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この古文書についての猊下の御注釈

 この古文書(口絵写其)について、猊下は次のように脚注釈された。

 「私は戒檀の御本尊安正置の処が事の戒檀であると、以前から何回も云っております。
これに関して日寛上人の御説法を日相上人が科段に分けて、わかりやすく書いたのが、(最近)出てきました。
これは、日相上人の直筆です。
大貮とは日寛上人のことです。
日寛上人の御説法を日相上人がお書きになった。
これは間違いないんです。
 
 (宗門戒壇の項について)
 理の戒檀とは、理と義と同じことです。
日寛上人は一応在々処々の御本尊安置の処は義の戒檀なりとおっしゃっております。
ここには理と書いてあります。
義は理に通ずるということで、義理ということです。
義は正Lい筋道ということです。
理の戒檀といっても義の戒壇といってもさしつかえない。
事は事実上のことを云う、だからこれは、事と理と分けても、事と義と分けても同じことです。

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【元妙信講問題について】 

昭和50年8月1日発行  

発行者 浜中和道  

発行所 日蓮正宗妙縁寺  東京都墨田区吾妻橋2丁目2番地10号

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■ 浅井父子、放浪の軌跡

元妙信講ほ浅井甚兵衛らが中心となって昭和十六年に結成された講中であります。
浅井甚兵衛の教化親は、今は亡くなられましたが白須郁三という方で、この折伏により人信しました。
それは昭和五、六年頃のことでした。
当時、白須氏は、妙光寺の熱心な御信者であられましたので自然に浅井甚兵衛も妙光寺の信徒となりました。
ところが浅井甚兵衛は、事業の失敗から夜逃げにつぐ夜逃げを繰り返し、信心どころのさわぎではなく、ついにその行方は教化親の自素氏でさえもつかむことが出来ない状態になりました。
そのうち、昭和七年に当時の妙光寺御住職有元日仁師の尽力によって豊島区に妙光院(現妙国寺)という教会が設立されました。
それにともなって妙光寺の信徒の幾分かは妙光院に移ることとなり、白須氏も妙光寺を離れ、妙光院の信徒になられました。
そこで白須氏は講頭となり、当時の御住職大石菊寿師と共に、信徒の拡張を計ったのです。
そこで白須氏は、かつて自分が折伏した浅井甚兵衛も立派な信者にしなくくてはと思い八方手を尽して夜逃げ先を当りましたところ、信心活動こそしていませんでしたが退転することなく、妙光寺に所属していた講中の一つである、鈴木作次郎氏の率いる目白講に所属していることがわかりました。
そこで白須氏は浅井甚兵衛の当時の住居が妙光院に近くもあるし、教化親の自分が妙光院の講頭をやっているので、手元において指導した方が長いと考え、妙光院住職大石菊寿師に御相談申し上げ、目白講に頼み込んで、妙光院の信徒にしたのであります。
そこで甚兵衛は御住職の薫陶をうけ、白須氏をはじめ、やはり妙光院の信徒でありました内山ワカ氏等の暖かい指導の下に正宗信徒として成長していったのです。
その功徳により仕事の方もかつてのように夜逃げをしなくてもいいようになり、段々順調にゆくようになってまいりました。
それと同時に教学も種々教わり、又、自分でも勉強し、正宗の法門を少しぐらいは言えるようになりました。
ところが三世変らぬを性というごとく、生まれ待った性格というのは恐しいもので、段々と増上慢と野心があらわれてきました。
そして遂には教化親の自須氏に対しても、〝お前は、教学は私より下だ″とか言って馬鹿にするようになり、聞きかじった法門を自己流にひけらかしては講頭としての自須氏の面目をつぶすような事ばかりをするようになり、妙光院信徒の団結を乱すような行動をとりはじめました。
そして是が非でも講頭の地位を得ようと思い種々の策謀を試みるようになりました。
そこで住職も見過しできず、甚兵衛に対し、仏法の道理を話し、世間法の上からも甚兵衛のとっている行為は不知恩の者であるし、天狗になってはいけないと話しました。
ところが、全身これ増上慢の固りとなっていた甚兵衛は住職の真心こもる指導にも耳をかさず、剰え逆恨みし、住職の悪ロさえ方々に行って吹聴するようになりました。
そこでついに住職もサジを投げ、教化親の白須氏もあきれはててしまいました。
しかし妙光院の信徒は、住職を尊敬し、白須氏のもとに寺院発足の当時より盛り立てて苦労を分ちあった同志でしたので甚兵衛如きが食い込む余地もありませんでしたので、甚兵衛も妙光院の講頭となることをあきらめてプイと妙光院をとび出してしまいました。
そしていつの間にか旧知の縁を辿ってチャッカリと妙光寺の信徒におさまりかえってしまいました。
そこで同志を募り妙信講を結成し、永年の夢であった講頭の地位を確保することができたのです。
しかし当時は、講頭といっても絶大な権力がある訳けで無く、わずか六、七名の平等の力を持つ同志の集りでありました。
しかし念願の講頭という名を手に入れた甚兵衛は色々と手段を試み妙光寺で権力を振うべく努力致しましたが、伝統につちかわれた妙光寺の大先輩達にかなう訳がありません。
炒光寺には当時、蛇窪、三ツ木、大平、独一、統一、正宗本門講、それに新進の自白講という強力な信徒の集団があり、それらを率いる講頭達は昨日今日のポッと出た者と違い信心強盛であり、皆人望の厚い人々でありました。
そこでまたしても、甚兵衛は自分の非力さを知らされ、挫折の念に襲われたのです。

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■ 妙光寺から法道院へ

しかし異常な程、野心の強い甚兵衛は屈することなく妙光寺をとび出し、当時新進気鋭の集団でありました法道院に日をつけたのです。
昔、妙光院時代に世話になった内山ワカ氏が妙光院を離れて法道院の信徒集団である本因妙講に属していたのも渡りに舟でした。
法道院は現総監早瀬尊能師の下に一致団結し広布に邁進しておりました。
そこに甚兵衛達妙信講員十名程が加わることになったのです。
妙信講員一人一人が素質はある人達でありましたので法道院主管も目をかけて教学も手取り足取り指導致しました。
当初は妙信講員もこれに応え、本因妙講、妙道講、実浄講等々ある中で、妙信講の勢力は次第に拡張していったのです。
当時法道院は主管自らも折伏に加わり、在勤しております青年僧侶も、在家の人々と共に勉強しながら折伏へ飛び出していっておりました。
僧侶と信徒と一致団結して地方を廻り、拠点から拠点へと折伏闘争に邁進する中で、実践派としての教学や戦法を妙信講員一人一人も、各講に属する人々も教えられ、身につけていったのです。
そうした中で甚兵衛の息子の昭衛も、はじめ素直に主管及び先輩の指導をきき信心も成長して行きました。
勉強会等でつけた教学力も次策につきこのまま成長すれば立派な信者になると思い主管も大事にしたのです。
ところがいつしか父甚兵衛ゆづりの権力欲、野心までも急激に成長させていってしまいました。
おまけに父親の悪い血をそっくりと引き継いでいますので天才的な嘘つきとなりました。
その天魔のカといいますか、口から鉄砲玉のように出てくる格好のいい言葉や、浪花節かたりも顔負けするハッタリの演技は次第に法道院青年部を魅丁するに至りました。
しかし主管としては、素直に成長してくれているとばかり思っていましたので妙信講の発展にカをかされ、妙信講の発展は法道院の発展と思い各々の講に執らわれることのない法道院信徒団体育成という大義を中心に指導されていたのです。
ところが父子二代に亘る権力欲は実は甚大につちかわれ、浅井父子は法道院などどうでもよく、自分達の妙信講の勢力拡張だけの為に頑張っておりました。
その為に他の講中の面々をライバル視し、他の講中の講頭すら蹴落とそうとしました。
例えば、妙信講の次に勢力をもっていた本因妙講の講頭に対しては、甚兵衛の心酔者であった亡くなった妙信講の某氏を使い、本因妙講の講頭が、当時、法道院で増築していた御宝蔵の責任者であった事に目をつけ、その会計に不信があるとの口実で〝賄賂を業者からもらっているのだろう″とか〝水増し請求書せているのだろう″と下司の勒ぐりともいうべき中傷を加え、失脚をもくろみました。
その本因妙講の講頭は、万人が認める、清廉潔白な方で、主管もその人望を充分御信用なされておりました。
その講頭はもう亡くなられましたが、死ぬまでそのくやしさを忘れることはできませんでした。

 このように特に金に異常なきたなさをみせるのが浅井父子の当時のきわだった特徴でした。
そうして権謀術数をもって妙信講の法道院内部での勢力は増し、法道院七支部の内三つまでも支部長を選出するに至りました。
しかしこれは、浅井のカではなく、それ程妙信講には人材がひしめいていたということです。

それに父に輪をかけた天才昭衛もまだ青年であり、今日の様に浅井あっての妙信講ではありませんでした。
むしろ、副講頭の方達の方がカはあったそうです。

 それらの妙信講の基盤のもとにっいに甚兵衛は、法道院講頭の地位を手中に収め、甚兵衛の妻が婦人部長、昭衛が青年部長という浅井一家の春を迎えたのです。
そこで持って生まれた増上慢を一挙に爆発させたのです。

この頃になると、主役は次第に昭衛に移り、甚兵衛は脇役となってまいりました。
親孝行な昭衛は、甚兵衛の永い間の権力欲と野心を満足させようと頑張りました。

 しかし、法道院は主管の力が絶大であり、いくら逆立ちしても主管には勝てません。
甚兵衛とても主管の御講の説法のあとで、せいぜいその話の内容に嫌味を言うぐらいがせきのやまでした。

 だが腹の中は完全に自分達が偉いという増上慢でいっぱいでした。
その頃の法道院は寺院規模も整っておらず、年々創価学会の折伏活動、自支部の折伏活動でふえる一方の信者の方の収容ですら満足にできないものでした。
会合にしても婚礼の控室にしても、他の法要の控室も全て本堂で行わざるを得ない状態でした。
故に主管はその充実をはかるべく増築を重ね、昭和三十二年に二階の建造を計画されました。
それをきっかけに浅井父子の法道院での権力拡大の策動が始まったのです。

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■ 法道院から妙縁寺へ

 それまでチャンスをうかがっていた父子は、その二階の増築問題にいんねんをつけることによって主管の主導権を奪おうと真向うから対決を挑んでいったのです。
それは増築に当っての会計一切を自分達にゆだねろというのです。
銭に卑しい浅井の考えそうなことですが、それは主管の金銭の用い方に対して露骨に疑ぐる様な態度でした。

僧侶に金をまかせておけないという様な浅井の申し出しに対し、さすがに主管も堪忍袋の尾を切られました。
何故に一信徒が寺院の最高責任者である住職に対し財政問題にロをはさむ必要があったでしょうか。
況や、法道院の発展の為に毎日、血みどろになって戦ってこられた主管の生き方は浅井白身が誰よりもよく知っていた筈です。

 昔信徒の代表達が集って本山に対し御供養の会計報告を求めようとした時に、当時の創価学会会長戸田城聖先生が、信者は御本尊様に対し御供養した金銭について、口をはさむ必要はない。御僧侶が信者の御供養を何んに使おうと、我々が御供養したこととは関係がない。御本尊様に御供姜するという根本精神がかけている〃と一喝され、御供養の精神について話されたことがありましたが、銭に執着る浅井父子は、御供養とは設備投資という感覚に立っておりました。
今日でも身上調査は浅井父子の得意中の得意ですが、その時はそれを露骨に出してきたのです。

 その時、妙信講員五名で主管にその申し出をしましたが主管はさすがに憤慨され、一言も発せずに奥に引き込まれました。しかし翌日、今迄ねちねちと増上慢の行為をちらつかせててきた浅井に対し、ハッキリと僧侶の生き方を申すべく浅井に電話されて、〝自分についてこなけれはそれで結構″という最期通牒をされせした。
そこで増上慢の甚兵衛はいきり立ち、昭衛の天才的な嘘つきの才能がフル回転されたのです。
自講中に対しては、主管があたかも布教を捨てたかのように〝今度、主管が庫裏を増築しようと思い何千万という大金を集めようとしている。今はそんな寺ばかりをよくする時ではなく広宣流布の戦いの方が先ではないか〃と問題点を巧みにすり替えて宣伝し始めました。
その煽動が巧妙であったため何も知らない講員は浅井の説に紛動され、主管をそのような日で見始めたのです。

 その時、甚兵衛の人望だけならば、講員はそうまで紛動されませんでしたが、妙信講の人望ある、幹部までも浅井の説にいいくるめられていた為に法道院講中は、浅井の説に同意を示す者が大半を超えました。
しかし、主管は、知る人ぞ知る、信徒と争う姿をとりたくないとのお考えからあえて一言の弁解もせず、解かる人はわかるであろうとの立場に立たれました。
そのいさぎよい態度を天才的嘘つきの昭衛はかえって利用し卑劣にも小さい頃より慈父として薫陶して下さった恩を一切忘れて、主管の人身攻撃を始めたのです。

 その内容たるや、到底普通の信者の方では想像もつかないような彼一流の卑しい発想に基づく、聞くに耐えない内容でした。
しかも、それらを口づてに自分の部下を使って流させたのです。
昭衛の手口は今日でもなりふりかまいませんが、何んとその当時、甚兵衛、昭衛とも生涯のライバルとして目の敵としていた創価学会の故戸田先生の処までも、主管の人身攻撃を宣伝するために出かけて行ったというから、おそれいります。

 今日、裏で創対連や他派日蓮宗と手を組むという暴挙に及んでいますが、当面の敵をたたくためには手段を選ばず誰とでも手をむすぷという節操の無い態度には、さすがに戸田先生もあきれはて、かえって馬鹿なことを言うんではないとたしなめられた一幕もありました。

それ程までに、飼犬に手をかまれながらも主管は大きな立場から信徒を打つことをされずたえておられました。
事実、浅井父子は、ありとあらゆる策謀の数々試みましたが、主管の人格を信望する者も少なくありませんでした。
結局、浅井の法道院のっとりは失敗におわり、自分が出ていくはめになりましたが、その時は、主管を中心に主管自らが育てあげた講中の大部分をそっくりそのままひきつれていたことは事実でした。

 何しろ行く直前には、子供達までも煽動しようとし、子供の勉強会が終り、いつもの通り本堂の清掃をしようとした子供達に対し〝寺院は信心活動するところだから掃除などしなくていいい”と命ずる程、陰険なものだったのです。

主管は、浅井父子にはまったくにえ湯をのまされましたが、一緒について行った人々の信心さえ離れなければと思い、日淳上人に取り為して妙縁寺への所属替えをお願いしたのです。
日淳上人も度重なる浅井の不祥事をよく御存知でしたので、また妙縁寺でトラブルをおこしてはと思い、ついに単独講中として成立させ、他の講中に害が及ばないようになされました。

 ところで、当時浅井と行を共にした法道院一騎当千の人材は今日、昭衛一家の台頭につれて少しつつ姿を消しつつあります。
即ち、次第に浅井ファミリーの独裁をつよめ、功のあった実力者を次々と、けおとしていって講を私物化していったのです。
とにかく妙光院をふり出しに、いろいろなものを吸収しては太った頃を見計らって外へ飛び出すという寄生虫のような生命をもつ浅井父子でした。

ところで妙縁寺所属の講中として認可の席上、当時総監であらせられた現法主上人猊下(※日達上人)も同座され、庶務部長であられた現総監の御主管も同座されて、指導教師は、当時妙縁寺任職であった松本、そして法道院主管の二名を日淳上人は付されました。
それは法道院主管の深い慈悲と、松本一人ではどうにもならないと見透された日淳上人のお考えによったものです。

 しかるに浅井等は日淳上人の御指示を勝手に曲げ、自講中に対して、松本一人が指導教師になった旨を告げて、主管との問題で真実がばれるのをふせぐ為に、法道院と妙信講を完全に切り離したのであります。

このように、自分の野心に都合の悪いことは猊下のお言葉や御指南であっても勝手に曲げたてかくしたりする一方、都合のよいことだけをとり出して講中支配の具として用いるという性癖は当時からの常とう手段でありました。

今日、猊下の御内意をねつ造したり経過や御指南を曲げているのも、何も今更はじまったことではないわけであります。

 このようにして、いつわりをもって講中をあぎむき
自分達の主導権を確立するためには講員を僧侶及び宗門と完全に隔離する必要があります。
その上で、自分達をば猊下の直命を受けた指導者の如く振舞う必要があります。
もちろん他の法華講中の影響を受けて、真相がばれ、自分達の主導権がゆらぐおそれがあります。

かくて浅井父子は、寺院及び他の講中との隔離を完全に行うとともに、自己の神格化につとめました。
そのために邪魔になる法道院以来の有力な指導者を次々とおとし入れ、排除しました。

 と同時に、みずから指導教師のごとく振舞い、その権威をうらづけるために〝妙光寺の中島師に教学を教わった。
中島師は管長代理をしていた人であり、従って相伝の内容も知っておられた
″なとと猊下の御相伝云々にまで及んだのであります。

 後日、学会幹部と対決の際、浅井昭衛は、〝猊下の御指南が間違っているという根拠を示せ″と問いつめられて、〝自分は中島師から御相伝の内容を開いて全部知っているから間違いがわかる″と述べたそうであります。
このことの証人も証拠も厳然と存在するということです。

 とにかく日蓮正宗の歴史も猊座も、他の信徒の信仰もすべて眼中になく、ただただ自分達の勢力を増し、主導権をにぎろうという野心一色から宗内を思う存分かく乱し、身勝手をしてきたのが浅井父子であったわけであります。

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法華講連合会に攻撃を開始

 このような経緯でスタートしたものですから、先行き混乱をまきおこすことは目にみえていました。
もっともしばらくの間は、だれもが君子危きに近寄らずとばかり無視し、取り合わずにいたものですから表面化しませんでした。

 その後、浅井父子は、宗門・法華講とはほとんど没交渉に、創価学会の組織と活動の形式をまねて取り入れ、勢力拡大に専念しました。
即ち、青年部を設けて浅井昭衛が青年部長になり、又、学会数学部をまねて研修部をつくり、つい最近までは、学会歌を会合のたびに歌っていたのであります。
そして、いつの間にか規約もつくりかえ、浅井父子の独裁体制をつくり講中を家来の如く支配しました。
宗門にことわりなく財務や機関紙の運営を行いました。
宗制宗規によれば、法華講支部ならば当然寺院に事務所を置くべきところを、勝手に自宅を本部にしてしまい、住所を移してしまいました。
組織もかってに作りかえ、後には〝理事長″なとという役職をつくって昭衛がおさまりました。
このように、形式的には学会の方式を猿真似のように取り入れながら、学会そのものに対しては、異常なまでの敵愾心と反感をもやしていました。

元妙信講関係者と接触のあった法華講、学会関係者は、口をそろえ、彼らが、〝いまに学会にとってかわって自分達が主導権を握る″と言っていたと証言します。
ことに、戸田前会長が亡くなった後は、〝これで学会も頭うちか後退だ。いよいよ自分達の番だ〃とさかんに言っていたそうです。

 元妙信講のもう一つの特色は、宗門、寺院に対して極めて冷淡であり、その介入を極度に嫌っているということであります。
浅井の論理は、〝僧侶は墜落しているし教学力もなく、信心の指導は出来ない。
講中は僧侶、寺院と切りはて、自分達だけで指導し「純粋培養」しなければ伸びないというもので、そのとおりに実践していました。

松本日仁などは、指導教師でありながら、ていよく祭り上げられて講中の運営・指導には何の発言権もなかったことは周知の事実です。
又、〝宗門がお金をもてば墜落する″と称して、宗門を支えるための御供養ということをほとんど行いませんでした。
宗門が信者の外護なくしては運営できないことは。百も承知していながら、浅井父子は、寺院の建設・維持は学会や法華講におしつけて、自分は日蓮正宗という名分だけを利用して将来の野心のために勢力拡大だけにひたすらまい進していたのであります。
これは、同じ独自の運営形式をとりながら、創価学会が小さ々集団のうちから総本山外護のため、自分達のことはなげうっても〝登山会〃等を運営して宗門の維持運営に誠を尽したのとは極めて対照的であります。

 宗門・僧侶を除外し、法華講を軽蔑し、そして学会に対しては敵愾心をもやしていつかは引きずり下そうという野心をむき出しにしていた元妙信講に対して、宗門も、法華講も、もちろん学会も、正直言って変にかかわり合うことをさけ、取り合わず無視して来ました。

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■  故平沢委員長の日記!

 ところが、昭和三十八年、宗門の方針により、各寺院ごとにある法華講支部を統合して連合会をつくり、
登山会をはじめ、諸々の信徒の活動を統括することになったとき、元妙信講の動きが再び問題化しました。

故平沢委員長はじめ連合会幹部が、元妙信講に対し、連合会に合流するように促したのに対し、浅井父子はかたくなに拒んで勝手な行動をとりつづけたのであります。
宗門としても、元妙信講が浅井父子の誤った指導方針で、正しい信心の道をはずれて行くことを危惧し、連合会傘下におさめて正しい信心指導をすることを要望していました。
従って、故平沢委員長らは浅井父子の説得に、大変な努力をしたのであります。
 これに対し浅井父子は、まるでエゴむき出しの手前勝手な理屈をこねて抵抗し、法華講内を混乱させつづけました。

 ここに、当時のいきさつを物静る重要な証拠として、故平沢益吉連合会委員長の日記風メモ帳があります。
宗務院ならびに御遺族の許可をいただいて、元妙信講に対する部分を一部掲載します。
 (注・メモ帳の掲載文中、○になっている伏字は、原本の判断不可能な箇所です。編集部)

 故平沢益吉委員長のメモ帳より

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 妙信講問題

 三九年三月下旬、袴田、本多、鶴見三君、浅井甚兵衛宅を訪問。

 五月三日小島富五郎、名和郁郎両君、再び浅井宅を訪問。

 浅井昭衛の連合会に対する批判

一 連合会は一昨年八月結成当時と同様に単一講中の連合体で国際連合と同じである。
  (時代の変遷を知らず現段階の実情を何等解せず。)
二、従って連合会の打出した指示方針に対してはすべてを受け入れると言う事は出来ない。
 イ 御本尊下附願は受け入れられる。
 ロ 総登山は受け入れられない場合もあり、体育大会等は受け入れられない。

三、連合会に迄入ってどれだけの+の面があるか。
 程度の低い者達とは一緒になれない。

四、運営の面に於ても未熟である単一講中を引集ってゆくべきもので妙信講とは違う。

五、会長には指導権はない。右か定かは論議されて決定すべきである。

六、登山御開扉が出来なければ、妙信講は三門の前で拝して帰る。          

 破折
                
① 連合会は毫(すこし)も主権を侵害せず。
② 連合会の規約のもとに指示を守れと言うのである。

③ 広宣流布の大願成就という大聖人の御遺命達成を目的として、ひたすら大御本尊様を中心に法主猊下の命ずるままに異体同心のもと大きく団結して広布への戦を進めるものであって各講中は、その目的は一である。従って各自利害を異にした単一体の集りではない。
妙信講は之を理解する能力がない。連合会は自分自らの主権を冒?し、自らを異物的存在ならしめんとしておる実情を反省せしめんとするにほかならない。

④ 未熟な講があるならば、大きな手を展げて之を援助者成し、広宣流布への同志を強固にしてやるべきで、之こそ異体同心の誠をつくしたと言うのである。独善的に鎖国的に更に亦、排他的行動はゆるさるべきではない。

⑤ 会長は昨年、会長御任命以来少なくとも法華講を連合会に総括し大きな団結として誘導指導すべきものと信じている。

⑥ 一、二の講指導者の私見偏見によって多数の講員を不幸にし、まどわす者と考える。

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 妙信講問題

 三九年七月二二月午後二時

 妙信講浅井昭衛君来訪六時まで頑張る。
曰く、行政上の問題から御開扉を差しとめるとは権力乱用だ。

 余は「さに非ず」一妙信講の勝手な振舞を、これ以上我慢する事は出来ない。連合会に、すべて全面的に協力すべきである。然るに今迄の連合会の行事に対する行為はすべて反協力的ではないか。先日の理事会の後でも日曜日一杯に(既に九日を過ぎた今日まで)回答する約束であるにも係らず今日まで回答がないではないか。尚○○は登山の諸事項は決
定されて各支部登山部長に連絡済みてある。

 彼曰く、協力の限界を考慮して貰へまいか、即ち、御供養とか、登山とかは会長の言はれる通りにして猊下への御奉公はするが、其他の事は講頭以下三~四名が代表して参加することで認めて貰いたい。末端の者を色々な行事に出したり、青年部を連合会の青年部へ参加させる事は切角大きく前進しておる講中に動揺を来たすので妙信講の指導訓練はこのままにして貰いたい。弱小の講中の指導訓練は連合会でやって貰いたい。

 余は彼の勝手な希望に対し総体的に反ばくし、かかる事は応ずる事が出来ぬ。全面的の協力以外にはない。吾々は本当に異体同心の実を以て広布へ前進する責任がある。自分達の講中だけが思ふままに前進し、他の講中の後れておるものの面倒は連合会の他のものの(特に幹部の)仕事にして貰いたい等と言う事は、連合会の根本精神に反する。

 彼曰く、連合会のことを忠実にやれば前進は出来ない。本行寺辺りはこの意味で折伏等が退歩しておる。だから妙信講の特別事情を許して貰いたい。

 余日く、連合会中に於て特別事情を許した上での協力を認める等とはもっての外である。ある場合場合に即して理事会が納得、承認した場合ならともかく、全面的協力でなければならない。然る上に於て自ら八月総登山の事も解決し、連合会の意義も法華講の意義も共に○解されるのである。

 彼曰く、全面協力は即ち無条件降伏である。それでは妙信講講員に破たんを来たす因をなす。だから条件を認めた上での協力と言う事に願いたい。

 余曰く、何回も言っておる通り、ある条件を認めての協力を以て許容する事は、全連合会の組織の動揺を釆たすもとであるが故に全面的に連合会の一員として参加する事にふみ込んで呉れぬ限り何処まで話しても時間をとるばかりで無駄であるから之で打切りにしたい。

 最後に彼は執拗に「浅井が宗務院に向って御開扉をお願いしようとする場合に会長は妨害するか」と
問いつめてきたのに対し、余は連合会の総登山をおいて御開扉をお許しになる様な事はあり得ないし亦、絶対にないと確信する故に妨害する事など○へない。

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 妙信講問題

 三九年七月二七日

 午後二時妙縁寺御住職松本御能化、妙信講浅井父子の三名、私宅を訪問さる。

父子曰く、今迄の事は全部何も言はずに、

一、唯これからは妙信講は連合会に協力しよう。

二、八月登山を認めて貰いたい。以上、之が為に頭を下げて来た。

 併し話の内に数々本音が出て釆て、御供養や登山は連合会の方針に従って猊下に御奉公をする。連合会大会とか体育大会等の連合会の行事には妙信講の末端員を動員することほやめて四~五名の代表者を出すことで認めて貰いたい。妙信講青年部を連合会青年部と共に活動させる事は困るから之も除外して欲しい等々。

 依って余は彼等の言う連合会へ全面的協力なる事は甚だ疑はしいので緊急に臨時理事会を開き検討して決すべしと申し渡す。

 備考

 二七日の会談中の一こま
純信な妙信講員は権力によって登山を差しとめられたならば、血気さかっておる講員はいきり立って血を見る様な事態が起こらぬとも限らぬ」(浅井講頭の発言)

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 三九年七月三十日午後六時より妙縁寺にて緊急臨時理事会開催。
 満場一致、次の如ぎ決議を行ふ。

 決議事項

一、今後無条件で東京地区連合会の組織信心活動に従はなければ登山等の問題は受け合う事は出来ない。
二、現在の講頭及中核の幹部が前非を悔いて反省するならば妙信講に対しては連合会は何等他意なき事を附言する。
                  以上

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 出席理事会部署名捺印を行ふ。之を書面としで妙信講浅井甚兵衛講頭並びに妙縁寺住職、法道院主管に発送することに決す。

 通常連合会理事会

 妙信講問題

 七月三十日妙縁寺に於ける緊急理事会の決議事項が発せられてから浅井父子は、妙縁寺住職松本尊能化と共に登山、猊下にお目通りし、八月総登山日以外の日に登山を懇願した様子なるも猊下は『法華講の決定された以外の日の登山は許さず、今後全面的に連合会に協力して連合会の登山に登山する様、会長に頼みなさい』とのお話があった。
(猊下より電話で「今浅井等三名が登山して会ったが、数回に亘り全面的に連合会に協力せよと言うてあるから八月の法華講登山日に妙信講も一緒に登山させてやってほしい。万が一、今後非協力な事があったら、その時はわしはロをきく様な事はせぬから会長の権限のもとに処理したらよかろう」とのお言葉があった。更に「理事も今一人しか出ていない
様だから之を増して共に進んで貰いたいとお付け加えになった。」)(念のために記載しておく)

 八月の総登山も無事故完了したので妙信講の処遇について協議。妙信講は全面的に協力する事に決したので役員増加をしたいとの議案を○出した所、役員間に色々の反論等あり、妙信講浅井父子から亦いつもの通りの妙信講の特殊性?(父子曰く、日淳上人より現猊下、総監列席の所で折伏の講中として日蓮正宗法華講妙信講支部として他の講中とは異なった独自の立場で認証されて出発した)を振りかざして譲らず、理事を三名にせよと要求(註、東京地区連は内規に於て大寺は理事三名、他は一名の理事とされ、妙縁寺は既に、佐藤、山本、浅井の三名選出さる)結局会長一任となる。依って会長としての腹案として妙信講より理事二名幹事二名を出したらという案を出し、更に検討する事にした所、浅井父子はあくまで自分等の特殊性をかざして大寺なみの三名を固執してやまぬ為、会長としては妙信講の性格等につき浅井父子の言う点につきスッキリせぬ点があるため、一応宗務院に問い合す必要ありとて回答をみるまで留保する事にする。

 後で浅井甚兵衛氏の挨拶あり。

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 昭和三九年九月十六日附(公文書)
   宗務院庶務部長 早瀬道応
 法華講全国連合会会長 平沢益吉殿

 九月十四日付書翰拝見いたし妙信講の件について左の通り御回答申し上げます。

    記

一、本宗においては「おあづけ講中」という制度はありません。
二、本宗ではすべての講中が寺院に所属しており、妙信講は現在妙縁寺所属の講中と認めております。
三、他の法華講支部と異っていません。本宗にあってはすべての講中を平等に取扱っております。
四、宗制に則った講中として認めております。
                以上
三九年九月二四日 臨時役員会(理事会)

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 常泉寺に於て行う。浅井父子、佐藤等出席。公文書により協議。

 今迄松本能化は指導教師であるとは言っていたが、妙縁寺所属であるとは遂に言った事がないが公文書の手前妙縁寺に所属すると称するに至ったにも係らず尚妙縁寺支部の法華講ではない独立した法華講支部であるとの矛盾した説をとなえ、あくまで他の法華講とは異なると言い、現在の妙縁寺法華講支部とは一緒にはやれぬと議事進行に協力せず初め○○題は一時間で解決する予定なりしも遂に二時間に近くなり、結局何時も同じ様に初めに戻っては同じ事を繰り返し、何等浅井父子は問題の前進或いは和協の誠意なく、徒らに時間を遅延しているにすぎざる事を認め、玄に、連合会と妙信講は今迄の数回に亘る会議も効なく浅井父子の不誠意のため、妙信講は浅井父子のもとに連合会に参加せぎる団体であ
り、連合会は浅井父子の率いる妙信講を含まざる全国法華講支部を網羅した法華衆の大集団である事を確認して閉会する。


 このメモ帳の克明な記録をみれば、当時の浅井父子の身勝手な行動は、一目瞭然であります。

 その中にもあるように、〝いつも同じ様に初めにもどっては同じことをくりかえし、問題の進展、前進或いは和協の誠意なく徒らに時間を遅延する〃というのが浅井父子のいう「論議」であり、自分の主張は絶対ゆずらず強情にしつこく練りかえし、一たん話合いの
ついたこともむしかえして、相手を辟易させることを常とう手段とすることは、今日も変っておりません。

又、興味深いのは、〝血気にさかっておる講員はいきり立って血を見るような事態が起らぬとも限らぬ″
(三九年七月二七日備考)という浅井の発言です。

”云い分をとおさなければ、集団暴力を振るうぞ″というのは、一貫して用いられたおどし文句でした。
そのあげく、学会本部になぐりこんだわけです。
この、暴力団まがいの〝最後には血をみるぞ″という、文句が、元妙信講の体質のすぺてを物語るものです。

このような、暴力を背景にした圧力と横車に対し、毅然として戦い抜いたのが、故平沢委員長でありました。
これに対し、浅井父子は、卑劣な個人攻撃をはじめたのです。

昭和四十年三月、浅井甚兵衛は猊下に対し、嘆願書を提出しましたが、その中で故平沢委員長のことを、〝信仰の確信もない指導者であり、こんな者の指導を受けられない〝等と中傷攻撃しました。
これに対し、さすがの猊下もあきれはてて、.この嘆願書をつきかえされました。
この経過についても、メモ帳には、次のように記録されています。


  妙信講に関して

 昭和四十年七月三一日
             日蓮正宗宗務院
 法華講全国連合会会長 平沢益吉殿

今般、先に妙信講講頭浅井甚兵衛氏より法主上人猊下へ提出せられた欺願書について七月三十日院議を催した結果、本日附を以て別紙書簡(写)と共に嘆願書を浅井氏宛に返却いたしましたから御了承下さい。
右御通知いたします。      以上
  (別紙書簡(写))
 昭和四十年七月三一日
        日蓮正宗総監 柿沼広澄
 妙信講講頭 浅井甚兵衛殿

 今般七月三十日宗務院において貴講中の件について院議を開催し、種々検討いたしました結果、去る三月八日付にて法主上人へ御提出の嘆願書を左の理由によって返却いたします。

     記
一、法主上人猊下に対し奉る嘆願書としては、その言辞に甚だ不穏当の点があること。
 (法主上人の御任命せられた連合会長を、「信仰の確信もなき指導者」として嘲弄されているが、これは法主上人を侮辱する言辞である。)
二、貴講中に関する宗務院の見解は、去る三十九年九月十六日付の連合会長宛の回答と変りはない。

三、法華講連合会は宗制宗規に則った日蓮正宗法華講であり、而して法主上人御認証せられた規約によって法華講の一本化による発展を期して運営せられている。従って連合会の活動と運営とは宗門の基本方針である。貴講中は、この宗門の基本方針たる連合会に当然加入して、その発展に協力せらるぺきであるが、若し、あくまでも連合会への加入を拒むならば妙縁寺所属の一単独講中として運営すればよろしいと思ふ。     以上

 (この文書の控は、宗務院に現存します)


 とにかく、自分達のエゴのために横車を押し、容れられなければ暴力をちらつかせてしつこくくい下り、当面の相手に対しては、文書配布をはじめあらゆる方法で個人攻撃をする、デマや歪曲の宣伝をくりかえす、というやり方は、この頃から一貫していたことが
明らかであります。

こうした元妙信講のやり方が、法華講及び檀信徒の本来のあり方から、大きく逸脱していることは云うまでもありません。
ちなみに、六十五世堀米日淳猊下は、講中の弊害について

「何故かといふならば講中は形式に於て宗務院より認められた公の団体であり直接辞令を受けますから稍ともすると全く独立したものの如く考へて其の行動は他から制肘を受けることなく自由なものと解されるのであります。
其れ故地方教師の指揮は一向に重ぜられないやうになり甚しきは末寺を無視するやうな態度になるのであります。

 此れは講頭が教師であるといふ誤解から認可の場合宗務院からの辞令が直接の関係を生じたものの如く思はしめるからでありませう。
此処に後者の関係に就いて一言しなければならないのであります。
昔は講中に対し本山より辞令が出づるのは一切内事部の取扱ひであったと聞きますから其の場合は本山との関係は直接であったと考へられます。
しかし現在では宗務院扱でありますから講中なるものは認可によって決して直接関係が生ずるものでほありません。
必らず、末寺を差し挟んでの関係であります。
更に宗務院との間もそれと同じであります。比のことは申請の手続を見れば一目瞭然たるものであります。
それならば何故に講中が存在し之を公に認可するのであるかが又問題となるのであります。
 当門には講中制度に対する具足した制度はないのであります。
唯従来の習慣の上よりする不文律でやってゆくのであります。
従って是々と規定された講中の機能と取扱ひはありません。
それならばどういふ訳で講中ををいてきたかは私は知りませんが而し唯私一個の考へは最初に述べた通りであります。
或る論者は講中をもって無意義であるとして無用論を唱ふるものもあります。
又一歩進んで却て講中の存在するが為に幣害
のみ生ずるといふ講中有害論者もあります。けれども講中なるものは最初から宗門に或る政治的の意味目的をもって進んできたものでなく信仰本来の要求からきたものであると考へますから別に特種の権利が認められる必要がないと思ひます。
若し要求するならば誤っておるといへませう。…… 
 以上によっても講中が末寺を放れた独立団体でなく必らず附属したものである管であります。
故に又末寺に監督の養務があるのでありますから本来は講中はその内規から仕事まで一々末寺教師に相談すべきであります。

 已上講中制度に就いて一言したのでありますが、繰り返していへば講中は本来信仰上大きな意義と価値とをもってゐますが自体功利的でないものを稍々もすると誤て用い易いのであります。」

と述べられて厳にいましめられております。

暴力を背景に横車の押しっ放しでやってきた元妙信講の行動は、どの一つをとっても、この禁にふれていることはだれの目にもあきらかであります。


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■ 聖人展問題について

ともあれ、元妙信講は結局は連合会から勝手にとび出してしまい、独自の行動をするようになったものであり、このかぎりで法華講とも学会とも無関係な存在になったのであります。

 その後、元妙信講は、自分勝手に振舞っていましたが、登山をしたいためにいろいろと各方面に泣きついてきましたので、総講頭が気の毒に思ってとりなし、昭和四十四年二月やっり上登山がかないました。
この元妙信講登山の折、宿坊につかった大化城の御本尊が紛失するという、前代未聞の事件がありました。
これについて、宗門及び連合会の調査の仕方が気に入らないといって、またまた浅井父子はかみつきました。
そのごたごたがつづいている間に、今度は聖人展問題をとり上げてきたわけです。

ここで、浅井父子の闘争相手は、連合会から宗務院に切りかえられ、以後宗務院に対してゆさぷりをかけつづけるのです。

昭和四十四年五月七日から二十一日にかけて、池袋東武百貨店において、毎日新聞社主催による「日蓮聖人展」が開催されました。
これには、総本山より御真筆の御書および日興上人画像等、計七点が出品されました。

 これに対し、当時妙信講浅井甚兵衛、昭衛父子は、「謗法与同である」と見当はずれな言いがかりをつけ、しかもこれを学会がやらせたのであり、猊下に無断で宗務院と結託してやったものだ、とのストーリーをデッチ上げて学会攻撃の口火を切る手がかりとしたのです。
これがいかに不当ないいがかりであり、ため
にする攻撃であったかは、以下に述べる真相を知れば明らかになります。

 まず、この聖人展開催に先立ち、主催者より文化庁関係者をとおして、学会の辻総務室長に開催の趣旨と、総本山所有で重要文化財に指定されている御真筆の出展依頼が伝えられました。
宗務院で検討し、猊下にお伺い申し上げた結果、重要文化財となっているものは、それ故に既に社会的な存在であるから、重文指定の御真筆御書ハ点について出展して宜しいとの御許しをいただいたのであります。

 この旨を、文化庁関係者をとおして主催者に回答したわけですが、この文化庁関係者が総本山所有の御真筆御書の重要文化財指定を受ける際立会った人物であり、その際、日興上人の御影像を見て大変立派なものであると賞嘆しておりました。
そして、その時の記憶がよほど印象づけられていたらしく、回答の直後に、わざわざ阿部教学部長に電話をかけて来て、出展の礼を述べるとともに、この際日興上人御影像も併せて出展してほしいとたって懇望したのであります。
猊下にお伺い申し上げたところ、これも出展してよろしいとの御返事でありましたので、併せて聖人展に出展することに決ったのであります。

このように学会がやったことでもなければ宗務院が勝手に処理したことでもありません。ことに、御影像については学会は何ら関与していないことは明らかであります。

 ところが、この聖人展に対し浅井父子は謗法与同であるとして文句を言って来ました。そして、学会がやらせたのだろうとさかんに言い立てはじめたのであります。
そこで浅井父子に対し、宗務院から事情を説明し、ことに御真筆御書については重要文化財でもあってこうした催に対してむげにことわれない性質のものであることをよく伝えたところ、御書についてはあまり言わなくなって御影像について更にうるさくくい下って釆たのであります。

 浅井父子が余り執拗に言いはるので、同年五月三十日、総本山大奥応接室で長老会議を開き、対処の方法を協議しました。
午前八時十五分から九時すぎまでの間、開かれたこの会議には、御法主上人猊下、早瀬総監、佐藤重役の他、高野日深、漆畑日広、松本日仁の各能化、柿沼学林長、阿部教学部長、及び藤本庶務部長の九名が出席し、種々討議の結果次のように決定しました。

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① 既に重要文化財として世に出されているものであり、七百年間正義を守ってきたことを示すものとして、むしろ正法顕揚のために必要なこととして出した。
又、陳列の仕方も妥当であった。
以上をもって謗法与同でないことを確認した。
開山上人当時は、草創時代であるが故に峻厳さを必要としたが九世日有上人の頃は既に大分丸やかになっている。
日興上人当時のものをそのまま持って来ては今日には通じない。
或程度の丸やかさは認めて行かねばならぬ。 
          ′
② 展示会に出す前に、宗務院から長老に連絡してなかったことを遺憾とする。
宗内だけで独自に展示会を開ければそれに越したことはないが、まだそこまでは至らぬ

③ 妙信講浅井甚兵衛父子が、これを謗法与同として攻撃している。
展示期間中に宗務院として面談したが平行線を辿り、合意に達しなかった。
これをこのまま放置すれば、宗門と袂を分ち完器講の如き存在となってしまうことを憂うる。

 (註、完器講とは、もと日蓮正宗の手中であったが教義を自己流に解して次第に宗門より離れていった講中)
 
④ 浅井父子の問題解決については宗務院は立場があるので加わらず松本師(指導教師)を中心として柿沼学林長、千種支院長、以上三人で説得に当ること。

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 以上が猊下御臨席の上で開かれた宗門長老会議の正式決定内容です。
これは宗務院に保存されている議事録に記録されているものをそのまま公表したものです。
聖人展が決して謗法与同でないこと、浅井父子に対しては極端な行為に走らぬようにとの配慮をしながら包容してあげようとの宗門の暖かい心づかいがあきらかになっております。

 注目すべきことは、この長老会議には後に浅井にたぶらかされて濱斥処分された松本日仁も能化の一人として出席し、内容を確認し、決定に参加していることであります。
他の出席者達の記憶では、何ら反対意見も述べず、にこやかに賛成し、浅井父子の説得を引受けたということです。
従って松本日仁に良心のかけらでもあれば、聖人展云々とか、学会の圧力で云々などと白々しいことは口が曲っても云えた筋合いではありません。
しかるに今日、浅井父子の尻馬にのって、し
ゃあしゃあとウソに加担しているのですから人間の風上におけません。

 この長老会議の決定にもとずいて、いろいろと浅井父子を説得しましたが言うことを聞かず、平行線になっているうちに、今度は戒壇云々の問題に移って来たのであります。

このような経過からは、どこをついても〝学会の圧力云々〝は出て来ないはずです。
又、御宝蔵の鍵は、猊下が保管なされているものであり、宗務院が勝手にできるはずもありません。
それを知っていながら、浅井父子は、なぜ〝学会、学会″というのか。
そこに、元妙信講の一連の行動に一貫する野心の本質があらわれているるのです。

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宗門、学会にむけて攻撃を開始

宗務院としても、こんなやっかいな扱いにくい相手にふりまわされてはかなわないので寄せつけない姿勢でいましたところ、浅井父子も何となく黙ってしまいました。
そうこうしているうちに例の言論問題が勃発しました。

浅井父子は、いよいよチャンス到来とばかり、ここぞとばかりに火の手をあげました。
これが、今回の国立戒壇問題のはじまりであります。

戦後、創価学会の折伏活動により宗門は正に驚異的な発展をとげてきましたが、これに対する邪宗教ならびにこれと結ぶ各種勢力の妨害もまたすさまじいものであり£した。

 ことに、昭和四十四年の総選挙で、公明党は一挙に四十七議席を獲得し、世間の耳目を集めましたが、その結果”学会おそるぺしこのままでいけば日本中がやがて学会員になってしまうのではないか〃との危機感が各方面に浸透していました。
こうした情況下で、藤原弘達の出した学会批判の出版物の取扱いをめぐり、いわゆる〝言論問題〃が惹起されたのであります。

 これには、総選挙の対立関係が反映され、共産党を先頭に各政党が創価学会・公明党を、袋だたきにする形となり、マスコミからも集中攻撃を受け、宗門は重大な危機におち入ったのであります。

これを切り抜けるため、宗門と学会は一致団結して全力をつくして当ったのであります。

 当時、病いをおして宗門を代表して世間の攻撃を一身に受け、失おもてに立っていた池田総講頭の苦労は大変なものでした。
宗門でも事態の深刻さを認識し、猊下御自ら、いろいろと指揮され、応戦なされたのであります。

 言論間題の際の推移は、当時くわしく報道されました。
さらに詳細ははぶきますが、結局のところ、藤原弘達問題は単なる引きがねにすぎず、敵対勢力のねらいは次第に宗門、学会のあり方そのものにあることが次第にはっきりしてまいりました。
 そして、国会でも〝国立戒壇〃をふくめ宗門、学会そのものが攻撃されるという事態に立ち至ったのであります。

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  正本堂の意義は当初から明白

 こうした中で、世間の誤解をとくため、四十五年五月三日、創価学会本部給会の席上で猊下みずから、国立戒壇を否定する御説法(資料1)をなさったのであります。
又、文化庁から創価学会に宛てた照会状に対し、猊下の御裁決をいただいた上で創価学会より回答文を出すに至ったのであります。

 国立戒壇を今日主張することが妥当でないことは、既に昭和三十九年頃より、関係者の間で論議されておりました。
ことに、昭和四十年二月十六日、第一回正本堂建設委員会の席上、御法主上人猊下より次のような重大な御説法がありました。

「大聖人より日興上人への二箇の相承に『国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるぺきなり』とおおせでありますが、これはその根源において、戒壇建立が目的であることを示されたもので、広宣流布達成のためへの偉大なるご遺訓であります。
これについて一般の見解では、本門寺のなかに戒壇堂を設けることであると思っているが、これは間違いであります。
堂宇のなかのひとつに戒壇堂を設けるとか、あるいは大きな寺院のなかのひとつに戒壇堂を設けるというのは、小乗教等の戒律です。
 小乗や迹門の戒壇では、そうでありましたが、末法の戒律は題目の信仰が、すなわち戒を受持することであります。
よって大御本尊のおわします堂が、そのまま戒壇であります。したがって、大本門寺建立の戒も、戒壇の御本尊は特別な戒壇堂ではなく、本堂にご安置申し上げるぺきであります。
それゆえ、首六箇妙には『三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり』と大聖人のお言葉が、はっきりご相伝あそばされ
ております。
 また同じ百六箇抄の付文に『日興嫡嫡相承の曼荼羅を以って本堂の正本尊と為す可きなり』と、こう明らかにされでおるのでございます。

 したがって、その曼荼羅を現在では大石寺の本堂にご安置することが、もっともふさわしいと思うわけであります。
戒壇の大御本尊は大聖入ご在世当時、また日興上人がいらした当時、身延山で本堂に安置されていたものであります。
また当時は大聖人のおいでになるところが本堂であり、ご入滅後は御本尊のおわしますところが本堂となってきたものであります。
そして本堂で御本尊に信者が参拝したのであり大聖人ご在世当時、身延へ参拝しにきたのは信者だけですから、だれでも直接に御本尊を拝めたのです。
したがって今日では、戒壇の御本尊を正本堂に安置申し上げ、これを参拝することが正しいことになります。
ただし末法の今日、まだ謗法の人が多いので、広宣流布の暁をもって公開中し上げるのであります。
ゆえに正本堂とはいっても、おしまいしてある意義から、御開扉等の仕方はいままでと同じであります。
したがって形式のうえからいっても、正本堂の中でも須弥壇は、蔵の中に安置申し上げる形になると思うのでございます。」

これは、だれが読んでもあきらかな如ぐ、「大石寺の本堂たる正本堂が、本門寺の戒壇堂たるべき建物である。但し、広宣流布達成とみられる段階に至るまで、蔵の形式をとっておく」ということであります。
このことは、後に発表された解釈によっても証明されますし、それ以後の御指南、訓諭も終始一貫してこの路線であります。

 ここに、御遺命の戒壇は民衆立である正本堂以外にあり得ないことを猊下は明白に御宣言なさっているのであります。

 正本堂の御供養は、この御説法をふまえて趣旨徹底された上で、又、趣意書等もつくられ、公明正大に行われました。
このことは、浅井父子も元妙信講の人達も知っています。
そして、浅井父子も、当時の元妙信講員も知った上で御供養に参加しているのです。
それも、当時、法華講連合会との間のトラブルからいろいろ字余曲折を経た上で受理されました。

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 言論問題を契機に

 その後も昭和四十五年に至るまで正本堂こそが御遺命の戒壇堂たるべき建物(事実上ないし事実上の戒壇建立といういい方で)であることは、数えきれないほど多くの機会に公表されています。

 昭和四十五年五月三日の猊下の御説法も、先の文化庁に対する回答もこれをふまえてなされたものであることはいうまでもありません。

 ところが、浅井らは、その間、何も云いませんでした。
自分達も御供養に参加し、五年間見てみぬふりをしていました。
 そこに言論問題がおこりました。
現に、昭和四十四年夏頃より、〝今のうちに学会・公明党をたたこう″という権力側の内密の陰謀などももれていた矢先のことでもあります。

その弾圧の口実としての政教一致であり、憲法違反であるとか、国立戒壇等違憲を目的とする政党の非合法化(共産党などを含む)とかが、ささやかれておりました。
この情報は、後に事件が公になったとき、経過から真実であることが証明されたといえましょう。
即ちまさに、″国立戒壇〃云々が国会等で俎上にのせられたのであります。

 このような時をねらって〝今がチャンス″と元妙信講は行勤をおこしました。
それも、ことさら五年間だまってみていた戒壇問題を口実にとりあげ〝国立戒壇〃を宗門の公論として天下に宣言せよ、しからずんば実力行使するぞという、まさしくタイムリーな攻撃をねらって来たのであります。

 宗門としては前に述ぺたとおり現に昭和四十年頃より国立戒壇ではないという路線をしいています。
これでは、他党や邪宗も攻撃の糸口がありませんので、何とか宗門に国立戒壇をいわせて、そして、これを攻撃しようという作戦でした。
これと内外相呼応するかの如く、宗門から〝国立戒壇〟をいわせるべくのろしをあげる -―― そこに何らかの符合を感じないわけにはいきません。

 既に昭和四十年当時より、正本堂の意義を猊下みずから宣言され御供養も募っているのです。
これを、今さらかえることは大変な社会問題となり、宗門はそれこそ壊滅的な打撃を受けることは必定です。
それを承知でことをかまえてきたということは、宗門が壊滅し、大聖人の御遺命が虚妄になるような事態がおころうと自分達の勢力が拡大し、宗門で指導権がとれさえすれば一向にかまわないという露骨な野心とエゴがむき出しにされているとしか云いようがないのです。

 このような元妙信講の行動に対し、だれよりも猊下が御心労なされたのであります。
当時、宗門・学会攻撃のキャンペーンをはっていた「赤旗」は早速元妙信講の話にとびつき大々的にとり上げました。
猊下はその当時、既に浅井の野心と危険な性格を見抜かれており、そのことを側近の方にもらしておられます。
しかし、池田会長をはじめ学会が宗門を守るためおもてに立って世間の攻撃と必死にたたかっていることを御承知であっただけに、宗門からのかかる問題が悪影響を及ばすことをおそれられて、ここは何としても穏便におさめなくてはならぬと決意され、自ら浅井父子の説得に全力をつくされたのであります。

 ところが、浅井父子らは、もとよりさわぎを起こすこと自体が目的なものですから御遺命の戒壇に関する彼等の主張を押しとおすためには、実力行使による宗門内外のかく乱も辞さないという、横暴な態度をとりつづけました。

これに対して、宗門では将来のためには、この際断固たる措置をとるべしとの意見も出ましたが、内外ともきびしい状勢にあって猊下も宗務院も何とか騒ぎを起こさないようにと必死の配慮を重ねられ、浅井父子の思い上った非礼な態度にもかかわらず異例と思われるほどいろいろとていねいな説得の手を尽くされたのです。

 非常手段をちらつかせながら執拗に、傍若無人に迫る浅井父子に対し、我まん強く包容もされました。
それは、断続的に、昭和四十七年八月まで続きました。

 しかしながら、浅井父子らは、考えを改めようとしないばかりか、猊下の御慈悲と宗門の恩情を逆手にとって、こともあろうに、猊下直々の御説得の内容をねじまげ自分達の主張こそが猊下の御内意であり、御真意であると主張するようになりました。

 まず、昭和四十五年四月三日にお目通りしたとき、国立戒壇について特別の御内意の表明があった、といいふらしました。
ところが、実際は、猊下はその直後の五月三日に、先のような国立戒壇を真向から否定される説法をなさっています。
浅井のいうとおりなら猊下は天下に向って嘘をつぎ、日蓮正宗は世間をあざむいたことになります。

 そこで形勢利あらずとみたのか、浅井らは〝猊下は、学会の圧力で御真意を曲げられた〃という、とんでもない、いいがかりをつけてきました。

 これは、猊下に直接たてつけば、処分をうけるおそれもあり、講中も動揺する。
しかし猊下の御指南に忠実な学会を攻撃すれば、信者同志のことであるし、そのことによって、間接的に猊下を動かせる上、信徒の間の主導的な立場がとれる、というまことにずるい打算にもとずく行動と思われます。

 しかし、考えてみれば、一面、これほど猊座に対する侮辱はありません。
 思えば大聖人の御逢難そして御開山日興上人の身延離山以来七百年間、いかなる迫害にもめげず、生命がけで法灯を守り抜いて来た不屈の伝統に輝く日蓮正宗の猊座の権威に対し〝圧力で言うことも言えない〃
〝圧力でウソを云わされた″とは、何という言いぐさでしょうか。
六十六世日達上人猊下は歴代上人中でもまれにみる英まい、剛毅な御資質であられることは、宗内で知らない人はありません。
その不惜身命の御振舞いに対してかかる言いがかりをつけることは、信徒として最大の謗法を犯していると断じても決して言いすぎではないでしょう。

浅井は口では猊下を守る云々といいながら、学会を悪物に仕立て上げ、猊下をいいかげんな人物にしてしまい、自分だけを立派な忠義者として美化する筋書きをあつかましくも書き立てているだけであります。

  猊下を守るという口実で猊下を利用し、自分だけ良い子になろうという、まことに虫のいい話であります。


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抜粋


■ 四十五年の「確認書」問題について

 とにかく浅井らが、余り学会学会とさわぐので五月三日を前後して、創価学会の代表者が、浅井父子を説得するため、数回にわたり会談しました。
この会談の趣旨は、信者同志の立場で話し合い、誤解を解くというところにありました。
故に、その過程において、猊下や宗門が正本堂や戒壇について、最終的な結論を下したことは一度もありません。
この会談の間に、あのように大騒ぎされた言論問題が、ウソのようにおさまってしまいました。
意図的にしかけられた騒ぎの結末というものはおおむねこのようなものですが、元妙信講としては思惑がはずれ、今騒いでも効果がなくなったと考えたのでしょうか。
次第に妥協する色をみせてきました。

 その結果、九月十一日に、学会を代表して和泉理事長、森田、秋谷副会長、妙信講を代表して、浅井父子の合計五名の名前で、猊下に報告書が提出されました。

 その内容は「御報告」という標題で「お互い信者の間で話し合いの結果、誤解がとけ、相互に友好的な理解と合意に達したので御報告を申し上げます」として

一、正本堂は三大秘法抄、一期弘法抄にいうところの最終の戒壇であるとほ現時において断定しない」というものであり、同時に「今後、異体同心にして広宣流布達成をめざして邁進することをお誓い申し上げます」との猊下に対する誓いでありました。

 この報告の趣旨は、〝正本堂が、御遺命の戒壇であるか否かについては、信者の間で、その時点において、断定しない″ということであり、決して、浅井父子のいうように「御遺命の戒壇でない」ということを確認したものではありません。
ましてや、信者の猊下に対する御報告という体裁から見て、猊下のお立場を拘束するものでないことは、火を見るよりも明らかであります。

そもそも正本堂の意義は、信徒同志で論争して決定するものではなく、猊下が重々の秘伝と御内証にもとずいて決定されるぺきものであります。
このことを認め合って、お互い信者同志で勝手な主張をしない、というのが合意の内容だったのです。
 このことは、去る昭和四十年二月十六日の第一回正本堂建設委員会での御説法の趣旨をふまえ、ひいては後に出された訓諭の趣旨にも合っています。

 ところが、浅井らは、これを今日では「確認書」云々と、あたかも学会が浅井らの言い分に従ったかの如く歪曲した宣伝をし、講員をあざむいております。
そして、いち早く約束を破り、講中に対して、勝った勝ったと国立戒壇を公言しました。
その上、昭和四十六年頃より、再び世間にあやしげな学会批判勢力のしゅん動が見られるや、これと歩を合せる如く、

「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」 
「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」

等の文書を宗内に配布し、誤った主張を繰り返しはじめたのであります。

昭和四十七年二月頃より、再び宗務院に対し、傍若無人にも

〝正本堂は御遺命の戒壇ではない、安母山に建てる国立戒壇こそ御遺命の戒壇であることを宗門声明として公式に出せ〃

と迫っておりました。
折からその時の秋には正本堂落慶を迎えんとした重大な時期にあたり、しかも世間にはこれを妨げんとするかの如く、さまざまな敵対勢力が暗躍を開始しはじめた時でした。浅井父子は卑劣にも又しても苦境に立った宗門、学会に対してゆさぷりをかけて来たのです。

宗務院としては、もちろん、かかる無体な要求に応じるわけではありませんが周囲の事情にかんがみ、できるかぎり、騒ぎをおこさずにおさめたいとの配慮から、必要以上と思われるくらい鄭重に彼らの言い分を聞いて応答し、かつ条理を尽した説得を何度も行いました。

 ところが、浅井父子はこれをどう勘違いしたのか、宗務当局の説得行為の内容を例によって歪曲して公表するという暴挙に出、その上で強硬に

〝答えはイエスかノーかだ、四月十日までまつから、それまでにはっ きりした公式表明を発表せよ、さもなくば非常の手段をとる〃と脅迫してきました。

宗務院としてはこうなった以上、むしろ猊下の御指南を仰いで宗門の公式決定を天下に公表することこそ彼らの妄動と思惑を止める唯一の方法であると判断するに至りました。

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■ 猊下、訓諭を発布

 かくて、三月二十六日、総本山大客殿における教師指導会の席上、猊下御臨席のもとで、阿部教学部長より昭和四十年二月十六日第一回正本堂建設委員会における猊下の御説法の解釈という形式で正本堂の意義について見解を公表され(資料23)、これを受けられて猊下が〝私がかねて思っていたところとピッタリである″ (資料4)と御認可されました。

宗務院はこの趣旨をまとめ、その時の話の内容を記載した文書とともに、浅井父子への回答として送りましたが、果して浅井父子はいきり立ち、

「実力行使だ、公場対決だ」

と騒ぎ始めました。

これを御覧になって猊下は、後世の誠証のために、又浅井父子らの妄動をあきらめさせるためにも、動かし難い形で、はっきりさせた方がよいとの深いお考えの上で訓諭をもって正本堂の意義を明確にお定めになったのです。

 ところが、四月二十八日の訓諭を賜わった後においてもなお、浅井父子は己義に妄執して宗門を乱しつづけました。
そこで、五月五日に至り、宗務当局は猊下の御指南を受け、浅井父子に対し、創価学会との公場対決の申し入れを撤回することを併せ、今後、猊下の訓諭に対して反対したりせぬこと、教義について異義あらば、指導教師を通じて宗務院に文書をもって申し出ること等、文書をもって翻意をうながしたのであります。
しかしながら、浅井父子はこれを無視した上、かえって訓諭を其向から否定する態度に出ました。
 ついには、講員を組織的に動員し「富士」三月号、同五月号、ならびに「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」等の文書を、宗内の僧俗に配布し、猊下の訓諭に敵対し、宗内ならびに創価学会を誹謗中傷するという暴挙に出たのであります。

 そこで、宗務当局としては、やむなく宗制宗親にもとずいて書面により通告を発し、浅井父子の責任を問うと共に書面到達後、一週間以内に書面にて、宗務院に対し、弁疎するよう申し渡しました。

 これに対し、浅井父子より、六月二十二日付で宗務院に対し回答がありましたが、その内容は、依然として自らの非を改めないのみか、恐れ多くもこの期に及んで、まだ猊下の訓諭を猊下の本意でないと断じているものでありました。
そして、訓諭をあくまで違法と断じ、七月七日までの日限を限ってその訂正を求め、もし訂正しないならば「妙信講は非常手段を以ってしても断じて御遺命を守り奉る。‥…‥さればその時、妙信講も死るべし(※ママ)同時に猊下の御本意を覆う学会の暗雲もなし阿諛の御当局も除かる」と宗務院を脅迫し、訂正を強要してきたのであります。

 更に、七月一日、直接猊下に対し

「男子精鋭二千の憤りは抑えがたく、仏法守護の刀杖を帯びるに至りました」 

「もし妙信講一死を賭して立つ時、流血の惨を見ること必至であります」 

「この時、妙信講もたおれ、同時に学会の暗雲もなく、宗務当局の好策もなし」 

但し一方の命を以って供養にかえ」
等々

の脅迫文を送り、猊下より松本日仁をとおして訓諭は、まったく猊下の本意である旨(資料5)伝えられるや、七月四日には、重ねて

「この上は、大事出来して一国の耳目驚動の時」云々

「さればその時小輩等早く霊山に詣で」云々

との最後通告文を送って来ました。

 これらの一連の文面を総合するならば、

〝自分達′の主張を通せ、さもなくば、非常手段に訴える。その時は流血の惨事がある。その対象は宗務当局と学会である。そして最後は自分達も死ぬ″

ということであります。

 折から、妙信講員の中より、浅井父子や青年部幹部が、そのようなことを口にしているので心配であるとの通知も再三ありました。

 これは、もはや議論ではなく脅迫です。
何とか猊下の権威をかりて、自分達の偏見を通そうとし続け、それがかなわぬと見るや、今度は、脅迫にきたわけであります。
これは全く狂気の沙汰としかいいようがありません。
ロでは、大聖人の御遺命を守るとか、猊下の御本意を実現するなどと言いながら、実際に行なっていることは、自らの偏見を通すためには手段を選ばぬ.という、卑劣きわまりないものであります。

「智者に我義やぶられずば用いじとなり」とは、日蓮大聖人の御金言でありますが、非常手段や流血の惨を用いて、己義を通せとは御書のどこにもいわれておりません。
一体このような手段に訴えることを、大聖人がお喜びになるはずがありましょうか。

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■ 妙縁寺のお目通りについて

 宗務当局としては、こうした経緯は予想していたことであり、そうかとい一って彼らの横暴をこれ以上許すことは、末法万年、令法久住のためにならずと判断し、断固たる処置も止むを得ないと決意を固めていたのです。

 そうしたところ、総講頭より、「歴史的な行事である正本堂の落慶を血で汚すようなことは何としても避けた方が宗門のためによろしいのではないか、又、将来のためにも、できるかぎりの説得の努力を尽しておくことが必要ではないでしょうか。彼らが最終的に猊下にお目通りして御真意を確かめれば納得する可能性があるものなら、おそれ多いことであるが、何とか包容してあげることはできないものでしょうか」との意向があり、それに対して猊下は、「私が会って説得してみよう」と深い御慈悲を示され、七月六日の妙緑寺の御下向となったのであります。

宗務院関係者としては、自らの非力のため解決し切らないうちに危険をおかされる仕事にもったいなくも猊下直々に御手をわずらわせる結果に立ち至ったことに対し、深く責任を感じ、総監並びに教学部長が猊下宛に辞職願いを出したのです。

 このようないきさつの後に、七月六日、猊下は妙縁寺に御下向になり浅井父子に目通りを許されました。
猊下は御一身を賭しても宗内の不祥事を何とか未然に防ごうという御決意と気迫に満ちておられました。
前夜、辞世の句を側の者にお示しになり、

〝私はいつ死のうとよい。その覚悟は法主の座についたときからできている。
どんなに脅そうと、そんなことでは動くものではないことを浅井にわからせてやるのだ″

とおおせでありました。

その上で、

〝しかしながら、思いつめて狂気のようになった者達を思い止らせるためには、ある程度包容してやらなくてはならない″

ともおおせでありました。

又、

〝私は法主として信者を信じたい。
浅井はわからず屋だが、御本尊を受けている以上、胸の底のどこかに、令法久住、宗門を思う気持があるはずだ。
私が誠心誠意話せばわかってくれるだろうと確信する″

と、まことに海のようにひろいお心でのぞまれたのであります。

猊下の浅井父子に対する説得は、午前八時四十四分から同九時四十五分の間、妙緑寺二階の部屋で行なわれました。
この時、お伴をしたのは、藤本庶務部長、早瀬義孔理事、光久諦顕御仲居であり、当時指導教師であった松本日仁が同席しました。
この時に藤本庶務部長が将来の為に記録をとりましたが、これによりますと対談の要旨は次の通りであります。

 まず猊下は席につかれるなり、

「昨日と先日、お手紙を拝見しました。
大変激越な血の雨の降るようなことだが、それだけほ思い止まってほしい。
それでは宗門を破滅に追い込むことになります。
そうなっではあなた方の意思だって通らないことになります。
お互いに傷つき宗門の恥を天下にさらし、結局はあなた方の主義主張が通らない。
だからそれを取りやめてほしいとお願いに来ました。
あなたは死を賭して卞和の啼泣、伍子胥の悲傷といわれるが、、卞和、伍子胥は人をあやめてはいない。
自分は殺されても主義主張は通したということです。
あなた方は間違っています」

と厳然とさとされたのであります。
更に

「法論のことは後にして、とにかく血の雨を降らすようなことは第一に取止めてほしい」

と重ねて申されたのであります。

これに対し、浅井父子はこもごも訓諭がどうの確認書がどうのとこれまでの主張をくりかえすばかりでしたが、猊下は

「殺生とか刺し違えるとかは大聖人の仏法ではない。
刀杖執持ということは涅槃経にあるが大聖人のお心ではない。
釈迦以前の仏教はその罪を斬るといえども、能忍以後はその施を止むと仰せられているではないか」

等々、法門の上から、又世間の道理の上から、辛抱強く浅井父子を諄々と説得されたのであります。
それにもかかわらず、浅井父子は聞こうともせず、

〝逆賊、奸賊はのぞかねばならぬ。刺客となり、刺し違える〃

などと口走り、

〝大聖人は、由比ケ浜で首を刎ねよなどと申されているではないか。
三島由起夫だって主義主張のために生命を投げ出した〃

などと非常識な言葉を続ける始末でした。

 さすがに猊下も色をなされ、

「私が止めてくれと言っても聞けないのか」 

「訓諭は私が出した。
私の責任だ、あなたがそういうなら私を殺してほしい。
私が責任をもってやっていることだ」 

「(悪いというなら)私が悪いので、他の誰の貴任でもない。
皆をせめる前に私を責め、皆を打擲する前に私を打擲しなさい」


と語気するどく言い放たれ、松本に命じて筆と紙を取り寄せられ、

〝つゆ深き法の園の草むらのついの住みかに身は帰るらむ 妙観″

と辞世の句をしたためられて浅井に渡された上で、


「これは私が昨夜作ったものだ、下着も全部取り換えて来ました。
さあ、私を突くなりどうでもしなさい」


と浅井父子を見すえられたのであります。

さすがに浅井父子もシュンとしてうなだれ黙り込んでしまいました。

 そして、しばらくたって、ぼそぼそと

〝返す言葉もありません。では、今後私共はどうしたらよいでしょうか〃

とつぶやくように言ったのであります。

猊下はすかさず、

「暴力は絶対にいけない。言論でやればよいではないか。
私も松本さんも以前は国立戒壇等とたしかに言っている。
しかし後に考えて調べた結果間違っていたことがわかった。
ただ広宣流布のときに建立ということは当然である。
今の正本堂は、(まだ広宣流布の達成ではないので)その意義を含むというのだ」

とたたみかけて説得に努められました。

 ここに至って浅井父子も当初の気狂いじみた様子は失せて話し合い、妥協しようという色がうかがえました。
ただ講中に対する手前もあってか、或いほ脅しが通じないとみて作戦を変えたか、ねちねちとしつこくくいさがり続けました。

訓諭の後段にふれ、(※これは前段か)

「これでは正本堂落慶がそのまま最終の御遺命の戒壇達成になるように受け取れるが、この点だけは承服できない、確認書にも反する、」

などと繰り返し繰り返し言い張りました。

実は、四十五年の確認書なるものは学会と妙信講と、当時の時点において信者間で正本堂の意義を勝手に断定しないという趣旨のものであり、いよいよ正本堂落慶間近に、猊下がその意義を宣揚されることを拘束するものでないことを猊下も私共も知っておりましたし、訓諭の後段も今ただちに御遺命の戒壇達成というのではなく広宣流布の暁にはという文言で明らかなとおり、将来への展望であること論を待ちません。

 しかし、浅井昭衛は、しつこく、あたかもただちに御遺命の戒壇であるかのごとく取れるから間違っている旨を主張し、猊下がそうではないと云われると、これにひっかけて、いつの間にか別の建物を建てるという彼等の主張を猊下は認めたかの如く我田引水しようとしたり、くどくどと云いつづけ、そのうちに折角猊下の一喝で鼻柱を折ったのに次第に気をとりなおして、元のような狂暴性にもどりかける気配も見られました。
そこで猊下は、この空気を察知せちれ、ひとまず浅井を包容せられ、

「とにかく、誤解を招いたのは表現が充分でなかった。
誤解のないよう、改めて解釈を出して八月号の大日蓮に載せるからそれを読んでほい」

と念を押されました。

浅井は一応、これを了承したものの、なお未練がましく

〝建物そのものが御遺命の究極のものでないと云ってほしい〃

等と迫まりましたが、さすがに猊下は

「未来のことはわからないではないか。
とにかく、私の責任で訓諭は出したし、あの一言を入れたのも私の責任だ」

と厳しくしりぞけられたのであります。

 浅井父子は、これ以上深追いすると逆効果と思ったようで、話題をかえ、
「落慶式に外部を入れるのはけしからん」
とか、総監、教学部長に対する私怨をあれこれ述べ立てました。
そして、結局九時四十五分に至り、浅井父子は今後猊下の御指南に従うと納得しましたので、無事面談を終り、浅井父子は退出したわけであります。

ところが、午前十時三十分頃、浅井昭衛より松本に電話があり、

「自分達はもう『富士』等の配布など行動をやめるから、そのかわりに聖教新聞に連載中の阿倍論文(国立戒壇の誤りについて)の掲載を中止していただきたい旨、猊下に言上してほしい」

と言ってきました。
たしかに、この論文は、宗内より学会に依頼して連載中でしたが、浅井らが騒ぐことを止めるのならこれ以上の連載は不必要になりましたので、猊下は了承され、早瀬理事に命じて学会本部北条副会長に電話でその旨依頼されました。

ところが、再び松本を通じて「もう一度お目通り願いたい、総監、教学部長を辞職させてほしい」と言っ て来たのです。
この件を聞かれて、猊下はいささか憤然とされて、
「もう時間がないし、必要もないから会わない。
人事に関することは信者が口出しすることはもっての他である。聞けない。」

と仰せになったのです。

ところが猊下の返事を伝えたすぐあとに、浅井昭衝から、又しても電話が入り、

「今日の夕方、青年部二百何十人に集合をかけた。
今まで厳たる訂正あるまで戟うと、死ぬ決意でやってきた。
これを止めるにあたって、あからさまに今日の模様を発表することはできない。
そこで、聖教の阿部論文の停止と、違約の責任をとって総監と教学部長が辞職した、ということが発表できれば皆を押えられるが、それができないとなると集ったものがおさまらない。
ただ、大日蓮八月号の 解釈を待つというだけではどうも皆を納得させることはむずかしい」


といってきました。
猊下のお決めになる人事権にまで干渉し、その上、ハッタリでおどしをかけて来るとは、何という思い上がりでしょう。
宗務院としては、はっきりこれを拒否しました。

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■ お目通りの内容を歪曲

 さて、この様な経過で、ひとまず流血の惨はさけられたわけですが、その後の浅井父子の動きをみるに、日がたつにつれて、猊下の御説得にやすやすと屈したことを後悔してきたらしく、又、余り大きな譲歩をしたことで講中の体面がたもてないと考えたのか、例によって少しつつ事実を歪曲し、あたかも猊下が全面的に浅井らの云い分を正しいと認められたかの如く宣伝していました。

猊下も、浅井の男らしくない態度を非常に不愉快に思っておられましたが、大事の前ゆえ我慢せられ、とにかく、訓諭の解釈を出すため準備されました。
もちろん訓諭を否定するような内容のものではなく、正本堂は、今ただちに御遺命の戒壇達成とは云えないが、それは未来、広宣流布達成の暁にそうなるという点をはっきり強調するというのが解釈の趣旨でありました。

 そして、早速、これを大日蓮に掲載すべく手配をいたし、あとでとやかく云われぬよう念のため浅井に見せた方がよいとのことで七月十九日、総本山に呼んでコピーを手渡しました。(資料6

ところが、翌日、浅井昭衛より電話があり、おそれ多くも猊下の御名で公表される解釈文について、

「これでは気に入らない。
正本堂とは別に戒壇堂の建物を建てるという明文を入れよ」

ととんでもない干渉をする訂正を要求してきたのであります。

七月六日に話し合った上での約束とまったく違背しますし、第一、訓諭の内容上まったくことなった解釈になってしまいます。
こんなこと受け入れられようはずがありません。

 猊下はさすがにあきれ果てられ、

「とんでもないことだ」

と言下にしりぞけられましたが、浅井のひょう変ぶりに不審をいだき、何かあるのではないかとしばらく様子をみていましたところ、果たして、宗門のことを心配する元講員から、

「浅井は"大日蓮八月号に訓諭を訂正した猊下の御文を載せる。それを武器に、一斉に行動を起こし、学会を一挙に打撃して葬り去る。
八月号の大日蓮を是非読め"と幹部に指示している」

という情報が入ったのであります。

又、「富士」八月号において、妙緑寺御下向の際の内容を歪曲し、あたかも、猊下がウソの訓諭を公表し、全信徒をあざむいたかのごとき記事を掲載したのであります。
猊下の御身を賭してなされた真心の御指南まで浅井はこうして変えたのです。
されば〝解釈を出してくれれば自分達はおとなしく引きさがるというのは、まったくの嘘であったか〃と、はっきりわかった次第であります。

ことここに至って、猊下は深くお考えになり、

「こういうことでは、もはや解釈など出せない。
浅井の云うとおりのものは勿論、こちらで書いたものを出しても文句をつけて騒ぎになることは必定である。
しかし、せっかくここまで来て騒ぎを起こすのも残念である。
そうかといって、これ以上、私が説得しても、浅井の方で私を利用して野心を遂げること以外考えていない以上、深入りをすることは危険なだけであり、かえって衆内を混乱させる。
最後の手段として、浅井が学会学会と云っているから、学会に説得を頼む以外ない。
それでだめならいよいよ覚悟を決めよう。
とにかく、救ってあげようとこれだけ手をつくしてあげたのだから、私も悔いはない」

と御決意になり、その旨指示されました。

内事部においては、浅井のデマ宣伝をはっきりさせるため、大日蓮紙上に、浅井らが
「富士」八月号で主張していることが誤りであることを掲載しました。

その結果、猊下は八月十二日、再び妙縁寺で浅井父子にお目通りを許され、最後の説得をされても聞き入れないことを確認した上で学会と話し合うようにさとされたのであります。

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四十七年九月、学会幹部の説得

猊下の意を体した宗務院の指示のもとに、昭和四十七年九月十三日から九月二十八日までの間に前後七回にわたり学会幹部が浅井父子を説得しました。

学会側の必死の説得にもかかわらず、浅井父子は、自説を執拗にくりかえし、もし容れられなければ、妙信講の青年部を動員して、暴力で、御遷座を阻止し、正本堂落慶法要を血でよごすと脅迫をつづけました。

しかし、こうした不当な暴力に対して学会側の一歩もひかない姿勢とねばり強い説得で浅井らは次第に折れてきました。

 結局、双方合意の上で次のような報告書を猊下に提出し、一応の解決をみたのであります。
(この報告書は猊下のお手もとにあります)

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  御報告

  内事部の通達にもとづいて、創価学会及び妙信講は去る九月十三日以来会談をつづけましたが、ここにその御報告をいたします。

    記

一 三大秘法抄、一期弘法抄の解釈については、双方に見解の相違があり一致するに至らなかったので、今後折をみて更に誠意をもって話し合う。

二 広布達成、御遺命達成の如何については創価学会機関紙上に、未来にわたることである旨を明記した論文(但し、一の点については双方の意見の相違を考慮してふれない)を掲載する。
三 正本堂落慶に伴う儀式については、総本山の行事であり、信徒としては干渉しない。

四 この会談の内容については一切公表しない。
五 今後双方一致して広宣流布をめぎして戦う。

 以上の通りでございますので、総本山におかれましても、私共の意中をおくみ戴き宜しくお取りはからい下さいますようお願い申し上げます。

昭和四十七年九月二十八日
                秋谷 栄之助
                浅井 甚兵衛

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 既に、広布達成、完結ということが未来のことであるが、その時には、正本堂が、本門寺の戒壇堂、即ち、御遺命の戒壇たるべき大殿堂であることは、訓諭に示きれており、御報告の第二項は、そのことを確認したのにすぎません。

 この報告書は相方の意見の違いがあることも認め合って、今後話し合いをしようと決めたので、妙信講の云い分を認めたのではありません。

おそらく当時浅井らは、正本堂落慶をもって、そのままただちに御遺命の達成、本門戒壇の建立と宣言されるのではないかと錯覚しておったようで、何としてもこのことを防ぎ、ひとまず建物はできても意義の上での達成は未来に属する、ということをはっきりさせることで、勝負は先にしよう、と考えていたようです。

 とにかく、宗門の公式決定も守られ、又、正本堂落慶法要も、大成功裏につつがなく終えられたことは幸いなことでありました。

 なお、浅井らは、この説得により、創価学会の総本山に対する忠誠をよく理解し〝今後戒壇論について教義上論議し合うことはつづけても、圧力をかけたとか、訓諭を曲げたとかいったような信徒相互に傷つけ合うような形のけんかは絶対にしない″と約束したという報告をうけております。

しかし、そのあと今日に至るまで文書は相かわらず、ぬけぬけと学会の圧力云々ということを書きつづけています。

 この点について、ある学会幹部は、次のように話しています。

 「昭和四十七年九月、学会代表と浅井父子が討論したとき、学会代表が
〝圧力云々は何を根拠に云うのか〝と鋭く問いつめたところ、
浅井は『根拠はなく、あくまで推論である。直接の圧力はなくても、学会の存在に猊下が気がねして調子を合わせているようで、それ自体圧力だというのだ』と、とんでもない事を言い出し、
『それでは、流血の惨を云ってせまるのは圧力ではないのか』と切り返えされ、
『自分達の圧力は良い圧力だ』などと開きなおる始末です。

これでは、結局、学会がやることはすべて悪い、妙信講は何をしてもよいという論法であり、こんなばかな考えをもった者と話し合ってもしかたがないということになりかけて、結局、浅井は『今後二度とこのようなことは云わないで、誠意をもって話し合おう』と約束しました。

 ところが、四十九年五月頃、学会幹部と浅井昭衛が常在寺で話し合った際、またしても『学会の圧力で妙信講が登山停止された』というので、こちらが『とんでもない云いがかりだ。こちらは昨年末、妙信講もできれば登山させてやってほしいとそれとなく骨折っているくらいだ。根拠を明かせ』とせまると、結局、『お山が学会に遠慮しているのだろう』とか何とか云いのがれようとしました。
しかし、結局、浅井もそういう事実はないと認めぎるを得ず、最後は、『学会側で、できるかぎりの口添えを、という好意は受けよう。すなおにそのことは感謝する。学会が本山に圧力をかけているということがないのはよくわかった。お山自身の権威の問題である』とはっきり発言しています。
これには、証人も証拠もあります。」

 又、次に話合うときまで、混乱をさけるため互いに戒壇について主張をしないことを約束した上で〝この報告書のような解決では、これまで講中をあおりつづけてここまで来たのに拍子抜けの感になり、ふり上げたこぷしの下し場所がなくて何とも説明がつかない。
従って、一度だけ勝った勝ったという話しで講中に報告するので目をつむっていてほしい″という浅井からの申出を、さわぎを起こさず解決するためにはやむを待ないということで、学会側は無視することにしたとのことです。

 この経過を見ても、明らかなとおり、学会側が涙を流して手をついて謝ったなどというのはウソであり、むしろ、浅井の方こそ、最後の段階で興奮して取りみだし、涙ぐんだりすることがあったということです。

 これらの経過は、互いに口外しない、という申し合わせでしたが、浅井の側において、信義をふみにじり、既に事実を曲げて話している約束違反があるので、それに対応する範囲で、学会側の当時者が公表を認められたものです。

いわゆる十月一日付の和泉理事長談話は、こうした経過の上でなされたもので、その内容は、一読すれば明らかなとおり、国立戒壇を認めたことでもなければ、訓諭に述ぺられた正本堂の意義を否定したものでもありません。

これをみても、いかに浅井の云うことが、歪曲と欺瞞にみちたものであるかが明らかであります。

 その後しばらくの間、浅井らは、学会幹部と定期的に連絡会談をもつことにより、比較的平静にしておりました。

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 和泉理事長談話の一部

「大聖人の仏法は、本因妙の仏法である。
全民衆を救おうとの大聖人の大精神に立つならば、現在は広宣流布の一歩にすぎない。
したがって正本堂は、なお未だ三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇の完結ではない。
ゆえに正本堂建立をもって、なにもかも完成したように思い、ご遺命は達成してしまったとか、広宣流布は達成されたなどということは誤りである。
また、この正本堂には信心強盛の人の人のみがここに集いきたり、御開扉を願う資格がある。
したがって、正本堂は広宣流布のその日まで信徒に限って内拝を許せれることはいうまでもない。」 
(聖教新聞四十七年十月一日付掲載)

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 一方的な公開討論申し入れ

 昭和四十七年暮、浅井父子より、宗務院に対し、妙信講の本尊下付について、全国の寺院で取扱っていただきたい旨の申し出がありました。
宗門としては、妙信講のこれまでの行動を考え、ことわるつもりでいましたが、仲に入った創価学会幹部の斡旋もあって、指導教師の紹介状をつけることを条件として、一応認めることにいたしました。

 ただ、浅井らは、国立戒壇の主張については機関紙等でくりかえし、一向に攻める様子がみえませんでした。

 猊下も非常に苦々しく思っておられたところ、昭和四十八年五月頃に至り、たまたま、妙信講より指導教師をとおして、登山させてほしいとの申し入れがあったので〝国立戒壇を文書等で主張し、宗門の公式決定に背いている間は、おことわりする〟旨の回答を指導教師を通じて行いました。

 その後、一年間を経過した昭和四十九年四月九日、再び文書をもって、登山させるよう申し入れがありましたが、これに対しても、猊下の御意思により〝国立戒壇を、公論であるかの如く文書等で主張する間は許さない″旨の解答をいたしました。

 浅井父子は、これに対して、逆上し、宗務院ならびに、学会側に対して〝もし無条件で登山を認めなければ実力行使する。そうなれば何が起こるかわからないぞ〟と傍若無人な態度で迫ってきました。

 事ここに至って、宗門では、もはや断固たる態度をとるしかないと覚悟を決めましたが、無用な騒ぎはできるだけさけたいとの学会側の配慮で学会幹部が浅井に会い再三再四″戒壇問題は冷静に論議しよう。
その間おろかな行為を慎むべきである″と説得し、一時は、浅井もその気になって、具体的な話し合いのルールとスケジュールの段取りについて、三案が話題にのぼり、いよいよ五月二十四日には常在寺において、最終的に煮つめて結論を出そうということになりました。

 ところが、五月二十四日、常在寺にあらわれた浅井は、態度をひょう変させ、今までの話を一切破棄して、一方的な内容の公開討論申し入れ書を読み上げ
「イエスかノーか」と迫りました。

 学会側は大いに驚き、その信義に違背する姿勢を非難したところ、浅井は「どのような無茶なこと、信義を無視した、ルールを無視したと云われてもかまわない」「けしからんというのもーつの返事であるし、こんなもの受け取れるかというのも自由である」等と横暴な言辞をはき、文書を置いたまま逃げるようにして帰りました。

 浅井昭衛のこのひょう変ぶりと傍若無人な態度は何を意味するのでしょうか。

 思うに、まず、総本山が浅井に対し、登山を許さないという回答をしたのが昭和四十八年春であります。
その後1年間何もいわずに黙っていて、会館をつくり、指導教師であった松本をたぶらかして、妙縁寺の重宝御本尊を持ち出して、用意周到の準備をして時を待ちうけていたのです。

 丁度、翌年の春頃より、猊下が地域友好活動を誤解した一部の信徒に対し、御法主の立場から御指南され、その内容が雑誌に掲載されました。

これを、浅井は学会攻撃の絶好の武器であると思い違いをし、今がチャンスと三たび事をおこしたようであります。

 浅井は、この裏付けとして〝今やれば、学会は音をたててもずれる″と広言していたということです。

 とにかく最初から事を起こそうとして、信義もルールも無視して来る者を相手にしても仕方ありません。

 学会側より、宗務院に対して早速右の次第の報告と、公開討論の申し入れを受けとるべきかどうかについて、照会があり、猊下に御伺い申し上げたところ、猊下は「公開討論などの対決は信徒同士として決して行ってはならない。もしどうしても行うというなら、本宗信徒を脱退してからにすべきである」との厳しいお達しでしたので、その旨、文書で四十九年五月二十九日付をもって宗務院より学会側に通告しました。

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  キリスト教神父問題

 この頃から正本堂にキリスト教の神父を招いたと言って、それを強引に学会の謗法に仕立て上げた主張がみられましたので、ここで真相を明らかにしておきます。

 この問題も、正本堂の完工式ですので、既に二年前の事だったのです。
それを、その時には言わないでいて、今になってもち出すのですから、これをみても法義を乱す云々は二の次で、ただ攻撃の道具として利用できるむのならなんでもいいという姿勢は、明確です。
聞くところによると、浅井昭衛は、六月頃に〝いよいよ学会をやっつけようとしているときに、こういうねがってもない攻撃のネタが見つかった″と大喜びしていたそうです。

 正本堂は、今世紀最大の宗教建築に対する世界的な関心の強さを反映して、完成以前から、世間の注目を集めていました。
その落慶に際しては、是非、一日見たいという希望が各方面から寄せられていましたし、エ事に関して、種々、協力していただいた人達に対して、何らかの形の披露をすることも必要でした。
もちろん、いまだ蔵の形式をとり、信徒にかぎり、御内拝を許している間は、信徒以外の者は、本門寺の戒壇の大御本尊様のまします建物内に案内することはできません。
しかし、御遷座以前に完工式を行い、各方面の関係者を招待して披露し、協力者の労をねぎらうことは向にさしつかえないことであります。

この点については、昭和四十七年九月、学会幹部と元妙信講の浅井父子が討論した際に、確認し合ったという報告を受けております。

 この方針で、御遷座に先立つ十月一日、完工式を行い、外部の人達を招待したのであります。

 これには、広い意味でのエ事関係者・地元関係者・報道陣等とともに、日本に駐在している各国の外交官も招待しました。なぜなら、正本堂が国際的な関心を集めている上、各国に日蓮正宗信徒がいて、総本山へ登山する予定であり、又、日本からも布教に行く予定があり、外交上のつき合いが重要になることが予想されていたからであります。

 各国の外交官達の関心も予想以上に強く、事前に是非参加したいと申し入れる国もありまして、評判になっておりました。こうした中で、在日バチカン教皇国大使館関係者より大使の参列希望が伝えられたのであります。

 御承知のように、バチカン教皇国は、国際法上の、独立国家であり、その外文官からの申し入れに対しては、宗教の立場とは別に国際的な敬意を払うのが、妥当でありましょう。
最初、この申し入れは、創価学会広報室によってとりつがれました。
その旨を御注主上人猊下に取次ぎ、御裁決を仰いだところ、〝あくまで宗教上の地位をはなれ外交官という立場で参加されるというなら、これを拒む必要はないではないか″とのことでした。
その結果、招待したわけであります。

 この大使も、又、お付きの人もバチカン国という国が、歴史的にローマ法王庁が独立して国家となっている以上、別にカトリックの聖職者としての立場をもっていることも当然ですが、はっきりと国際法上の国家の代表という立場をつかいわけて、その立場で行動されている以上、更にとやかくいうことは、おかしいことです。

一時、日本でも僧籍を持つ首相が出現したこともありました。
キプロス鳥のマカリオス大司教をはじめ、宗教家が国を代表する元首や外交官になった例は少くないと思われます。
こうした場合には、その人の宗教的信条や立場にこだわって、その人が代表する国家なり国民に対する敬意を払わないというようなことが〃謗法禁断〝の内容として要求されているのでしょうか。

 例えば、総本山の地元・富士宮市の市長が仮に他宗の僧籍をもつ人物であったとした場合、そのことを理由に市民の代表としての表敬行事への参加を拒否せよということになります。

 猊下には、かかる場合、社会儀礼的な完工式という場には、宗教的立場をはなれて、地球上に現存する国家の外交官という立場で、参加されることは差しつかえないと判断を下されたのであり、宗内の大多数もこの考えに賛成でありました。
以上が真相であります。

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講解散処分の経緯

その後、浅井らは実力行使と称して、宗務院からの再三の制止にもかかわらず、国立戒壇を主張し、宗務院や創価学会を非難中傷する文書を大量(百方部という)に街頭配布しはじめ、七月二十九日には、宗務院からの警告を無視して明治公園で約千名を集めて集会を行い、引続き四谷駅まてデモ行進を行いました。
このデモについて、顕正新聞昭和四十九年八月十日号で特集していますが、その記事を読みますと〝三千名が延々ニキロの大行進〃とまことに誇大な宣伝をしています。
しかし、参加した人が一番よく知っていると思いますが、周囲から見た人の話や、写真等から確認しますと、千名そこそこ、というのが実情です。
警察の調べでも千名一寸、ということで、デモに参加したのは、それを更に下まわりました。

白昼の炎天下、老婆、婦人、
子供等のいたましいデモ行進

この集会については、三千名を目標に組織をあげての大結集がはかられ、老人、女性、子供までかり集められた文字どおりの総動員でした。
それが千名そこそこしか集らなかったのですから浅井昭衛はじめ中心者は、さぞがっかりした上、世間体を気にして水まし宣伝をしました。
しかし、このことがかえって内部不信を呼びました。

 当時、デモに参加し、今では、元妙信講を脱退したAさん(匿名希望)は、「だれがみても千名そこそこ、それも、何のわけもわからない人達や女性子供まで集めてのことでした。
四谷駅で解散したあと抗議文を学会本部と公明党本部に届けるといって幹部は自動車で行きました。
私達が暑い中を歩かされたのに、何で自分達は今さら車にのって行くのかと、私の周囲では不満の声が出ました。
それが、顕正新聞には、三千名堂々の行進、と出たので一寸興ざめしました」と語っています。

それにもまして重大問題があります。
この集会には、某左翼政党の幹部であり、創対連の幹部であった野村某らが参加していたのを見かけた人がいます。
彼らは、元妙信講本部に出入りしていたところを、やはり通りがかりの学会員にみられています。

彼らは、かつて街頭で御本尊を焼き払ったりした団体の幹部で言論問題以来正宗に対し、誹謗中傷のかぎりをつくした人物です。
こうした人物とまで共闘し参加させているということは、元妙信講が、ロでは仏法を守る、正義を守るといいながら、ただただ学会を倒し、宗門を牛耳りたい一心で、そのためには手段を選ばぬという本性を暴露したものです。
こうしたことをたなにあげて、他を謗法よばわりする資格が、一体どこにあるのでしょうか。

 また、宗内で相手にされなくなるや、日頃″謗法″といっている一般の人達やマスコミに対してデマ宣伝をしています。

大聖人の仏法の解釈の正邪を、教義も知らなければ御本尊も拝んでいない人達の同情をかって決めようというのは、大変な自己矛盾ではないでしょうか。

その後も引つづき、寺院に押しかけ文書の配布や法論の強要等行い、元講員達が僧侶に対して非礼な言動に及んだという報告が相次ぎました。

 かかる行為を放置しておいては、宗門の統制がとれず、わずか数千の講中のために、千六百万人の信徒の純真な信仰を傷つけてしまう結果になりかねません。

又、放置しておけば、やがて、世間に誤解が生じるかも知れないことも明らかです。

 猊下は、かかる状況を御覧になり、いたく心痛されましたが、やむなく、処分することを御決意され、七月三十一日付をもって弁疎の機会を与えられましたが、改俊の情なきものとみて、正規の手続きを経て、同年八月十二日講中解散処分(資料10)となったものであります。

 しかし、猊下の御慈悲により、悪いのは誤った指導者であり、元講員は何等の差別を受けることなく信徒として遇されるように指定の寺院(常泉寺、常在寺、妙光寺、蓮華寺)に帰属を申し出るように取り計られたのです。

解散処分後も、浅井ら元妙信講の幹部は徒党を組んで反抗的態度を一層明確に示し、文書の街頭配布、宣伝力ーやハンドマイクによる街頭宣伝を行い、あまつさえ、総本山大石寺境内、創価学会本部、各寺院に集団で不法に押しかけて面会強要等を行いました。

又、あらゆる手段を用いて元講員が、宗務院の指示により指定の寺院に帰属することを阻止しました。

猊下におかれては、かかる事態を深く憂慮され、再三、御説法等で元妙信講員らに対しさとされるとともに、二度にわたり、わぎわぎ御自筆で親書(資料89)をお書きになり、浅井をはじめできるかぎりの元講員に送付する等、まことに異例なまでに、御慈悲あふれる御配慮せ賜わったのであります。

 しかるに、浅井等は、これを〝どこのだれだか知らぬが、悪筆、悪文で″などとののしるなど(顕正新聞四十九年九月二十五日号、富士四十九年十月号)信徒としてこれ以上は考えられないほどの冒?と反逆の態度に出ました。

これをもっても、口先では、猊下をお守りするといいながら、それはあくまで口実であり、心中は猊下に対する尊敬心などみじんもなく、ただ猊下の権威を利用して、宗門をろう断し、自己の野心を遂げようとするみにくい本性が如実にあらわれているといわざるを得ません。

 そして、しうした説得をすべて無視して、浅井らは、昭和四十九年十月四日、元妙信講青年部を使(口+族)して、創価学会本部を襲撃させるという、言語同断の暴挙に出たのであります。

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学会本部襲撃事件

十月四日、午後五時半前、通勤ラッシュで混雑している信濃町駅に青年達が三々五々集ってきているのを、通りかかった学会本部の職員がみかけました。

青年達はいつもと様子が違いビラをもっておらず、〝今日は生命がけだ″ 〝思い切ってやるんだ〟と血走った目でひそひそと許し合っていましだので、危険を感じ、本部に帰って報告しました。

一方、外苑通りの曙橋近くに住む学会員から、五時過ぎに妙信講の看板をかかげた宣伝カーが信濃町方向に走り去った旨通報がありました。

 報告を受けた当日の警備責任者は、ただちに四谷警察署に連絡をとりました。
警察署では、これまでの元妙信講の行動からみて危険と判断し、ただちに制服の警官を派遣して学会本部を警備する旨と、騒ぎに巻き込まれないため、いついかなる場合も学会側は、手出
しをしないようにとの厳重な注意を伝えてきました。

警備責任者は、この指示に従って外の警備は一切警察に任せることにし、急いで門扉を閉め、帰り仕度をしていたり、残業中であった職員のうち男子約七十名を集め念のため建物内部で各人ロを固めました。

 六時前になると制服の警官約三十名が到着し、門の前と庭に配置して警備につきました。
これとほとんど同時に、鉢巻姿で目をつり上げたものものしい青年連が、ぞくぞくと学会本部前に集合し、八十名をこえる
勢力になり宣伝カーも到着して門の前で気勢を上げ始めました。
警察の話によると、警察が首謀者に対し、無届けの集会やデモは違法であり、ただちに解散するように警告したところ、〝北条に会いにきた″というので、更に、大勢で押しかけるのはよくないと諭したところ、〝代表二名だけでもよいから会わせろ″といったそうです。

 そこで、騒ぎを防ぎたいとの配慮から、その旨を警官から学会の警備責任者に伝えたところ、北条氏も、主だった幹部も昼間から会合に出かけて、警備責任者と一部職員しかいないとの回答でしたので、その旨、首謀者に伝えたそうです。
すると、首謀者らは何事かひそひそと打合せをしていましたが、六時半頃、突然、首謀者のNTが「会わないなら今日は実力で会うぞ」とマイクで叫び、「かかれ!!」と号令しました。
これに応じて、門扉の前などで構えていた数名が、いきなり扉や塀によじのばってのりこえ、学会本部の構内に不法侵入すると、勝手にかんぬきをはずして扉をあけ放ち、仲間を誘導しました。
そして、幹部を先頭に数十名が暴徒と化して構内になだれこみ、総合案内所の守衛が制止するのを突きとばし、はねのけて、一隊は隊列を組んで正面階段をまっすぐにかけ上がって文化会館入口に殺到し、一隊は、総合案内所を取り囲んで制圧しようとしました。
それは、あっという間の出来事で、号令一下、統制のとれた計画的な行動でした。
そのため、よもや警官の見守る前で、このような大胆な犯行には及ぶまいと考えていた警察関係者もまったく虚をつかれ、一時、茫然と見守っていたほどでした。
一隊は、またたく間に文化会館入場口に差しかかり、先頭が扉に手をかけて引きあけ、中に乱入しようとしました。

 学会側は、はじめから警察の指示を忠実に守り、かえって挑発になってもいけないと考え、建物から一切外へは出ておりませんでした。

又、前庭にも警官がいて警備に当っていましたので安心していました。

 ところが、警官の制止も間に合わず、あっという間に建物に乱入されそうな事態になりやむを得ず扉の中にいた十数名が、身を挺して押し返しました。
しかし、暴徒と化した青年達は、三度、四度と扉をこじあけ、無理矢理乱入しようと試みました。

文化会館は、本来、会員の集会、行事のための建物として設計されており、入口を突破されると、ただちに、大切な御本尊の安置されている広間まで危険な状態になります。

そこで、執拗に乱入を試みる大勢の暴徒を阻止するため、やむを得ず入口から押し戻そうとしたところ、暴徒の側から本部職員を突きのけ、殴りかかる等の暴行が加えられました。
本部職員はこれにひるまず、階段の下まで暴徒を押し戻すとともに、規制に動き出した警官と協力して五十名ばかりが各入ロから前庭に出て暴徒を門外に押し出し、門扉を閉めました。

 ところが、中に残った数名が、更に、″北条に会わせろ″等とわめいて暴れるので取押えにかかっているうちに、暴徒は再突入をはかり、門の外にあった宣伝カーを動かし、エンジンをふかして門扉に二度、三度と体当りの衝突をさせました。
このため、鉄のかんぬきはねじ曲ってはずれ、鉄のつっかい棒も壊され、頑丈なちょうつがいのつけ根もひびわれるような状態で扉ははげしく突破られてしまい、宣伝カーとともに乱入した数十名の暴徒は、今度は、本部職員や警官に激しくつかみかかり、おそいかかったのです。

このため扉を押えていた職員数名が鉄扉と塀の間にはさまれそうになり、生命の危険にさらされた他、職員十数名が暴行を加えられて負傷しました。
又、建物や施設のあちこちが破損されました。
荒れ狂う暴徒達に対し、警官と職員は必死に防禦しました。
警官が主に首謀者の逮捕に向かっている間、職員達はカを合わせて暴徒の大部分を再び門の外に押し出すことに成功し、こわれた扉を閉めて押えました。

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  首謀者は有罪に

 このようにして、三十分間余り学会本部に乱入して乱暴ろうぜきの限りをつくした暴徒は、首謀者のだれかが〟引きあげろ″と号令をかけたのを合図に、連絡者と門内に残った者以外は、一斉に信濃町駅の方に引あげて行くところを、出動した機動隊に全員検挙されました。
又、前庭に残った暴徒も全員現行犯逮捕されました。

 結局、この事件で、元妙信講の青年達のほぼ会員数十名が検挙され、うち逮捕者十数名、検事勾留されて取調べを受けた首謀者はNT、MT、本間豊というありさまでした。

これに対し、当然のことながら、学会側は正当防衛行為に徹したため、一人の検挙者もありませんでした。

 この事件で、双方に負傷者が出ましたが、ことに本部職員は、暴徒から殴る蹴るの暴行を受け、十六名が負傷し、医師の診断と治療を受けました。

又、門扉、塀、看板、照明施設等、合計十数箇所が暴行により破損されました。

 この事件は、一般紙に大きく報道されましたが、いずれも元妙信講の暴力性を浮きばりにした内容でありました。

その結果、暴力集団元妙信講のイメージが宗内外に明らかになり、当然のことながら、非難が浅井昭衛らに集中いたしました。自業自得とはことでありますが、浅井らは卑劣にも、事実をことさら歪曲することによって体面をつくろおうと試み〝仕掛けられたわなだ″ 〝武器をもった五百人でふくろだたきに合った〃 〝暴力をふるったのは学会だ〟等ととんでもないことをいいだし、あつかましくも機関紙等にまで掲載するありさまです。
盗人猛々しいとは正しくこのことです。

しかしながら、このようなことで世間の日はもちろん、警察や検事の目もごまかすことはできようはずはありません。
又、事件直後学会側はただちに、四谷警察署に、暴徒達を建物不法侵入罪、器物損壊罪、暴行罪、礼拝所不敬罪、強要罪等で告訴、告発(資料12)いたしましたごしれにもとずき、厳しい取詞ぺが行われ、関係者はいずれも、罪状を自白しました。
その結果、首謀者三名が建物不法侵入罪、器物損壊罪で起訴
され、有罪が確定しました。
残りの者については、有罪ではあるが、悪かったと改俊の情を表明していることでもあり処分は留保されたということであります。

 このように前代未開の悪質な犯行ほ、浅井昭衛やMTが後に話をこしらえて述ぺているような偶発的なものではなく、慎重に謀議を重ねた上の計画犯行であることは、すべては状況証拠が物語っています。

 既に、昭和四十七年当時、浅井昭衛がさかんに〝流血の惨事を引おこすぞ〝と宗務院や学会を脅迫していました。
いったい何をやる気かと問いただしたところ、〝青年数百名で総本山や学会本部に押し入り、座りこむ。当然排除しようとする学会青年と争いがおこり、流血はもちろん、人が死ぬこともあり得る。その結果、世間の耳目をしよう動し、事は法廷に持ちこまれるであろう。そこで、公廷及び国民注視の中で国立戒壇論を述べるのである〟とくりかえして述べておりました。

昭和四十九年四月にも、同じく宗務院に対し、〝無条件で登山を認めよ、さもなくば、学会本部に押しかけてさわぐ。
何がおこっても知らないぞ〟とおどしをかけておりました。

即ち、浅井昭衛は、常にいわゆる非常手段、最後の手段として学会本部襲撃を考え公言していたのであり、解散処分をはじめとする宗門からのきぴしい糾弾に対する報復として決行した
ものであることは明らかであります。

 これを裏付ける証拠として、更に、当日浅井昭衛に会った八木直道(十月十四日濱付処分を受けた)の話があります。

 八木は、前日の十月三日御法主上人猊下より種々不心得をさとされた際、〝一度浅井に目通りを許してやって下さい″と懇顧しました。
猊下は、″浅井が過去のことを反省した上で謝罪し、今後、国立戒壇を文書にしないと約束するなら考えよう″と大きく包容されました。
八木ほ早速翌四日、元妙信講本部に出向いて浅井に会い、この話を伝えました。

 ところが、浅井をはじめ幹部らは当日の襲撃の準備で忙しく立ちまわっていてごたごたしており、落着いて許しできなかったのみか浅井は八木に対し〝猊下があのようなこと(元講員に対する説得の親書(資料89))をなさるから、今日のようなことをするのだ。
その旨よく猊下に伝えてほしい″とごう然と言い放ち、猊下の御慈悲に応えようとする気持はみじんもないばかりか、猊下のなされたことに対する報復として当日なぐりこみをするのだと宣言したのです。
これは、八木から宗務院関係者に対し、正確に伝えられた話であり、八木も〝困ったことだ〝と言っていたのですがそれにもかかわらず十月十三日元妙信講本部に出かけて行って猊下を中傷する話を公表したため、擯斥処分む受けたものです。

 このような意図のもとに、浅井昭衛は、青年達を実力行動にかり立てるようなアジ演説を常に行い、九月には青年部の幹部が血判を押した宣戦布告書を学会本部に届けるなどして兇暴な群集心理を盛り上げて来ました。
そして十月三日夜、会合のあと青年部の幹部を集めて、N、Mちが学会本部襲撃計画を発表し、スケジュ-ルや担当を決めた上で翌日準備し、夕方の犯行にのぞんだものです。

何人かが塀を乗りこえ侵入して門扉を開け、宣伝カーを突入させるとともに全員が横内に入りこみ、座り込んだり建物に押入って面会を強要する、といったことは、既に前夜から決められ
ていたということです。

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 事前謀議は明白

彼等の誤算は、警官隊の出動が予想外に早かったということでした。
そして警官が、仲に入る形をとったため、はじめのうちは、これを尊重せぎるを得ませんでした。
ところが構内には、人気がなく、手薄に見えたことから、首謀者は当初の計画どおりに決行することに決めたようです。

 なぜなら、丁度、周辺警備に当っていた本部職員二人が、通行人とも、又、一味ともつかぬかっこうで、首謀者らがひそひそと話し合っているところに近寄ったところ、Nらは〝中にはだれもいないぞ。チャンスだ。やろう〃と打合せをしていたのがきこえました。
その直後、Nが、マイクで〝かかれ〃の号令をかけた、という事実が裏付けております。
そして、号令一下、門扉の前に待機していた青年が、ある者は踏ふ台になり、あるものはこれに足をかけて扉によじのぽるという、まことに整然とした行動をとりました。

従ってMTが言うような、〝中から学会員がやゆし、挑発する言動があったようだ〃などということはまったくの作りごとで、最初からの筋書どおりの犯行であることは、中に学会員の姿がほとんどみられなかったことや、号令一下の行動形態からみて極めて.明々白々であります。
そして、ひとたび犯行に移るや群集心理に流されて手段も行動もー段とエスカレートしてしまったというのが真相のようです。
日頃から〝この十月も先生の御命令のまま、全てを抛って戦い
抜く決意″ (十月十日顕正新聞) 〝先生より「命を預
けよ」と御命令下った以上……″ (九月二十五日同紙)と、浅井昭衛の命令一下であれば、どんなことでも生命がけでやると公言しつづけている青年達が、浅井昭衛の命令なしに、このような大それたことをすることの必然性は全くありません。

 浅井の命令だかからこそ、正に、命を的にやったと考えぎるを得ません。
浅井らは、学会本部襲撃事件に至った動機について、〝北条が、妙信講誹謗の記事を掲載した大白法を匿名で多量に妙信講に配布した″ 〝内事部より元講員におかしな手紙(猊下の御慈悲あふれる親書を指す)を送った〃.〝学会が宗門に圧力をかけて妙信講を弾圧した″等と言って、これを糾弾するために押しかけたと言っております。

 しかし、これはまことにこっけいな、筋のとおらぬ理屈です。

まず第一に、浅井らが言う〝妙信講誹謗の記事を掲載した大白法″のことです。
およそ、猊下の御説法や宗務院の院達を信徒に等しく知らせてあげることは、宗門として当然の行為であります。
従って、大日蓮だけでなく、法華講達合会の機関紙である大白
法に掲載することは、これ又、当然のことであります。
元妙信講は本来、連合会に所属していましたが、勝手な行動ばかりとるので、事実上とび出した形になっていますが、法華講支部を名乗っていた以上、名目的には連合会傘下にあったといってもさしつかえありません。
浅井らが勝手につくった機関紙で、事実を曲げ、宗門の指導に反する内容しか掲載しない上、講中が解散になり、依所のはっきりしない元講員に対して真実を知らせて正しい信仰につかせるぺく指導することは宗門の権利でもあり、宗門が元講員に対し大日蓮や大白法を読ませてあげたいと考え、配布することに、だれからも、何の文句もつけられるぺき筋合いはありません。
浅井沼衛らの言うことは、結局、猊下の御指南や宗門の通達を元講員に知らせることがけしからんということであって、これほど理不尽な横車はありません。
これは〝猊下の御指南や宗務院の指導をきくな、浅井個人の言うことだけ信じろ″ということであって、これでは、日蓮正宗ではなくて、″昭衛教″とか、〝日蓮昭宗?〃とでもいう他ない別個の教団であります。
さもなくば、猊下や宗門に講中に手を出すなというような理屈はなり立たないはずです。

 又、浅井らは常とう手段として、青年が多勢で一人をとりかこみ、暴力的な行動でつるし上げて屈服させるという方法を用いますが、連合会の若井氏に対しても同じ方法を用いて、無理矢理に事実と違うことを言わせました。

北条氏は、宗務院よりの指示により、元妙信講処分の経緯について学会員にも理解させるよう大白法を学会幹部に読ませるため受取ったことはあります。
これは全部学会員に配布しました。
従って、元妙信講員に対する配布は、宗務院において、宗門の
権利として行ったことであり、何も学会の手をかりることも名前をかりることもありません。

 また、猊下の親書云々にいたっては、本当に恥知らず、恩知らずとしか言いようのないまさに頭破作七分の者の言いがかりです。
講を私物化せんとする浅井の本心を露骨にみせた振舞いとしかいいようがありません。
元講員は、御本尊を信仰し、猊下の御指南を仰いで修行し、成仏するために入信したことを知るべきであり、猊下がもったいなくもわざわざよぴかけられるという尊い御振舞いに暴力行為をもって報復するとは、もはや当宗信徒ではなく、最大の謗法者であると、断ぜざるを得ません。

とにかく、目的のためには手段を選ばぬという本質を暴露し自ら墓穴をほったのが十月四日の襲撃事件でありました。
その結果、浅井らが受けた打撃は相当のもので、今は元講員の動揺と離脱をふせぐためにあの手この事とやっきになっております。
事実、襲撃事件以後、宗門の通達に従って所属がえを申し出る者が出ています。

 こうした事態を招いたのも、浅井にとっては自業自得と言えましょうが、可哀相なのは、何もしらずに盲従させられ、事件に参加してけがをした上、留置場に入られたりした青年達であります。
浅井昭衛はこれまで今にも自分が腹でも切るかのような言動をしていましたが、今回のようにいざ実行となると、資任の一切
を青年達がかぶることになってしまいました。

 それも、事件の直後に四谷署に行って〝自分をつかまえて皆を出してくれ、責任は自分にある″等と見えすいた浪花節を演じながち、(そんなことが刑事訴訟法の手続上できようはずがないことは、だれでも知っています)取調を受けた際は〝抗議に行けとは言ったが乱入しろとは指示しなかった″等と言いのがれています。

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  暴力行為は取調調書に歴然

 〝流血の惨″などとさんざん青年をあおり立てて行かせれは何がおこるかぐらいは一寸考えればわかります。
本当に事件を起す気がなけれは自分がついて行って指示すべきでしょう。

 事実、七月から八月にかけて学会本部に抗議に押しかけて来た頃は、浅井昭衛、信衛らも来て、後見をしていました。
それが今回のように大きな犯行のときには出て来ないというのは、まことにつじつまが合いません。

 おかげで、N、本間、Mの三名の青年が首謀者として一切の貴任を負い、刑に服したわけですが、この三人も青年らしからぬ二枚舌をつかいわけているのにはあきれます。

彼らは取調を受けた際には、やったことは悪かったと非をみとめています。
ことに首謀者であるN青年部長は当局の取調に対し
『妙信講青年部の行動は、普段は
  青年部長である私
  M男子部長
   鈴木男子部幹事
 の三名で協議して計画を立て、浅井理事長先生の承認をいただいて行っております。

 十月四日の創価学会に対する抗議行動については、私が発案--
  M男子部長とともに理事長先生の承認をうけ、さらに私とMさんと二人具体的事項について協議し、班長会で指示して、行ったものでありますが、このことについては次に詳しく申し上げます。』と計画性を自供し、
『一、私はいかに主張が正しいとはいえ、このように法を犯して創価学会の敷地内に入り多くの負傷者まで出してしまい、本当に申訳けないことをしたと思っております。

 このような結果になったことは私の全責任であり、貴任をとりたいし、また、二度とこのような違法なことはいたしません』と泣きを入れています。

又、『私は今回の費任をとって青年部長も辞任するつもりであ
りますが、後任者にも違法行為は絶対しないようによく引継ぎ申し送るつもりです』とまで述べているのです。

又、有罪の決定に対し、異議の申立もせず刑は確定し、唯々諾々と罰金を払っております。
学会の物をこわしたことについては弁償したいとまで云っているのです。

 ところが、ひとたび講員の前に出るや〝暴力を振ったのは創価学会だ″だとか、”戦闘服に身を固め兇器をもった五百人に袋だたきにされた″〝挑発された”〝わなにかかった″等と、言いたい放題のこと言ってています。

 現場には、学会本部職員が七十名位しかいなかったことは、.警察でも確認していますし、証拠の写真からも明らかです。もちろん、兇器など一切もっている姿はみられません。
おそらく〝自分達はとんでもない悪いことをしている″という罪の意識におぴえた目には数十名が数百名に写ったのかも知れません。
しかし、本当に五百名が武器をもっておそいかかったら、死人もなければ重傷者もないというような結果に終ろうはずがありません。
″講釈師見て来たようなウソを言い〝という川柳がありますが、それは浅井昭衛で元妙信講青年部の中心者は、見てきてもなおウソを言うのですから始末におえません。

更に〝挑発があったらしい″などとはよくもぬけぬけと言えたものです。
九月中、毎日.のように宣伝力ーやデモで学会本部に来て、〝これほど言われてくやしくないか、出て来い″などと、何とか学会を事件にまきこもうと挑発のかぎりをつくしたのは元妙信講であり、これに学会がのらなかったため、焦って墓穴を掘ったのが自分達ではありませんか。

 又、取調のときは、〝今後二度とこういうことはしません〟と言って寛大な処分を求めながら、去る十二月十五日の男子部会では、しょうこりもなく〝浅井先生の命令が下れば、いつでも命をかける″と開きなおっています。
彼らは〝宗門や学会は権力に屈して国立戒壇を曲げた″などと攻撃していますが、自分達は、たかが暴力事件の処分をおそれて取調官の前で頭を下げ外へ出ると手の平をかえすのですから笑止千万であります。

 この二枚舌は、浅井昭衛も同様です。
即ち、取調を受けたときは、
『今までも暴力はいましめていたように、今後も妙信講は暴力はかたく否定して参ります。いかなる事があっても暴力をふるうことのないよう指導していくつもりですからよろしく御顔い申し上げます』と述べているのです。

 それが二言目には〝流血の惨″とか実力行使を口にし、妙縁寺新住職を集団暴力でおぴやかした同一人物とは誠に恐れ入った次第です。

師弟ともども二枚舌には恐れ入りますが師匠をかばうためとはいえ、青年の純粋性も正義感もなくして、ずるい策略をもてあそぷことが、将来どれほとみじめな良心の苛責に本人が苦しむ結果を招くかと思うと哀れでなりません。
それにしても、青年達にこのような無惨なことを強いる指導者に何の反省も見られないことは、まことに破廉恥であります。

 浅井らは、学会の弁護士がいたことや写真をとったことを用意周到だとか、仕組んだ仕掛だとか悪口しています。
しかし、顧問弁護士は、たまたま別の訴訟事件の打ち合せのために午後三時頃から本部で会議中でありました。

 弁護士という職業上、又、訴訟の打ち合せという性質上、既に一カ月も前から期日もきめていたことであり、その日に急に集めたのではないことは、各弁護士事務所の日程表にも明らかです。

 襲撃を二階の窓から、あるいはじかに門の付近で目撃した弁護士達は、〝こんな乱暴な襲撃は初めて見た。自動車で人をひき殺そうとして問題になったのは、羽田空港事件であるが、今回のように自動車を門にぷつけて直接の兇器に使うという悪質な犯行は前代未開だろう”と語っていました。

 そして、いつでも、とこでも証人に立つと言っております。又、騒ぎと共に近くの聖教新聞社から急きょかけつけたカメラマンが現場や本部前の青年会館の屋上から証拠の写真を撮りました。
これは従来、なにかというと浅井昭衛が事実を歪曲して来たことから、そのような手段を封じるぺく、とっさの判断で行った措置であります。
この判断が正しかったことは、既に述べた歪曲のすさまじさから証明されました。

 写真を御覧いただければいずれも、Mらが機関紙等で言っていることが嘘であることを証明していることが明らかとなります。
もちろん、警察庁の捜査の結果も同じであることは、処分の結果を見てもおのずから明らかでしょう。
 
とにかく、〝本部″と呼ばれるところを攻撃するには、あまりに乱暴な馬鹿げたやり方であり、そうした自分達のおろかさ加減をたなに上げて、相手を陰謀呼ばわりするとは、まことに笑止千万であります。

おそわれた方は、危険となれば、それこそ命がけとなって正当な防衛をすることは、当り前であってこの正当防衛ということは、大昔からどこの国でも刑法で認められていることです。

 これに文句をつけること自体、泥棒が侵入しようとした家の戸じまりや、番犬を批難するようなものでまことにナンセンスとしか言いようがありません。

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元妙信講幹部除名処分

こうした事件を起こしては、宗門としてももはや放置しておけず、やむなく、首謀者三十三名を除名処分(資料11)に付しました。

 これに対し、浅井らは、あくまで処分を不当として、法定で争う構えをみせております。
そして、浅井と腹を合わせ、ぐるになった元妙縁寺住職松本日仁と陰謀をめぐらし八百長裁判で地位保全の仮処分をとり、これを足場に、舞台を妙縁寺に移して、宗門かく乱の策謀を続けています。

かつて〝1ケ月以内に学会は音をたててくずれる〝とか、〝大聖人の御遺命を実現する者ほ、妙信講以外にない〃と大見得を切っていたのが、今や四百余ケ寺の中ただ一つに必死にとりつ
いて、下劣な策謀をこらしているのですから笑止千万であります。
浅井の予言はことごとくはずれて、あてにしていたマスコミものらず、焦りから出た暴力路線によってみずからの首をしめ、残るは法定闘争とばかり、さかんに意気こんでいますが浅井らの非道なことは、仏法上既に明らかであるのみならず、やがて、国法上でもはっきりすることであります。

 今年に入ってからは、御本尊下附もできないのに、浅井が御授戒をして、数ばかりを追う折伏を講員に強要しているようですが、結集の数は減っていく一方です。
又、浅井のかってないいがかりである「御内意云云」も通用しなくなるや、増上慢の本性をむき出しにして、「猊下は間違っている。二十六箇条に時の貫主為りといえども仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事とある」などと言い出したのです。
 そして、猊下をことさら無視し、「大聖人の御在世に還れ」などと言い出す始末です。
大聖人が令法久住の為に御指導なされた唯授一人の血脈ということを浅井父子はその増上慢の為にどうしても認めようとしな
いのです。
「大聖人の御在世に還って」自分だけが血脈があろうとでもいいたいのでしょう。

 そういえば「自分は中島師からの血脈をうけた」と言っていたということです。
もはや勤行の仕方まで自分の気に入るようにさせ、御書も自分の気に入ったものだけを読ませる新しい宗派にすぎません。

 そして、山鳥派や完器講がそうであったように、やがては、浅井派も広宣流布史上の汚点として記録される事でしょう。
その日まで、浅井らの天才的な嘘に迷わされることなく、又、その暴力による威圧等に屈することなく、あくまで猊下の御指南に従って異体同心、純真な信仰の道を進まれんことを望んでやみません。

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資料1

 第三十三回創価学会本部総会 昭和四十五年五月三日 於 日大講堂

 本日、ここに池田会長の就任十周年を迎え、創価学会第三十三回本部総会が盛大に問かれまして、おめでとうございます。

 昭和三十五年の本日、この場所で、池田大作先生が,創価学会三代会長に就任せられてからの十年間に、わが日蓮正宗に尽くされた功績は非常に大なるものであります。
今、ここで私が、わが宗の概況を数字をもってあげてみますと、今よりちょうど六百八十年の昔、正応三年十月十三日、大石寺が建立せられましたその当時、南条時光殿が御供養なされました土地、大石が原は、東西約五百メートル、南北約ニキロにわたる広大なものであったといわれていぎす。

 その後、時代の変遷により、寺領に消長がありましたけれども、昭和二十年、終戦当時の大石寺の所有地は、境内地を含めて三十一万八千余坪でありました。
 ところが農地解放により、そのうち二十六万六千余坪を解放いたしました。
解放地の大きいことは、全国の各宗寺院を通じて最高でございました。
解放後、残った土地は境内地を含めてわずか五万一千余坪となったのであります。
そして、日昇上人、日淳上人の時、十一万五千余坪を購入して十六万六千余坪となったのでありますが、昭和三十五年以後の十年間に、池田会長より百万二千余坪の御供養があり、今では所有地総計百十七万余坪となっております。
終戦当時からみると三倍の広さになっているのでございます。

 また、寺院数においては、昭和三十五年以前には百九十九か寺でありました。
現在は三百二十二か寺となっており、池田会長御供養による寺院は百三十三か寺でこざいます。

僧侶総数は、昭和三十五年当時は三百三十人でしたが、現在は九百人」したがって五百七十人の増であります。

 正宗の信徒総数は八百万世帯になんなんとするといわれております。
かくのごとく、池田会長が就任されてから十年間のご努力は、わが正宗の広宣流布達成に非常に意義深いものがあると存じています。

 わが日蓮正宗においては、広宣流布の暁に完成する戒壇に対して、かつて、「国立戒壇」という名称を使っていたこともありました。
しかし、日蓮大聖人は世界の人々を救済するために「一閻浮提(えんぷだい)第一の本尊此の一国に立つ可し」 (御書全集二五四頁)
と仰せになっておられるのであって、決して大聖人の仏法を日本の国教にするなどと仰せられてはおりません。

日本の国教でない仏法に「国立戒壇」なとということはありえないし、そういう名称も不適当であったのてあります。

 明治時代には「国立戒壇」という名称が一般的には理解しやすかったので、そういう名称を使用したにすぎません。
明治より前には、そういう名称はなかったのであります。

 今日では「国立戒壇」という名称は世間の疑惑を招くし、かえって、布教の邪魔にもなるため、今後、本宗ではそういう名称を使用しないことにいたします。

 創価学会においても、かつて「国立戒壇」という名称を使ったことがありましたが、創価学会は、日蓮正宗の信徒の集まりでありますから、わが宗で使用した名称なるゆえに、その〝国立″なる名称を使用したにすぎないと思うのでございます。

 今日、世間の人々が〝国立″という名称を、学会がかつて使用したことについて非難するのは、あたらないと思います。

 われわれは、ただ日蓮大聖人の仏法を広宣流布するにあるのであります。
そして、大聖人の仏法を信じた人々は、本門戒壇の大御本尊をわが総本山大石寺において拝し奉り、即座に即身成仏の本懐を遂げることが最も大切であります。

 その本門の大御本尊は「日蓮が所行は霊鷲山の禀承(ぼんじょう)に芥爾(けに)計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり」 (御書全集一〇二三頁)と仰せられる大聖人の一身のご当体でありますから、本門戒壇の大御本尊安置のところは、すなわち、事の戒壇であります。

 今まさに、わが大石寺に正本堂が建立中であります。
この正本堂が完成すれば、今、奉安殿に安置し奉る本門戒壇の大御本尊は、正本堂にご遷座申すのでありますから、その時は正本堂は本門事の戒壇であります。

 その正本堂は、池田会長の発願と、全信徒八百万の純信なる日蓮正宗の信徒の浄財による、いわば八百万民衆の建立であります。    

〝入百万″という数は、実に奇しき数であります。
″八百万″とは、昔の日本古来の読み方によりますと「やおよろず」であります。
「やおよろず」とは〝無数〃を意味するのであります。

 今、われわれ人間は、十界互具、一念三一千の法門からすれば、一面、天界の神々であるともいえるし、また、仏界の仏でもあるといえるのであります。
八百万民衆の建立による正本堂は、それ故、古来の読み方に従えば「やおよろず」の神々、諸天菩神の建立ともいえるし、また、十方三世の無数の仏の建立ともいえるのであります。

まことに、正本堂こそ、意義深い建物であると信ずるのでございます。

 されば、わが日蓮正宗の信徒は、御相伝による「此の処即ち是れ本門事の戒壇、其の霊山なり、事の寂光土にして若し是の霊場に一度も詣(もう)でん人は無始の罪障速やかに消滅す」との御金言を深く信じなければならないのであります。

 今日、世間の多くの人々は、日蓮正宗の教義の本質を見極めず、また、創価学会の信心のあり方を曲解し、種々の非難を会長池田先生の一身に浴びせております。

 池田先生がこれらのいわれなき非難にひたすら耐えておる姿を見る時、私は仏道修行のためとはいいながら、実に気の毒でなりません。

 学会の皆さん、一致団結して、この会長を守り、更にきたるぺき十年へ向かって前進し、広宣流布の大願を成ぜんことにご精進願いたいのであります。
このようにお願いして、本日の私のあいさつといたします。

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■ 訓諭

 さきに法華講総講頭池田大作発願主となって、宗内僧俗一同の純信の供養により、昭和四十二年総本山に建立の工を起せる正本堂はこゝに五箇年を経て、その壮大なる雄姿を露わし、本年十月落成慶讃の大法要を迎うるに至る。

 日達、この時に当って正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす。

 正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。
 即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるぺき大殿堂なり。

但し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。

 然れども八百万信徒の護惜建立は、未来において更に広布への展開を促進し、正本堂はまさにその達成の実現を象徴するものと云うぺし。
 宗門の緇素よろしく此の意義を体し、僧俗一致和衷協力して落成慶讃に全力を注ぎ、もってその万全を期せられんことを。

 右訓諭す。
I
昭和四十七年四月二十八日

日蓮正宗管長 細井日達

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資料2

第一回正本堂建設委員会
                     昭和四十年二月十六日
                       於総本山大講堂会議室



 第第一回正本堂建設委員会
  猊下御言葉の要旨拝考

          昭和四十七年三月二十六日
          宗務院教学部

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 今回池田会長の意志により、正本堂寄進のお話がありましたが、心から喜んでそのご寄進を受けたいと思います。

 つきましては、皆さまの種々なご意見、建設の工程におけるご意見等うかがい、また各方面からの意見を取り入れたいと思っております。

 そこで委員会を設けて、より多くの意見を入れて、歴史上未曽有なる正本堂の建設を行なっていきたいと考えております。

 今回初めて、お集り願った委員会はこのメンバーで構成することになりました。

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→  池田会長の正本堂寄進に対する受納の意を顕わすと共に、委員会設立の趣旨及び構成に触れられ、似て起序とされている。

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 さて正本堂についていちばん重大な問題は、どの御本尊を安置申し上げるかということでございます。過日来いろいろなところで質問され、またこちらにも問い合わせがきておりますが、それに対して、私ははっきりした答えをせず、ばくぜんとしておいたのであります。

 いよいよ、きょうこの委員会が開かれるにあたって、初めて私の考えを申し上げておきたいのであります。

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→  冒頭、正本堂についての重大問題は安置の本尊にあることを述べられ、以下後段において戒壇の大御本尊を安置することを発表せられるのである。

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 大聖人より日興上人への二箇の相承に「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」とおおせでありますが、これはその根源において、戒壇建立が目的であることを示されたもので、広宣流布達成のための偉大なるご遺訓であります。

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→   この段は、二箇相承の中の一期弘法抄を引かれて、大聖人の御遺訓は、戒壇建立が目的であることを示されている。
次下にその戒壇の相が説かれるのである。

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 これについて一般の見解では、本門寺のなかに戒壇堂を設けることであると思っているが、これは間違いであります。

 堂宇のなかのひとつに戒壇堂を設けるとか、あるいは大きな寺院のなかのひとつに戒壇堂を設けるというのは、小乗教等の戒律です。

 小乗や迹門の戒壇では、そうでありましたが、末法の戒律は題目の信仰が、すなわち戒を受持することであります。よって大御本尊のおわします堂が、そのまま戒壇であります。したがって、大本門寺建立の戒も、戒壇の御本尊は特別な戒壇堂ではなく、本堂にご安置申し上げるべきであります。それゆえ、百六箇抄には「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」と大聖人のお言葉が、はっきりご相伝あそばされております。

 また同じ百六箇抄の付文に「日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為す可きなり」と、こう明らかにされておるのでございます。

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→   この段は表面に未来の本門寺建立の時の戒壇の相を述べられると共に、文の内意に正本堂の関連的意義が示されている。
則ち小乗迹門の戒壇が寺域に特別の戒壇堂を設けるに対し、末法流布の大法は受持則持戒の本義により本尊安置の堂則ち本堂が戒壇である意を百六箇抄の引文と共に示されたのである。
 この未来の本門寺とは現在の大石寺にあたり、大石寺が未来の本門寺となるのである。
四十四世日宣上人も
 「今此の多宝富士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す」
と述べられている。
従って当然大石寺の正本堂が広宣流布の時に三秘抄、一期弘法抄の戒壇となる。
 勿論、正本堂は現代における本門事の戒壇である。
則ち本門戒壇の御本尊の法体の事、並びにその威光功徳の彰灼として民衆即身成仏の根本道場であるに約して事の戒壇といわれる。
また正本堂の規模の広大と、そのしかる所以である現在の流行の広布の相は明らかに一期弘法抄、三大秘法抄め戒壇としての意表に通ずるものと云えよう。

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 したがって、その曼荼羅を現在では大石寺の本堂にご安置することが、もっともふさわしいと思うわけであります。戒壇の大御本尊は大聖人ご在世当時、また日興上人がいらした当時、身延山で本堂に安置されていたものであります。

 また当時は大聖人のおいでになるところが本堂であり、ご入滅後は御本尊のおわしますところが本堂となってきたものであります。そして本堂で御本尊に信者が参拝したのであり、大聖人ご在世当時、身延へ参拝しにきたのは、信者だけですから、だれでも直接に御本尊を拝めたのです。したがって今日では、戒壇の御本尊を正本堂に安置申し上げ、これを参拝することが正しいことになります。

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→  前段が未来の本門寺建立における戒壇相を述べられたのに対し、この段ではその基本の相より推すところ現在の時において本門戒壇の本尊を大石寺の本堂に安置することがふさわしいことを示されるのである。
ゆえに大聖人御在世の御本尊安置、又二祖日興上人薫住の身延を挙げて故事とされ、中間の時代には謗法不信の徒の多く、かつ広布の暁の公開を待つこころより宝蔵に安置し奉ったことを言外にこめられ、今日の流行の広布の時機においては信心願求の徒が多いから正本堂を建立し、その「本堂」なる名称に一期弘法抄、百六箇抄の文の意義を含め戒壇の御本尊を安置するとの御意志が拝せられる。

 更に検えれば前段の文に小乗迹門の戒壇例に対して本門の戒壇は即ち本堂であると示されている。
故にこの段の「現在では…」の文は文脈上過去(小乗迹門の戒壇)に対する現在(本門の戒壇)と受けとられ、次の文の「大石寺の本堂」とは三大秘法抄、一期弘法抄にいわれる本門戒壇を合意せられている。

 けだし創価学会の大折伏は七百数十万世帯に及び、戒壇の御本尊参詣の徒は日夜踵を接し為に奉安殿も狭隘を告げ、流行の広布の相まさに顕著となる。
此の時正本堂建立寄進の議あり、そこで現在正本堂に安置すべき本尊としては戒壇の大本尊がもっともふさわしいことを判定されたのである。

 これに関して現時における事の戒壇とは本門戒壇本尊の所住の処即ち事の戒壇の意である。
その事壇と一期弘法抄、三大秘法抄の事壇とは意義において当然相通じている。
三大秘法抄に「今日蓮が所行乃至事の三大事」と仰せたまう大聖人の御魂魄たる本門戒壇の大御本尊がおわしますところ法体の事の戒壇であり、一期弘法抄、三大秘法抄等は事相の事の戒壇である。
法体の事なくして広布の暁の事相の事壇はありえない。

また事相の事壇がいかに高広厳飾を極めつゝもその根本は法体の事に由来する外の何物でもない。
いま戒壇の本尊の御威光益々光顕して数百万の民衆の正法帰依と不惜身命の信行あってまさに事相の戒壇の実現を望むの感ある時、正本堂の建立寄進となる。
従って正本堂はまさに一期弘法抄の戒壇の意義を含んで未来の広布にのぞむ現時の本門事の戒壇というべきである。

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 ただし末法の今日、まだ謗法の人が多いので、広宣流布の暁をもって公開申し上げるのであります。ゆえに正本堂とはいっても、おしまいしてある意義から、御開扉等の仕方はいままでと同じであります。したがって形式のうえからいっても、正本堂の中でも須弥壇は、蔵の中に安置申し上げる形になると思うのでございます。 

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→  この段は戒壇の御本尊が一閻浮提総与の本尊ではあるが、まだ謗法の人が多いので未来の広宣流布の暁を待って公開中し上げる。
従って現在、御本尊安置の建物を正本堂とはいってもその須弥壇は蔵という形式になることを示されるのである。

 そして「まだ謗法の人が多いので広宣流布の暁をまって公開申し上げる」のお言葉は正本堂に関して御本尊の公開を云われたのであり、正本堂に一期弘法抄の戒壇の意義が含まれているからこそ、かく仰せられたものと思われる。

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正本堂の建立地につきましては「大御本尊は客殿の奥深く安置する」という御相伝があります。

 以前に前会長戸田先生とお話したさいに、正本堂は御影堂の後ろに建立したいということが話にのぼりまして、もしなんだったら地下道を造ってもいいではないかと、戸田先生がいわれております。その話は事実上具体化されませんでした。

 本日池田先生は、客殿の裏の線と、御影堂の裏の線とが一致する点がある。そこに正本堂を建立したいといわれておりました。これは以上の意味からも、まことにけっこうなことであると思います。

 客殿の前には勅使門がございます。今日勅使門と申しますと、誤解する人がおり、さまざまな批判をしていますが、これは国主といって、民主時代でありますので、その中心になる人が通る門のことです。民主主義の時代であっても、一国の中心人物はとうぜん決まるはずで、その人が開く門のことです。

 その客殿の前の不開門=勅使門=それから客殿、その奥が正本堂と、理想的な建設となるのでございます。

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→   この段は宗門古来の相伝と正本堂建立の位置が現在時における理想の形をとることを述べられたのである。
現在の門の形は間もなくもっと立派に直すこともあろうが、宗門古来の相伝によりしかも現在の仏法興隆を示す一連の建築という意味で理想的と申されたのである。
しかし、再往「勅使門」と「理想的な建設」の語は正本堂が未来の一期弘法抄の戒壇となるべき見地から仰せられたものと拝されよう。

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 それから北山にある棟札の件は、いわゆる「法華本門寺根源 垂迹堂 御影堂」の三堂の棟札のことがありますが、この形式は本宗ではとりません。

 日精上人は家中抄で「国主御帰依の時は両堂を再建して額を本門寺と打つ」といわれておりますが、このことは日有上人のころより、御影堂の左(向かって左)に御本尊堂を造られたことが、文献にうかがえます。

 さらにその後の本尊堂(旧御宝蔵)の改築の時と、日精上人の御影堂改築の時の移動により、現在は位置がずれているのでありますが、それからしても、日精上人の両堂建立のお考えも同じであることがわかります。

 しかし、じっさいには将来もっと大きく考えて、この地に大正本堂ができたならば、天母山になんらかの建物を造ってもよいと思われます。

 今回は要するに、この正本堂建立をめざして全力をそそぎ、僧俗一致して偉大な世界的建築となる正本堂を造っていただきたいと思うのでございます。

 もしこの建立にあたって、少しでも傷がつくようなことがあれば、それは宗門あげての恥にもなりますので、全力をあげて建設にあたっていただきたいと念願いたします。

                                                                  「取意」 (文責在速記者)

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→ 最後の段であるが、三堂の棟札の形式は本宗でとらないこと、御影堂、御本尊堂の両堂建立の先師のお考えを示され、これに準じて更に大きく正本堂落成の後、天母山に何らかの建物を作ることもよいかと推されている。
この意味は天母山に戒壇を建立するのではないという意味であり天母山戒壇建立と取るのは誤りである。
従ってある見解として
 事の戒壇は天母山に立つべし
と主張するのは京都要法寺方面の或る時代の思想の亜流であり、本宗本来の法義ではない。
天母山でなく、天生原の本義よりし、且つ戒壇の本尊おわします総本山の位置を考えるとき、広布の暁の戒壇とは正本堂のことであり、天母山にとらわれてはならない。

 さて最後に世界的建築となる正本堂の建設に努力すべく各要員を激励して結びとされたのである。
                                                                                 以 上

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資料3 

 正本堂に関する
  御法主上人猊下の御指南

         昭和四十七年三月二十六日

「正本堂は一期弘法抄の意義を含む現時における事の戒壇である」

(解釈)
 正本堂は広宣流布の暁に一期弘法抄に仰せの本門寺の戒壇たるべき大殿堂である。
 但し現在ほまだ謗法の人が多い故に安置の本門戒壇の大御本尊は公開しない。
この本門戒壇の大御本尊安置のところはすなわち事の戒壇である。
                    以 上
   昭和四十七年三月二十六日

               日蓮正宗宗務院

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資料4


 容御法主上人御説法
  正本堂の意義に就て

         昭和四十七年三月二十六日

 唯今、教学部長から「正本堂は一期弘捻抄の意義を含む現時に於ける事の戒壇である」と、定義を公表致しました。
これについて、もう少し詳しく私の見解を述べてみたいと思うのでございます。

 その解釈は、「正本堂は広宣流布の暁に、一期弘法抄に於ける本門寺の戒壇たるべき大殿堂である。
現在は未だ謗法の人が多い故に、安置の本門戒壇の大御本尊は、公開しない。
この本門戒壇の大御本尊安置の処は即ち、事の戒壇である」

 これは先程、昭和四十年二月十六日の私が申しました言葉の意味とピタリと合っておるわけで、それを判り易く要約すれば、こうなるのでございます。
 このなかの「一期弘法抄の意義を含む」という事について、もう少し述べたいと思うのでこざいます。

 先ず、この解釈に当って二方面から考えてみたいと思います。

 第一は、世間儀典的。
 第二は、出世間内感的。

 大体儀典的というのは、儀式礼典と考えて下さればいいんです。

 先ず、一期弘法抄に、
「国主此の法を立てら.るれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と仰せになっており、

 また、三大秘法抄には、
「戒壇とは王法仏法に冥じ、仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、云云」と、こう説かれております。

 これを先ず、第一の世間儀典的に考えますと、この国主とは誰を指すかということが問題になってきておるのであります。

 勿論、大聖人様の時代、また大聖人様の御書において、国主とは京都の天皇も指しておりますし、或いはまた、鎌倉幕府の北条家を指しておる場合もございます。

 で、今、この国主と申して、三秘抄並びに一期弘法抄の国主或いは王という言葉は、直ちに日本の天皇陛下と断定することが出来るでありましょうか。
なかなかそう断定できないはずであります。

 ある人は、三秘抄に「勅宣並に御教書を」という言葉があるから〝天皇″だと、こう即座に考える人があります。
 しかし、本来、この勅宣という言葉は日本だけの言葉ではなく、即ち中国か来た言葉で、中国の皇帝に対して、皆、勅宣という言葉を使うのでありまして、この勅宣という言葉があるからして、日本の天皇だと断定することはできないのであります。

 また、大聖人様は「仏勅」とこう申します。
仏の言葉を仏勒と申しております。
或は関目抄に宝塔品の三箇の大衆唱慕のところに第一勅宣という言葉をお使いになっております。
仏の言葉をもっても勅宣という。
必ずしも勅宣という言葉は、日本の天皇陛下だけだと、こう断定するのは、ちょっと早すぎるのではないかと思います。

 又、三秘抄の王という言葉をもって、日本の天皇と断定しているのは、結局は明治時代、勿論大正、昭和の初めにかけてもですけれども、国立戒壇という考えの上から、こういう言葉が出たものと思います。

ところが、我が宗では真実をいうと、古来から広宣流布の時の国主は転輪聖王である。しかも転輪聖王の内の最高の金輪聖王である。金の転輪聖王である。こう相伝しておるのでございます。
 皆様、それを忘れておるかも知れませんが、既に昔からそういうことを相伝しておる。しかし、明治時代以後、それを忘却しておる人が多くなったのでございます。それ故に、直ちに明治時代に於ては、国立という観念から、この一期弘法抄や三秘抄に於ける王は天皇だと、こう断定してしまったのであります。
 この考えは、日本が世界を統一するんだという考えのもとから天皇が転輪聖王だという考えが起ったものではないかと思われるのであります。ところが、御書を拝しますと、王というのは一国の王というのではなく、より高次元の意味で使われております。
 北条家に対しては、「僅か小島の主に恐れては閻魔法王の責めを如何せん」という御書もございます。
 で、この島の長がどうして一閻浮提広布の時の転輪聖王といえましょうか。なかなか簡単には云えないと思うのであります。

 これについて、先程さしあげたー堀猊下が、日恭上人伝補という、日恭上人の伝を少し書いております。それにこういうことが出ております。
 ▲「印度の世界創造説は全世界中の各史に勝れて優大な結構であり、又其に伴ふて世界に間出す転輪聖王の時代と世界と徳力と威力宝力と眷属との説が又頗る雄大であって、其中に期待する大王は未だ吾等の知る世界の歴史には出現しておらぬ」
広宣流布の時の大王は未だ出て来ない。
 ▲「但僅に彼の阿育王が世界の四分の一を領せる鉄輪王に擬してあるばかりである。仏教では此の四輪王の徳力等を菩薩の四十位に対当してあるが、別して大聖人は此中の最大の金輪王の出現を広宣流布の時と云はれている程に、流溢の広宣は吾人の想像も及ばぬ程の雄大さであるが小膽、躁急の吾人はこれを待ちかねて至って小規模に満足せんとしてをる。(乃至)金輪王には自然の大威徳あって往かず戦はず居ながらにして全須弥界四州の国王人民が信伏する。」
と、こう出ております。だから、実際に広宣流布した暁の、国主が天皇だとか、或いは、我々の人民の支配者だと、即座に決定するということは難しい。もっと大きな大理想のもとの転輪聖王を求めておる。

 日寛上人は観心本尊抄文段に
「一には法体の折伏(中略)蓮祖の修行是なり」(歴全五―四〇八)
 と示されている。大聖人の修行と化導は本門三大秘法を顕わされるためであり、この最高の法体の弘通は外道・小乗・権大乗・迹門、並びに応仏迹中の本門までの一切を、おのずから破折することに当たるのであり、そこに五段の相対が説かれる所以がある。更に観心本尊抄の
「此の四菩薩、折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す」(新編六六一)
 の文の摂受とは、国王の折伏を化儀の折伏と判じ、この化儀の折伏に対して法体の折伏をしばらく摂受に属して示されたものと日寛上人は判定された。故に観心本尊抄で一往摂受に約すとはいっても、末法万年化導の折伏の大本は、大聖人の法体の折伏にましますことを知らなければならない。
 次に化儀の折伏に関し、大聖人の金言中にもしばしば拝される国主や国王の解釈については、法蓮抄に
「夫人中には転輪聖王第一なり。此の輪王出現し給ふべき前相として、大海の中に優曇華と申す大木生ひて華さき実なる。金輪王出現して四天の山海を平らかになす」(新編八一一)
 と示されるように、転輪聖王の絶大な人格の出現と、その徳によって世界全体を靡き伏させる折伏が完遂されることに当たるであろう。このような意義における四菩薩の興起が、正法を受持する因縁の上に、必ず現われることを確信すべきである。
 所詮法体の折伏とは、大聖人建立の本門三大秘法であり、化儀の折伏とはこの本尊・戒壇・題目の正義を広く日本ないし世界に受持せしめ、不受余経一偈の信心を確立せしめることである。そして一期弘法付嘱書に説かれる戒壇の実現に向かって邁進し、完遂しきっていく行業が化儀の折伏というべきである。



 で教行証御書の終りの方に、三行目に
 「已に地涌の大菩薩、上行出でさせ給いぬ結要の大法亦弘まらせ給うべし、日本・漢土・万国の一切衆生は金輪聖王の出現の前兆の優曇華に値えるなるべし」
こう説かれております。大聖人様が出現して、いよいよ広宣流布になる時は、この金輪王が出現するんだ。その為に、大聖人様がこうしておられるのは、金輪聖王の主手右舷のためのお祝いの、優曇華の華に値えるが如くであるということをおっしゃっております。だからこれらを見ても大聖人様の考えは広布の時には金輪女王が出現するのである。そして戒壇を建立する。その時には法主は我々の日目上人、一閻浮提の座主日目上人の出現、ということは、本宗の伝統的相伝であります。これを皆な忘れて、簡単に三秘抄或いは一期弘法抄の時の王様は天皇だということをいわれ、それで又、国立戒壇ということをいっておる。それを今、そういう考えを改めて、昔の仏教の精神に返らなければならないと思うのであります。

 で、更にここで今度は第二番目の出世間の内感的に考えていくと王ということばはどうであるかと、こう考えていきます。
 そうすると御義口伝に、一番最後の厳王品のところには、この「王とは中道なり」と仰せになっております。ここに於て仏の言葉を仏勅と申し、勅宣と申されておる。仏を賢王と申される故であります。
 で、三秘抄・一期弘法抄の戒壇建立について、もし、世間儀典的な考えを以てするならば、広宣流布が完成した時には転輪聖王が出現して建立するという事になる訳で、その金輪聖王は誰かといえば、
 御義口伝に、化城喩品の処に、
 ▲「御義口伝に云く、本地身の仏とは此文を習うなり、祖とは法界の異名なり、此れは方便品の相性体の三如是を祖と云うなり、此の三如是より外に転輪聖王之れ無きなり、転輪とは生住異滅なり、聖王とは心法なり、此の三如是は三世の諸仏の父母なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は三世の諸仏の父母にして、其祖転輪聖王なり。金銀銅鉄とは金は生・銀は白骨にして死なり、銅は老の相・鉄は病なり、此れ即ち開示悟入の四仏知見なり、三世常恒に生死・生死とめぐるを転輪聖王と云うなり。此の転輪聖王出現の時の輪宝とは我等が吐く所の言語音声なり。此の音声の輪宝とは南無妙法蓮華経なり。爰を以て平等大慧とは云うなり。」
と、こう仰せになっております。即ち結局は金銀銅鉄の輪王は、我等大聖人の弟子檀那の南無妙法蓮華経を唱え奉る者の当体である、というべきであります。
 故に出世間内感的に於ける戒壇建立の相を論ずるならば、三秘抄の王法仏法等のお言葉は、大聖人の弟子檀那の南無妙法蓮華経の信心を離れて存在しないのであります。
 我等、弟子檀那の末法に南無妙法蓮華経と修行する行者の己心にある有徳王、覚徳比丘のその昔の王仏冥合の姿を其のまま以て末法濁悪の未来に移さん時、と申されたと拝すべきであります。

 三秘抄に有徳王・覚徳比丘とあれば、じゃ有徳王か覚徳比丘という人物はいつ出て来たか、又そういう人があるのかといわれる時に、有徳王・覚徳比丘は涅槃経におけるところの釈尊己心の世界の人物である。しからば今、末法に於いて、我々大聖人の弟子檀那が南無妙法蓮華経と唱える、我々の己心においての有徳王・覚徳比丘の王仏冥合の姿こそ、我々の己心にあると考えなければならないのであります。
 これ実に我々行者の昔の己心の姿を顕わされていると拝すべきであって、その己心の上に勅宣並に御教書がありうるのであります。
 即ち、広宣流布の流溢への展開の上に霊山浄土に似たらん最勝の地、富士山天生ケ原即ち大石ケ原に戒壇建立があるべきであります。

 故に、今回建立の正本堂こそ、今日における妙法広布の行者である大聖人の弟子檀那が建立せる一期弘法抄の意味を含む本門事の戒壇であると申すぺきであります。

 又、日寛上人の事・義の戒壇について、もう一重加えて解釈するならば、寛尊は所化の弟子を教導する為に、戒壇を事義の二段に別けられ、三大秘法を六義に別けられて説かれておるのでありますが、詮ずるに六義は本門戒壇の大御本尊を顕彰するためであって、本門戒壇の大御本尊は六義の正主である。
本門戒壇の大御本尊を顕わさんがために、六義に立て分けて説明せられたのに過ぎない。

たとえば、曽谷殿御返事(二千一頁)に、
「法華経は五味の主の如し」
と仰せになっております。
乳味、酪味、生蘇味等のその五味の主であると申されておる。
これは、五味は一代聖教で一代聖教は法華経を説き表すので、一代聖教を説く主眼は法華経である。
故に法華経ほ五味の中ではなく、五味の主体であるとの意味でこざいます。

 今、この言葉を転用して本門戒壇の大御本尊安置の処を事の戒壇と申すは、六義を超越した所謂独一円妙の事の戒壇であるからであります。
 「正本堂は一期弘法抄の意義を含む、現時に於ける事の戒壇である」と宣言する次第でこざいます。

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資料5

 松本日仁を通し浅井に伝えるよう手渡された猊下の御言葉

          ・昭和四十七年七月一日

一、貴殿の宗務院の通告に対する回答を拝見した。
ここに至る経過をつぶさにかえりみるとき、誠に残念であり悲Lみの念を禁じ得ない。
私にとって何よりも気がかりなことは貴殿の行動の根底に私の真意に対する誤解が根ざしているのではないかと思われる点である。
この点を明確にした上であらためて貴殿の冷静なる情慮を期することが私の責務と考える。

一、訓諭は私の真意であり法主としての私の信念から出たものである。
妙信講の意見を含めていろいろな人の意見も充分考慮したが、これは私の本心からの決定である。
この決定は日蓮大聖人の御遺命にいささかも違背するものではないと信ずる。
私も不自惜身命の決意で御遺命の実現に全力をあげている。

一、幸いにして私の見解はほとんどすべての宗門僧俗により支持されている。
現に学会も過去の言を改め、すでに広宣流布は達成したとか、正本堂が現在ただちに御遺命の戒壇実現であるということをいっておらず、私の訓諭に従っている。
もちろん支持の多少によって私の信念がゆらぐものでもなく、たとえ大多数が反対しても、私は私の信念を表明することにやぶさかではない。

一、教義についていろいろと意見のあるのは自由である。
私は貴殿が私の意見に従うようにとはいわない。
しかし、自分の解釈を押しつけるために非常手段に訴えるという態度は、信仰者として、また大事な一万講員の責任者としてとるべきではない。
それは信仰の本質にもとり、大聖人の御本意ではない。
又、訓諭は法主という立場上、宗門の公式見解となる。
従って宗門としてはこの線に従って運営されるべきであり、これを妨げることは統制を乱すことになる。
この点をよくよく理解され自重されることを望む。

一、貴殿のやっていることは私を守ろうとしてくれる誠意からかもしれないが、今、私を真に守ってくれるのは、訓諭に従ってくれることである。
現在、周囲には三類の強敵が競い抱こっており、これと戦うには大同団結こそ不可欠である。
もしこうした私の心も受けずに逸脱した挙に出ることに固執するならばそれは私にとってまことに忍びがたいところである。
どうか自重され冷静な判断をされるようお願いしたい。
 私は貴殿の良識を信じている。

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資料6

 「昭和四十七年四月二十八日」
   の訓諭について

        昭和四十七年七月十二日

注・昭和四十七年七月十九日、猊下が浅井に手渡された訓諭についての解釈文


正本堂は今や完成間近に迫っている。
正本堂建立の趣旨は正しく広宣流布達成の願望のもとにその工を進めて来たのである。

 然し広宣流布は仏勅の「我滅度後後五百歳中広宣流布於閻浮提」であるから、一閻浮提に広宣流布するのは甚遠広大で、相当の長年月を要することであろう。
或いは近き将来急速に達成するかも知れないか、我々の凡智に於ては機知することは出来ない、ただ仏智に依る外はない。

我が戒壇の大御本尊は本門事の戒壇の根源なる故に、戒壇の大御本尊まします所ほ事の戒壇である。
即ち戒壇の大御本尊が御宝蔵に安置せられていた時は、御宝蔵が本門事の戒壇であったのである。
終戦後創価学会により信徒の増加を来し広宣流布へ一歩前進せるにより、昭和三十年十一月二十三日戒壇の大御本尊が奉安殿に安置せられて、奉安殿が本門事の戒壇となったのである。

 さらに本宗の信徒が、驚異的に倍増し広宣流布の達成へ一路邁進し続けているが、正本堂建立完成の時は戒壇の大御本尊を安置し奉るのであるから、正本堂は現時に於ける本門事の戒壇となるのである。

 しかし、一期弘法付嘱書、三大秘法抄の事の戒壇は甚探微妙の事の戒壇で、凡眼の覚知の外にあるのであろう。

 我が大日蓮華山大石寺が建立せられてより本門寺の戒壇建立を実現せんとすることは、本宗緇素の大願であったのである。
 正本堂は今ただちに本門寺の事の戒壇ではないとしても、少なくとも大石寺建立後六百八十二年にして、信徒は日本国内のみならず世界の各国に同志を得てその数は、にわかに教えることは出来ない。
即ちそれだけ広宣流布せられ流行中に於ける相当の広宣流布達成とも云えるのである。
故に正本堂は一期弘法付嘱書、三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なりと申す所以である。

 正本堂は未来広宣流布達成の暁の本門寺の戒壇を願望したところの大殿堂ではあるが、未だ広宣流布達成とは申されないほど謗法の徒が多い、故に安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉ると申したのである。

 正本堂が完成し戒壇の大御本尊ここにましまさば、此の処即ち本門事の戒壇であれば、現時の人々は此処に於て懺悔滅罪し、即身成仏の本懐を遂げ、さらに一歩を進め謗法を折伏して一閻浮提に広宣流布の流溢することを僧俗一結して今日より新たに決心すべきである。

       昭和四十七年七月十二日

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御法主上人御説法  正本堂の意義に就いて

         昭和四十七年三月二十六日

 唯今、教学部長から「正本堂は一期弘法抄の意義を含む現時に於ける事の戒壇である」と、定義を公表致しました。
これについて、もう少し詳しく私の見解を述べてみたいと思うのでございます。

 その解釈は、「正本堂は広宣流布の暁に、一期弘法妙に於ける本門寺の戒壇たるぺき大殿堂である。
現在は未だ謗法の人が多い故に、安置の本門戒壇の大御本尊は、公開しない。
この本門戒壇の大御本尊安置の処は即ち、事の戒壇である」

 これは先程、昭和四十年二月十六日の私が申しました言葉の意味とピタリと合っておるわけで、それを判り易く要約すれば、こうなるのでございます。

 このなかの「一期弘法抄の意義を含む」という事について、もう少し述べたいと思うのでございます。

先ず、この解釈に当って二方面から考えてみたいと思います。

 第一は、世間儀典的。第二は、出世間内感的。
 大体儀典的というのは、儀式礼典と考えて下さればいいんです。
 先ず、一期弘法抄に、
「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるぺきなり」と仰せになっており、
 また、三大秘法抄には、
「戒壇とは王法仏法に冥じ、仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、云云」と、こう説かれております。
 これを先ず、第一の世間儀典的に考えますと、この国主とは誰を指すかということが問題になってきておるのであります。
 勿論、大聖人様の時代、また大聖人様の御書において、国主とは京都の天皇も指しておりますし、或いはまた、鎌倉幕府の北条家を指しておる場合もございます。

で、今、この国主と申して、三秘抄並びに一期弘法抄の国主或いは王という言葉は、直ちに日本の天皇陛下と断定することが出来るでありましょうか。
なかなかそう断定できないはずであります。

 ある人は、三秘抄に「勅宜並に御教書を」という言葉があるから〝天皇″だと、こう即座に考える人があります。

 しかし、本来、この勅宣という言葉は日本だけの言葉ではなく、即ち中国から来た言葉で、中国の皇帝に対して、皆、勅書という言葉を使うのでありまして、この勅宣という言葉があるからして、日本の天皇だと断定することはできないのであります。

 また、大聖人様は「仏勅」とこう申します。仏の言葉を仏勅と申しております。
或は開目抄に宝塔品の三箇の大衆唱慕のところに第一勅宣という言葉をお使いになっております。仏の言葉をもっても勅宣という。
必ずしも勅宣という言葉は、日本の天皇陛下だけだと、こう断定するのは、ちょっと早すぎるのではないかと思います。

 又、三秘抄の王という言葉をもって、日本の天皇と断定しているのは、結局は明治時代、勿論大正、昭和の初めにかけてもですけれとも、国立戒壇という考えの上から、こういう言葉が出たものと思います。

   ところが、我が宗では真実をいうと、古来から広宣流布の時の国王は転輪聖王である。
しかも転輪聖王の内の最高の金輪聖王である。
金の転輪聖王である。
こう相伝しておるのでございます。
皆様、それを忘れておるかも知れませんが、既に昔からそういうことを相伝しておる。
しかし、明治時代以後、それを忘却しておる人が多くなったのでございます。
 それ故に、直ちに明治時代に於ては、国立という観念から、この一期弘法抄や三秘抄に於ける王は天皇だと、こう断定してしまったのであります。
この考えは、日本が世界を統一するんだという考えのもとから天皇が転輪聖王だという考えが起ったものではないかと思われるのであります。
ところが、御書を拝しますと、王というのは一国の王というのではなく、より高次元の意味で使われております。

北条家に対しては、「僅か小島の主に恐れては閻魔法王の責めを如何せん」という御書もございます。

 で、この島の長がとうして一閻浮提広布の時の転輪聖王といえましょうか。
なかなか簡単には云えないと思うのであります。

 これについて、先程さしあげた堀猊下が、日恭上人伝補という、日恭上人の伝を少し書いております。
それにこういうことが出ております。

 「印度の世界創造説は全世界中の各史に勝れて優大な結構であり、又其に伴ふて世界に間出す転輪聖王の時代と世界と徳力と威力と宝力と脊属との説が又頗る雄大であって、其中に期待する大王は未だ吾等の知る世界の歴史には出現してをらぬ」

広宣流布の時の大王は未だ出て来ない。

 「唯僅に彼の阿育王が世界の四分の一を領せる鉄輪王に擬してあるばかりである。仏教では此、四輪王の徳力等を菩薩の四十位に対当してあるが、別して大聖人は此中の最大の金輪王の出現を広宣流布の時と云はれている程に、流溢の広宣は吾人の想像も及ばぬ程の雄大さであるが小膽、躁急の吾人はこれを待
ちかねて致って小規模に満足せんとしてをる。
 (乃至)
金輪王には自然の大威徳あって往かず戦わず居ながらにして全須弥界四州の国王人民が信伏する。」

と、こう出ております。
だから、実際に広宣流布した暁の、国主が天皇だとか、或いは、我々の人民の支配者だと、即座に決定するということは難しい。
もっと大きな大理想のもとの転輪聖王を求めておる。

で教行証御書の終りの方に、三行目に
 「巳に地涌の大菩薩・上行出でさせ給いぬ結要の大法亦弘まらせ給うぺし、日本、漢土・万国の一切衆生は金輪聖王の出現の先兆の優曇華に値えるなるべし」
こう説かれております。
大聖人様が出現して、いよいよ広宜流布になる時には、この金輪王が出現するんだ。
その為に、大聖人様がこうしておられるのは、金輪聖王の出現のためのお祝いの、優曇華の華に値えるが如くであるということをおっしゃております。
だからこれらを見ても大聖人様の考えは広布の時には金輪聖王が出現するのである。
そして戒壇を建立する。
その時には法主は我々の日目上人、一閻浮提の座主日目上人の出現、ということは、本宗の伝統的相伝であります。
これを皆な忘れて、簡単に三秘抄或いは一期弘法抄の時の王様は天皇だということをいわれ、それで又、国立戒壇ということをいっておる。
それを今、そういう考えを改めて、昔の仏教の精神に返らなければならないと思う
のであります。


 で、更にここで今度は第二番目の出世間の内感的に考えていくと王ということばはどうであるかと、こう考えていきます。

 そうすると御義口伝に、一番最後の厳王品のところには、この「王とは中道なり」と仰せになっております。

又、法門可被申様事に、「仏は一閻浮提第一の賢王・聖師・賢父なり」と仰せになっております。

ここに於て仏の言葉を仏勅と申し、勅宣と申されておる。
仏を賢王と申される故であります。

 で、三秘抄・一期弘法抄の戒壇建立について、もし、世間儀典的な考えを以てするならば、広宣流布が完成した時には転輪聖王が出現して建立するという事になる訳で、その金輪聖王は結局誰かといえば、

 御義口伝に、化城喩品の処に、
 「御義口伝に云く、本地身の仏とは此文を習うなり、祖とは法界の異名なり、此れは方便品の相性体の三如是を祖と云うなり、此の三如是より外に転輪聖王之れ無きなり、転輪とは生住異滅なり、聖王とは心法なり、此の三如是は三世の諸仏の父母なり、
 今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は三世の諸仏の父母にして、其祖転輪聖王なり。
金銀銅鉄とは金は生・銀は白骨にして死なり、銅は老の相・鉄は病なり、此れ即ち開示悟入の四仏知見なり、三世常恒に生死生死とめぐるを転輪聖王と云うなり。
 比の転輪聖王出現の時の輪宝とは我等が吐く所の言語音声なり。此の音声の輪宝とは南無妙法蓮華経なり。爰を似て平等大慧とは云うなり。」

と、こう仰せになっております。
即ち結局は金銀銅鉄の輪王は、我等大聖人の弟子檀那の南無法蓮華経を唱え奉る者の当体である、というぺきであります。

 故に出世間内感的に於ける戒壇建立の相を論ずるならば、三秘抄の王法仏法等のお言葉は、大聖人の弟子檀那の南無妙法蓮華経の信心を離れては存在しないのであります。
 
我等、弟子檀那の末法に南無妙法蓮華経と修行する行者の己心にある有徳王、覚徳比丘のその昔の王仏冥合の姿を其のまま以て末法濁悪の未来に移さん時、と申されたと拝すべきであります。

 三秘抄に有徳王・覚徳比丘とあれば、じゃ有徳王とか覚徳比丘という人物はいつ出て来たか、又そういう人と同じ人があるのかといわれる時に、有徳王・覚徳比丘は涅槃経におけるところの釈尊己心の世界の人物である。
しからば今、末法に於いて、我々大聖人の弟子檀那が南無妙法蓮華経と唱える、我々の己心においての有徳王・覚徳比丘の王仏冥合の姿こそ、我々の己心にあると考えなければならないのであります。

 これ実に我々行者の昔の己心の姿を顕わされていると拝すべきであって、その己心の上に勅宣並に御教書がありうるのであります。

 即ち、広宣流布の流溢への展開の上に霊山浄土に似たらん最勝の地、富士山天生ケ原即ち大石ケ原に戒壇建立があるべきであります。

 故に、今回建立の正本堂こそ、今日における妙法広布の行者である大聖人の弟子檀那が建立せる一期弘法抄の意味を含む本門事の戒壇であると申すべきであります。

 又、日寛上人の事・義の戒壇について、もう一重加えて解釈するならば、寛尊は所化の弟子を教導する為に、戒壇を事義の二段に別けられ、三大秘法を六義に別けられて説かれておるのでありますが、詮ずるに六義は本門戒壇の大御本尊を顕彰するためであって、本門戒壇の大御本尊は六義の正主である。
本門戒壇の大御本尊を顕わさんがために、六義に立て分けて説明せられたのに過ぎない。

たとえば、曽谷殿御返事(二千一頁)に、
「法華経は五味の主の如し」と仰せになっております。
乳味、酪味、生鮮味等のその五味の主であると申されておる。これは、五味は一代聖教で一代聖教は法華経を説き表すので、一代聖教を説く主眼は法華経でる。故に法華経は五味の中ではなく、五味の主体であるとの意味でこざいます。

 今、この言葉を転用して本門戒壇の大御本尊安置の処を事の戒壇と申すは、六義を超越した所謂独一円妙の事の戒壇であるからであります。

 「正本堂は一期弘法抄の意義を含む、現時に於ける事の戒壇である」と宣言する次第でこざいます。

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「昭和四十七年四月二十八日」の訓諭について
        昭和四十七牛七月十二日

注・昭和四十七年七月十九日、猊下が浅井に手渡された訓諭についての解釈文

正本堂は今や完成間近に迫っている。
 正本堂建立の趣旨は正しく広宣流布達成の願望のもとにその工を進めて来たのである。

然し広宣流布は仏勅の「我滅度後後五首歳中広宣流布於閻浮提」であるから、一閻浮提に広宣流布するのは甚遠広大で、相当の長年月を要することであろう。

或いは近き将来急速に達成するかも知れないが、我々の凡智に於ては推知することは出来ない、ただ仏智に依る外はない。

 我が戒壇の大御本尊は本門事の戒壇の根源なる故に、戒壇の大御本尊まします所は事の戒壇である。

 即ち戒壇の大御本尊が御宝蔵に安置せられていた時は、御宝蔵が本門事の戒壇であったのである。

 終戦後創価学会により僧徒の増加を来し広宣流布へ一歩前進せるにより、昭和三十年十一月二十三日戒壇の大御本尊が奉安殿に安置せられて、奉安殿が本門事の戒壇となったのである。

 さらに本宗の信徒が、驚異的に倍増し広宣流布の達成へ一路邁進し続けているが、正本堂建立完成の時は戒壇の大御本尊を安置し奉るのであるから、正本堂は現時に於ける本門事の戒壇となるのである。

 しかし、一期弘法付嘱書、三大秘法抄の事の戒壇は甚深微妙の事の戒壇で、凡眼の覚知の外にあるのであろう。

 我が大日蓮華山大石寺が建立せられてより本門寺の戒壇建立を実現せんとすることは、本宗緇素の大願であったのである。

 正本堂は今ただちに本門寺の事の戒壇ではないとしても、少なくとも大石寺建立後六首八十二年にして、信徒は日本国内のみならず世界の各国に同志を得てその数は、にわかに教えることは出来ない。
即ちそれだけ広宣流布せられ流行中に於ける相当の広宣流布達成とも云えるのである。

故に正本堂は一期弘法付嘱書、三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なりと申す所以である。

 正本堂は未来広宣流布達成の暁の本門寺の戒壇を願望したところの大殿堂ではあるが、未だ広宣流布達成とは申されないほど謗法の徒が多い、故に安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉ると申したのである。

 正本堂が完成し戒壇の大御本尊ここにましまさば、比の処即ち本門事の戒壇であれば、現時の人々は此処に於て懺悔滅罪し、即身成仏の本懐を遂げ、さらに一歩を進め謗法せ折伏して一閻浮提に広宣流布の流溢することを僧俗一致して今日より新たに決心すべきである。

       昭和四十七年七月十二日

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資料7
 戒壇についての補足
           学林研究科
          昭和四十九年六月十八日
           於 大講堂
今迄、一時間にわたって、教学部長が、戒壇のことを縷々述べられまして、大体おわかりのことと思っております。

以前二・三年、もう四年くらいになるでしょうけれども、戒壇のことはいろいろ論じて、そのつど述べてきましたから、それをまとめれば、全て皆様にもはっきりおわかりのことと思います。
今、教学部長が述べられたことを、総括的に、私はもう一遍述べてみたいと思います。
それはただ、従来、私が述べてきたことを、同じことを概略申すだけのことでございますが、これはわかり易く、今、この戒壇についての御書を引用して、皆様は今、ここに御書がないから、印刷して差上げたのでございます。

 先ず戒壇ということの出てくることの根本は三大秘法抄にはっきり出ております。
 三大秘法抄に曰く、「戒壇とは王法仏法に冥じ、仏法主法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて」
 (新定二二八三)
 即ち、みな先程の王法仏法ということに、また王臣一同、共に三秘密、三大秘法を信行し奉らなければだめなんだ。
 信行し奉って、そしてその姿が、王法は仏法を守り、仏法王法に冥ずると、で、涅槃経に説くところの有徳王覚徳比丘のその姿を、未法の濁悪の未来に移す。今の末法の時代に移す。さらに、また、これをのべて、広喜流布への姿に於いて、その時、
 「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か」

 これについて、今迄のある一部の人も、国立戒壇ということを言っております。
 それは、ここに、戒壇堂という建物を造るということが頭にあるからであります。みな、そう思っちゃうのです。「戒壇を建立すべし」と、こうなっております故です。
この建立という言葉が、建物を建てると、こう決まっているものではない。戒壇の御本尊を、安置することであります。最勝の地をえらんで。即ち、
その前に、三大秘法を論ずるときに、本尊論に、「寿量品に建立する所の本尊は」と、説かれております。
 別に、寿量品を以って、本尊を建築的に建てるということではない。寿量品に説かれているという意味なのです。
 また、大聖人は、(新定九七五)
 「一閻浮提第一の本尊、此の国に立つ」と、仰しゃっている。じゃ、御本尊という建物を建てるのかというと、そうじゃないです。御本尊を建立遊ばされていることは、御本尊を書写し、ここに顕わすということなのです。我々が、常に言うでしょう。
 「御本尊建立遊ばさる」と、戒壇の御本尊建立というのは、決して建物を建てるという意味ではない。ここで言う、戒壇を説明せられておるのは、この戒壇は、やはり先程の教学部長の最後に述べられた、この戒壇の本尊の一体に於いて、三秘相即しておる、三秘
が具わっているところの戒壇の御本尊である。
 それをいちいち取り出して、これは本尊で、この題目を唱えればいいんだ、と言うのではない。
 お題目即御本尊である。戒壇即御本尊である。が、故に一大法であり、一大事であり、一大秘法であります。
これが、本宗の信仰の大切なところであります。御本尊中心である。一大秘法、その御本尊に依って題目も備わるのであります。
 御本尊の安置したところに於いて、三帰戒を受けようが、お題目を唱えようが、自授受戒であろうが、みんな御本尊のもとで行なわれるんです。
 これを、ただ、戒壇堂を建立するからして、広宣流布の時に、有徳王が来なくちゃいけない、天皇が来なくちゃいけないなとと、論ずべきではないと思います。
 先程、世間出世間の話もありましたが、その通りであって、世間的に言おうが、出世間的に言おうが、戒壇の御本尊を安置したところが、即、戒壇の霊地であります。それを考えなければならない。「時を待つべきのみ」 (新定二六八七)
 そういうふうな広宣流布の、広宣流布と言っても、絶対の広宣流布とはいかなくても、その時代の広宣流布に於いて、そういう勝地をえらんで、戒壇の御本尊を安置して本門の題目を唱えることが事の戒法であります。
 本門戒壇の御本尊を信心して、成仏得脱の道を遂げる。これが、事の戒法であります。事の戒壇堂なと書いてありません。事の戒法であります。「三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪する戒法」であります。
 その戒壇の御本尊様に於いて、みな懺悔滅罪して、即身成仏の本懐を遂げるということが、最も大切なことであります。「大梵天王・帝釈等も来下して」これも、私の解釈では、出世間的に考えれば、我々の一心であるということを、前に述べたと思います。
 あるいは外相的に、姿を以って天上から大梵天王が、下がって来てもよろしい。「大梵天王・帝釈等も来下して」?み給う、即ち来て、「?給うべき戒檀」であります。ここにまた、意義があるでしょう。?給うだから戒壇堂を造って、そこへ行って、戒を受けな
ければならんというような考えだから、国立戒壇だとか、事とか、理とかの戒壇だとか、建物にばかり執着するのであります。
 この?ということは、足で踏むという意味だけではありません。参る、参詣するという意味があり、進むという意味があるのです。
 だから、大梵天王・帝釈等も来下して、参詣し奉る本門戒檀の御本尊であります。
 御本尊の本に参詣するという大きな心からお説きになった戒壇の意義であって戒壇堂を述べられているのではありません。
 だからここでは、その次ですね。
 この三大秘法に於いては、まず最勝の地と言われて、そのどこだと言うことを説かれていない。
 そこで、富士一跡門徒存知之事に、先師はまだ所を言わなかった。
 そこで、日興上人が、(聖典五四二)
「駿河国・富士山は是れ日本第一の名山なり、最も此の砌に於て本門寺を建立すべき由奏聞し畢んぬ」
この名勝の地に、最勝の地に、本門寺をお建てになったらよろしゅうこざいましょうと、申し上げた。
 そこでですね、一期弘法抄ができたんでしょう。
 三大秘法抄は、弘安五年卯月八日。それに対して、弘安五年九月、大聖人は、一期弘法抄を鋭かれて、
(新定二六八七)
 「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に之を付属す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」
 本門寺を建立する。本門寺の中に戒壇の御本尊を安置するってことであります。
 この建立ということは、本門寺を建立するということで、別に国立戒壇という戒壇堂を建てるなど決して
仰しゃってない。
 本門寺を建立するので、その本門寺は何かというと、百六箇妙に、(新定二七一二)
 「三箇の秘法建立の勝地は、富士山本門寺本堂なり」と、仰しゃっています。
 これも、前々からさんざん申しておりますが、みんな忘れているかもしれませんから、申し上げるんだが、なにも、本門寺の本堂なりと、はっきり書いてあるのに、本門寺本堂の上に戒壇堂を造る必要がないでしょう。即ち、三大秘法建立と書いてあるでしょう。
建立、即ち安置なんです。
 それは、本門寺、富士山本門寺の本堂であるのです。だから、富士山本門寺の本堂に本門戒壇の御本尊を安置奉ることが、事の戒壇であります。
 また、その日興上人は、日目上人への日興跡条条之事に、(聖典六五八)
 「日興が身に宛て給わるLころの弘安二年の大御本尊」即ち、戒壇の大御本尊、
 「日目に之れを相伝す、本門寺に懸け奉るぺし」
 とある。
 戒壇堂に建てろなんて仰しゃっていません。    
本門寺に懸け奉るべし、これを、ある曲解者が、懸け奉ってあるんだから、それは、板ではいけないんだ。紙であるはずだ。
 どっかに紙の御本尊、戒壇の紙の御本尊があるだろう。
北山本門寺にあるんじゃないかと言うけれども、言葉にとらわれて、くだらない解釈しちゃ大変なことであります。
それならば、ある富士山を詠っておる詩に、
白扇 逆しまにかかる 東海の天
    という言葉がある。富士山が、逆さまに空にかかっていたら大変じゃないですか。大地にしっかり根をおろしてあるところの富士山、これをかかると言っておる。
 今、戒壇の御本尊が、本門寺に懸け奉るというても即ち安置し奉る、建立し奉る。という意味で、少しも変ってないのであります。
 だからそれが、また、一跡門徒に於いて、(聖典五四二)
「仍って広宣流布の時至り、国主此の法門を用いらるるの時必ず富士山に立てらるぺきなり」
 即ち、それは本門寺のことであります。
 その前に、
 「最も此の砌に於いて本門寺を建立すぺき由・奏聞し畢んぬ」
 この本門寺を、広宣流布の時至り、国主この法を建てらるるの時、即ち一国の主権者が信心した時は、必ず富士山に本門寺を建立すべきなりと仰しゃっている。
 今、大石寺がここにある。これ即ち、本門寺の前身であります。
 もし、もっと広宣流布して、みんな本門寺と称するならば、それが本門寺である。
 戒壇の御本尊のまします所はいずくいず方でも、事の戒壇であります。
 先程、教学部長が最後に述べられた通り、戒壇の御本尊、即ち日東上人が、
 「戒壇の根元とは、この御本尊ましますが故なり」
と伸しゃっている。
 この御本尊まします所は、事の戒檀である。
 それを忘れて、ただ天皇が建てるとか、誰が発てるとか言って論争をしても、それは不毛の論であります。よろしく我々は、今、大石寺に安置し奉る所の戒壇の大御本尊こそ、事の戒壇の御本尊であり、即ち、事の戒壇であります。
そこに参詣する者は即ち、即身成仏の本懐を遂げるのであります。
 御相伝に、戒壇の御本尊まします所は、即ち、事の寂光土、事の戒檀であると。
御相伝と言うと、みんな書き物がなくて、ただ聞いて教わると思っているかもしれないけれども、御開張の御説法であります。
 明らかに、戒壇の大御本尊まします所は、事の戒壇、事の寂光土であります。 
ここに詣でる族は、全てみな久遠の昔からの罪障消滅し、即身成仏の本懐を遂げる所で、これこそ事の戒壇でなくして、なんでしょうか。
  じゃ、建物が国立っていう、誰か偉い人が、立ててくれなければ、そこへお参りしてもさっばり御利益がいのか、と言うような考えでは、仕方がない。
 建物なんかどうでもいいんです。
戒檀の大御本尊こそ我々の即身成仏の本懐の場所である。
 これが、正宗の信心である。正宗の皆帰である。我々のモットーである。
 どうぞ皆様、深く考えて、そういう論争に迷わされず、戒壇の御本尊まします所は、即ち、事の戒壇であるということを、深く心に留められて、行学に励まれんことをお願い致します。

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資料8 
              
 猊下か、元妙信講員に送られた御親書
  昭和四十九年八月十二日
         日蓮正宗管長 細井日達

元妙信講員の皆様へ

今回私は所定の手続きを経て本日付をもって妙信講の解散処分を行ないました。
昭和四十五年五月三日、日大講堂において私は大聖人の仏法が日本一国のみにとどまらず、全世界の民衆を救済すべき大仏法であるたて前から「今後国立戒檀の名称ほ一切使用しない」旨を公式に言明いたしました。
 然るに妙信講は、この公式決定に従わず、更に昭和四十七年四月二十八日付の正本堂に関する「訓諭」に異義を申し立て、遂には「流血の惨事云々」の言辞をなすに至ったので、このような激越な行勤を思い止まらせるために、私は種々努力いたし、時には厳しく誡めもし、或は大きく包容する意味での配慮もいたしました。
 しかし妙信講は、その後も今日に至るまで、再三再四にわたる説得や誡告にも従わず、宗務院や同信の徒をかえって非難中傷し、その上遂に宗務院の制止を無視して大衆行動まで起すに至りました。
 私としては、今迄の努力が全く報いられなかったことを甚だ残念に思い、かつ非常に悲しいことではありますが、一宗の統率者として宗門の秩序を守り、統制を保っていくためには、万やむを得ないこととして、遂に今回の措置をとらざるを得なくなったのであります。
一部の誤った指導者によって講員全体が誤った方向へむかわされることは、まことに忍びないことであり、この上からも今回の処置はやむを得ないこととして御丁承いただきたいと思います。
 たとえ如何なる理由があるにせよ、万が一にも無用の騒ぎを起して、宗内を更に乱すようなことがあっては、仏法に違背することとなり、私を益々苦しめる結果となることをよくお考えいただきたいのであります。どうか元妙信講員の皆様には、この事態を冷静に受けとめられ私の心情を御理解せられ、そして私の指示に従われるよう願います。
 皆様は、今日以後その所属寺院を別記四ケ寺のうち、いづれかに定めて、今日より六十日以内にその寺へ申出られるよう願います。
 その寺においては、他の法華講員と何ら変らぬ平等の気持ちをもって遇しますので、その指導教師の指導のもとに、宗門の方針に沿った正しい信心に励んでいただきたいと心から念願いたします。
 (別記)

 常泉寺
 常在寺
 妙光寺
 蓮華寺

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資料9  9

 再び元妙信講員へ送られた御親書

  再び元妙信講々員の皆様へ
 元妙信講の指尊者は私が他から押しつけられて自らの意に反したことを無機やり云わせられている、という意味のこと云っておりますが、これは一宗の法主、管長に対する最大の侮辱であります。
 私は私の判断によって、云うべぎことさこ言い、なすべきことをなしているのであります。このような表現に惑わされ誤った且つ愚かな行動をとるということは、大変な誹謗行為であり、まことに悲しむぺきことであります。
 元講員の皆様が一日早く正しい信心に目ざめ、先に指示いたしました常泉寺、常在寺、妙光寺、蓮華寺のうち、一ケ寺へ所属替えを申出られるよう心から願っております。
 若し、八月十二日から六十日以内に右手続きをとらなかった場合は、もはや日蓮正宗の信徒でなくなってしまう、ということをよくよくお考えいただきたいと思います。
 どうか皆様方の信心と冷静な判断により、速かに私の指示に従って、このような事態を一刻も早く解決し、宗門の発展と広宣流布のために和衷協力せられんことを切に要望いたします。 

昭和四十九年九月十六日

日蓮正宗管長 細井日達

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 資料10

 元妙信講中解散の宣告書

   宣告書

    東京都板橋区常盤台一丁目十六番六号
    日蓮正宗法華講支部 妙 信 講
         講頭  浅井甚兵衛

一、主文 講中解散に処する。

 右妙信講は、数年来「国立戒壇の名称を使用しない」旨の宗門の公式決定に違反し、更にまた昭和四十七年四月二十八日付「訓諭」に対して異議を唱え、数度に及ぶ宗務院の説得、誡告等にも従わず、かえって宗務院並びに他の信徒に対して非難中傷を加え、機関誌の大量配布、デモ行進などを行なった。
 これは、宗門の秩序と統制を乱す行為であり、甚だ許し難いものである。
 従って、七月三十一日付をもって弁疏の提出を求めたところ、八月七日文書の提出があり、その内客を検討したが、右行為を正当とする事由は見当らず、また情状酌量の余地も全くないものである。
 よって宗規第百六十四条(旧第百六十一条ノ三)の二号の処分事由に該当するものと認め、頭書の如く処分する。
 昭和四十九年八月十二日
        日蓮正宗管長 細井日達 印

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資料11

 元妙信講幹部の除名処分通告書
    除名処分通告書
 貴殿は元妙信講の中心幹部であったが、八月十二日講中解散の処分を受けた後も、徒党を組み自ら宗務院並びに他の信徒を誹謗する行為を続けるのみならず、他の元講員を煽動して文書の配布、街頭宣伝、面会強要なとを行なわしめ、あまつさえ暴力沙汰を惹起せしめ、また元講員が正しい信仰につくことを妨げた。
 このことは、講中解散に至るまでの解散事由に該当する行為に対する責任と併せて、宗規第二首二十九条第一号及び第二号の除名処分に該当するものと判定し、十月十九日付をもって弁疏の提出を求めたところ、文書の提出があり、その内容を検討したが、右行為を正当とする事由は見当らず、また情状酌量の余地もない。
 よって、宗規第二百二十九条第一号及び第二号の処分事由に該当するものと認め、所定の手裁きを経て除名処分に付する。
  昭和四十九年十一月八日

資料12
 学会本部襲撃事件に対する告発状
          昭和四十九年十月九日
  告発状
住所 電話番号 告発人 弁護士 長谷雄 幸 久
       阿  弁護士 行 橋 治 雄
              (以下七人省略)

住所
       被告発人   浅井昭衛
住所       同 N    


住所       同      M

住所不詳
       同     氏 名 不 詳
             元妙信講員数十名

暴力行為等処罪に関する法律違反告発事件
   告発の趣旨
 被告発人らの後記第一の所為は、強要未遂罪(刑法第二二三粂一項、同三項)、第二の所為は建造物侵入罪(同刑法一三○条前段)、礼拝所不敬罪(同法第一八八条一項)、第三の所為は暴力行為等処罰に関する法律違反(同法等一条〕に各該当すると思料されるので、処罰を求めるため告発する。

  告発の事実
 被告発人らは共謀して
第一、昭和四九年一〇月四日午後六時○分ごろ、東京都新宿区信濃町三二番地所在宗教法人創価学会本部先道路上において、「日蓮正宗妙信講広報車」と横書したマイクロバス(※ナンバー ニッサンキャラパン)一台をくり出すとともに、自鉢巻姿で集合し、同会の責任役員である北条浩副会長に対し、「北条出て来い。我々が会いに釆たから出て来い。」などと怒号し、更に「この野郎出て来い。会うまでは帰らないぞ。もし会わなければ、実力をもってしてでも会うぞ」なとと執拗に申し向け、もって集団の威力を示して面会を強要し、もし同人において右要求に応じないときは、同人もしくは同本部の職員の身体および同会の財産などに対し、危害を加うぺきことをもって脅迫し、同六時三五分頃、同会に右要求を拒否されるや、やにわに同本部正門の扉を押し開さ、「北条に会わせろ」と口々に叫びながら同本部敷地内に乱入し、警備中の同本部職員の阻止をものともせず、これを実力で排除する
なとの暴行を加え、もって義務なきことを行わしめようとしたが、右職員および同本部周辺の警察官の阻止によりこれを遂げなかった。

第二、同日午後六時三五分ころ、前記創価学会本部正門前道路上において結集し、同人らの要求を拒否されたことから被告発人Nの指揮のもとに「実力行使だ。会わなければ入るぞ。」なとと怒号Lながら警備中の同本部職員らの制止を押し切って、氏名不詳の被告発人ら一〇数名において、閉鎖中の高さ約二メートルの同本部正門の鉄扉を乗り準え、同本部の構内に侵入したうえ、右警備中の職員らの警備を排除して右扉の施錠を説き(※ママ 解き)、正門前で身構えていた氏名不詳の被告発人ら約五〇名を同本部構内に乱入
させ、一挙に構内文化会館二階に通じる階段をかけ上がり、同会館内に侵入しようとしたが、同本部職員の抵抗に会い、乱入したもののうち二〇数名が内外に排除されると同時に右門扉を閉鎖されるや、被告発人Nが同乗する前記マイクロハスの前部を閉鎖中の右門扉に二、三回激突させて右門扉の施鎖を破壊し、右門前より右車両および一時構外に排除された二〇数名を含む氏名不詳の被告発人ら四〇数名が、同本部構内になだれ込み、約三〇分間に一亘って横内および文化会緒二階入口付近などで暴れ廻り、もって同本部管理局艮、秋谷武史の看守にかかる建造物に不法に侵入し、その際礼拝所である同本部に対し、前記方法を用い公然と不敬の行為をなした。

第三、同日午後六時三五分ごろから午後七時一〇分ころまでの間、前記道路上および同本部構内において、右乱入を阻止せんとした同本部職員らの身体に対し、手拳でもって撲りつけ、足蹴りにし、携帯した乾電池一〇数個およぴハンド・マイク数個を投げつけるなとの多衆の威力を示して暴行を加え、右暴行の際電気掲示板の外装ガラス (縦九五センチメートル・横一二五センチメートル、時価二五万円相当)他別紙一覧表記載の各器物計五点(合計時価七〇万円相当)を損壊した外、前記第二記載の日時場所において同本部構内に乱入の際、前記マイクロバスを前記戸扉に激突させて同扉の門(時価一万五〇〇円相当)を歪曲させるとともに門柱のちょうつがい(時価十五万円相当)を門柱から浮き上がらせて損壊したものである。

  告発の事情
第一、告発人および被告発人について一、告発人らは弁護士であるが本件事件当日、創価学会本部において行われた別件訴訟の打合せに参加中、本件事件に遭遇Lたものであり、たまたま事件
の一部始終を目撃していたものである。
一、被告発人浅井昭衛は、元妙信講の理事長として同講の教義面・活動面の名実共の指導者、責任者であり、同NTは、同講の青年部長として、同MTは同講の男子郡長として、いずれも同講の青年部、男子部の中心者であると共に、被告発人浅井の片腕として、同講の組織運営その他の活動等に関する企画、立案に加わっていたものであり、その余の被告発人らはいずれも同講男子部隊長もしくは班長等として右浅井の指揮下において講活動に励み、常々右浅井と一体となって行動を起す決意をしていたものである。
三、元妙信講は、日蓮正宗に所属する信徒の訴の一つであったが、日頃より同宗宗内の統制を乱す行為が多く、種々と問題をおこLていた。

第二、事件の背景
一、元妙信講講頭浅井甚兵衛および被告発人浅井昭衛らはかねてより日蓮正宗の正式教義に異議をとなえ宗内の統制を乱す行為が多かったため、同宗の宗制宗規に照らし、同宗管長より昭和四十九年八月一二日付をもって解散処分を受けるに至った。これを不服とする同人らは、同宗内の最大の信徒団体であり、同宗の教義を忠実に実践する創価学会に対し、いわれなき非難中傷や、いやがらせを繰り返してきた。
二、すなわち、右解散と前後して被告発人らは同年七月二十八日には公称約三〇〇〇人(実質的ご一○○○名余り)で集団示威行動を行ったほか、国電信濃町駅、同四ッ谷駅、同新宿駅、同池袋択等都内数一〇ケ所の駅頭、新宿区所在の大願寺等都内数ケ所の日蓮正宗寺院付近等において数人ないし数一〇人で集団をなし、創価学会および同会会長をいたずらに非難する文書を配布しあるいはハンドマイク等を用い同内容の宣伝を換り返した。
三、これらの行為は次第にエスカレートしことに同年九月二日よりは被告発人Mらが同講所有にかかる前記マイクロバスに乗って連日の如く創価学会本部前に来ては同会池田会長を誹謗中傷する内容の「闘争宣言書」なるものを読みあげ、また同会の責任者に対する面会を強要していた。その間、同月一七日には、日蓮正宗宗務院、同月二二日には、同会関西センターに押しかけ面会を強要し、脅迫的言辞をはくなどの行為に及んだ。

第三、本件事件の発端等

一、右のような経緯の中にあって被告発人らは、同年一〇月四日牛後五時半過ぎより創価学会本部周辺に集結しマイクロバス(以下広報車という)を先頭に同本部前に押し寄せ告発事実記載の行為に及んだものである。

二、なお、創価学会本部建物は通称文化会館と呼ばれる建物から構成されているが、両者は一筆として事務所兼礼拝所として登記されており、同建物の存する敷地は境内地として登記されている。伺建物内には、本部三階、文化会館地下一階、同五階、七階に御本尊(創価学会員の信仰の根本対象となっているもの)が安置されており、同所においては殆んど連日のように勤行、唱題(礼拝)を中心とする行事がもたれている。すなわち、同建物および敷地は会員にとって″聖地″ともいうべき信仰の重要な拠点になっており同建物(敷地も含め)の本質は礼拝所である。このような場所に学会を冒とくしながら乱入する行為は、まさに礼拝所に対すろ不敬行為に当るというべきものである。更に本件乱入者の中には
〝七階をねらえ″ (七階には重要な御本尊が安置されている)と言って文化会館の二階入口に殺到した者もあり、明らかに信仰の拠点を土足で踏みあらすよう行為があったと認められる。

第四、被告発人浅井昭衛が共同正犯の主体であることについて

一、被告発人浅井昭衛は、既に昭和四五年六月頃より創価学会ならびに日蓮正宗宗務院に対し、「教義上の要求を入れなければ流血の惨を引きおこす。」等と脅迫的言辞を弄していた。

二、また同四九年五月一九日の淡谷公会堂に於ける同講第一六回総会において、被告発人浅井は、「妙信講の行動は出所進退正々堂々と仏法の上にはもちろん世間の法においても一分のあやまちも犯さない。但し、もし自分の不明により国法の落し穴あらば一切の責任は、この私にある」(昭和四九年五月二五日付顕正新開)と述べ、これを受けて、同講の幹部一一名がそれぞれ決意を述べている。右決意の中に
は、「万一御遺命守護の実力行動の命くだるならば、いつでも命を賭して師匠の下に身を投ずる決意であります。」ともまた「誠に『理事長職を死装束』とせられた捨身不退の先生の御姿に接する時、弟子としてこの師匠の戦いに断じて遅れをとってはならない。今こそ〝漢王三尺の剣″を重くする死身弘法の実力をもって弟子としての御奉公を貫ぬかんとの決意であります。」とかあるいは、「一命下れば、いつでも仏法守護の実力部隊として、先生の後に継き、御遺命守護の徹底を期す戦いに打って出る決意であります」等と述べている.(前掲顕正新聞)即ち被告党人浅井は、自己の目的達成のためには違法行為もやむを得ないとの決意を述べ、青年部幹部らは同被告発人の指示あらば、違法な実力行使をも辞さない意思を明白に表明している。同被告発人の理事長就任は、その時期と決意表明からうかがわれる意義からみて、同講の対創価学会戦略の上から同講講員の行動をすべて同被告発人の統合的支配下に置き、同講講員は同被告発人と一体となって行動するという形態をより強固なものにしたものであるといえる。

三、被告発人Nらの前記第二(事件の背景)で述べた一連の行動は、きわめて組織的に統制のとれたものでありかつスケジュール的な闘争方針のもとに計画的になされてきたことがうかがわれる。更に、非難、中傷の内容は被告発人浅井の主張そのままであること、配付する文書の量がきわめて多量であること(顕正新開発表によれば一〇〇万部とある)、被告発人浅井の片腕である被告発人N、同河村等が現場の中心者になっていたこと等の事実が明白である。これらの事実を考え合わせるなちば、右一連の行動に関しては、その計画的な組織的、物量的大量動員から見て一定のスケジュール的闘争方針の下に組織をあげてやったものというべく、このよような行動は同被告発人浅井の指令がなくしてはできるはずがない。事実、顕正新聞等の同被告発人の指導から、一切同被告罪人が指揮してやっていることが明らかである。

四、本件の一連の犯罪事実も、右のような一連の行動の連続線上にあるものである。ことに午後六時という一定の時間に、全員自鉢巻をつけて創価学会本部の前に集結するという統制のとれた行動、門が閉ざされているのに対し、数人が門をよじのぼり門を内側から開き、仲間を導き入れるという迅速かつ計画的な行動、あまつさえ、.広報車を門に激突させこれをこじあけ中心者である被告発人Nが同車に乗り創価学会本部敷地内に入り、現場の指揮をとろうとした行動等、どれを見ても事前の計画、準備が相当周到になされていたことが明白である。

五、しかも、この一連の犯行行為は従前の行為に比べきわめて悪質であると共にそのような行為に及べば、多数の逮捕者が出ることは容易に予想のつくことであり、同講にとっては、今までのスケジュール闘争の頂点に立ついわば、その興亡を決する決死的な行動であるといえる。かかる行為は元妙信講の組織形態、行動パターンから考え、青年部独自の判断だけで行ないうるものではない。むしろ、被告発人、浅井が中心となって謀議しなければ、決行しうるものでないことは過去の例からも明らかである。
 
六、以上の点を総合して考えるならば、被告発人が本件一連の犯罪行為に共謀共同正犯として加担していたことは明白である。

以下略

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資料13

 猊下、法華講青年部
    お目通りの際の御説法

            昭和五十年七月五日

 法華講の皆さんが妙縁寺関係の方々を中心に団結して私を初め我が宗門を誹謗する元妙信講の者達と戦っておられることを聞いて本当にうれしく思います。
 この数年間、いろいろな出来事もありましたが、とにかく元妙信講の一件ほど不愉快かつ迷惑なことは他にありません。又、本宗七百年の歴史の間、魔がつけ入らんとしていく度か異流義も出ましたが、しかし元妙信講ほど無体な、そして卑劣なものは例を見ないと思うのであります。
 およそ人たるもの、自分の信念を述べるに当って、あくまで自分の意見として公にすべきであると思うのであります。宗門の公式見解はこうなっておるが、自分の意見はこうであるというように、正々堂々と述べるべきであります。ところが浅井昭衛は、法主である私の名前を利用し、〝私が浅井父子だけに内意を打明けた〟と宣伝しておるのであります。浅井個人の考えに、私の考えであるというレッテルを張られては、私としてはたまったものではありません。しかもその内容が私が公の席で、手続をふんだ上でそれこそ何度も何度もロがすっぱくなるほど繰り返し言明した旨と正反対であるというのですからなおさら許せません。云うなれば、私がうその訓諭や説法をして全世界の人々をあぎむいているということになってしまいます。そんなことがあるはずのないことは常織ある方々には、すぐわかってもらえると思います。仮に私が本心を打明けるにしても、よりによって講頭父子にすぎぬ浅井ごときまったく信用の置けない人物に打明けようはずのないことほ自明の道理でありましょう。

 しかしながち、元妙信講の中で今なお浅井についておる人々はどうも洗脳されて頭がおかしくなっておるらしい。普投から寺院と切りはなされて浅井の言うことが私の言うことだときかされていたためか、今になっても正しいチャンネルの切りかえができないらしく、浅井の荒唐無稽な話を信じてさわいでおるから困ったものであります。
 私も法主という立場上、総本山に種々のしきたりがあり、みだりに人と会うことも難しい地位にあります。そのことを利用して何も知らない人達を″国立戒壇こそ法主の内意である″などとあぎむくことは卑劣
この上ないやり方であり、宗門史上かってない猊座に対する冒?であると思うのであります。ことは私の名誉にもかかることであり放置しておけば宗内のみならず世間までさわがせる結果になりかねませんので私は断固たる措置をとります。とともに、今日、ここに見えられた皆さんは私から直接聞いたことの証人となって多くの人に今日の話を伝えて下さい。
 浅井昭衛のいう内意云々はまったくの虚言であり、訓諭及び説法以外に私の真意はないことを、元妙信講の人々にもはっきり伝えて下さい。それでもなお迷いからさめず、ぐずぐず云うなら、それは本人の自由で、もはやこちらの関与するところではありません。
法主の指南がきけず、浅井の指南を聞こうというそういう人は、もはや本宗の信徒と認めるわけにはまいりません。その旨、はっきり伝えていただきたいのであります。
 私には法主として、宗開両祖以来連綿たる法門を厳然と守り、かつ一千六百万信徒の信仰を安穏ならしめる責務があります。その上で仏法のもとにあらゆる人々を平等に待遇し、一人残らず成仏することを毎日祈念いたしております。

今、冷静に考えますとき、浅井昭衛という男も、迷える哀れな人物であるがさればといってその狂気じみた妄想のために清浄なる法灯と一千六百万信徒を犠牲にするわけには断じてまいりません。故に私は公平無
私な立場で断固たる措置をとりました。だれはばかるところのない私自身の判断であり、それが正しかったことは時がたてばたつほど確信を持って来ております。浅井らはこれを怨んで私に対していろいろと云っ
ておるようであります。私が信徒の圧力で云うことも言えない臆病な法主であるとか何とか、とにかく失礼千万なことを、こともあろうに″法主を守る″と称して云っているのであります。
 私は法主の座について以来の方針として、現在の時代性にかんがみ信心の道をふみはずさぬかぎり信徒の自主性を思んじ、伸び伸びと信行にはげまれるよう心がけてきました.信者の方々の意見にもできるかぎり耳をかたむけるよう努力してきました。ただし仏法にもそむくと思われるときは、ささいなことでも一つ一つはっきりと指摘してきております。相手がだれであろうと、法主として云うべきこと、なすべきことは一つとしてゆるがせにしておらず、宗門の権威は少しもぎづつけることなく次へゆづるつもりでおります。

 とかく宗内の混乱は、その立場・資格にないものが〝相伝を受けた、内容を知っている〟とか〝法主から特別の使命を与えられた″と主張するところからおこり、何も知らない信者が付和雷同して大きくなっていくものであります。こういうことをいい出す人には、必ず何らかの野心か下心があることは、過去の実例が証明しております。

 とにかく宗門のことは、他の人をたのむ必要は何もありません。私は、必要なことは全部自分でしますし、自分の意見は自分で言います。よけいなおせっかいは無用であります。皆さん方には私がだれの指図で
もない自分で云っていることはよくおわかりいただけると思います。又、一人の信者に差別して特別のことを云ったり、使命を与えるようなことをするはずがないではありませんか。

  御遺命の戒壇について

 御遺命の戒壇について、浅井らは、執ように″国立戒壇、国立戒壇″とくりかえしております。戒壇についての私ならびに本宗の見解は、訓諭をはじめとして既に何回も公にしたとおりであります。大聖人の仰せは本門寺の戒壇である。本宗相伝の戒檀の御説法に「弘安二年の大御本尊とは既(※即の誤植か)ち此の本門戒壇の大御本尊の御事なり---中略-ーー本門戒檀建立の勝地は当地富士山なる事疑なし、又其の本堂に安置し奉る大御本尊は今眼前に在すことなれば此の所即ち是れ本門事の戒檀真の
霊山、事の寂光土云云」と、常に説き示されて居る如く、本門事の戒壇の御本噂在す所が本門事の戒壇で誰が建てたからと云う理由で事の戒檀となるのではありません。このことば既に数年前から私が申し述べている所であります。
 右のことは日寛上人の三大秘法御説法を日相上人が科段に分けた御文を参考、ここに添付します。

 浅井らは何ら教義上の反ばくもなく、ただ先師がどうの、私が昔云ったのと云うだけであります。私は、昔云ったことはあるが、今は云わないと云っておるのであります。
 私の信念は不動であります。未来永遠にわたり、国立ということはなかろうと確信しておるからであります。
 浅井らは、人のやることに干渉せず、自分達の力で、やれるものならやってみればよいと思うのであります。但し、国立というのは本宗の教義ではないので、元妙信講が日蓮正宗と名乗ることだけは、今日限りやめてもらいたいのです。法律がどうのこうのという問題とは別の次元で、管長として、法王として、もはや日蓮正宗信徒でないものが、日蓮正宗という名称を使うことを止めよと命ずるのであります。

  松本日仁、八木直道について

 二人の僧侶が、浅井らに紛動され浅井に顎使されていることは誠に残念であります。松本、八木等が浅井の所に行かないように私をはじめ関係者で何回となく説得し、道を誤まらせまいと思って忠告をかさねました。
 しかし結局彼らは「自分の信念で行動する」 「元妙信講と運命を共にする」 「濱斥覚悟である」と言うものですから、宗教に生きる身として自己の信念に殉ずるは止むを得ずと思い、彼らの望むとおり濱斥処分に付したのであります。彼らの言うことが本当ならむしろ本望であったろうと思うのであります。
 ところが二人とも今になって、濱斥処分が重すぎるとか、自分達は元妙信講とは別である、などと卑怯未練ないつわりごとを申し立てて訴訟ざたに及んでいるのであります。
 八木の如きは最近では月一万円の衣鉢費がなければ食っていけない、などと泣きついておる始末です。まことに僧侶の風上におけぬはおろか、人間としてもどうかと思われるのであります。多勢の人で成立っておる宗門にわいて、一時の気まぐれや、わがままは許されません。かりそめにも、法衣を身につけていた者であれば、もっと正々堂々と男らしい出処進退を心がけてもらいたいものであります。
 第一線で戦っておられる皆さんが確信をもって行動できますよう以上の如く私の胸中をお話ししました。
 元妙信講らは、何かと云えば暴力をちらつかせ、正しいことを云っていさめる者に対しては集団で毎夜いやがらせに押しかけたり、個人攻撃をするということであります。大望を口にするにしては、まことにふさわしくない愚劣な手口でありますが、皆様におかれましては一歩もひくことなく、厳然と戦われんことを期待いたします。
 「百の言葉より一つの実行」という言葉があります。日頃、正義感をロにし、論議を盛んにする人も、いざというとき、日和見しては何もなりません。いざというとき一身を挺して事に当る人こそ真の仏弟子で
あろうと思うのであります。その意味で、皆様の振舞はまことに貴いものであります。
 私のもっとも信頼する法華講の皆さん、どうぞよろしくお願い致します。


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