発達障害の検査いくつかのうち、
WAISーⅣ(知能検査)を受けてきました。
6/24(月)に、先に受けた娘が、
「すっごく疲れる嫌なテストだった、
同じようなことの繰り返しで
凄いストレス、疲れた、
もう2度と受けたくない。」
と言っていたのですが、
(同じことの繰り返しにしか思えない娘には
最も嫌いなことだしね…
そこが、まだまだ甘いところなんだけど
何を検査しようとしてるのかな?とか
何回か繰り返さないと「偶々」を排除
できないしさ、とか、
1つのシリーズの中で少しづつレベル
アップしてレベルを見てるんだしさ、とか
↑これには気付いて頑張ったらしい ^^
瞬時に考えちゃう私は
「同じことの繰り返し」という感想は
持たなかったけど、似たようなことの
繰り返しではあって、
加齢で?心労で?著しく脳は衰えている
から、疲れたよね、笑)
※カウンセラーさん曰く、
「とても素直なお子さんで、
どれもきちんと取り組んでいて、
凄く良くできていて驚きました。
お母さんが大切に育ててきたのが
分かりました。
ちゃんと育てていなければ、
こんな風に育たないですよ。
学校に行きたいから勉強して
××高校を目指しているんだ、
と言っていたし、
それは本当だと思いますよ。
ここまで出来るのに勿体ないから
××高校に行って欲しいですよね。」
積み木や図形は、
小学校お受験やサピやピグマや
サピの補助教材(名前は忘れちゃった)や
算数オリンピックのKIDS板
を思い出すような感じ。
楽しいじゃんね、こういうパズル、
と思いつつ、
激しく衰えていることを客観的に認めざるを
得ないなぁ、と我ながら愕然としました。
アルツハイマーのテストでも衰えが
厳しかった、数字の羅列や、
間に挟む(これが本当に衰えが顕著で…)、
とか反対から言う、とかは全くダメ
出来ない内容が続くと、
確かにストレスのかかるテストでは
ありました。
この子供版を小3までの私がやっていたら
きっと苦痛だっただろうな、とも
思いました。
でも、娘は、好きだったじゃんね、とも。
(公立小学校の成績表すら全部△だった私。
記念にとってあったんだけど、まだ、
どこかに保管してたかな?娘を産んでから
捨てちゃったかな?
~念のため、ここにも書いておこう。
小6では、ほぼ全部◎には成長して
ましたよ。算盤と、学校の先生に
恵まれたおかげだと思っています。
一番下に、小学校の頃の思い出話
というか、こういう、古き良き時代の
公教育や故郷だったなぁ、
というのを書いておきます。
たとえ発達障害があろうが、勉強が
出来なかろうが、家庭にあまり恵まれ
ない子であろうが、友達がいなかろうが
何かしら学校に居場所があった、
そう、私は感じています。
土地柄なのか、時代なのか、
今の都内の公教育とは違った、
偶々個人的な、というより大きい
何がしかの違いがあるように感じます。)
カウンセラーさん、
気を遣って下さったようで、
娘の話では、ブログもお読みになった
ようで、娘曰く「ぼろくそ書かれていた」
と仰っていたとか、すみませんm(__)m
でも、言わんとしていることは
伝わったかな。
(私も、 もう心が一杯一杯なのです。
少し抜け出したかな、ですが…。)
見る人
(一定レベルの学や経験、
資格のある、
臨床心理士さんとか医師)
が見れば、
私が娘をどれだけ大切に
育ててきたかは
お分かりになるのですね。
ご理解いただけて、
よかった。
6年前の中学受験、
3年前の高校進学・受験での
冤罪による管轄警察・足立一時保護所
担当変更前の「児童福祉司」もどき、
名ばかり心理職M
がどれだけ酷いことをしたか、
(名ばかり心理職M
異動はしたようですが、まだ、
公務員に留まっているらしい。
あのままでは、
不幸な親子を量産し続けているのでは
ないでしょうか?
自主的にお辞めになるか、
都として?、厚労省として?、
責任をもって教育し直して欲しい。
他人の一生を左右できちゃう職だという
認識が無さすぎた。人権意識も低すぎた。
娘の人生を大きくねじ曲げ、将来を台無し
にし、私の一生、心も破壊しつくし
心を痛め付けた。
あの忌まわしい、人権侵害手法を平然と
取れる、短絡的、心の凍りついた鬼としか
思えなかった心理職もどきM。
ご自分が
為さったことを真に反省し謝罪するまで、
娘がされたのと同様、
逃げ出すことも出来ず監禁され、
外部と遮断し、
誰とも話せない、笑っても怒られる、
プライバシーなどない、
寝ている時すら監視し続けられる環境に、
最低でも2ヶ月半、いつ終わるかも
分からない、
体験をさせてみるべきでしょ。
為されている相手の心理状況すら想像
できない、名ばかり心理職Mには。 )
6年前の
児相「児童福祉司」もどき、
名ばかり心理職
足立一時保護所の『児童虐待』
~私じゃないですよ、足立一時保護所
または「児童福祉司」もどき、
名ばかり心理職の為した
『児童虐待』
によって、
失われた6年。
担当変更した児相と近隣や仮住まい先の
警察署の、自称暴力団員宅や非行児との
接触による非行化阻止へのご協力により
※ちゃんと、親権者の私の話を聞き、
意向、意思を確認していただく、
当たり前のことをしていただけたから、
ブレなかったから、最悪を避けられた
のだと思います。
最悪は避けられ、3年前に、
高校受験→全て本質的にやり直せる、
やり直そう、と
児相担当にも入ってもらっての
やり直しのはずだった…。
ところが、
またしても管轄警察の信じ難い
100%冤罪の「虐待通告」、
違法民事介入
である寝耳に水、
まさかの「実家送致」。
さらに生活安全課長が、自由恋愛と認め
警察が交際を許可??
何度「『家出』推奨、推進」したら
冤罪、間違いを認め、
偏った理解不能な民事介入と人権侵害を
やめていただけるのでしょう?
やり直せたはずの
失われた3年、が、
またしても、
管轄警察の虐待捏造
または嫌がらせ?
で
もっと失われた6年
になった。
【3年前】
少年係長は警視庁本部の指示だと
言いわけしていましたが、
報告が間違っていれば、警視庁本部の
指示も間違えるのでは?
当の少年係長が私に、
「受け入れ施設(一時保護所)が見つから
なければ、自宅に帰すので、
一旦帰って待つように。」
と言ったのだ。
待てど暮らせど連絡がないので
こちらから連絡したら
「然るべき場所に保護した。
児相担当からの連絡を待つように。」
とのことだったので、
ああ、また虐待扱いね? とは思ったものの
(虐待扱いでなければ、親に居場所は
秘匿しない)
事実は、児相担当も家に来て、娘の部屋で
娘の話(××高校を受ける、意思確認)も
聞いたし、
私の痣だらけの身体も見て知っていた。
児相担当が帰った後で、娘は私に、
塾を入れて欲しい、と頼みに来たし。
ので、まぁ、すぐに警察の冤罪は晴れる
だろう、とタカをくくってしまったのも
あり、
(「喧嘩」でも何でもないですよ、
私は一切手も口も出していない。
朝、 確か、
一緒に掃除をしようと言っただけで、
TVを見る邪魔をされるのが嫌な娘に
仕事用PCを玄関先に出され、
取りに出たところで鍵を閉められた。
部屋着で仕事にも行けないし、
携帯を持っていたのが救い。
仕方がないので鍵屋さんを呼んで
開けてもらい入ったら包丁を持ち出した。
鍵屋さんが新しい鍵を持って戻ってくる
はずであり、他人も絡んでしまうので
万一、何かあるといけないので、
警察に来ていただいた。
同じ話を私は警察にも話した。
どこが「虐待」なんでしょう? )
さすがの児相も、
17年(当時は14~15年)独りで育てている
にも関わらず、
親権者の同意なく勝手に実家送致はしない、
法的にも出来ないはず。
児相が勝手に送致できるのは、
養護施設送致や里親委託。
当然、「施設(一時保護所)」に一時保護
されているものとばかり
思っていました。
しかし、翌日、
児相担当から連絡がなかったので
(一時保護されていれば、それは、
さすがにないはずだが、児相担当に支援を
依頼していたからかな、とも思ってしまい)
さらに、その翌日電話をしたら
児相担当は実家送致を知らなかった。
当然、家に帰っているものと思っていた
児相担当と
一時保護されていると思っていた私で
話の食い違いに気付き、
児相担当が
管轄警察に電話で確認をしてくれて
実家に送致されていたことを知った。
児相は「虐待通告」を「虞犯・家出」
に訂正した。
したがって、
警視庁本部の「実家送致」は、
違法な民事介入。
警察の強制「家出」??が、
「虞犯・家出」
として記録に残るのは、
あまりに理不尽。
青少年を指導する立場の警視庁本部が
「家出」を幇助し、
かつ、
長野県警諏訪警察署まで動員して
連れ戻せないようにしておきながら、
児相は「虞犯・家出」とは。
100%冤罪にも関わらず
嘘で親権者も実家も騙し
長野県警諏訪警察署まで動員し
諏訪警察署に取り押さえられ、
連れ戻せなかったのです。
まるで犯罪者扱い
名誉棄損、侮辱、
人権侵害、親権侵害
にも関わらず
「虞犯・家出」
おかしいでしょ??
「公聴」にも
文書提出しましたよ。
しかし、今回の件でも、
まだ、管轄警察は、
3年前の件を、
違法で、間違いでしたと認めず、
「案件単位」と誤魔化す。
そして、一昨年、話のついた話の
約束も守らず、
「児相担当は、自分だけ、いい子になって
ずるい。親にきちんと説明すべき。」
と言う。
はっきりさせれば、
いいんじゃないですか?
私は虐待していません。
だから、
全て公開していただいて
構いません。
延々と虐待「疑い」で、
児相・警察が、どれだけ酷いことを
してきたか、
逆に、私も公開していただきたいです。
こういう、
娘の重要なポイントで、
強制力で娘の状態を悪化させ、
将来を台無しにし、
結果として200万超のただ無駄な出費
を負わざるをえない損害も受け、
私の生活も人生も心も
全て、全て壊滅的に破壊され続け、
冤罪、違法な強制力の駆使までされて
(普通は警察は信用しちゃうでしょ?
まさか、延々とハラスメント、
人権侵害、親権侵害されるなんて
思わないでしょ?)
そして6年前をやり直せるはずだった
3年前の
管轄警察の鬼としか言いようのない
違法な愚策の結果として
失われた6年。
ーーー
警察は拉致も出来れば、移送もでき、
「養育放棄、親権放棄」などと
真っ赤な嘘を捏造し、
何も事実を知らない、縁を切っている、
実家も嘘で騙し、
さらに電話で、
認知症の父にも嘘をついて騙し、
長野県警諏訪署は管轄署のせいにし、
(それは、管轄署から、誤った情報が
伝えられて、
父からも管轄署からの指示で
なんだか知らないけれど、
理解不能な連絡を入れられたら、
そう動かざるを得なかったのだと
思われる)
管轄署は父のせいにし
(しかし、管轄署は
事情も何も知らない認知症の父に、
~実の子の私に確認もせず、さらに
私の話より警察の話を信じる方も
信じる方だけど。
私が行ったら長野県警諏訪警察署に
連絡するよう、
そして長野県警諏訪警察署に私が娘を
連れ帰れないよう指示を出した
ようですね。)
私は6年前に管轄署・足立一時保護所、
「児童福祉司」もどき、名ばかり心理職Mに
おかしくされた娘、
破壊され尽くした生活(放置せざるを得な
かった乳癌も…)
復旧対応を必死でし、
さらに本質的に解決すべく、
3年前に、きちんと学校にも相談のうえ、
児相担当にも入ってもらって進めていた
※なぜ児相担当かというと、
それまで発生していなかった、
娘の暴力や自傷が、
その3年前、すなわち6年前の
一時保護&自称暴力団員宅非行児
とその周辺との関わり以降、
起こっていることですし、
~勝手に強制力でされたこと、しておき
ながら情報開示はしてくれない
(管轄警察には、最長2Wで、専門家が
子供の様子を観察したり、話を聞いて
アドバイスをもらえると
大嘘で騙されて、登校渋り~クラスに
行けない~の観察のための
一時預かりをお願いしてしまった。
約束は果たされず、捏造虐待で
養護施設送致まで勝手に決められかけ
娘の精神までおかしくされ、
娘の人生を大きくねじ曲げられ
私の生活、一生も壊滅的に破壊された。
何をされたのか、足立一時保護所は
情報提供すら拒否した。
したことが後ろめたいからだろう。)
また、同じようなことが起こり、
6年前の強制力で、親の意思にも
娘の意思にも、娘の「福祉」にも反する
2ヶ月半にも及ぶ劣悪な一時保護で
中学受験を台無しにされたように、
また、何かこそこそされて、
娘の学校生活や将来を破壊されても
困るので。
と思ったのですが、
そして、きちんと手順も筋も通して
いたから、
3年前は100%冤罪だと言い切れる。
それなのに、
管轄警察に、もっと酷い「実家送致」
などという最悪な愚策、
絶対やってはならないはずの
「民事介入」をされ
全ての、本当に全ての努力、
50年以上の人生、全てを破壊されました。
高校受験での受験プロセスのやり直し
が出来ればよかったのです。
6年前に管轄警察、足立一時保護所、
「児童福祉司」もどき、名ばかり心理職
に不当に破壊された、中学受験。
あんな大切な時期に、
子どものことなど、これっぽっちも考えて
いないから出来た中学受験破壊。
子供は「良い」教育を受ける権利があり
義務がある。
親には子供に「良い」教育を受けさせる
義務があり、権利がある。
その子供の人権も、親の親権も踏みにじり
親の意思に反し、子供の意思確認もなく
嘘で親を騙し、
留置場のような劣悪な環境に
2ヶ月半もの間、親には居場所も様子も
知らせず(嘘の情報だけを与え)
拉致・監禁され、
劣悪な教育?しつけ?
(あんなものは教育でも何でもない、
悪いものを見聞きし、強制力で
吐き気がするほど劣悪な勉強もどきを
刷り込まれる


『児童虐待』以外の何物でもない)
でおかしくされる。
正当な理由もなく、一切親に開示しない
のは何ら正当な理由もないか、開示でき
ない不都合が児相、一時保護所、
管轄警察側にあるからでしょう。
こそこそ娘に悪影響、害を与え続ける
くらいなら、
全て明らかにすればいいじゃないですか?
私は一切困らない。
一時保護がどれだけ劣悪か、
きちんと情報公開すればいいじゃない
ですか。
そういう生活を、中学受験の大切な時期に
子供の自由を奪い、教育を受ける権利まで
侵害してまで強行した
何の根拠も理由もなかったことを、
きちんと客観的調査などしなかったことを、
人権侵害手法で虐待を捏造したことを、
全て公開して欲しい。
ーーー
そして、
たとえ劣悪な一時保護であっても
一時保護所>>実家(鬼母)
(実家~鬼母~と縁を切っているには、
相応の理由があるからですよ。
私が17年間独りで育てているのです。
6年前の中学受験時の不当な
2ヶ月半もの劣悪な一時保護。
あの時の鬼母の鬼母たる無理解、非協力、
傷口に塩を塗った言動、
見切って完全に縁を切っていたのです。
私は自分が育てられたわけですから
知っているのですよ、
彼らがまともに子育てをしてこなかった
ことを、
50年以上、それすら認めない、
理解できない、強烈に自己中心の鬼母を。
娘を育ててきた過程や娘の状況、
学校生活のことなど何も知らないし
聞いてくることもない実家に、
(17年間~その時は14-15年間~、私独りで
育ててきた。何一つ心配して連絡を
くれたこともない。それはその時に
始まったことではなく、実家にいる時から
そして大学に出てきて以来も。~
その私に連絡も確認もしない実家も実家
ですが)
100%冤罪の捏造虐待通告で、違法に、
よりによって、TV依存しかかっている時に
そういうことすら、きちんと伝えず
(児相にも学校にも、私はきちんと説明
しましたよ。実家と、鬼母と縁を切るに
至っていた、だから仮住まい先での一時
保護を)
TVつけっぱなしの最悪な実家に
100%冤罪にも関わらず
無責任に送致し
父は頭を下げて謝ってくれましたが
鬼母は相変わらず鬼母、自分が最も悪い
ことをしたとは理解などするはずもなく
娘はさらに、家に帰る条件として???
児相担当立ち会いの元でですよ
それも理解に苦しみましたが
児相担当も、娘の状態を正確に理解して
いるわけでもなかったか、好き放題できる
実家から急ぎ戻すためには、
スマホを与えることを私に認めさせるしか
手がなかったのかな?
6年前の児相の捏造虐待で、何でも親が
悪い、子供の人権はき違え、
さらにこの3年前の、親権者を嘘で騙し
意向も確認しなかった最愚策の実家送致
の結果、
私は結果が容易に予想できるから頑張って
対処していたのですが、
懸念通り、
依存するのが目に見えているスマホ要求
・ルール決めが、ただ事ではないことは、
その後の支援でご理解いただけたとは
思います

(3年前に誤った報告をした少年係長からは
冤罪で広まった周囲への名誉棄損、
悪評被害は、警察としては何も出来ない
自分で何とかしろ、
と言われましたので、
ブログも使って、事実に訂正させて
いただいています。
「公聴」にも文書を送っても、
管轄警察の人権侵害、ハラスメントは
今なお続いている。
一昨年の元彼氏、今回の虐待通報でも
されかかった「虐待親扱い」
親を騙す、試す?の情報操作
ハラスメント発言。
もう、本当に心底疲れています。
(自称)暴力団員も、児相も、警察も、
関わりたくない。
※念のため書いておくと、後ろめたいことが
あるからではなく、
勝手に決めつけた、蔑視、ハラスメントが
酷いから。
一昨年も昨年も話したのに
あれは何だったの? と。
6年前の
管轄警察
最長2Wと聞いていた、まったく実態の
説明のなかった、
嘘に騙されての一時預かり
だったはずの
捏造「虐待」冤罪の中学受験潰しの
一時保護。
「児童福祉司」もどき、名ばかり心理職、
足立一時保護所の劣悪な一時保護。
あの時から、全てが変わってしまった。
貴重な時は、戻らない

それでも頑張っていたのに
3年前の100%冤罪の捏造「虐待通告」での
違法民事介入の「実家送致」。
全てが全てが全てが終わった。
あの外面だけの鬼母、
私がどれだけ鬼母を嫌いか憎んでいたか
だから忘れていたいか、
それでも、カタチだけでも、いた方が
いいよね、と、孫と遊ばせてあげた
だけなのに、
何も分かっていなかった父、
授かった時に、安易に
知らせなければよかった。
自然も大事だし、故郷も好きだから
孫と遊ばせてあげようなどと
夏休みに一人で遊びになど行かせなければ
よかった。
残念ながら、血縁というだけで、
3年前の警察の最悪な愚策のようなこと
をされる。
50年苦しめられて、
まだ足りないのか、、。
どうやったら血縁が切れるのだろう。
悔しい、悲しい






ーー
【私の小学生時代】
たとえ発達障害があろうが、
勉強が出来なかろうが、
家庭にあまり恵まれない子であろうが、
友達がいなかろうが
私の学校時代は、
何かしら学校に居場所があった、
そう、私は感じています。
~せっかく友達が増えて、家にも友達が
遊びに来るようになっていた、
小5の3学期に転校させるなどという、
誰でも影響が分かりそうなことを
住む家はあったから必要性もなかったのに
鬼母の我が儘だけで強行され、
ご多分に漏れず、転校先の学校では
仲間外れに合い、辛い思いもしましたが
先生がさりげなく勉強を励ましたり、
一声かけてくれたりしたし、
中学で、転校前の学校と1つになるし、
新しく出直そうと思えたし…。
独りぼっちの時も学校には
行っていました。
鬼母のいる家にいるよりは学校の方が
よかったからかな、微妙。
何かしらの居場所があったよなぁ、
とは、思います。
しばらくして一人仲の良い子ができて
(私が転校する前は、似たように仲間はずれ
にされていたみたいだった。
勉強のできる子で、ベタベタしてなくて
意地悪じゃなくて、気が合ったかな。 )
小1~4年までの担任は
授業をやめて公園に行ってサッカーなどの
体育?をしていたことが多かったな、
今東京でやったら指導やクレームが
入りそうだけど。
私の小さい頃は、
田んぼリンクでのスケートは普通で
体育の授業にスケートにスケートが
あったし、
夏休みの学校のプールと同じ感覚で、
冬休みに近所のたんぼリンクでの
スケートに通いましょう、
という感じで。
転校前の学校はすぐ近くに諏訪湖が
あって、当時はまだスケートが出来る
くらいの厚さに凍っていたので、
普通に諏訪湖でもスケートをした思い出が。
父が山の中の大きめのリンクに、
歩いて連れて行ってくれたことがあり、
途中で缶詰を食べた記憶が。
父も寡黙な人であり、私もあまり話すことも
なかったので、会話はほとんどなかった、
思い出す会話もないけれど、
父が私を大切に思ってくれていると、
私は感じていたのだと思う、
鬼母が大嫌いだったのもあるけれど、
父は好きだった。
授業で覚えているのは
お店やさんごっこ、街ごっこ、とか、
きっと普通の授業もしてたのでしょうけど
私の記憶に残っているのは
そういった残像だけ ^^;
学校保有の田んぼで小5の授業として
田植えや稲刈りもあった。
学校帰りに田んぼでイナゴを捕って
ビニール袋に入れて持ち帰り、
おやつとして、フライパンで炒めて食べた
こととか
~ この話は東北のお客さんの仕事を
した時に、うんうん って盛り上がった。
(今では出されても、食べられない ^^;
当時は素直に食べ物だと思ってた。
池で飼っていた鯉も食べ物だと思って
いたし。
アライや 鯉こく、お正月は鯉の甘露煮が
普通だった。鯛とか鮭よりも。
多分、どこの家でも似たりよったりじゃ
ないかな。
牛肉は食べたことがなかったし、
~これは、貧乏ゆえかな?
うちだけでもなかったと思われるが、
輸入牛がなかった時代だし。
高級なお刺身より馬刺が普通だった。
当時は安かったのだと思う。
そうそう、鯨肉の竜田揚げは頻繁に
給食に出ていたし、家でも鯨の刺身も
よく食べた。それも、当時は安かった
のだと思う。
父や伯父が蜂追いをして捕ってきた
蜂の子が美味しかったこととか、
山の中に引っ越してからは、
父が裏?山で採ってきた蕗の薹や
きのこが好きだったなぁ、とか…。
皆さんが観光で来るような場所
因みに娘も学校行事で行った場所は
夏休みに、地区のキャンプで
大荷物リュックを背負って歩いて行く
地区のキャンプで行った。
お風呂が薪で炊いていた、薪割りも
普通に見ていたし。これを以前ブログに
書いたら、
5ch掲示板で嘘、作り話のごとく
書かれましたけど、事実ですよ、
私は50代前半ですが)
因みに長野県人ですが、長野市は
1回しか行ったことはなかったですよ。
小5に1日かがりの「長野旅行」と
名のつくバス旅行で県庁と善光寺だけ
見に行く、まさに「旅行」。
車酔いが酷かった私には、バス旅行に
よい思い出はないです
今の会社に入ってから、だから、比較的
最近、銀行さんのお仕事で長野市に
行きました。ん十年振り、2回目でした。
長野県人でも長野市よりは隣県の甲府
の方が遥かに近いし、親近感もある。
私が住んでいた頃、
既に田んぼは消えていき、
温暖化で、諏訪湖はスケートが出来るほど
凍らなくなり、御神渡りすら危うく
なっているようだし、
家の中でもコップに残った水が朝には
凍ったほど寒くはないのだろうし
~私は30年超、冬に故郷に帰ったことは
ない、寒いのは大嫌いだから。
交通の便や産業構造の変化で
今は故郷もだいぶ様変わりしているけれど、
時代の変化であって、
私が書いていることに、
5chねらーから叩かれるような、
嘘も空想も捏造もないですよ、苦笑。
中学はかなり大人数の学校でしたが、
不登校の子は、
ほとんどいなかったんじゃないかな
(妹は一時期不登校だったけど、
そんなに長くは続かなかった。)
偶々私が先生に恵まれたのかも
しれませんが
難しい家庭の子は担任が気合いを入れて
見てくれていた、とも感じます。
中学の担任の先生(歳は10歳程度しか
違わないけれど、残念ながら、かなり
はやく召されてしまった…)は、
問題のあった3人が、卒業しても連絡を
くれる3人だった、と、社会人になって
からだったかな、言っていました。