もちろん警察もその後にやりすぎたのは間違いない。ゴム弾を水平射撃するのはいくらなんでもやりすぎだろう。香港警察が言うように「低殺傷能力の武器」だったとしても、当たりどころが悪ければ死に至ることもある。だが、そもそもこの暴力行為のきっかけをつくったのは、デモ参加者の方であるのはすでに書いた通りである。
レンガや石に殺傷能力があるのは言わずもがなだろう。傘の切っ先を雨あられのように警察に投げつけるのも同様である。ほとんどリンチまがいに警察官を袋だたきにするのも全くいただけない。なお、参考までに付け加えておくと、ガス弾やゴム弾は暴徒鎮圧用に欧米のみならず世界中の警察で使われているもので、筆者がなじみがあるのはフーリガン対策用にイギリスをはじめとする世界の警察が日常的に使用している光景である。もちろん日本の警察も学生運動が華やかだった過去に催涙弾を散々使ってきている。筆者は総じて香港警察に同情的ですらある。
警察によるガス弾やゴム弾の使用の原因には、今回の匿名で集まった急進的な学生側のやりすぎがあるのは明白である。最初から平和的な抗議運動ならあのようにはならなかっただろう。これは、穏健な民主勢力の主催者による9日の100万人デモと16日の200万人デモが平和的に行われたことが証左である。このやりすぎがエスカレートするとより高い暴力装置を警察は動員する。それは果たしてクレーバーなものなのだろうか。そして民意はついてくるのだろうか。
香港本土派の最右翼といえるグループの一つが「本土民主前線」であるが、このグループは雨傘デモに続く2016年の「旺角争乱」でブラックブロック的な闘争を繰り返してきた。彼らの主張は「弾圧に対抗するにはあらゆる手段が必要」「極悪な政府と戦うには、(非暴力という)限界をもうけてはいけない」というものである。もちろん、今回の負傷者が出たデモで、このような参加者が全てであったとは言わないが、最前線でこれらの右派やそれに影響を受けているものが活動していただろうことは、容易に想像がつくだろう。
もちろん、権威的な体制に抵抗するものが全て非暴力で、遵法的でなければならないなどというナイーブなことを言っているわけではない。ただ、ほとんどプロパガンダと言えるような情報に見事に乗せられてしまっている日本の人たちを見ると、もう少し慎重であれと思うのである。そして、大義名分があればメディアはいともたやすくウソをつくということが、中国のような全体主義国家でなくとも、自然に行われているということを改めて確認したということである。
これをさらに違う角度から考えれば、香港の本土派がよりしたたかになってきているとも言える。周庭氏もそういう意図で日本に残っているのだろう。香港の苦闘には外部の力を借りるしかない。ボスニア紛争の際に、ボスニア・ヘルツェゴビナが広告代理店を使ってメディア対策を行い、セルビアを悪者として国際世論にアピールするために「民族浄化」や「強制収容所」というわかりやすい言葉でセルビアの悪行をフレームアップしていったように、小さなものが戦うには、このようなしたたかさが必要であることは理解できる。弱者の生き残りをかけた戦いということだ。
そしてさらに情勢は変化する。デモの翌日に香港警察は「暴動の鎮圧のためには武器使用は仕方なかった」という見解を翻した。実は暴れていたのは数人にすぎないということだ。筆者は唖然(あぜん)とした。狐(きつね)につままれるとはこのことだ。筆者の見てきたものはなんだったのか。SFの世界のように、筆者の記憶は誰かに埋め込まれたものなのか。そんなバカげたことも頭に浮かぶ。
しかし、そのカラクリだけは容易に理解できる。香港行政府も反体制派やデモ参加者、そしてさらには中国共産党も、これが「暴動」ではなかったとするのが良いと三者三様に考えたということだろう。
反体制派は暴動とされることにより、逮捕者が増えたり重罪化することを恐れた。一方、中国共産党はこれが大きな出来事になれば今月末に迫っているG20で欧米諸国から非難を浴びる可能性を恐れ事態の収拾をはかった。香港行政府はこれ以上の混乱を続くことを望まなかったから、中国共産党がそのような考えであれば、学生側の「暴動」認定の取り下げ要求をのもうとしている。そして、さらに言うならば、メディアは美しく感動的な若者の政治闘争を善悪二元論で伝えたかった。こんなところだろう。