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母・北野さきさん、波乱の人生
明治37年、後にたけしさんの母となる小宮さきさんは千葉の農家で誕生。
家族と死別し、14歳で高山家の奉公人に。大きな屋敷の便所掃除をはじめとした仕事が与えられました。
他の先輩がお裁縫や料理ができる中、若くして母や兄弟と生き別れたさきさんに教えてくれる人は誰一人いなかったといいます。
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そんな状況からさきさんはどう這いあがったのか。
たけしさんの姉であり長女の中山安子さんによると、休憩時間に配られたおやつを差し出すことで奉公人頭から教えてもらったといいます。(中山安子さんはこの日の『ファミリーヒストリー』がテレビ初登場)
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「人間は意地がなくちゃだめだ」(北野さき)
NHKのインタビューに応えた姉の安子さんは「お裁縫ができることによって待遇が違ったみたい。自分はなにもとりえがないからトイレ掃除ばかりやらされた」「悔しかったでしょうね……」とさきさんの心情を推測します。そんな母から聞かされた教えが「人間は意地がなくちゃだめだ」。
母・さきさんの波乱の生い立ちが紹介され『ファミリーヒストリー』の司会を務める今田耕司さんが「ご存知なかったですか?」とたけしさんに問いかけます。
すると、たけしさんはやや思いつめるような表情で返答。
「うちのおふくろは俺には『アタシは師範学校を出て子どもの教育をしていた』ってずっと言ってたのに 便所掃除はねぇだろ 意地だなぁ ちょっとショックだなぁ」
人間、意地がなきゃだめだというたけしさんのお母様の言葉は胸に沁みる。あの時代の人達には意地があったなあと……。そして、さきさんの意地は自分が学ぶという事で苦労した分の全てを子ども達に注いだ事だろなあ。……っていい話で終わらせないところが北野流?良い話☆ #ファミリーヒストリー
— 華衣@1/8インテ6号館Cひ06b (@kaichihiro2) 2016年12月21日
たけしさんの父・菊次郎さんと結婚
その後、北野家の始祖であり、たけしさんの祖母・北野うしさんと出会った19歳の小宮さきさん。
芯の強い性格に惚れたうしさんは、嫁に誘い、さきさんは裁縫の腕を生かして洋品店で働くことに。
そして、北野さきさんは、たけしさんの父となる正端菊次郎(しょうずいきくじろう)さんと結婚します。(大正15年)
たけしさんの兄・北野大さんは父・菊次郎さんの性分について「人がよすぎる 人に頼まれたらノーと言えない 飲み屋でも奢ってしまう」と説明します。
そして、菊次郎さんの人の良さが重なり、なんと結婚から5年で洋品店が潰れてしまったそう。(その後、菊次郎さんは塗装職人に)
「洋服屋にペンキを塗りに行くと 帰りにペンキの値段よりも高い背広をあつらえて帰ってくる」「怒られると『数あるペンキ屋からウチを選んでくれた。なんかお返ししなくちゃ悪いじゃねぇか』」(北野大)
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昭和22年、北野家の四男・武さんが誕生。
名前の由来は“竹のようにどんな困難にも耐えてすくすく育ってほしい”との思いを込めて。
北野さきさんは、子ども達にとにかく勉強を徹底させたといいます。
14歳で家族を失い、5年間を奉公先の便所掃除に捧げたさきさんは、自身の経験から「手に職を持つことの大切さ」を感じたといいます。さきさんの太い信念「貧乏は教育で断つ」です。
「貧乏だというのは教育がないから貧乏」
「お金はいくら持ってても 人に取られたらそれまでだけど 教育というのはどんなに人が取ろうと思っても取れるもんじゃない」
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たけしさんと決別「お前なんか子どもじゃない」
たけしさんは明治大学工学部機械科に現役合格。
しかし、たけしさんは大学卒業の延長で待っているであろう将来像がみえた途端、急にやる気をなくしてしまったそう。
そして、大学3年で退学の意を決して家出します。
「なんだろう 機会の会社に入って 急に嫌になっちゃって こんなことオイラやるか?って」
そんなたけしさんに悲憤がおさまらなかったさきさんは「お前なんか子どもじゃない! 絶対帰ってくるな!」。
※さきさんはその後も学費を支払い、いつでも戻れるように準備していたとのこと。また、平成16年に57歳のたけしさんは、世界的な活躍を讃えられ、明治大学から特別卒業認定証を授与されました
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たけしさん、浅草デビュー
複雑な感情を「罪悪感と恐怖とチャレンジ」と表現したたけしさんは、昭和47年に浅草のストリップ劇場のエレベーターボーイとして働くことに。(通称・東洋館の浅草フランス座)
「失礼だけど 当時おもしろいと言われていた漫才師をみて あんなつまんないことであんないい思いできるんだと思って オレ漫才やろうかなって」
しかし、後のビートきよしとなる兼子二郎さんと結成した「ツービート」は昭和49年に浅草デビューしたものの観客に受け入れられませんでした。
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逆境から生まれた「赤信号みんなで渡れば怖くない」
母・北野さきさんと決別したたけしさんに残ったのは意地。
そんな状況から生まれたのが……
「赤信号みんなで渡れば怖くない」
「注意一秒 ケガ一生 車に飛び込め元気な子」
「気にするな どうせばあさん 先はない」
幅広いジャンルの本を読みあさり、徹底した研究を重ねたたけしさんは当時の正統派漫才を覆した毒舌漫才のスタイルを世に出し、注目を集めます。
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「最後まで笑わなかった」
家出から20年、レギュラー番組を多数抱え、華々しくテレビで活躍する芸人・たけしさんの姿をさきさんはじっとみつめていたそう。
北野大さんによると、新聞のテレビ欄に記された出演番組すべてにマジックで線を引いていたとのこと。
しかし、心配からか……さきさんは最後の最後までたけしさんの芸をみて笑わなかったといいます。
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たけしさん、母の遺品を目に涙
そして、平成11年に95歳でさきさんは亡くなりました。
この日に放送された『ファミリーヒストリー』の終盤では、兄・北野大さんがさきさんの遺品をこっそりと明かします。
商売のために愛用していたそろばん、そして内緒で納められていた「タケちゃんマンの人形」ーー。
出典:「好きなタレント1位」に選出された際の新聞の切り抜き記事。
一度は勘当を言い渡したものの、少しほてった頬が可愛らしいタケちゃんマンの人形、そして息子の活躍を伝える記事を大切に保管し、陰で誰よりも応援していた母・さきさん。
今田耕司さんが「いかがでしたでしょうか」と話しかけると、たけしさんは約50秒の沈黙……。
「うん うん」とうなずき、涙をためた目を拭います。
「たけしさんの番組を全部みてはったっていうことですよね。ご存知でしたか人形は?」の質問には、無言で首を傾げました。
そして「まさかあんなもん持ってるとは思わなかったね タケちゃんマンまで持ってるとは」といつものたけしさんらしい照れ隠しのジョーク。
ジョークを放った後は、言葉を絞るように母・さきさんへの思いを口にしました。
「(さきさんは)武は外国に留学してるって言ってたらしい」
「いまだにあれだよね 死んで何年もたっちゃうのにいまだに母ちゃんって思っちゃうんだよね」
「ふとしたときにフワッと思い出しちゃう こんなことしたら怒られてしまうとか」
「この母あってというか ありがたいしか言えないね よくぞ北野さきの息子に生まれた 感謝しかないね」
出典:Gareth Cattermole/Getty Images
菊次郎さんさきさん、武さんをこの世に存在させてくれてありがとうございます、とつくづく思う。
めちゃめちゃ心配して怒って、そしてめちゃめちゃ可愛い末っ子だったんだろうね#ファミリーヒストリー#ビートたけし— ナカタニサトミ (@nakataning09) 2016年12月22日
※この日に放送された『ファミリーヒストリー』(NHK)は1月5日(木)午前0時30分より再放送が予定されています