天安門事件では、学生の天安門前の占拠運動を「動乱」と表現するところがターニングポイントとなり、この言葉を使った保守派に批判された改革派の趙紫陽(ちょう・しよう)総書記が失脚し、学生たちへの暴力的な排除で死者が出る未曽有の事態となっていった。今回は逆のパターンである。「暴動」という表現を取り下げて、その事実をなかったことにすることで事態を収拾しようとしているわけである。

 こうして香港の若者が体制の横暴に立ち上がったという美しい物語に彩られてそれでよしとしていいのか筆者はわからないままだ。だが、それでも懸念はある。一時期は旺角争乱から世論の支持を失いつつあった本土派の極右の若者がこれを成功体験として、より一層ブラックブロック化して、中国共産党の虎の尾を踏まないかということだ。

 また、その本土派の民族主義的な独立志向や急進的な自治の主張に対しても、どこまで支持していいのかわからない。本土派最右翼の香港民族党や香港独立党の若者は、その名の通り、香港人が一つの民族であると主張して、民族自決を求めている。だが、この主張は一筋縄で行かないだろう。さらに彼らは、対中国という共通点で日本との連携の可能性を模索しているに違いない。これに日本人としてどう判断していいのか、判断は非常に難しい。もちろん、日本政府はこれを中国との関係から危険なものとみなすだろう。

 かつて、植民地からの解放や民族自決を志した、フィリピンやベトナムなどのアジアの運動家は日本に頼った時代があった。だが、イギリスやアメリカとの摩擦を恐れて、当時の日本政府はこれを黙殺した。

 「日本はアジアの解放に貢献した」とアジアの民族独立運動にコミットしはじめたのは、戦争直前でドイツの進撃でイギリスが風前のともしびとなった1940年ぐらいからである。それまでは日本はアジアの独立運動には興味を全く示さなかった。中国もそうである。清朝からの民族独立運動の志士ともいえる若者は日本留学生がその中核となっている。

 思想家の北一輝は、辛亥革命のさなかの上海で中国国民党の活動家が皆揃って日本の詰め襟の学生服を着ていたことを記している。周恩来はお茶の水(おちゃのみず)で学生生活を送り、中国共産党の初代総書記の陳独秀は新宿の成城高校出身だ。

 蒋介石は牛込(うしごめ)の学生から日本陸軍に入隊している。孫文は言うまでもないだろう。のちの中華民国の国旗となる青天白日満地紅旗のデザインは、孫文が日本の横浜に亡命していた時に中華街で決められたものだ。孫文はそうしてアジアの団結を日本に呼び掛けていた。これらの若者を、すべて日本は後に敵に回してしまうことになる。

 時代は変わった。香港から日本に訪れる観光客は年間約200万人。これは人口の4分の1が日本に毎年来ているということである。日本のアニメに子供の頃から親しみ、過去の日本への記憶がなく、それよりも現在の日本の文化にシンパシーを抱いている香港の若者からなる本土派を、かつての日本留学生の二の舞にしていいのか。そういう思いはどうしても捨てきれない。それが危うさと表裏一体のものだとしても。一国二制度の期限となっている2047年まで、彼らの綱渡りは続いていくだろう。
(清義明撮影)
傘などが散乱した路上=2019年6月12日、香港(筆者撮影) 
 油麻地の料理屋でそんなことを考えながら、一人でビールを呑み、すっかり酔っぱらってしまった。

 行き交う大陸からの中国人観光客の波は途切れない。複雑すぎる香港の事情と若者たちのしたたかな戦いを思いながら、ふと気づく。香港の自由を求める人たちが本当に連帯しなければならないのは、日本でもイギリスでもアメリカでもなく、目の前にこれだけ押し寄せている彼らなのではないか。しかし、それはきっと難しいことなのだろう。街角の喧騒の向こうには、中国人観光客向けの宝石店のギラギラとした照明が、鈍くまぶしく黄金色に点滅していた。