6月12日の騒乱では、あたかも警察が非暴力な市民を一方的に武器を使って排除したと言われていて、参加者の間でもそのように言われている。だが、これは数万人も詰めかけた抗議者のうちの大半は、警察と対峙(たいじ)した最前線のことはおおよそ知らない。また、日本のネットなど見ると、中国の工作員が紛れ込んでいて、これが暴動を誘発するような暴力行為をしていたなどという推測まで飛び交っている。だが、ここ数年の香港の本土派の先鋭化を見ているならば、これは程度の低い陰謀論にすぎないと簡単にわかるだろう。今後も主催者がいないまま、ネットなどで動員された抗議運動はきっと荒れることになるだろう。
それでは、なぜこのように若者は過激化していったのか。これは現在の香港の成り立ちと世代間の考え方の違いが背景にある。
現在の繁栄を築いた香港の人たちで、第二次世界大戦前からいたという人たちは少数派である。香港の人口は現在約800万人だが、終戦直後には60万人程度しかいなかった。これが爆発的に増えたのは、1949年に中国共産党が大陸を制圧したからで、さらに文化大革命に至るまでの共産主義が引き起こした飢えや恐怖政治の混乱から逃げてきた人たちを香港が受け入れてきたからだ。
彼らはいわば亡命者なわけで、故国である中国本土に複雑な感情を抱いていた。イギリスの植民地の香港では彼らの政治参画は許されていなかった。普通選挙権はアリバイのように香港返還の2年前に与えられた。考えて見れば香港はアヘン戦争から150年もの間、中国以上に非民主的だったのだ。だが、イギリス政府は政治には参画させなくとも、植民地政府に直接の反抗をなすものでなければ彼らの自由も認めた。それが世界に多数の植民地をもって異民族を統治してきたイギリスの植民地統治技術であった。その自由を亡命者は貴重なものと受け取った。
かたや同時に大陸に侵攻してきた日本軍の戦火と暴政も経験してきたこともあり、日本に対しての感情は非常に厳しい。日本の右派的志向を持つ人が、香港の民主化を支援するのにあたり、反中国の文脈でシンパシーを抱いている人も多いだろうが、これらの人たちは民族国家としての中国そのものに背を向けているわけではない。尖閣諸島の領有権を1970年代初頭からいち早く主張してきたのは香港の人たちである。そして、これらの人たちはもちろん反共でもある。香港の尖閣諸島問題の運動家たちは、天安門事件の中国政府の対応にもいち早く批判をしている。そのため、この運動の指導者は中国政府から入境をいまだ許されていない。香港駅の近くのコンコースには尖閣諸島の領有権を主張し、南京事件を批判するプラカードがならび、ここに近年は慰安婦像も加わっている。
1980年代までは「反日」といえば、フィリピンやタイやインドネシアやシンガポール、さらにこの香港のことだった。当時は戦争の記憶が生々しく、日本軍の暴政を体験してきた人が存命だったのに加えて、韓国も中国も言論の自由がなかったため、民衆の日本に対する表立った批判は目立つものではなかったからだ。
韓国や中国といえば、旭日旗をめぐる騒動がある。けれどこの香港では80年代に日本代表が試合に行けば、旭日旗どころか日の丸ですら罵声を浴びる対象だった。まだ数が少なかった日本代表のサポーターは、日本国旗を揚げただけで次々と物が投げつけられるスタジアムに生きた心地がしなかったという。
日本のことはいったん置いておこう。一概には言えないだろうが、中国に民族的な帰属意識を持ち、巨大な存在となった中国共産党に、現実主義で対応し、時には受動的ながら批判を加え、譲れない線では強く抵抗していくというのが、香港の汎民主派のおおよそのイメージとしてよいかと思う。この辺りは台湾の国民党の現在の考え方と似ているともいえる。

「逃亡犯条例」改正案の撤回を求め、立法会前で傘や鉄柵でバリケードをつくる若者ら=2019年6月12日、香港(共同) これが2000年代になると様相が変わってくる。現在の雨傘運動や今回のデモに参加する若者たちは、おおよそ90年代の生まれである。すでに香港に定着した二世や三世の世代であり、生まれた時から香港に住み、さらには返還の時に中国共産党を恐れて海外移住したような上層の階級でもない。何かがあればここをすぐにでも捨てていく仮住まいで香港にいるわけでもない。香港に生まれ、香港に育った人たちは独自のアイデンティティーを持ちはじめたのだ。
植民地への移民が本国とは違う経済と文化を持ち、新しい価値観と自分たちにふさわしい自治を求めて戦いだすのは珍しいことではない。さらにアメリカ大陸の各国のように、これが独立して新しい国をつくることすらも。彼らを「本土派」と呼ぶのは、中国が私たちの本土ではなく香港がわれわれの本土(故郷)であるという意味である。