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昭和四十年 二月十六日・第一回正本堂建設委員会・日達上人

■ 大聖人より日興上人への二箇の相承に「国主此の法を立てられるば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」とおおせでありますが、これはその根源において、戒壇建立が目的であることを示されたもので、広宣流布達成のためへの偉大なるご遺訓であります。
これについて一般の見解では、本門寺のなかに戒壇堂を設けることであると思っているが、これは間違いであります(中略)

末法の戒律は題目の信仰が、すなわち戒を受持することであります。
よって大御本尊のおわします堂が、そのまま戒壇であります
したがって、大本門寺建立の戒も、戒壇の御本尊は特別な戒壇堂ではなく、本堂にご安置申し上げるべきであります(中略)

したがって、その曼荼羅を現在では大石寺の本堂にご安置することが、もっともふさわしいと思うわけであります(中略)

今日では、戒壇の御本尊を正本堂に安置申し上げ、これを参拝することが正しいことになります。
ただし末法の今日、まだ謗法の人が多いので、広宣流布の暁をもって公開申し上げるのであります。
ゆえに正本堂とはいっても、おしまいしてある意義から、御開扉等の仕方はいままでと同じであります。
したがって形式のうえからいっても、正本堂の中でも須弥壇は、蔵の中に安置申し上げる形になると思うのでございます (大日蓮ニ二九)



→ 昭和四十年二月に正本堂の意義について明確に述べている。

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それより後に、浅井親子は妙信講員に正本堂への供養を勧募している。


【証拠】

昭和四十年六月号『富士』

▼「今回総本山に於て御法主上人猊下の思召によりまして、いよいよ意義重大なる正本堂が建立されることになります。
(中略) 妙信講も宗門の一翼として講中の全力を挙げ真心をこめて猊下に御供養をさせて頂く事になりました。」(浅井企画室長)

▼「私共はこの猊下の思召に同心し奉ってたとえ微力たりとも赤誠を奉りたい。
先生(※浅井甚兵衛)は千載一遇のお山への御奉公だと申されております。
全講を挙げて歓喜の御供養をさせて頂こうではありませんか。(拍手)」


▼「いよいよ正本堂建立の御供養   千載一遇の御奉公に歓喜の参加  真心を尽して悔なき結晶を

▼「この御供養は、宗門の歴史をつらぬく大事で、猊下を通して戒旦の大御本尊様への御奉公であり、私達の生涯に二度とはない大福運であります

(富士二三号 P8  11

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浅井・七月二十八日幹部大会

▼「すでに広宣流布の時は来ております」 (冨士二五号 浅井本部長P11 12 )


→ 広宣流布の時来たれり、と浅井自身が認めている。
ということは 仮に正本堂が、「事の戒壇堂」 を前提として建立された殿堂だとしても、異義はないはずだ。 

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以上を見れば明らかなように、「誑惑」といわれる「正本堂」に妙信講時代に御供養した

それについて浅井会長は後になって以下のように弁明している。

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▼「正本堂の御供養には妙信講も参加した。
今日から見れば、なぜこれに参加したのか不思議に思う人もいようが、当時はまだ誑惑が顕著ではなかった。
少なくとも、管長猊下は一言も正本堂を御遺命の事の戒壇などとは云われず、もっぱら戒壇の大御本尊を安置し奉る建物であることだけを強調し、供養の誠を捧げよと、宗門の全僧侶・信徒に呼びかけておられたのである。」(昭和六十一年発行の「富士」二百七十一号・「試練と忍従」

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→ 全くの詭弁

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【証拠】  富士 昭和50年5月号 妙信講18年の歴史 年表  


2月16日
第一回正本堂建設委員会 細井管長 正本堂の意義について 「正本堂は事実上の本門戒壇」と説法

3月26日
池田会長 正本堂御供養趣意書作成
「かねてより、正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成であるとうけたまわっていたことが、ここに明らかになったのであります。」と。

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昭和40年2月16日 3月16日の時点で、浅井の言う「正本堂の誑惑」は既に決定的に顕然であったことを顕正会の年表が証明しているではないか。

ところが浅井はその正本堂へ供養を勧募していたことが都合が悪いと思ったのであろう。
その事実を年表から削除して、もみ消している。

【補足解説】

日達上人は二箇相承の御文を引用されての御指南であるから、御遺命の戒壇との義を含む意味で正本堂が建立されることを仰せである。
事実、後には浅井も、二箇相承や、三大秘法抄の御文などを引用して正本堂を意義付けしている宗門側に激しく抗議しているではないか。
つまり、この昭和四十年二月十六日の時点で、後に浅井が異義を差し挟むような正本堂の意義内容が明らかになっていた。

更に、この時の日達上人御指南である

■ 「大御本尊のおわします堂が、そのまま戒壇であります

についても、後に激しく噛み付き、頑迷に納得しなかったではないか!

まさに、浅井は自己正当化するためなら、歴史的事実も平気で捻じ曲げて捏造する、大ペテン師である。


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事の戒壇について、歴代上人御指南。

五十二世日霑上人は、『三大秘法談』に、

■ 「未タ廣布ノ時不<レ>至ラ事相ノ戒旦御建立ナシトイヘトモ此ノ道場即シ是事ノ戒旦真ノ霊山事ノ寂光ニシテ一度モ此ノ砌二望マン輩ハ無始ノ罪障忽チ二消滅シテ三業ノ悪轉シテ三徳ヲ成セン事毛頭疑アルヘカラス」 (研教二三巻)と示されています。注・<レ>は、レ点です。

■ 『未だ広布の時、至らず。事相の戒壇御建立なしといえども此の道場、即ち是、事の戒壇、真の霊山、事の寂光土して、一度も此の砌に望まん輩は、無始の罪障、忽ちに消滅して、三業の悪、転じて三徳を成ぜん事、毛頭疑いあるべからず』

すなわち、広宣流布以前には事相の戒壇は未だ建立されないが、大御本尊安置の場所は一切衆生の罪障消滅即身成仏の叶ゔ事の戒壇゙である、との御教示。

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六十世日開上人

゙本宗の御相伝゙『御戒壇説法』
■ 「本門戒壇建立の勝地は当国富士山なる事疑いなし。」

■「其の戒壇堂に安置し奉る大御本尊、今眼前に当山に在すことなれば、此ノ所即是本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光」(日開全集)



御相伝のうえからも、大御本尊の在す所は本門事の戒壇であることは明らか。



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