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【社会】ハンセン病元患者家族の被害認定 「おやじ、すまなかった」実名公表の赤塚さん
肉親との絆を断ち切られ、冷たい偏見の目にさらされ続けた苦しみに、司法が光を当てた。ハンセン病元患者の家族への差別を認め、救済につながる道を示した二十八日の熊本地裁判決。元患者を隔離する政策を違憲と断じた判決から十八年余りを経て、同じ裁判所で再び歓喜の声が上がった。首都圏の元患者や支援者も判決を喜びつつ、今も続く差別や偏見への苦しみを語った。 勝訴の瞬間、嫌悪し遠ざけてきた父親の顔が、脳裏に浮かんだ。ハンセン病患者だった父の無念が身に染みて分かったのは、亡くなった後。「おやじ、すまなかった」。鹿児島県・奄美大島に暮らす原告副団長の赤塚興一さん(81)は、贖罪(しょくざい)の思いを胸に、実名を公表して裁判を闘った。 小学生の時、父が国立療養所の奄美和光園に入所した。赤塚さんは周りから「こじき」と呼ばれ、友人の親には理由もなく顔を殴りつけられた。「おやじのせいでこんな目に」。父への忌避感が心に刻み込まれた。故郷から逃げるように上京し、町工場で働いた。「元気にやっているか」。気遣う父の手紙に、一度も返事を書いていない。地元に戻り名瀬市(現在の奄美市)で市議になってからも、父の病は伏せた。 忘れられないのは、赤塚さんの家に遊びに来て、幼い孫を抱く父のうれしそうな姿だ。子どもにうつるのでは、早く帰ってほしい-。そんな思いが口をついた。「おまえがそんなことを言うなら首を切って死ぬ」。血走った父の目。差別の痛みを知りながら、いつしか父を差別していた。後悔は消えない。父は一九九〇年に亡くなった。 二〇〇一年、国の責任を認めて元患者への賠償を命じた熊本地裁判決により、父が受けた被害と無念の深さを思い知ったという。「もう、隠したくない」。偏見におびえ、父の存在を隠し続けた人生と決別し、実名を明かして集団提訴に加わった。 患者の処遇が誤りだったことが公然の事実となった今でも、差別は「霧のように残っている」と感じる。「いつまで家族は、びくびくしなければいけないんですか」。昨年十二月、最終弁論で訴えた。思いは裁判官らに届いたのだろう。それでも心は晴れない。二十八日、家族を救済に導く判決が出て支援者から祝福されても、力なく笑って応えるのが精いっぱいだった。
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