と説かれていますが、「凡そ謗法とは謗仏謗僧なり、三宝一体なる故なり」から言えば、学会は謗法の団体でなりますよ。
確かに「僧」と言われてますが、今の宗門の方々が果たして、大聖人や日興上人がいわれている「僧」と一緒なのかどうか?
御書にいわく
「世末になりて候へば妻子を帯して候比丘も人の帰依をうけ魚鳥を服する僧もさてこそ候か、日蓮はさせる妻子をも帯せず魚鳥をも服せず只法華経を弘めんとする失によりて妻子を帯せずして犯僧の名四海に満ち螻蟻をも殺さざれども悪名一天に弥れり」
この御文をよく読めば「世間は私(日蓮)を妻子を持ってないのにもかかわらず「犯僧」としてその名が国中に満ち、螻や蟻さえも殺さないのに悪名が天下にはびこってしまった」とあります。さらに「日蓮はさせる妻子をも帯せず魚鳥をも服せず」と続けられ、結局「私は妻帯する僧とは違う」と明言されているのです。つまりは「聖僧」ですよね?
にも拘わらず「大聖人ご自身で、私は聖僧だ。とは言われてない」などと弁解する方がいますが、御書を読めてない証拠ではありませんか?
また日興遺誡置文には「先師の如く予が化儀も聖僧為る可し」と仰せの通りです。
つまり現在の宗門(他宗の僧もそうですが)は、日興門流における「僧」ではないのです。
以上、長々とすみません。
私の論に当然、反論がおありでしょう。ただいちいちこれらに反論してたら収拾がつかなくなります。
せっかくですので、有意義な対話にしたく思います。
ですので、上記のどれでも結構ですが「1問」に絞っていただけませんか?
よろしくお願いします。
さっそくですが、
>まず開眼供養が要らないのなら、誰でも本尊を書いても構わないと言う事ですよね。
まず「理論的にできること」と「実際に実践できるかどうか」は別問題です。
御本尊の相貌が正しければ、構わないと思います。
過去に信者さんが作成した本尊を宗門が認めた史実もございますのでレアケースではありますが、可能と言えましょう。
ただし、実際にその御本尊に「信」を持って拝せるかどうかは別問題です。おそらく実践できないでしょう。
>それと開眼供養は御書に書いていないって書かれていますが、なら御書に全く書いていない選挙や新聞啓蒙や在家に対しての財務はどう説明されますか?
まず、選挙は立正安国論「汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」等を依文とし、聖教啓蒙は「文字は是れ三世諸仏の気命なり」「仏は文字に依って衆生を度し給うなり」等が、また財務は「すこしきの物なれども・まことの人に供養すれば・こう大なり、何に況や心ざしありて・まことの法を供養せん人人をや」等が依文になるでしょう。
ただし、これら(選挙、聖教啓蒙、財務)は、全会員が必ずやらねばならないというものではありません。事情により財務や啓蒙が出来ない方や国籍等で選挙権を行使できない方になりますが、それでも信仰することは可能です。
それに対して「開眼供養」は必須事項ですよね?
法主がそれを行われなければ御本尊としては認められない、つまり教義にあたりますよね?
ですので、御書に即して確立しなければ教義とは言えないと思います。
財務等と開眼供養、まったく性質が異なるものですので混同されないほうがよろしいかと思います。
>開眼供養はちゃんと大聖人様や戸田会長も説かれています。
>木絵二像開眼之事に
>「法華を心得たる人木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。」
>大聖人様は、真言宗だけではなく、念仏も禅宗も破折している関係からしてこの御文を真言だけと読む方が無理があります。
>それと御書の読み方は佐後から佐前を読まなければ、正しい読み方ではありません。
真言、念仏等も含めてで結構なんですが「三十一面で不完全な仏像は結局「法華経」で供養すべし」が主題なはずです。
なのに、御本尊を木絵二像と一緒に扱ってよいのでしょうか?
富士一跡門徒存知の事
「日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」
日興門流であれば、この御文との整合性はどうつけるのでしょうか?
ぜひご教示ください。
>戸田会長もこう指導されています。「末法の現在においては、絶対に戒壇の大御本尊様こそ、われわれが即身成仏できる生身の御本仏様であらせられるのです。(中略)恐ろしい毒薬の働きをもつのであります 」昭和31年7月 『大白蓮華』
いつもこの手の(昔の)ご指導を持ってくる方に言うのですが、日蓮正宗を外護していた時代と今とではまったく状況が異なります。あくまでも宗門サイドに立ったご発言で「その当時は」なんら違和感がありませんし、問題ではないです。
「今とは違うがどうなんだ?」という難癖になりますが、では逆に、過去に宗門が創価学会や池田会長(当時)を讃嘆している御講義等がありますが、それも間違っているとみなして良いのでしょうか?
>今の学会は正宗の正当な日寛上人の常住御本尊様を勝手に改竄し、コピーして会員に配っていて、戸田会長の指導からも外れていますが如何ですか?
創価学会は、少なくとも日達上人の時代までは「日蓮正宗」として認めておりますが、日顕上人が破門されてからは、それまでの「日蓮正宗」ではないとの立場です。
また「正宗の正当な日寛上人」であることは間違いなく、さらに保有されてた栃木・浄圓寺は1992年に日蓮正宗から離れております。つまり、今の宗門とは何ら関係がありません。
>最後に学会は御尊師を誹謗し、僧侶不要と指導していますが、
>大聖人様は
>四恩抄に「仏宝・法宝は必ず僧によって住す」と説かれていますが、「凡そ謗法とは謗仏謗僧なり、三宝一体なる故なり」から言えば、学会は謗法の団体でなりますよ。
確かに「僧」と言われてますが、今の宗門の方々が果たして、大聖人や日興上人がいわれている「僧」と一緒なのかどうか?
御書にいわく
「世末になりて候へば妻子を帯して候比丘も人の帰依をうけ魚鳥を服する僧もさてこそ候か、日蓮はさせる妻子をも帯せず魚鳥をも服せず只法華経を弘めんとする失によりて妻子を帯せずして犯僧の名四海に満ち螻蟻をも殺さざれども悪名一天に弥れり」
この御文をよく読めば「世間は私(日蓮)を妻子を持ってないのにもかかわらず「犯僧」としてその名が国中に満ち、螻や蟻さえも殺さないのに悪名が天下にはびこってしまった」とあります。さらに「日蓮はさせる妻子をも帯せず魚鳥をも服せず」と続けられ、結局「私は妻帯する僧とは違う」と明言されているのです。つまりは「聖僧」ですよね?
にも拘わらず「大聖人ご自身で、私は聖僧だ。とは言われてない」などと弁解する方がいますが、御書を読めてない証拠ではありませんか?
また日興遺誡置文には「先師の如く予が化儀も聖僧為る可し」と仰せの通りです。
つまり現在の宗門(他宗の僧もそうですが)は、日興門流における「僧」ではないのです。
以上、長々とすみません。
私の論に当然、反論がおありでしょう。ただいちいちこれらに反論してたら収拾がつかなくなります。
せっかくですので、有意義な対話にしたく思います。
ですので、上記のどれでも結構ですが「1問」に絞っていただけませんか?
よろしくお願いします。
No title
◆【絵像(えぞう)】…①絵にかいた肖像。画像。②絵にかいた仏像。仏画。
※「画像」とは、事象を視覚的に媒体に定着させたもので、そこから発展した文字は含まない。よって、「文字曼荼羅」は〝絵像〟ではない。
https://open.mixi.jp/user/54955889/diary/1969865947
「御本尊様も本当に日の目を見たのは、学会が出現してからだ。学会のお陰で御本尊様の本当の力が出るようになった」(堀日亨上人)
「日淳上人は、学会にこそ『正しい本尊』『正しい信仰』『正しい指導』がそろっており、だからこそ大功徳を受けることができる、と明確に示されている。たとえ、正しい本尊を持っていても、『正しい信仰』と『正しい指導』が欠けていれば、功徳はない。そればかりか、信仰の堕落と退廃をまねき、謗法に転落していくことは、現宗門の姿が、何よりの証明である。御本尊だけであれば、いわゆる日蓮宗にも、大聖人の御真筆の御本尊もまします」(池田大作著『人間と仏法を語る』第24巻)
1994年、ドイツにて池田先生は、“仏教がインドでなぜ、滅んだか”について思索を続けたネルー首相が至った結論――“仏陀の神格化が行われたためである”を紹介し、次のように語っている。
「本来、仏教は『人間の生き方』を説いたものであった。『このように生きよ』『人生をこう生きよ』と、我が身で教えた。そこには師弟の道があった。しかし、いつしか『人間・釈尊』は権威化され、人間を超えた神になっていった」
「『仏』とは、ありがたく礼拝する対象であっても、『その生き方に続く』存在ではなくなった。師弟の道も見えなくなった。仏教が『人間の生き方』でなくなったとき、インドでは、仏教は死んでしまった」
【池田先生のスピーチより】※新時代第10回本部幹部会(2007.9.6)
「師匠」と「弟子」という仏法の厳粛な関係を明快にし、教えたのが創価学会である。師弟が仏法の縮図である。
慢心の人間には、この師弟が分からない。ゆえに、仏法が分からない。(略)
この師弟の「生命の結合」があるかぎり、創価学会は永遠に盤石である。なくなってしまえば、ばらばらの烏合の衆となってしまう。師弟こそ仏法の根幹の法則である。師弟こそ学会の魂なのである。(略)
師弟を疎かにするならば、学会精神が蝕まれ、信心が蝕まれていくのである。「師弟相違せばなに事も成べからず」(御書P.900)と仰せの通りだ。(略)
日淳上人は、かつて、こうおっしゃった。
「(学会には)良き信仰、正しい御本尊に正しい信仰、正しい指導、この三つが揃うておりまする」(創価学会第15回総会講演)
https://blogs.yahoo.co.jp/yoshiokono/36561657.html
【日蓮正宗の異常性】
https://9308.teacup.com/shukubou/bbs/12963
https://9308.teacup.com/shukubou/bbs/348
※「画像」とは、事象を視覚的に媒体に定着させたもので、そこから発展した文字は含まない。よって、「文字曼荼羅」は〝絵像〟ではない。
https://open.mixi.jp/user/54955889/diary/1969865947
「御本尊様も本当に日の目を見たのは、学会が出現してからだ。学会のお陰で御本尊様の本当の力が出るようになった」(堀日亨上人)
「日淳上人は、学会にこそ『正しい本尊』『正しい信仰』『正しい指導』がそろっており、だからこそ大功徳を受けることができる、と明確に示されている。たとえ、正しい本尊を持っていても、『正しい信仰』と『正しい指導』が欠けていれば、功徳はない。そればかりか、信仰の堕落と退廃をまねき、謗法に転落していくことは、現宗門の姿が、何よりの証明である。御本尊だけであれば、いわゆる日蓮宗にも、大聖人の御真筆の御本尊もまします」(池田大作著『人間と仏法を語る』第24巻)
1994年、ドイツにて池田先生は、“仏教がインドでなぜ、滅んだか”について思索を続けたネルー首相が至った結論――“仏陀の神格化が行われたためである”を紹介し、次のように語っている。
「本来、仏教は『人間の生き方』を説いたものであった。『このように生きよ』『人生をこう生きよ』と、我が身で教えた。そこには師弟の道があった。しかし、いつしか『人間・釈尊』は権威化され、人間を超えた神になっていった」
「『仏』とは、ありがたく礼拝する対象であっても、『その生き方に続く』存在ではなくなった。師弟の道も見えなくなった。仏教が『人間の生き方』でなくなったとき、インドでは、仏教は死んでしまった」
【池田先生のスピーチより】※新時代第10回本部幹部会(2007.9.6)
「師匠」と「弟子」という仏法の厳粛な関係を明快にし、教えたのが創価学会である。師弟が仏法の縮図である。
慢心の人間には、この師弟が分からない。ゆえに、仏法が分からない。(略)
この師弟の「生命の結合」があるかぎり、創価学会は永遠に盤石である。なくなってしまえば、ばらばらの烏合の衆となってしまう。師弟こそ仏法の根幹の法則である。師弟こそ学会の魂なのである。(略)
師弟を疎かにするならば、学会精神が蝕まれ、信心が蝕まれていくのである。「師弟相違せばなに事も成べからず」(御書P.900)と仰せの通りだ。(略)
日淳上人は、かつて、こうおっしゃった。
「(学会には)良き信仰、正しい御本尊に正しい信仰、正しい指導、この三つが揃うておりまする」(創価学会第15回総会講演)
https://blogs.yahoo.co.jp/yoshiokono/36561657.html
【日蓮正宗の異常性】
https://9308.teacup.com/shukubou/bbs/12963
https://9308.teacup.com/shukubou/bbs/348
返事が遅くなりました。
返事が遅くなって申し訳ありませんが、管理人さんの提案通り一問一答にさせて頂きます。
まず私は大聖人様が開眼供養が居ると説かれているのに、開眼が要らないと言って事を聞いただけですよ。
大聖人様は草木成仏口決に
「妙法とは有情の成仏なり、蓮華とは非情の成仏なり。有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏と云ふが有情・非情の成仏の事なり(中略)其の故は、我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。」
木絵二像開眼の書にも
「法華を心得たる人木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。」
御書に開眼供養とはっきりと説かれていますが、要らないとの御文を明示して下さい。
まず私は大聖人様が開眼供養が居ると説かれているのに、開眼が要らないと言って事を聞いただけですよ。
大聖人様は草木成仏口決に
「妙法とは有情の成仏なり、蓮華とは非情の成仏なり。有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏と云ふが有情・非情の成仏の事なり(中略)其の故は、我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。」
木絵二像開眼の書にも
「法華を心得たる人木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。」
御書に開眼供養とはっきりと説かれていますが、要らないとの御文を明示して下さい。
Re: 返事が遅くなりました。
ご回答ありがとうございます。
返事は遅くてもまったく構いません。私も遅れることがあると思いますがご了承ください。
では、まず「開眼供養」の件から詰めていきたく思います。
>まず私は大聖人様が開眼供養が居ると説かれているのに、開眼が要らないと言って事を聞いただけですよ。
>大聖人様は草木成仏口決に
>「妙法とは有情の成仏なり、蓮華とは非情の成仏なり。有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏と云ふが有情・非情の成仏の事なり(中略)其の故は、我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。」
>木絵二像開眼の書にも
>「法華を心得たる人木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。」
>御書に開眼供養とはっきりと説かれていますが、要らないとの御文を明示して下さい。
まず、私は「草木成仏」を否定しているのではありません。
また「開眼供養」そのものも否定してはおりません。当然、要らないとの御文などありません。
問題にしているのは、御書の引用・解釈が大きく誤っているのではないか?という点です。
もっと言えば「仏像」や「塔婆」に対しての「開眼供養」は百歩譲ってアリだとしても、果たして「御本尊」へ「開眼供養」する必要があるのかどうか?という点です。
木絵二像の御書の趣意は何かと言えば「真言による開眼供養」を破折するためです。つまり「仏像の開眼供養」は、真言ではなく「法華経を根本」にすべし、という内容なはずです。
その意味で「仏像の開眼供養」と「御本尊の開眼供養」を同一視している点を問題にしているのです。
何度も引用いたしますが、富士一跡門徒存知の事
「日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」
このように日興上人は断言されております。
「全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず」と仰せなのに、なぜあなたは「木絵二像」を「御本尊」と置き換えておられるのでしょうか?
ぜひ、この点をご教示ください。
よろしくお願いします。
返事は遅くてもまったく構いません。私も遅れることがあると思いますがご了承ください。
では、まず「開眼供養」の件から詰めていきたく思います。
>まず私は大聖人様が開眼供養が居ると説かれているのに、開眼が要らないと言って事を聞いただけですよ。
>大聖人様は草木成仏口決に
>「妙法とは有情の成仏なり、蓮華とは非情の成仏なり。有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏と云ふが有情・非情の成仏の事なり(中略)其の故は、我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。」
>木絵二像開眼の書にも
>「法華を心得たる人木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。」
>御書に開眼供養とはっきりと説かれていますが、要らないとの御文を明示して下さい。
まず、私は「草木成仏」を否定しているのではありません。
また「開眼供養」そのものも否定してはおりません。当然、要らないとの御文などありません。
問題にしているのは、御書の引用・解釈が大きく誤っているのではないか?という点です。
もっと言えば「仏像」や「塔婆」に対しての「開眼供養」は百歩譲ってアリだとしても、果たして「御本尊」へ「開眼供養」する必要があるのかどうか?という点です。
木絵二像の御書の趣意は何かと言えば「真言による開眼供養」を破折するためです。つまり「仏像の開眼供養」は、真言ではなく「法華経を根本」にすべし、という内容なはずです。
その意味で「仏像の開眼供養」と「御本尊の開眼供養」を同一視している点を問題にしているのです。
何度も引用いたしますが、富士一跡門徒存知の事
「日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」
このように日興上人は断言されております。
「全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず」と仰せなのに、なぜあなたは「木絵二像」を「御本尊」と置き換えておられるのでしょうか?
ぜひ、この点をご教示ください。
よろしくお願いします。
おはようございます。
おはようございます。
管理人さんは御本尊様に「開眼供養」など必要ありません。と記事をされました。
でも管理人さんは
まず、私は「草木成仏」を否定しているのではありません。
また「開眼供養」そのものも否定してはおりません。当然、要らないとの御文などありません。
と回答されました。
記事と回答が差異がありますが如何ですか?
そもそも木絵二像も御本尊様も元は草木です。
大聖人様がその草木を成仏させるには、開眼供養が必要と説かれたのなら、開眼供養は必要と理解するのが普通ではありませんか
お釈迦様も法華経を説かれる前、方便の爾前経を説かれたと同じ様に、大聖人様もその当時の仏像が弘まっている機根に合わせ、間違った教えで開眼供養をしてはならないと分かりやすく説かれたと考えれば辻褄が合います。
現に草木成仏口決の最後には
「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり、天台妙楽伝教内にはかがみさせ給へどもひろめ給はず、一色一香とののしり惑耳驚心とささやき給いて妙法蓮華と云うべきを円頓止観とかへさせ給いき、されば草木成仏は死人の成仏なり、此等の法門は知る人すくなきなり、所詮妙法蓮華をしらざる故に迷うところの法門なり、敢て忘失する事なかれ、恐恐謹言。」
大曼陀羅が草木成仏の究極と説かれておりますよ。
最後に、日興上人の御文を出されていましたが、日蓮大聖人様の法門は全て日興上人に受け継がれた訳ですから、日蓮大聖人の本意を説かれるのは当たり前の事です。
管理人さんは御本尊様に「開眼供養」など必要ありません。と記事をされました。
でも管理人さんは
まず、私は「草木成仏」を否定しているのではありません。
また「開眼供養」そのものも否定してはおりません。当然、要らないとの御文などありません。
と回答されました。
記事と回答が差異がありますが如何ですか?
そもそも木絵二像も御本尊様も元は草木です。
大聖人様がその草木を成仏させるには、開眼供養が必要と説かれたのなら、開眼供養は必要と理解するのが普通ではありませんか
お釈迦様も法華経を説かれる前、方便の爾前経を説かれたと同じ様に、大聖人様もその当時の仏像が弘まっている機根に合わせ、間違った教えで開眼供養をしてはならないと分かりやすく説かれたと考えれば辻褄が合います。
現に草木成仏口決の最後には
「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり、天台妙楽伝教内にはかがみさせ給へどもひろめ給はず、一色一香とののしり惑耳驚心とささやき給いて妙法蓮華と云うべきを円頓止観とかへさせ給いき、されば草木成仏は死人の成仏なり、此等の法門は知る人すくなきなり、所詮妙法蓮華をしらざる故に迷うところの法門なり、敢て忘失する事なかれ、恐恐謹言。」
大曼陀羅が草木成仏の究極と説かれておりますよ。
最後に、日興上人の御文を出されていましたが、日蓮大聖人様の法門は全て日興上人に受け継がれた訳ですから、日蓮大聖人の本意を説かれるのは当たり前の事です。
Re: おはようございます。
コメントありがとうございます。
>記事と回答が差異がありますが如何ですか?
私(創価学会)は、「仏像」に開眼供養する意義は認めても、「御本尊」に開眼供養する意義などない、という立場です。
つまり「仏像」=「御本尊」ではないのです。
依文は何度も引いておりますが、富士一跡門徒存知の事
「日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」
(後述します。)
話を戻しますが、ゆえに「草木成仏」「開眼供養」を否定しないことと、
御本尊様に「開眼供養」など必要ありません。
と記事タイトルにしたことは、まったく矛盾しませんし、むしろ当然のことだと考えております。
>そもそも木絵二像も御本尊様も元は草木です。
確かに。ですが、
>大聖人様がその草木を成仏させるには、開眼供養が必要と説かれたのなら、開眼供養は必要と理解するのが普通ではありませんか
ここが誤った解釈です。
そもそも「開眼」って何なのでしょう?
木絵二像開眼之事
「仏に三十二相有り、皆色法なり。最下の千輻輪より終り無見頂相に至るまでの三十一相は、可見有対色なれば書きつべし作りつべし。梵音声の一相は、不可見無対色なれば書くべからず作るべからず。仏滅後は木画の二像あり。是れ三十一相にして梵音声かけたり。故に仏に非ず。又心法かけたり。」とある通りで、
仏は三十二相八十種好の色法を備えているが、木絵二像は三十一相までしかない。ゆえに欠けている残り「梵音声」を加えることで三十二相となるが、この「梵音声」を加えることを「開眼」と仰せなのです。
さらに「三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば必ず純円の仏なり云云」と仰せで、つまり「梵音声」=「法華経」を置くことが大事で、決して当時流行の「真言」では仏にならないとの破折なのです。
もちろん「法華経」=「南無妙法蓮華経」と読むのは言うまでもありません。
このように、不完全な「仏像」に対して「開眼供養」することは理解しますが、翻って「御本尊」に当てはめるのは無理があります。
では、あなたが「御本尊には開眼供養が必要」と言うからには、御本尊に何かが不足しているという認識なのでしょうが、それはいったい何なのですか? 御書に即してお答えください。
>現に草木成仏口決の最後には
「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり、
天台妙楽伝教内にはかがみさせ給へどもひろめ給はず、一色一香とののしり惑耳驚心とささやき給いて妙法蓮華と云うべきを円頓止観とかへさせ給いき、されば草木成仏は死人の成仏なり、此等の法門は知る人すくなきなり、所詮妙法蓮華をしらざる故に迷うところの法門なり、敢て忘失する事なかれ、恐恐謹言。」
>大曼陀羅が草木成仏の究極と説かれておりますよ。
この御文では「塔婆」を立てて開眼供養する理屈については分かりますが、なぜ「御本尊」を開眼供養するのか?については明確ではありません。
「塔婆」も「御本尊」も一緒の扱いで論じている根拠が不明です。
>最後に、日興上人の御文を出されていましたが、日蓮大聖人様の法門は全て日興上人に受け継がれた訳ですから、
>日蓮大聖人の本意を説かれるのは当たり前の事です。
ここは誤解をされているようです。
日興上人は大聖人の本意に従っているからこそ、「大聖人の法門では絵像・木像の仏は本尊ではない」と断言されているのです。
にもかかわらず、あなたは「木絵二像」を「本尊」とみなしたうえで「開眼供養が必要」としていますが、これが誤りだということ。
「塔婆」の「草木成仏」の原理を用いて、「御本尊」を「草木成仏」させるというのは大聖人の本意ではないのです。
いまだ回答くださってませんので、再度問います。
富士一跡門徒存知の事
「日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、
唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」
このように日興上人は断言されております。
「全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず」と仰せなのに、なぜあなたは「木絵二像」を「御本尊」と置き換えておられるのでしょうか?
ぜひ、この点をご教示ください。
よろしくお願いします。
>記事と回答が差異がありますが如何ですか?
私(創価学会)は、「仏像」に開眼供養する意義は認めても、「御本尊」に開眼供養する意義などない、という立場です。
つまり「仏像」=「御本尊」ではないのです。
依文は何度も引いておりますが、富士一跡門徒存知の事
「日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」
(後述します。)
話を戻しますが、ゆえに「草木成仏」「開眼供養」を否定しないことと、
御本尊様に「開眼供養」など必要ありません。
と記事タイトルにしたことは、まったく矛盾しませんし、むしろ当然のことだと考えております。
>そもそも木絵二像も御本尊様も元は草木です。
確かに。ですが、
>大聖人様がその草木を成仏させるには、開眼供養が必要と説かれたのなら、開眼供養は必要と理解するのが普通ではありませんか
ここが誤った解釈です。
そもそも「開眼」って何なのでしょう?
木絵二像開眼之事
「仏に三十二相有り、皆色法なり。最下の千輻輪より終り無見頂相に至るまでの三十一相は、可見有対色なれば書きつべし作りつべし。梵音声の一相は、不可見無対色なれば書くべからず作るべからず。仏滅後は木画の二像あり。是れ三十一相にして梵音声かけたり。故に仏に非ず。又心法かけたり。」とある通りで、
仏は三十二相八十種好の色法を備えているが、木絵二像は三十一相までしかない。ゆえに欠けている残り「梵音声」を加えることで三十二相となるが、この「梵音声」を加えることを「開眼」と仰せなのです。
さらに「三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば必ず純円の仏なり云云」と仰せで、つまり「梵音声」=「法華経」を置くことが大事で、決して当時流行の「真言」では仏にならないとの破折なのです。
もちろん「法華経」=「南無妙法蓮華経」と読むのは言うまでもありません。
このように、不完全な「仏像」に対して「開眼供養」することは理解しますが、翻って「御本尊」に当てはめるのは無理があります。
では、あなたが「御本尊には開眼供養が必要」と言うからには、御本尊に何かが不足しているという認識なのでしょうが、それはいったい何なのですか? 御書に即してお答えください。
>現に草木成仏口決の最後には
「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり、
天台妙楽伝教内にはかがみさせ給へどもひろめ給はず、一色一香とののしり惑耳驚心とささやき給いて妙法蓮華と云うべきを円頓止観とかへさせ給いき、されば草木成仏は死人の成仏なり、此等の法門は知る人すくなきなり、所詮妙法蓮華をしらざる故に迷うところの法門なり、敢て忘失する事なかれ、恐恐謹言。」
>大曼陀羅が草木成仏の究極と説かれておりますよ。
この御文では「塔婆」を立てて開眼供養する理屈については分かりますが、なぜ「御本尊」を開眼供養するのか?については明確ではありません。
「塔婆」も「御本尊」も一緒の扱いで論じている根拠が不明です。
>最後に、日興上人の御文を出されていましたが、日蓮大聖人様の法門は全て日興上人に受け継がれた訳ですから、
>日蓮大聖人の本意を説かれるのは当たり前の事です。
ここは誤解をされているようです。
日興上人は大聖人の本意に従っているからこそ、「大聖人の法門では絵像・木像の仏は本尊ではない」と断言されているのです。
にもかかわらず、あなたは「木絵二像」を「本尊」とみなしたうえで「開眼供養が必要」としていますが、これが誤りだということ。
「塔婆」の「草木成仏」の原理を用いて、「御本尊」を「草木成仏」させるというのは大聖人の本意ではないのです。
いまだ回答くださってませんので、再度問います。
富士一跡門徒存知の事
「日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、
唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」
このように日興上人は断言されております。
「全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず」と仰せなのに、なぜあなたは「木絵二像」を「御本尊」と置き換えておられるのでしょうか?
ぜひ、この点をご教示ください。
よろしくお願いします。
No title
大聖人が仰せになっているのは、「木絵の開眼は法華経による」ということだ。すなわち、「法華経」とは「御本尊」のことであり、あくまでも御本尊は木絵を開眼する側であり、他のものに開眼されるべきものではない。
ところが、今の宗門の言い分では、法主が御本尊を開眼する立場になり、御本尊、大聖人よりも上になってしまう。何という慢心であろうか。
仏の三十二相が整足(具足)する文字漫荼羅(=南無妙法蓮華経の御本尊)とは異なり、木像と絵像(画像)は三十二相のうちの「梵音声」が欠けている。
※下記URLの記事【文字曼荼羅】より抜粋。
http://taniken3.blog114.fc2.com/blog-category-31.html
見ることも・形もない音声が、見ることも・形もあるものと変化したものが「文字」である。
“日蓮がたましひ”である“南無妙法蓮華経”という「法」は、今までの絵像・木像の本尊では、とうてい顕わすことは出来ません。それは「法」というものを顕わすためには、「文字」でなければならないからです。
「文字」について述べれば、例えば、“貴方の誕生祝いに、五万円プレゼントします”という短い言葉でも、これを絵や彫像で表現することは難しく、また、これら絵・像を見る人のそのときの精神情況や環境等によって、受ける感覚は種々変わってきます。しかし、この点「文字」ならば、簡単かつ正確に伝達することができます。
日蓮大聖人の「事の一念三千」の法理を本尊として顕わすには、絵像・木像の本尊ではどうしても限界があり、「文字」によらなければ、それを顕わすことは出来ないのです。
「大聖人は、『木絵二像開眼之事』(P.468)で、仏が具えた主要な特徴である『三十二相』のうち、梵音声だけは、色心二法に分けた時、唯一、心法に属するゆえに、木像・絵像では、仏のすべてを表現しきれない、と指摘されています。心には、時間・空間を超えて無限に広がる豊かさがある。まして仏の心は、絵や彫刻では表現しきれない」(池田名誉会長)
「草木成仏口決」では、大聖人は「有情は生の成仏・非情は死の成仏・生死の成仏と云うが有情非情の成仏の事なり、その故は我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは死の成仏にして草木成仏なり」(御書P.1338)と一念三千・草木成仏の原理を説かれるなかで塔婆供養について述べられています。つまり、一念三千の成仏は有情・非情にわたるのであり、ここでは非情の成仏として草木成仏を取り上げられているのです。そして、この草木成仏について説明する譬えとして元天台僧の最蓮房にわかりやすく、当時他宗によって普及していた塔婆供養を取り上げたものとうかがえます。
「観心本尊抄」で他宗の本尊の事例を挙げて、それらも一念三千・草木成仏の原理がなければ成り立たないとされているのと同じです。「観心本尊抄」の他宗の本尊も、「草木成仏口決」の塔婆供養も破折の対象として挙げられているのです。この二つの御書では、その一念三千の当体である御本尊の意義を明かされることに大聖人の御本意があるのです。そのことは、「草木成仏口決」の結論として「一念三千の法門をふ(振)りすす(濯)ぎたてたるは大曼荼羅(まんだら)なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」(御書P.1339)と仰せられていることからも明らかです。したがって、「草木成仏口決」の一節も、あくまで譬えであり、塔婆を立てなければ成仏できないと仰せられているわけではありません。
http://www.nichiren.com/jp/special_topic/special_topic05/st05_3.html
「此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり」(四条金吾釈迦仏供養事 P.1145)
【通解】この画像や木像に魂魄と呼ぶ魂を込めることが出来るのは、法華経の力なのです。これが天台大師の悟りなのです。この法門は、衆生について言えば即身成仏と言いますし、画像や木像について言うならば草木成仏と呼ぶのです。
ところが、今の宗門の言い分では、法主が御本尊を開眼する立場になり、御本尊、大聖人よりも上になってしまう。何という慢心であろうか。
仏の三十二相が整足(具足)する文字漫荼羅(=南無妙法蓮華経の御本尊)とは異なり、木像と絵像(画像)は三十二相のうちの「梵音声」が欠けている。
※下記URLの記事【文字曼荼羅】より抜粋。
http://taniken3.blog114.fc2.com/blog-category-31.html
見ることも・形もない音声が、見ることも・形もあるものと変化したものが「文字」である。
“日蓮がたましひ”である“南無妙法蓮華経”という「法」は、今までの絵像・木像の本尊では、とうてい顕わすことは出来ません。それは「法」というものを顕わすためには、「文字」でなければならないからです。
「文字」について述べれば、例えば、“貴方の誕生祝いに、五万円プレゼントします”という短い言葉でも、これを絵や彫像で表現することは難しく、また、これら絵・像を見る人のそのときの精神情況や環境等によって、受ける感覚は種々変わってきます。しかし、この点「文字」ならば、簡単かつ正確に伝達することができます。
日蓮大聖人の「事の一念三千」の法理を本尊として顕わすには、絵像・木像の本尊ではどうしても限界があり、「文字」によらなければ、それを顕わすことは出来ないのです。
「大聖人は、『木絵二像開眼之事』(P.468)で、仏が具えた主要な特徴である『三十二相』のうち、梵音声だけは、色心二法に分けた時、唯一、心法に属するゆえに、木像・絵像では、仏のすべてを表現しきれない、と指摘されています。心には、時間・空間を超えて無限に広がる豊かさがある。まして仏の心は、絵や彫刻では表現しきれない」(池田名誉会長)
「草木成仏口決」では、大聖人は「有情は生の成仏・非情は死の成仏・生死の成仏と云うが有情非情の成仏の事なり、その故は我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは死の成仏にして草木成仏なり」(御書P.1338)と一念三千・草木成仏の原理を説かれるなかで塔婆供養について述べられています。つまり、一念三千の成仏は有情・非情にわたるのであり、ここでは非情の成仏として草木成仏を取り上げられているのです。そして、この草木成仏について説明する譬えとして元天台僧の最蓮房にわかりやすく、当時他宗によって普及していた塔婆供養を取り上げたものとうかがえます。
「観心本尊抄」で他宗の本尊の事例を挙げて、それらも一念三千・草木成仏の原理がなければ成り立たないとされているのと同じです。「観心本尊抄」の他宗の本尊も、「草木成仏口決」の塔婆供養も破折の対象として挙げられているのです。この二つの御書では、その一念三千の当体である御本尊の意義を明かされることに大聖人の御本意があるのです。そのことは、「草木成仏口決」の結論として「一念三千の法門をふ(振)りすす(濯)ぎたてたるは大曼荼羅(まんだら)なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」(御書P.1339)と仰せられていることからも明らかです。したがって、「草木成仏口決」の一節も、あくまで譬えであり、塔婆を立てなければ成仏できないと仰せられているわけではありません。
http://www.nichiren.com/jp/special_topic/special_topic05/st05_3.html
「此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり」(四条金吾釈迦仏供養事 P.1145)
【通解】この画像や木像に魂魄と呼ぶ魂を込めることが出来るのは、法華経の力なのです。これが天台大師の悟りなのです。この法門は、衆生について言えば即身成仏と言いますし、画像や木像について言うならば草木成仏と呼ぶのです。
Re: No title
無名です、さん!
毎回貴重な情報を提供いただき、ありがとうございます。
彼らの返答を待ちたいと思います。
今後ともよろしくお願いします。
毎回貴重な情報を提供いただき、ありがとうございます。
彼らの返答を待ちたいと思います。
今後ともよろしくお願いします。
こんばんは
日蓮大聖人様の仏法は
大聖人様御自身の法体である
久遠元初、自受用報身如来の御当体、十界本有常住、事の一念三千、人法一箇、獨一本門戒壇の大御本尊様に対する信と大聖人様の御内証を受け継がれている歴代御法主猊下様しか御本尊様を書写する事が出来ない。だから、日蓮正宗しか正しくなく、その御本尊さまを弘めるのが学会の使命であり、御書写をされる御法主猊下を敬って行かなければならないと昔学会から教えてもらった事です。
今の管理人さんや学会員は他の日蓮系の方達と同じく大聖人様を信じていると言われますが、その法体を信じる事が出来ないので、大聖人の仏法ではありませんので、管理人さんの勝手な解釈で、切り文をされても仕方ないので、これで最後にさせて頂きます。
御書に法華経や南無妙法蓮華経と書いていたら、それは三大秘法の大御本尊様と解釈しなければなりません。
これは戸田会長も指導されております。
なぜなら、末法の御本仏であられる
日蓮大聖人様が、理屈だけの法だけを
説かれただけなら、前にも書きましたが、 身延でも池上でも何でも良くなってしまいます。
だから、正しい仏様がこの世の中に無ければなりません。
それが大聖人様のご魂魄が染め流された戒壇の大御本尊様に他ならない訳です。
三大秘宝は全て事の三大秘宝で無くてはならない事は、『御義口伝(おんぎくでん)』に、
「此の本尊の依文(えもん)とは如来秘密神通之力の文なり。戒定慧(かいじょうえ)の三学、寿量品の事(じ)の三大秘法是なり」(同 一七七三㌻)と説かれ、
事の戒壇は三大秘法稟承事に
「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王うとくおう・覚徳比丘かくとくびくの其の乃往むかしを末法濁悪の未来に移さん時、(中略)霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり」と、最勝に地に建立すべしと説かれています。
管理人さんが出した
「富士一跡門徒存知の事」は開眼についてかかれた書ではなく、あくまでも五老僧と日興上人の立場を対比した書です。
前文も含めると
◆五人一同に云く、本尊に於ては釈迦如来を崇め奉る可しとて既に立てたり、随つて弟子檀那等の中にも造立供養の御書之れ在りと云云、而る間盛に堂舎を造り或は一躰を安置し或は普賢文殊を脇士とす、仍つて聖人御筆の本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り又は堂舎の廊に之を捨て置く。日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり。
この部分はあくまでも「曼荼羅正意」をご指南されているのであって、「御自筆の本尊」との対比の為にこのような表現をしているのに過ぎない事は明白です。
観心本尊抄には
◆此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか
と書かれている。末法に初めて出現した「仏像」とは御本尊を指すことは明白で、大聖人はご本尊を「仏像」と言われているのだから当然御本尊も木絵二像であると大聖人は考えられていたという解釈になる。
> そもそも「開眼」って何なのでしょう?
◆日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ(経王殿御返事)
こういう事を「開眼」となります。
同じ木絵二像開眼之事には
◆但心なければ三十二相を具すれども必ず仏にあらず人天も三十二相あるがゆへに
と明確に書かれていますよ。
三十二相揃っていても仏にはならない。「心」がなければ仏=本尊にはならない。
そして開眼とはさっき引用した通り「ご本仏の心法」を移すことに他ならない。
ようは草木成仏とは非情成仏の事をいい
塔婆や御本尊はその非情成仏の義をいいます。
今の学会はこの非情成仏の義ありませんので、仏法でもなんでもない新興宗教になったわけです。
その道理をちゃんと考えて貰えれば幸いです。
大聖人様御自身の法体である
久遠元初、自受用報身如来の御当体、十界本有常住、事の一念三千、人法一箇、獨一本門戒壇の大御本尊様に対する信と大聖人様の御内証を受け継がれている歴代御法主猊下様しか御本尊様を書写する事が出来ない。だから、日蓮正宗しか正しくなく、その御本尊さまを弘めるのが学会の使命であり、御書写をされる御法主猊下を敬って行かなければならないと昔学会から教えてもらった事です。
今の管理人さんや学会員は他の日蓮系の方達と同じく大聖人様を信じていると言われますが、その法体を信じる事が出来ないので、大聖人の仏法ではありませんので、管理人さんの勝手な解釈で、切り文をされても仕方ないので、これで最後にさせて頂きます。
御書に法華経や南無妙法蓮華経と書いていたら、それは三大秘法の大御本尊様と解釈しなければなりません。
これは戸田会長も指導されております。
なぜなら、末法の御本仏であられる
日蓮大聖人様が、理屈だけの法だけを
説かれただけなら、前にも書きましたが、 身延でも池上でも何でも良くなってしまいます。
だから、正しい仏様がこの世の中に無ければなりません。
それが大聖人様のご魂魄が染め流された戒壇の大御本尊様に他ならない訳です。
三大秘宝は全て事の三大秘宝で無くてはならない事は、『御義口伝(おんぎくでん)』に、
「此の本尊の依文(えもん)とは如来秘密神通之力の文なり。戒定慧(かいじょうえ)の三学、寿量品の事(じ)の三大秘法是なり」(同 一七七三㌻)と説かれ、
事の戒壇は三大秘法稟承事に
「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王うとくおう・覚徳比丘かくとくびくの其の乃往むかしを末法濁悪の未来に移さん時、(中略)霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり」と、最勝に地に建立すべしと説かれています。
管理人さんが出した
「富士一跡門徒存知の事」は開眼についてかかれた書ではなく、あくまでも五老僧と日興上人の立場を対比した書です。
前文も含めると
◆五人一同に云く、本尊に於ては釈迦如来を崇め奉る可しとて既に立てたり、随つて弟子檀那等の中にも造立供養の御書之れ在りと云云、而る間盛に堂舎を造り或は一躰を安置し或は普賢文殊を脇士とす、仍つて聖人御筆の本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り又は堂舎の廊に之を捨て置く。日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり。
この部分はあくまでも「曼荼羅正意」をご指南されているのであって、「御自筆の本尊」との対比の為にこのような表現をしているのに過ぎない事は明白です。
観心本尊抄には
◆此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか
と書かれている。末法に初めて出現した「仏像」とは御本尊を指すことは明白で、大聖人はご本尊を「仏像」と言われているのだから当然御本尊も木絵二像であると大聖人は考えられていたという解釈になる。
> そもそも「開眼」って何なのでしょう?
◆日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ(経王殿御返事)
こういう事を「開眼」となります。
同じ木絵二像開眼之事には
◆但心なければ三十二相を具すれども必ず仏にあらず人天も三十二相あるがゆへに
と明確に書かれていますよ。
三十二相揃っていても仏にはならない。「心」がなければ仏=本尊にはならない。
そして開眼とはさっき引用した通り「ご本仏の心法」を移すことに他ならない。
ようは草木成仏とは非情成仏の事をいい
塔婆や御本尊はその非情成仏の義をいいます。
今の学会はこの非情成仏の義ありませんので、仏法でもなんでもない新興宗教になったわけです。
その道理をちゃんと考えて貰えれば幸いです。
Re: こんばんは
>大聖人様の御内証を受け継がれている歴代御法主猊下様しか御本尊様を書写する事が出来ない。
残念ながら、これはあなたの妄想に過ぎません。
以前「聖僧」のところでも述べましたが「先師の如く予が化儀も聖僧為る可し」との遺誡さえ守れない現宗門のトップが「大聖人様の御内証」など受け継げるはずもありません。
また過去にも17世日精上人はじめ大聖人の本義に外れた僧侶がいたのは歴史的事実です。
>管理人さんの勝手な解釈で、切り文をされても仕方ないので、これで最後にさせて頂きます。
勝手ではないのですが(笑)、もしそうであるならあなたの意見も勝手な解釈になりますが(大笑)
色々と大御本尊様の件、書かれてますが、私も否定している訳じゃありません。
「大御本尊を管理する」という意味で68代700年以上も続いているというのは、ある意味スゴイと思いますが「大聖人様の御内証」とか言うからヘンテコなんです。
そして、いくら大御本尊が安置されていても、御護り通すのは至難の業で、邪義に転じることもあるのです。日精上人以外にも近年で言えば日開上人、日恭上人、そして日顕上人。残念な事実ですが。
>管理人さんが出した
>「富士一跡門徒存知の事」は開眼についてかかれた書ではなく、あくまでも五老僧と日興上人の立場を対比した書です。
>前文も含めると
>◆五人一同に云く、本尊に於ては釈迦如来を崇め奉る可しとて既に立てたり、随つて弟子檀那等の中にも造立供養の御書之れ在りと云云、而る間盛に堂舎を造り或は一躰を安置し或は普賢文殊を脇士とす、仍つて聖人御筆の本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り又は堂舎の廊に之を捨て置く。日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり。
>この部分はあくまでも「曼荼羅正意」をご指南されているのであって、「御自筆の本尊」との対比の為にこのような表現をしているのに過ぎない事は明白です。
もちろん「曼荼羅正意」の御指南でもありますが、だからといって「全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず」とあるわけですから「御本尊も木絵二像である」とするのは、まるで日蓮宗の教義です。
>観心本尊抄には
>◆此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか
と書かれている。末法に初めて出現した「仏像」とは御本尊を指すことは明白で、大聖人はご本尊を「仏像」と言われているのだから当然御本尊も木絵二像であると大聖人は考えられていたという解釈になる。
本当に正気ですか?(笑)
あなたは日蓮正宗信者ではなく「日蓮宗の信者」のようですね。
では、こちらの日蓮正宗の方の解釈は間違いなのですね?
http://www.geocities.co.jp/sarariwoman/hajakensho/gaido_kakuha.htm
(ここから)
日蓮宗では、本尊の依文として『観心本尊抄』の、
「此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有(ましま)さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」(新編 654)との御文を挙げ「仏像出現」の語句によって本尊は仏像が正意であるとしている。
しかし「仏像出現」の御文の意味は、文中の正像の本尊に対する「造り画けども」との語句と、末法の仏像に対する「出現」という表現を対比してみなければならない。
「この仏像出現せしむべきか」の意味は、後の「此の時地涌千界出現して」の御文と同じく「仏像の造立」という意味ではなく、あくまで現実に現れるということを示されたと拝すべきである。
すなわちこの御文の真意は、末法に地涌千界が出現して「本門の釈尊」を脇士とする未曾有の本尊を顕すことを明かされたものである。
また、日蓮宗では同じ『観心本尊抄』の、
「此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」(新編 661)との御文について、「本門の釈尊を脇士と為す」を、「本門の釈尊の脇士と為る」と誤読し、一尊四士が正意であるとしている。
しかし、宗祖が御在世中に一尊四士の仏像を自ら造立された事実はなく、『観心本尊抄』の御文も一尊四士を本尊とせよ、との御教示ではない。それは、大聖人が佐渡以後、法本尊について御教示された御書に照らして見ればいっそう明らかである。
「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり」(草木成仏口決 新編 523)
「妙法蓮華経の御本尊供養候ひぬ。此の曼荼羅は文字は五字七字にて候へども、三世諸仏の御師(中略)此の曼荼羅は仏滅後二千二百二十余年の間、一閻浮提の内には未だひろませ給はず」(妙法曼荼羅供養事 新編 689)
「法華経の題目を以て本尊とすべし(乃至)釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給えり。故に全く能生を以て本尊とするなり」(本尊問答抄 新編 1274)
これらの御文と『観心本尊抄』の文を合わせて拝するとき、大聖人の御真意は一尊四士などの仏像本尊にあるのではなく、まさしく大聖人が顕された大曼荼羅こそ、正像未曾有の観心の御本尊であることは明らかである。
(ここまで)
いかに、あなた(とダメ出しブログの管理人)が表面的な字面でしか御書を読めてないことがよく分かる主張です(笑)仏像=御本尊を見なしてしまう低い境涯を恥じたほうがよろしいでしょう。
>>そもそも「開眼」って何なのでしょう?
>◆日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ(経王殿御返事)
こういう事を「開眼」となります。
であれば、御本尊様には「南無妙法蓮華経」と書いてありますね?
なぜ、法主があらためて開眼(何を開眼するのか分かりませんが)をする必要があるのか? まったく答えになってません。
>同じ木絵二像開眼之事には
◆但心なければ三十二相を具すれども必ず仏にあらず人天も三十二相あるがゆへに
と明確に書かれていますよ。
>三十二相揃っていても仏にはならない。「心」がなければ仏=本尊にはならない。
>そして開眼とはさっき引用した通り「ご本仏の心法」を移すことに他ならない。
あなたこそ「切り文」です。
この続きに何と書いてありますか?しっかり読みましょう。
「木絵の三十一相の前に五戒経を置けば此の仏は輪王とひとし(中略)又木絵二像の前に阿含経を置けば声聞とひとし、方等般若の一時一会の共般若を置けば縁覚とひとし、華厳・方等・般若の別円を置けば菩薩とひとし全く仏に非らず、大日経・金剛頂経・蘇悉地経等の仏眼・大日の印真言は名は仏眼・大日といへども其の義は仏眼大日に非ず、例せば仏も華厳経は円仏には非ず名にはよらず」
確かに「経」を置けば「三十二相」になるが、では三十一相の前に「五戒経」を置けばどうなる、「阿含経」を置けばどうなる、「共般若を、、と様々な「経」を置いた場合を示され、いずれも不十分だと。
そして「三十一相の仏の前に”法華経”を置きたてまつれば必ず”純円の仏”なり云云」と続いて、やはり「法華経」を置くのです!と断然されているんです。
つまり「但心なければ三十二相を具すれども必ず仏にあらず」の「心」とは「法華経」であり「南無妙法蓮華経」になるわけです。この御文から「だから御本尊様は開眼供養せよ」などとは到底読めません。
もちろん「開眼供養するな」とも書いてませんが、冷静に全体観でとらえれば「開眼供養」とは不完全な「仏像」に対して行うものであり(今はそれすら不要でしょう)完成された末法の本尊=曼荼羅御本尊に行う義などないのです。
そもそも法主による開眼供養って、一体何をすることなのでしょうか?
オカルトチックな儀式は大聖人仏法ではありません。
開眼供養せずに流布していた時代もありましたし、そもそも御本尊様を書写する際にステテコ姿で書いていた法主や(笑)、誤写をした法主もいるわけですから、それで「魂を入れる」など何をかいわんやです。
最後、と書かれてますので返信は結構ですが、もし私が教学ゼロであるならば、あなた(とダメ出し管理人)は教学マイナス100と言わざるを得ません(笑)
※ 結論 ※
やはり「御本尊様には開眼供養など不要」ということがはっきりしました。
ありがとうございました。
残念ながら、これはあなたの妄想に過ぎません。
以前「聖僧」のところでも述べましたが「先師の如く予が化儀も聖僧為る可し」との遺誡さえ守れない現宗門のトップが「大聖人様の御内証」など受け継げるはずもありません。
また過去にも17世日精上人はじめ大聖人の本義に外れた僧侶がいたのは歴史的事実です。
>管理人さんの勝手な解釈で、切り文をされても仕方ないので、これで最後にさせて頂きます。
勝手ではないのですが(笑)、もしそうであるならあなたの意見も勝手な解釈になりますが(大笑)
色々と大御本尊様の件、書かれてますが、私も否定している訳じゃありません。
「大御本尊を管理する」という意味で68代700年以上も続いているというのは、ある意味スゴイと思いますが「大聖人様の御内証」とか言うからヘンテコなんです。
そして、いくら大御本尊が安置されていても、御護り通すのは至難の業で、邪義に転じることもあるのです。日精上人以外にも近年で言えば日開上人、日恭上人、そして日顕上人。残念な事実ですが。
>管理人さんが出した
>「富士一跡門徒存知の事」は開眼についてかかれた書ではなく、あくまでも五老僧と日興上人の立場を対比した書です。
>前文も含めると
>◆五人一同に云く、本尊に於ては釈迦如来を崇め奉る可しとて既に立てたり、随つて弟子檀那等の中にも造立供養の御書之れ在りと云云、而る間盛に堂舎を造り或は一躰を安置し或は普賢文殊を脇士とす、仍つて聖人御筆の本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り又は堂舎の廊に之を捨て置く。日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり。
>この部分はあくまでも「曼荼羅正意」をご指南されているのであって、「御自筆の本尊」との対比の為にこのような表現をしているのに過ぎない事は明白です。
もちろん「曼荼羅正意」の御指南でもありますが、だからといって「全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず」とあるわけですから「御本尊も木絵二像である」とするのは、まるで日蓮宗の教義です。
>観心本尊抄には
>◆此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか
と書かれている。末法に初めて出現した「仏像」とは御本尊を指すことは明白で、大聖人はご本尊を「仏像」と言われているのだから当然御本尊も木絵二像であると大聖人は考えられていたという解釈になる。
本当に正気ですか?(笑)
あなたは日蓮正宗信者ではなく「日蓮宗の信者」のようですね。
では、こちらの日蓮正宗の方の解釈は間違いなのですね?
http://www.geocities.co.jp/sarariwoman/hajakensho/gaido_kakuha.htm
(ここから)
日蓮宗では、本尊の依文として『観心本尊抄』の、
「此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有(ましま)さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」(新編 654)との御文を挙げ「仏像出現」の語句によって本尊は仏像が正意であるとしている。
しかし「仏像出現」の御文の意味は、文中の正像の本尊に対する「造り画けども」との語句と、末法の仏像に対する「出現」という表現を対比してみなければならない。
「この仏像出現せしむべきか」の意味は、後の「此の時地涌千界出現して」の御文と同じく「仏像の造立」という意味ではなく、あくまで現実に現れるということを示されたと拝すべきである。
すなわちこの御文の真意は、末法に地涌千界が出現して「本門の釈尊」を脇士とする未曾有の本尊を顕すことを明かされたものである。
また、日蓮宗では同じ『観心本尊抄』の、
「此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」(新編 661)との御文について、「本門の釈尊を脇士と為す」を、「本門の釈尊の脇士と為る」と誤読し、一尊四士が正意であるとしている。
しかし、宗祖が御在世中に一尊四士の仏像を自ら造立された事実はなく、『観心本尊抄』の御文も一尊四士を本尊とせよ、との御教示ではない。それは、大聖人が佐渡以後、法本尊について御教示された御書に照らして見ればいっそう明らかである。
「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり」(草木成仏口決 新編 523)
「妙法蓮華経の御本尊供養候ひぬ。此の曼荼羅は文字は五字七字にて候へども、三世諸仏の御師(中略)此の曼荼羅は仏滅後二千二百二十余年の間、一閻浮提の内には未だひろませ給はず」(妙法曼荼羅供養事 新編 689)
「法華経の題目を以て本尊とすべし(乃至)釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給えり。故に全く能生を以て本尊とするなり」(本尊問答抄 新編 1274)
これらの御文と『観心本尊抄』の文を合わせて拝するとき、大聖人の御真意は一尊四士などの仏像本尊にあるのではなく、まさしく大聖人が顕された大曼荼羅こそ、正像未曾有の観心の御本尊であることは明らかである。
(ここまで)
いかに、あなた(とダメ出しブログの管理人)が表面的な字面でしか御書を読めてないことがよく分かる主張です(笑)仏像=御本尊を見なしてしまう低い境涯を恥じたほうがよろしいでしょう。
>>そもそも「開眼」って何なのでしょう?
>◆日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ(経王殿御返事)
こういう事を「開眼」となります。
であれば、御本尊様には「南無妙法蓮華経」と書いてありますね?
なぜ、法主があらためて開眼(何を開眼するのか分かりませんが)をする必要があるのか? まったく答えになってません。
>同じ木絵二像開眼之事には
◆但心なければ三十二相を具すれども必ず仏にあらず人天も三十二相あるがゆへに
と明確に書かれていますよ。
>三十二相揃っていても仏にはならない。「心」がなければ仏=本尊にはならない。
>そして開眼とはさっき引用した通り「ご本仏の心法」を移すことに他ならない。
あなたこそ「切り文」です。
この続きに何と書いてありますか?しっかり読みましょう。
「木絵の三十一相の前に五戒経を置けば此の仏は輪王とひとし(中略)又木絵二像の前に阿含経を置けば声聞とひとし、方等般若の一時一会の共般若を置けば縁覚とひとし、華厳・方等・般若の別円を置けば菩薩とひとし全く仏に非らず、大日経・金剛頂経・蘇悉地経等の仏眼・大日の印真言は名は仏眼・大日といへども其の義は仏眼大日に非ず、例せば仏も華厳経は円仏には非ず名にはよらず」
確かに「経」を置けば「三十二相」になるが、では三十一相の前に「五戒経」を置けばどうなる、「阿含経」を置けばどうなる、「共般若を、、と様々な「経」を置いた場合を示され、いずれも不十分だと。
そして「三十一相の仏の前に”法華経”を置きたてまつれば必ず”純円の仏”なり云云」と続いて、やはり「法華経」を置くのです!と断然されているんです。
つまり「但心なければ三十二相を具すれども必ず仏にあらず」の「心」とは「法華経」であり「南無妙法蓮華経」になるわけです。この御文から「だから御本尊様は開眼供養せよ」などとは到底読めません。
もちろん「開眼供養するな」とも書いてませんが、冷静に全体観でとらえれば「開眼供養」とは不完全な「仏像」に対して行うものであり(今はそれすら不要でしょう)完成された末法の本尊=曼荼羅御本尊に行う義などないのです。
そもそも法主による開眼供養って、一体何をすることなのでしょうか?
オカルトチックな儀式は大聖人仏法ではありません。
開眼供養せずに流布していた時代もありましたし、そもそも御本尊様を書写する際にステテコ姿で書いていた法主や(笑)、誤写をした法主もいるわけですから、それで「魂を入れる」など何をかいわんやです。
最後、と書かれてますので返信は結構ですが、もし私が教学ゼロであるならば、あなた(とダメ出し管理人)は教学マイナス100と言わざるを得ません(笑)
※ 結論 ※
やはり「御本尊様には開眼供養など不要」ということがはっきりしました。
ありがとうございました。
No title
【大御本尊は後世作の摸刻本尊】
https://9308.teacup.com/shukubou/bbs/12587
【法華講員さんとの問答記録】
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/4943/1195253947/39-66
◆「法主信仰」の打破――日寛上人の言論闘争
http://www.nichiren.com/jp/thesis/m050901.htm
http://www.houonsha.co.jp/jiyu/08/306.html
「学や徳があろうとなかろうと、どんな僧でも相承を受けた以上は生身の釈迦日蓮であるから、誹謗すると地獄に落ちる」(阿部日顕、全国教師講習会 平成9年8月28日)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13200829058
「広宣流布に真剣に戦えば、いやなことだってある。私もそうだった。傲慢な輩もいた。それを戸田先生に言ったら、『君がいいと思う学会をつくればいいじゃないか』とおっしゃられたんだ。その通りに、私はやってきました。臭いものにふたをして、そのままにしてはならない。傲慢な者から逃げてはいけない」「一番、理想的な創価学会を皆さんがつくりなさい。自分が力をつけて築いていきなさい」
「広布を推進する学会の組織活動を離れた信心は、しょせん、自分本位の、わがままな信心となってしまうであろう。わがままな仏道修行というものは、ありえない。たしかに組織での活動は苦労が多い。煩雑であり、ときには、人々の悩みを多くかかえて大変な場合もあるであろう。また、人一倍疲れる場合もあるかもしれない。
しかし多くの同志とともに、『法』のため、『人』のために悩みつつ前進するなかにこそ、真実の仏道修行があり、鍛えの道がある。信心の組織を離れ、一時的に自由のように思えても、長き人生からみれば、福運の軌道をはずれ、大きく悔いを残してしまう」(池田先生)
https://9308.teacup.com/shukubou/bbs/12587
【法華講員さんとの問答記録】
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/4943/1195253947/39-66
◆「法主信仰」の打破――日寛上人の言論闘争
http://www.nichiren.com/jp/thesis/m050901.htm
http://www.houonsha.co.jp/jiyu/08/306.html
「学や徳があろうとなかろうと、どんな僧でも相承を受けた以上は生身の釈迦日蓮であるから、誹謗すると地獄に落ちる」(阿部日顕、全国教師講習会 平成9年8月28日)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13200829058
「広宣流布に真剣に戦えば、いやなことだってある。私もそうだった。傲慢な輩もいた。それを戸田先生に言ったら、『君がいいと思う学会をつくればいいじゃないか』とおっしゃられたんだ。その通りに、私はやってきました。臭いものにふたをして、そのままにしてはならない。傲慢な者から逃げてはいけない」「一番、理想的な創価学会を皆さんがつくりなさい。自分が力をつけて築いていきなさい」
「広布を推進する学会の組織活動を離れた信心は、しょせん、自分本位の、わがままな信心となってしまうであろう。わがままな仏道修行というものは、ありえない。たしかに組織での活動は苦労が多い。煩雑であり、ときには、人々の悩みを多くかかえて大変な場合もあるであろう。また、人一倍疲れる場合もあるかもしれない。
しかし多くの同志とともに、『法』のため、『人』のために悩みつつ前進するなかにこそ、真実の仏道修行があり、鍛えの道がある。信心の組織を離れ、一時的に自由のように思えても、長き人生からみれば、福運の軌道をはずれ、大きく悔いを残してしまう」(池田先生)
Re: No title
毎度ありがとうございます!
それにしても、日蓮正宗ではなく、日蓮宗の方と話をしているようでした(笑)
トヨダ教学の影響が強いのでしょうが、御本尊様を単なる木絵、仏像の類と同列に扱っている境涯に憐れみを覚えてしまいました。
それにしても、日蓮正宗ではなく、日蓮宗の方と話をしているようでした(笑)
トヨダ教学の影響が強いのでしょうが、御本尊様を単なる木絵、仏像の類と同列に扱っている境涯に憐れみを覚えてしまいました。
お疲れ様でした
日蓮正宗の方も鯛焼きさんも、大聖人様はこのように仰せですと言っていて、真実ですけど、大聖人がどういう状況の時に、何がおきてる世の中の時に、どう言う状況の相手に書いたものかによって大聖人様の本意は違ってくると思います。
今から世の中の人に法華経を知ってもらうと志して自分が中心に立ってる時と国家諫暁をあきらめ後継人に引き継いでる時とは大事な事は1つしかなくても言い方や言葉文章は違ってくると思います。
難しい話がわかる人はほとんどいません
だから1つの文章で解釈論が議論されるのだろうと思います。
はっきりしてる事は、池田先生も戸田先生も難しい話をしないから学会員を多く増やす事ができました。
人から信頼される技術のようなものを池田先生の文章を読んで学べたらと思い、ひと昔前まで学会員になる事をお勧めしてまいりました。
私の友達が人の言ってる事が理解できなくて投票できなくても退会する必要ないよというので認知症の母と本幹に行ってきました。
母がどの程度の記憶があるのか確認するためです。
大誓堂にも行けそうなら一緒に行きたいです。
鯛焼きさんのような方が一生退転せず学会活動出来るとつくづく感じながら鯛焼きさんのコメントを読ませていただいてました
憐れみを感じると言う言葉はものすごく時間を使って学会活動してきた母とそれを見てきた私です。
法華講員さんは学会員より教学をよく勉強されてると思います。
日蓮正宗の方も鯛焼きさんも、大聖人様はこのように仰せですと言っていて、真実ですけど、大聖人がどういう状況の時に、何がおきてる世の中の時に、どう言う状況の相手に書いたものかによって大聖人様の本意は違ってくると思います。
今から世の中の人に法華経を知ってもらうと志して自分が中心に立ってる時と国家諫暁をあきらめ後継人に引き継いでる時とは大事な事は1つしかなくても言い方や言葉文章は違ってくると思います。
難しい話がわかる人はほとんどいません
だから1つの文章で解釈論が議論されるのだろうと思います。
はっきりしてる事は、池田先生も戸田先生も難しい話をしないから学会員を多く増やす事ができました。
人から信頼される技術のようなものを池田先生の文章を読んで学べたらと思い、ひと昔前まで学会員になる事をお勧めしてまいりました。
私の友達が人の言ってる事が理解できなくて投票できなくても退会する必要ないよというので認知症の母と本幹に行ってきました。
母がどの程度の記憶があるのか確認するためです。
大誓堂にも行けそうなら一緒に行きたいです。
鯛焼きさんのような方が一生退転せず学会活動出来るとつくづく感じながら鯛焼きさんのコメントを読ませていただいてました
憐れみを感じると言う言葉はものすごく時間を使って学会活動してきた母とそれを見てきた私です。
法華講員さんは学会員より教学をよく勉強されてると思います。
Re: タイトルなし
> 大誓堂にも行けそうなら一緒に行きたいです。
ぜひ行けるといいですね!
応援しております。
> 憐れみを感じると言う言葉はものすごく時間を使って学会活動してきた母とそれを見てきた私です。
いえいえ、自分を卑下されるのはよしてください。
一念三千です。卑下してたらそのままです。高みを目指しましょう。
> 法華講員さんは学会員より教学をよく勉強されてると思います。
彼らの教学は「法主信仰」の邪義に過ぎません。残念ですが。
ぜひ行けるといいですね!
応援しております。
> 憐れみを感じると言う言葉はものすごく時間を使って学会活動してきた母とそれを見てきた私です。
いえいえ、自分を卑下されるのはよしてください。
一念三千です。卑下してたらそのままです。高みを目指しましょう。
> 法華講員さんは学会員より教学をよく勉強されてると思います。
彼らの教学は「法主信仰」の邪義に過ぎません。残念ですが。
まるっきりブーメランですね(笑)
莫~迦、君の負け、学会版御書の小説でも読んでオナニーしてればいいのです。サルなんだから(笑)、必死過ぎて笑えます。
・・・今時の中学生でも使わないような幼稚な言葉のオンパレードです(笑) これらは彼のブログから転記しましたが、もう転記するのもイヤになるくらいです。
ダメ出しの管理人は、本当に信仰者なんでしょうかね?
だとしたら日蓮正宗の信仰がいかに間違ったものなのかがよく分かります。
「教主釈尊の出世の本懐は、人の振る舞いにて候いけるぞ」
彼のブログを見れば、まったく人の振舞ではありません。
私をサルに例えるのは、まあ良しとしましょう。
でも、そうであれば、サルからの質問にも明快に答えられない君たちこそサル以下なんですね(笑)
本当に仕事でも生活でもあんな感じなんでしょうね。
可哀そうでなりません。法主信仰だからこそ、心がひん曲がるのでしょう。
「仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり」の仰せの如くです。
シニフィエさんも口が悪いですが(笑)、日蓮正宗の面々も同列です。残念なことですが、これが事実です。
それに、最新の記事を見ると、
ダマシ論法1「話題変換・拡散話法」
ダマシ話法2「文証出したぞ詐欺」
ダマシ論法3「デマによる印象操作話法」
と当方を揶揄しておりますが、そっくりそのままブーメランじゃないの?(笑)
特に「文証出したぞ詐欺」については、正宗さんはヒドイです。
>「木絵二像には御本尊は含まれない」と直接的書いてある御文を引用すべきなのです。そのような御文を初めて「文証」というのです。
君はアホですか?!
こういうのを「悪魔の証明」って世間でも言うのですが、いかに対話レベルがアレなのか分かってしまいますね。
とにかく御書の解釈を含めて、とても真剣に対話できる方ではありません。
時間の無駄ですので、ウォッチするにとどめておきましょう(笑)
誰か、真面目に対話できる方いませんか~?
・・・今時の中学生でも使わないような幼稚な言葉のオンパレードです(笑) これらは彼のブログから転記しましたが、もう転記するのもイヤになるくらいです。
ダメ出しの管理人は、本当に信仰者なんでしょうかね?
だとしたら日蓮正宗の信仰がいかに間違ったものなのかがよく分かります。
「教主釈尊の出世の本懐は、人の振る舞いにて候いけるぞ」
彼のブログを見れば、まったく人の振舞ではありません。
私をサルに例えるのは、まあ良しとしましょう。
でも、そうであれば、サルからの質問にも明快に答えられない君たちこそサル以下なんですね(笑)
本当に仕事でも生活でもあんな感じなんでしょうね。
可哀そうでなりません。法主信仰だからこそ、心がひん曲がるのでしょう。
「仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり」の仰せの如くです。
シニフィエさんも口が悪いですが(笑)、日蓮正宗の面々も同列です。残念なことですが、これが事実です。
それに、最新の記事を見ると、
ダマシ論法1「話題変換・拡散話法」
ダマシ話法2「文証出したぞ詐欺」
ダマシ論法3「デマによる印象操作話法」
と当方を揶揄しておりますが、そっくりそのままブーメランじゃないの?(笑)
特に「文証出したぞ詐欺」については、正宗さんはヒドイです。
>「木絵二像には御本尊は含まれない」と直接的書いてある御文を引用すべきなのです。そのような御文を初めて「文証」というのです。
君はアホですか?!
こういうのを「悪魔の証明」って世間でも言うのですが、いかに対話レベルがアレなのか分かってしまいますね。
とにかく御書の解釈を含めて、とても真剣に対話できる方ではありません。
時間の無駄ですので、ウォッチするにとどめておきましょう(笑)
誰か、真面目に対話できる方いませんか~?
ロック発動!
あちらで色々ごちゃごちゃ書かれてますが、修羅界には引きずられません(笑)。冷静に対応いたします。
まず、確かに私は「日顕宗の教学」であればゼロでしょうね。ですが私は日興門流本来の教学ですのであしからず。
さてKS的に言うところの「ロック」がかかりました。
彼はこのように書いてます。
>◆此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか
>と書かれている。末法に初めて出現した「仏像」とは御本尊を指すことは明白で、大聖人はご本尊を「仏像」と言われているのだから当然御本尊も木絵二像であると大聖人は考えられていたという解釈になる。
ここの解釈が果たして正しいのか否かがカギを握ります。
時間を見つけて、じっくりと(当コメント欄で)破折していきましょう。
まず、確かに私は「日顕宗の教学」であればゼロでしょうね。ですが私は日興門流本来の教学ですのであしからず。
さてKS的に言うところの「ロック」がかかりました。
彼はこのように書いてます。
>◆此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか
>と書かれている。末法に初めて出現した「仏像」とは御本尊を指すことは明白で、大聖人はご本尊を「仏像」と言われているのだから当然御本尊も木絵二像であると大聖人は考えられていたという解釈になる。
ここの解釈が果たして正しいのか否かがカギを握ります。
時間を見つけて、じっくりと(当コメント欄で)破折していきましょう。
お疲れ様です♪
なかなか読みご耐えある記事でした。
外野は黙っていますが、
本尊義について、
バリ活動家が
語ることは無かったので
良かったと思う次第です。
読者の感想も
様々あって当然かと思いますょ。
外野は黙っていますが、
本尊義について、
バリ活動家が
語ることは無かったので
良かったと思う次第です。
読者の感想も
様々あって当然かと思いますょ。
No title
★御書検索「仏像」
https://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/list.php?k=%E4%BB%8F%E5%83%8F&o=a&c=20&.x=47&.y=16
【木絵二像開眼之事】
本抄の御述作は、文永元年(1264)、文永10年(1273)、弘安5年(1282)等の説があるが、木絵の二像について述べられているから、一閻浮提総与の大御本尊建立以後とするのは、無理があるような気がする。また文永10年(1273)は佐渡滞在期であり、本尊抄執筆前後に当抄の執筆とするのも内容の相違からして考えにくい。したがって、ここでは一応文永元年(1264)としておくが、ただ文永7年(1270)ごろ、釈迦仏像像立に関する御書があり、このころ仏像についての質問が大聖人のところに来ていたことが考えれ、そうした質問の返事の草案とすれば、竜の口以前の文永7・8年御述作とする旧来説とは違った説が出てこないわけでもない。本抄の御真筆は現存していない。(略)
本抄の題号についても特定、定められておらず、後世の命名である。題号を一見すると木絵の二像を許された御書のようであるが、内容からいうならば、むしろ「開眼」に元意があり、たとえ木像・絵像といっても、法華経という肝心がなければなんの意味もない。いわんや、真言等の開眼によるならば魔や鬼にさえもなるといわれていて、けっして無条件に木像・絵像を許されたものでないことがわかる。
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1753706.html#more
【日顕宗の妄説を破折する】
http://aoshiro634.blog.fc2.com/blog-entry-270.html
http://aoshiro634.blog.fc2.com/category31-1.html
【日蓮正宗・歴代法主の謗法、スキャンダル】
◆17世・日精
日興上人が厳しく禁じられた「釈迦仏像の造立・安置」という謗法を犯した。堀日亨(にちこう)上人など歴代法主も日精の邪義をたびたび糾弾してきたが、先師に逆らって、日顕だけは擁護している。
◆56世・日応(※68世・日如の曽祖父)
「元来大石日応は人も知る如き色魔にて東京に妾(めかけ)を置き又大宮(=富士宮)其他附近に出でては飽くまで不品行を恣(ほしいまま)にして恥ぢぬ程の者」(『静岡民友新聞』明治41年10月2日付「日応の人となり」)
日興上人の弟子として「聖僧」たるべきが、それも法主でありながら、明治時代の宗門で真っ先駈けて妻帯した。それに止まらず当時の新聞記事には、妾狂いのため寺の財産を使い込み、「一万円にも及べる借財」(現在の相場に換算し約1億円)を為したと報じられる。文字通りの「色魔」と言えよう。
◆57世・日正
他宗の開祖に天皇から「大師号」が与えられていたことから、大正10年頃、顕本法華宗の僧侶が中心となり、大聖人にも大師号をもらおうという運動が起きる。宗内からの根強い反対があったにもかかわらず、そこに同調して、大聖人御入滅の日には、身延管長の導師に従って、読経・唱題までしていた。
◆58世・日柱
法主在任中の大正14年、当時の宗会が、日柱への不信任案を決議、辞職勧告までした。法主であっても、このような仕打ち、扱いを受けていたのだ。
◆60世・日開(※67世・日顕の父)
58世・日柱おろしのクーデターを企てた黒幕が日開である。そこには法主への信伏随従など微塵もない。また、日開自身は、御本尊を“誤写”したことがきっかけで信徒から退座要求を突きつけられている。信徒に愛想を尽かされるという点では、息子・日顕もまったく同じである。
◆61世・日隆
総監時代に若い芸妓(げいぎ)との関係に入れ込み、現在相場で日応とほぼ同額(約1億円)の寺の財産を使い込んだ。その痴態は『読売新聞』(昭和5年12月29日付)でも“宗務総監が妾(めかけ)ぐるひで背任”と報じられた。こんな人物でも、法主になれば無条件で“大聖人と同等”になるのか?
◆62世・日恭
“大聖人の魂を宿している”はずの法主が、軍部政府に迎合し、信徒に“神札を祀(まつ)れ”と強要する大謗法を犯した。日恭はその後、大石寺境内で焼死という非業の死を遂げた。
◆63世・日満
山内にある由緒ある杉の木を伐採し売却、私腹を肥やしていた。また、神本仏迹(しんぽんぶっしゃく)の邪説を唱えたり、62世・日恭らを不敬罪で告訴した宗門の反逆者、小笠原慈聞を僧籍に復帰させたのも日満である。
※言い訳できない史実の数々。それでも、日蓮正宗(日顕宗)は愚にもつかない釈明を並べ立てている。たとえば、57世・日正が他宗坊主と同座した問題については、「手を合わせていないから謗法同座ではない」などと幼稚な言い逃れ。62世・日恭の神札受諾にいたっては、「信徒を無用な軋轢(あつれき)から守るためにやむなく容認した」などと開き直った。
なんとしても歴代法主に間違いがなかったことを強調したいらしいが、ここまでくると滑稽(こっけい)という他ない。
【大石寺の系譜】
http://www.geocities.jp/shinichizz/gakkai/siryou/taisekiji-no-keihu.htm
◆67世・日顕
【シアトル裁判】
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13194253738
【芸者写真訴訟(偽造写真事件)】
https://9308.teacup.com/shukubou/bbs/14041
https://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/list.php?k=%E4%BB%8F%E5%83%8F&o=a&c=20&.x=47&.y=16
【木絵二像開眼之事】
本抄の御述作は、文永元年(1264)、文永10年(1273)、弘安5年(1282)等の説があるが、木絵の二像について述べられているから、一閻浮提総与の大御本尊建立以後とするのは、無理があるような気がする。また文永10年(1273)は佐渡滞在期であり、本尊抄執筆前後に当抄の執筆とするのも内容の相違からして考えにくい。したがって、ここでは一応文永元年(1264)としておくが、ただ文永7年(1270)ごろ、釈迦仏像像立に関する御書があり、このころ仏像についての質問が大聖人のところに来ていたことが考えれ、そうした質問の返事の草案とすれば、竜の口以前の文永7・8年御述作とする旧来説とは違った説が出てこないわけでもない。本抄の御真筆は現存していない。(略)
本抄の題号についても特定、定められておらず、後世の命名である。題号を一見すると木絵の二像を許された御書のようであるが、内容からいうならば、むしろ「開眼」に元意があり、たとえ木像・絵像といっても、法華経という肝心がなければなんの意味もない。いわんや、真言等の開眼によるならば魔や鬼にさえもなるといわれていて、けっして無条件に木像・絵像を許されたものでないことがわかる。
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1753706.html#more
【日顕宗の妄説を破折する】
http://aoshiro634.blog.fc2.com/blog-entry-270.html
http://aoshiro634.blog.fc2.com/category31-1.html
【日蓮正宗・歴代法主の謗法、スキャンダル】
◆17世・日精
日興上人が厳しく禁じられた「釈迦仏像の造立・安置」という謗法を犯した。堀日亨(にちこう)上人など歴代法主も日精の邪義をたびたび糾弾してきたが、先師に逆らって、日顕だけは擁護している。
◆56世・日応(※68世・日如の曽祖父)
「元来大石日応は人も知る如き色魔にて東京に妾(めかけ)を置き又大宮(=富士宮)其他附近に出でては飽くまで不品行を恣(ほしいまま)にして恥ぢぬ程の者」(『静岡民友新聞』明治41年10月2日付「日応の人となり」)
日興上人の弟子として「聖僧」たるべきが、それも法主でありながら、明治時代の宗門で真っ先駈けて妻帯した。それに止まらず当時の新聞記事には、妾狂いのため寺の財産を使い込み、「一万円にも及べる借財」(現在の相場に換算し約1億円)を為したと報じられる。文字通りの「色魔」と言えよう。
◆57世・日正
他宗の開祖に天皇から「大師号」が与えられていたことから、大正10年頃、顕本法華宗の僧侶が中心となり、大聖人にも大師号をもらおうという運動が起きる。宗内からの根強い反対があったにもかかわらず、そこに同調して、大聖人御入滅の日には、身延管長の導師に従って、読経・唱題までしていた。
◆58世・日柱
法主在任中の大正14年、当時の宗会が、日柱への不信任案を決議、辞職勧告までした。法主であっても、このような仕打ち、扱いを受けていたのだ。
◆60世・日開(※67世・日顕の父)
58世・日柱おろしのクーデターを企てた黒幕が日開である。そこには法主への信伏随従など微塵もない。また、日開自身は、御本尊を“誤写”したことがきっかけで信徒から退座要求を突きつけられている。信徒に愛想を尽かされるという点では、息子・日顕もまったく同じである。
◆61世・日隆
総監時代に若い芸妓(げいぎ)との関係に入れ込み、現在相場で日応とほぼ同額(約1億円)の寺の財産を使い込んだ。その痴態は『読売新聞』(昭和5年12月29日付)でも“宗務総監が妾(めかけ)ぐるひで背任”と報じられた。こんな人物でも、法主になれば無条件で“大聖人と同等”になるのか?
◆62世・日恭
“大聖人の魂を宿している”はずの法主が、軍部政府に迎合し、信徒に“神札を祀(まつ)れ”と強要する大謗法を犯した。日恭はその後、大石寺境内で焼死という非業の死を遂げた。
◆63世・日満
山内にある由緒ある杉の木を伐採し売却、私腹を肥やしていた。また、神本仏迹(しんぽんぶっしゃく)の邪説を唱えたり、62世・日恭らを不敬罪で告訴した宗門の反逆者、小笠原慈聞を僧籍に復帰させたのも日満である。
※言い訳できない史実の数々。それでも、日蓮正宗(日顕宗)は愚にもつかない釈明を並べ立てている。たとえば、57世・日正が他宗坊主と同座した問題については、「手を合わせていないから謗法同座ではない」などと幼稚な言い逃れ。62世・日恭の神札受諾にいたっては、「信徒を無用な軋轢(あつれき)から守るためにやむなく容認した」などと開き直った。
なんとしても歴代法主に間違いがなかったことを強調したいらしいが、ここまでくると滑稽(こっけい)という他ない。
【大石寺の系譜】
http://www.geocities.jp/shinichizz/gakkai/siryou/taisekiji-no-keihu.htm
◆67世・日顕
【シアトル裁判】
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13194253738
【芸者写真訴訟(偽造写真事件)】
https://9308.teacup.com/shukubou/bbs/14041
気になったので質問させていただきます
御書は日蓮正宗も創価学会も同じだと思います。
原文をそのまま使ってるはずです。
日蓮正宗も創価学会も関係ない、1つの文章での解釈の違いなのでは?
同志でも解釈が異なって議論する事もありました。
御書は日蓮正宗も創価学会も同じだと思います。
原文をそのまま使ってるはずです。
日蓮正宗も創価学会も関係ない、1つの文章での解釈の違いなのでは?
同志でも解釈が異なって議論する事もありました。
御書はただ引用すればいいものではありません。
間違って解釈してしまえば元も子もないのです。
「教主釈尊の出世の本懐は、人の振る舞いにて候いけるぞ」
彼のブログを見れば、まったく人の振舞ではありません。
上記は鯛焼きさんの文章ですが聖教新聞社に代わりまして私が説明をさせていただきます
聖教新聞社に今電話をかけて確認下さってもかまいませんが、毎月必ず新聞に掲載される文章です。
四条金吾さんが主君から法華経を捨てるように言われ断りました。
年月が流れ、主君が病気になり医者であった四条金吾さんが主君の病気の治療にあたられる事になり、日蓮大聖人が四条金吾さんに主君は自分勝手な人間だと腹を立ててはいけません、今が1番大事な時で今が1番人の振る舞いが大事ですよと手紙を書きます
四条金吾さんはお殿様でプライドが高く短気な方でしたので、日蓮大聖人が言うと上から目線に感じて自分の気持ちをわかってくれないと素直に聞き入れてもらえない可能性もありますので、釈尊が生まれたのは法華経をとくためで、四条金吾さんにこの事をお伝えしたかったからではないのでしょうかと言う大変に美しい文章です
単純に非礼な人に向けて発する文章ではなく、以前に自分にひどい事をした人のお世話をする事になった人に送る文章です。
毎月必ず新聞に登場する御書は仏法対話に使われますので、あまり汚してほしくないです。
間違って解釈してしまえば元も子もないのです。
「教主釈尊の出世の本懐は、人の振る舞いにて候いけるぞ」
彼のブログを見れば、まったく人の振舞ではありません。
上記は鯛焼きさんの文章ですが聖教新聞社に代わりまして私が説明をさせていただきます
聖教新聞社に今電話をかけて確認下さってもかまいませんが、毎月必ず新聞に掲載される文章です。
四条金吾さんが主君から法華経を捨てるように言われ断りました。
年月が流れ、主君が病気になり医者であった四条金吾さんが主君の病気の治療にあたられる事になり、日蓮大聖人が四条金吾さんに主君は自分勝手な人間だと腹を立ててはいけません、今が1番大事な時で今が1番人の振る舞いが大事ですよと手紙を書きます
四条金吾さんはお殿様でプライドが高く短気な方でしたので、日蓮大聖人が言うと上から目線に感じて自分の気持ちをわかってくれないと素直に聞き入れてもらえない可能性もありますので、釈尊が生まれたのは法華経をとくためで、四条金吾さんにこの事をお伝えしたかったからではないのでしょうかと言う大変に美しい文章です
単純に非礼な人に向けて発する文章ではなく、以前に自分にひどい事をした人のお世話をする事になった人に送る文章です。
毎月必ず新聞に登場する御書は仏法対話に使われますので、あまり汚してほしくないです。
Re: タイトルなし
御書は創価学会戸田会長の発案で時の教学第一人者であられた堀日亨上人の監修の元、発刊されました。第二次宗門問題ののち、学会はそのまま使っておりますが、宗門は独自の御書を出せずにいました。ようやく現在は独自のものを使っております。
収録内容が異なると思います。
解釈するにも、日興門流の読み方なのか、法主信仰の読み方なのかで大きく異なりますので注意が必要でしょう。
収録内容が異なると思います。
解釈するにも、日興門流の読み方なのか、法主信仰の読み方なのかで大きく異なりますので注意が必要でしょう。
Re: タイトルなし
>単純に非礼な人に向けて発する文章ではなく、以前に自分にひどい事をした人のお世話をする事になった人に送る文章です。
>毎月必ず新聞に登場する御書は仏法対話に使われますので、あまり汚してほしくないです。
そう思いたいですが、大いなる慈悲を持って彼に送ってあげるのも大事なのかと思います。せっかく信仰しているのにあんな命では可哀そう過ぎます。
また、彼は「人の振舞」について言い訳めいたことを書いてますが、参考までに同じ日蓮正宗の方の記事も載せておきましょう。「え?」って思う部分もありますが(笑)、他宗といえども共感できる内容です。
同じ日蓮正宗の信徒であってもこうも違うのですね。
https://hokkekou.com/singyou/hurumai/
大聖人は同じく四条金吾殿対して、
「教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候けるぞ。穴賢(あなかしこ)穴賢。賢きを人と云ひ、はかなきを畜という」(崇峻天皇御書・新1174)
と仰せられているように、仏法即世法の道理であればこそ、釈尊の出世の本懐の教えとなる法華経は、直ちに最も優れた最も尊い、人としての振る舞いを実践することを説いているのであり、法華経を受持し行ずる私たちは、人としての最高の振る舞いができるよう、最大の努力をしていくべきである。
広宣流布は、人としての振る舞いを、一人ひとりがお互いに地道に実践していくところから成し遂げられることを確信し、本年の信行に精進していこうではないか。
>毎月必ず新聞に登場する御書は仏法対話に使われますので、あまり汚してほしくないです。
そう思いたいですが、大いなる慈悲を持って彼に送ってあげるのも大事なのかと思います。せっかく信仰しているのにあんな命では可哀そう過ぎます。
また、彼は「人の振舞」について言い訳めいたことを書いてますが、参考までに同じ日蓮正宗の方の記事も載せておきましょう。「え?」って思う部分もありますが(笑)、他宗といえども共感できる内容です。
同じ日蓮正宗の信徒であってもこうも違うのですね。
https://hokkekou.com/singyou/hurumai/
大聖人は同じく四条金吾殿対して、
「教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候けるぞ。穴賢(あなかしこ)穴賢。賢きを人と云ひ、はかなきを畜という」(崇峻天皇御書・新1174)
と仰せられているように、仏法即世法の道理であればこそ、釈尊の出世の本懐の教えとなる法華経は、直ちに最も優れた最も尊い、人としての振る舞いを実践することを説いているのであり、法華経を受持し行ずる私たちは、人としての最高の振る舞いができるよう、最大の努力をしていくべきである。
広宣流布は、人としての振る舞いを、一人ひとりがお互いに地道に実践していくところから成し遂げられることを確信し、本年の信行に精進していこうではないか。
真面目に対話できる方いませんかぁ!
フフフ。
誰か忘れていませんか。
鯛焼きさんも修羅界に引きずられませんと言いながら、チョイチョイ出てますよ。
対話のできる男、どんな論法も全て受けきっていく闘魂の持ち主。
ヤラれても全く気にしない奴!
そう僕です。
まだ外野は黙ってますが、一区切りついたら思う事もあるのでコメントさせてくださいね。
誰か忘れていませんか。
鯛焼きさんも修羅界に引きずられませんと言いながら、チョイチョイ出てますよ。
対話のできる男、どんな論法も全て受けきっていく闘魂の持ち主。
ヤラれても全く気にしない奴!
そう僕です。
まだ外野は黙ってますが、一区切りついたら思う事もあるのでコメントさせてくださいね。
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Re: 真面目に対話できる方いませんかぁ!
そりゃ私だって凡夫ですからね(笑)
コメントはどうぞ。
有意義であれば何でも歓迎です。
コメントはどうぞ。
有意義であれば何でも歓迎です。
ロック発動!2
おはようございます。
時間があるので、粛々と彼の論の誤りについて書いていきましょう。
彼はこのように明確に書きました。
>◆此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか
>と書かれている。末法に初めて出現した「仏像」とは御本尊を指すことは明白で、
>大聖人はご本尊を「仏像」と言われているのだから当然御本尊も木絵二像であると大聖人は考えられていたという解釈になる。
以上、彼は、観心本尊抄の有名な一節を引用して、ここに出てくる「此の仏像」が「御本尊を指すことは明白」だとしたうえで、「大聖人はご本尊を「仏像」と言われているのだから当然御本尊も木絵二像であると大聖人は考えられていたという解釈になる。」という三段論法を展開しています。
私も前半部分の「此の仏像」が「御本尊を指すことは明白」という点については同意してます。
当時はまだ曼荼羅御本尊がこの世に出現してないので、大聖人は「これまで本尊といえば仏像の類だったが、これからの本尊は(これまでの仏像に代わって)曼荼羅御本尊なのですよ」という教示を述べられる際に、あえて当時の通念として分かりやすいように「仏像」という表現を使っておられるからです。
いきなり「これからの本尊は曼荼羅です!」と言われても、当時の民衆は曼荼羅なんて見たことないから、さっぱり理解できないでしょうからね。
しかし、誤りは後半部分のコレ
>大聖人はご本尊を「仏像」と言われているのだから当然御本尊も木絵二像であると大聖人は考えられていたという解釈になる。
ここが彼の勝手な解釈、読み方なんです。
いかに「御本尊」を物質的にしか読み取れない証左となります。
その後、ブログを更新した際に、
>我々は仏像=御本尊など一言もいっていない。我々が言っているのは御本尊も仏像に含まれる。ということで「仏像本意」などと言っていないのです。
などと非常に苦しい言い逃れをしてます(笑)
私は彼が「仏像本意」なんて一言も言ってませんが(笑)
ここで問題なのは、そもそも「御本尊も仏像に含まれる」とみなすこと自体が誤った解釈なのです。
ここで、議論をすり替えようとして、
>「日蓮正宗」の文書を「文証」として引用するのであれば当方も戸田・池田発言を「文証」にしても良いというこですから、
ならば「開眼の重要性」について指導は戸田・池田の指導で腐るほどある。つまり鯛焼きは戸田・池田を「日蓮宗」と批判していることになります。
と意味不明な論を展開してます(笑)
今、議論しているには「御本尊も仏像に含まれるのか否か」ですし、当方が提示したのは「今現在の日蓮正宗さんの方の論」です。決して創宗同調時代の話ではありません。
話を戻します。
彼が書いた
>ご本尊を「仏像」と言われているのだから当然御本尊も木絵二像であると大聖人は考えられていたという解釈になる。
との論法は、同じ日蓮正宗の方が明快に破折されているのです。
というか、創宗同調時からずーっとこのような解釈だったと思いますけどね。
再度、引用いたしましょう。
(ここから)
日蓮宗では、本尊の依文として『観心本尊抄』の、
「此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有(ましま)さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」(新編 654)との御文を挙げ「仏像出現」の語句によって本尊は仏像が正意であるとしている。
しかし「仏像出現」の御文の意味は、文中の正像の本尊に対する「造り画けども」との語句と、末法の仏像に対する「出現」という表現を対比してみなければならない。
「この仏像出現せしむべきか」の意味は、後の「此の時地涌千界出現して」の御文と同じく「仏像の造立」という意味ではなく、あくまで現実に現れるということを示されたと拝すべきである。
すなわちこの御文の真意は、末法に地涌千界が出現して「本門の釈尊」を脇士とする未曾有の本尊を顕すことを明かされたものである。
(ここまで)
つまり、ここでは「本尊は何であるか?」との前提のもと「正像時代の本尊は仏像」だったが「末法での本尊は(これまでの仏像ではなく)曼荼羅御本尊」という主旨なのです。
言い換えれば「仏像」との表現は、結局のところ「未曾有の本尊を顕すこと」が主眼で、正像時代の物質的な「仏像」とみなしてはいけないことを示唆されてるのです。
にも拘わらず、彼は、「仏像」と言われているのだから当然御本尊も木絵二像である、としています。
つまり、極めて日蓮宗的な発想で「仏像=御本尊」と取扱っているのですから邪義と言わざるを得ないのです。
以上、まだまだ突っ込めますが、今日はここまでです。
何か反論があればどうぞ(笑)
時間があるので、粛々と彼の論の誤りについて書いていきましょう。
彼はこのように明確に書きました。
>◆此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか
>と書かれている。末法に初めて出現した「仏像」とは御本尊を指すことは明白で、
>大聖人はご本尊を「仏像」と言われているのだから当然御本尊も木絵二像であると大聖人は考えられていたという解釈になる。
以上、彼は、観心本尊抄の有名な一節を引用して、ここに出てくる「此の仏像」が「御本尊を指すことは明白」だとしたうえで、「大聖人はご本尊を「仏像」と言われているのだから当然御本尊も木絵二像であると大聖人は考えられていたという解釈になる。」という三段論法を展開しています。
私も前半部分の「此の仏像」が「御本尊を指すことは明白」という点については同意してます。
当時はまだ曼荼羅御本尊がこの世に出現してないので、大聖人は「これまで本尊といえば仏像の類だったが、これからの本尊は(これまでの仏像に代わって)曼荼羅御本尊なのですよ」という教示を述べられる際に、あえて当時の通念として分かりやすいように「仏像」という表現を使っておられるからです。
いきなり「これからの本尊は曼荼羅です!」と言われても、当時の民衆は曼荼羅なんて見たことないから、さっぱり理解できないでしょうからね。
しかし、誤りは後半部分のコレ
>大聖人はご本尊を「仏像」と言われているのだから当然御本尊も木絵二像であると大聖人は考えられていたという解釈になる。
ここが彼の勝手な解釈、読み方なんです。
いかに「御本尊」を物質的にしか読み取れない証左となります。
その後、ブログを更新した際に、
>我々は仏像=御本尊など一言もいっていない。我々が言っているのは御本尊も仏像に含まれる。ということで「仏像本意」などと言っていないのです。
などと非常に苦しい言い逃れをしてます(笑)
私は彼が「仏像本意」なんて一言も言ってませんが(笑)
ここで問題なのは、そもそも「御本尊も仏像に含まれる」とみなすこと自体が誤った解釈なのです。
ここで、議論をすり替えようとして、
>「日蓮正宗」の文書を「文証」として引用するのであれば当方も戸田・池田発言を「文証」にしても良いというこですから、
ならば「開眼の重要性」について指導は戸田・池田の指導で腐るほどある。つまり鯛焼きは戸田・池田を「日蓮宗」と批判していることになります。
と意味不明な論を展開してます(笑)
今、議論しているには「御本尊も仏像に含まれるのか否か」ですし、当方が提示したのは「今現在の日蓮正宗さんの方の論」です。決して創宗同調時代の話ではありません。
話を戻します。
彼が書いた
>ご本尊を「仏像」と言われているのだから当然御本尊も木絵二像であると大聖人は考えられていたという解釈になる。
との論法は、同じ日蓮正宗の方が明快に破折されているのです。
というか、創宗同調時からずーっとこのような解釈だったと思いますけどね。
再度、引用いたしましょう。
(ここから)
日蓮宗では、本尊の依文として『観心本尊抄』の、
「此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有(ましま)さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」(新編 654)との御文を挙げ「仏像出現」の語句によって本尊は仏像が正意であるとしている。
しかし「仏像出現」の御文の意味は、文中の正像の本尊に対する「造り画けども」との語句と、末法の仏像に対する「出現」という表現を対比してみなければならない。
「この仏像出現せしむべきか」の意味は、後の「此の時地涌千界出現して」の御文と同じく「仏像の造立」という意味ではなく、あくまで現実に現れるということを示されたと拝すべきである。
すなわちこの御文の真意は、末法に地涌千界が出現して「本門の釈尊」を脇士とする未曾有の本尊を顕すことを明かされたものである。
(ここまで)
つまり、ここでは「本尊は何であるか?」との前提のもと「正像時代の本尊は仏像」だったが「末法での本尊は(これまでの仏像ではなく)曼荼羅御本尊」という主旨なのです。
言い換えれば「仏像」との表現は、結局のところ「未曾有の本尊を顕すこと」が主眼で、正像時代の物質的な「仏像」とみなしてはいけないことを示唆されてるのです。
にも拘わらず、彼は、「仏像」と言われているのだから当然御本尊も木絵二像である、としています。
つまり、極めて日蓮宗的な発想で「仏像=御本尊」と取扱っているのですから邪義と言わざるを得ないのです。
以上、まだまだ突っ込めますが、今日はここまでです。
何か反論があればどうぞ(笑)
素朴に質問があります。
いや〜新年早々読み応えあり。
一歩も引かない凄い対論でしたね。
僕はせっかく人間に生まれてきたので、
この一生を無駄にしたくないんですよね。
なので、正しい道に入ることが一番の望みです。それが創価学会だったらよかったんだけど、創価学会は正しくないと結論づけました。なので少し質問させて下さいな。
今回の対論は開眼についてでしたが、ハッキリ言って僕のような愚鈍のものには深く分かりません。
鯛焼きさんは、理論的には御本尊の相藐が正しければ、本門の本尊になりうると言ってましたけど、昔は僕もそんなふうに思ってだけど何かおかしいなと思ったんだよね
それは、日顕上人書写の本尊から創価の本尊に取り替えたときに思ったんです。
な〜んか違うな〜と思ってよく見たら、創価の本尊には十界の衆生が少なかったんですね。でも偉大な日寛上人書写の御本尊ですよね。
なので質問その一。
正しい相藐ってどういうことですか?
宮沢賢治さんは、雨にも負けずの手帳の最後に、中央首題と四天王を自分で書いてましたけど、本門の本尊ですか?
スイマセン阿呆な質問で、けど知りたい。
一歩も引かない凄い対論でしたね。
僕はせっかく人間に生まれてきたので、
この一生を無駄にしたくないんですよね。
なので、正しい道に入ることが一番の望みです。それが創価学会だったらよかったんだけど、創価学会は正しくないと結論づけました。なので少し質問させて下さいな。
今回の対論は開眼についてでしたが、ハッキリ言って僕のような愚鈍のものには深く分かりません。
鯛焼きさんは、理論的には御本尊の相藐が正しければ、本門の本尊になりうると言ってましたけど、昔は僕もそんなふうに思ってだけど何かおかしいなと思ったんだよね
それは、日顕上人書写の本尊から創価の本尊に取り替えたときに思ったんです。
な〜んか違うな〜と思ってよく見たら、創価の本尊には十界の衆生が少なかったんですね。でも偉大な日寛上人書写の御本尊ですよね。
なので質問その一。
正しい相藐ってどういうことですか?
宮沢賢治さんは、雨にも負けずの手帳の最後に、中央首題と四天王を自分で書いてましたけど、本門の本尊ですか?
スイマセン阿呆な質問で、けど知りたい。
バロムわん同志に続いて。
仏像とご本尊様を同格に扱うとは!
如何な事か!
支部長のお怒りに
一定の理解は出来ますが、、
相貌が正しいければ、
日蓮大聖人様の真筆の曼荼羅であれば、
それで良いの?って、思いました。
駄文コメントまい度、失礼しました。
如何な事か!
支部長のお怒りに
一定の理解は出来ますが、、
相貌が正しいければ、
日蓮大聖人様の真筆の曼荼羅であれば、
それで良いの?って、思いました。
駄文コメントまい度、失礼しました。
Re: バロムわん同志に続いて。
久々に梵天揃っての出陣ですね!
ぜひとも彫り下げていきたいテーマですので、ありがたく思います。
ですがすみません。明日明後日と過密スケジュールがありまして、週明けになると思いますがコメントします。
よろしくお願いします。
ぜひとも彫り下げていきたいテーマですので、ありがたく思います。
ですがすみません。明日明後日と過密スケジュールがありまして、週明けになると思いますがコメントします。
よろしくお願いします。
支部長のスケジュールにお任せします。
梵さんの核心を突くコメントに
御回答を頂けると幸いです。
なんせ、口汚くdisりますが、
鯛焼き支部長くらいなのです。
ネットの世界で、
まともなバリ活動家に会ったことが
無いので、、、?
価値ある発信を続けて頂けると、
幸いです。
あと、駄文ですが、、、
なんなら、
駄目出しブログに
乗り込んで頂きたく、、、。
血気盛んなバリ活動家が
ボロカスに殺されましたが、、、。
重ねて駄文コメント失礼。
御回答を頂けると幸いです。
なんせ、口汚くdisりますが、
鯛焼き支部長くらいなのです。
ネットの世界で、
まともなバリ活動家に会ったことが
無いので、、、?
価値ある発信を続けて頂けると、
幸いです。
あと、駄文ですが、、、
なんなら、
駄目出しブログに
乗り込んで頂きたく、、、。
血気盛んなバリ活動家が
ボロカスに殺されましたが、、、。
重ねて駄文コメント失礼。
No title
★【木絵二像開眼之事】※御真筆は現存していない。題号については特定されておらず、後世の命名である。
本抄の御述作は、文永元年(1264年)、文永10年(1273年)、弘安5年(1282年)等の説があるが、木絵の二像について述べられているから、一閻浮提総与の大御本尊建立以後とするのは無理がある。また文永10年(1273年)は佐渡滞在期であり、『観心本尊抄』執筆前後に当抄の執筆とするのも内容の相違からして考えにくい。
したがって、文永元年(1264年)としておくが、ただ文永7年(1270年)頃、釈迦仏像像立に関する御書があり、このころ仏像についての質問が大聖人のところに来ていたことが考えられ、そうした質問の返事の草案とすれば、「竜の口以前の文永7・8年御述作」とする旧来説とは違った説が出てこないわけでもない。
日蓮正宗妙声寺(東京都町田市)の井尻執道住職が、「『木絵二像開眼之事』は佐前(佐渡流罪以前)の御書だから、『木絵二像=御本尊』ではない」と断言。
https://6223.teacup.com/12345/bbs/349
※「竜の口の法難」は文永8年(1271年)9月12日。
大聖人が初めて御本尊を図顕されたのが、佐渡に護送される前日の文永8年(1271年)10月9日。
本抄の御述作は、文永元年(1264年)、文永10年(1273年)、弘安5年(1282年)等の説があるが、木絵の二像について述べられているから、一閻浮提総与の大御本尊建立以後とするのは無理がある。また文永10年(1273年)は佐渡滞在期であり、『観心本尊抄』執筆前後に当抄の執筆とするのも内容の相違からして考えにくい。
したがって、文永元年(1264年)としておくが、ただ文永7年(1270年)頃、釈迦仏像像立に関する御書があり、このころ仏像についての質問が大聖人のところに来ていたことが考えられ、そうした質問の返事の草案とすれば、「竜の口以前の文永7・8年御述作」とする旧来説とは違った説が出てこないわけでもない。
日蓮正宗妙声寺(東京都町田市)の井尻執道住職が、「『木絵二像開眼之事』は佐前(佐渡流罪以前)の御書だから、『木絵二像=御本尊』ではない」と断言。
https://6223.teacup.com/12345/bbs/349
※「竜の口の法難」は文永8年(1271年)9月12日。
大聖人が初めて御本尊を図顕されたのが、佐渡に護送される前日の文永8年(1271年)10月9日。
Re: No title
無名ですさん。
毎回貴重な資料の提供、どうもありがとうございます!
この内容(日蓮正宗の住職が『木絵二像=御本尊』ではないと断言した事実)は知りませんでした!
これは大きいですね。
ダメ出しブログさんの見解がいかに間違いだったかの証左になりますね(笑)
この点を大いに突っ込んでみたいものですが何せ時間がありません。
落ち着いたら活用させていただきます。
毎回貴重な資料の提供、どうもありがとうございます!
この内容(日蓮正宗の住職が『木絵二像=御本尊』ではないと断言した事実)は知りませんでした!
これは大きいですね。
ダメ出しブログさんの見解がいかに間違いだったかの証左になりますね(笑)
この点を大いに突っ込んでみたいものですが何せ時間がありません。
落ち着いたら活用させていただきます。