清義明(フリージャーナリスト)

 香港の九龍半島の繁華街、油麻地(ヤウマティ)の観光客向けの料理店に入る。拙い中国語の普通話(マンダリン)で注文をして、まずはビール、そしてエビの揚げ物と豚の小腸のつまみを頼む。隣の団体客はビールと料理の皿でいっぱいになったテーブルで談笑している。タバコを吸っているが、これは外のテーブルだから許されている。足元には吸い殻がいくつも転がっていた。

 行き交うのは中国本土から来ている観光客と一目でわかるグループばかりだ。それは服装と髪型ですぐにわかる。日本の銀座でも京都でも函館でもよく見る光景だ。

 昨日のデモのことがまるで嘘のような話だ。香港行政府と中国政府の方針もあり、中国からの観光客が非常に多い。年間に香港を訪れる中国人観光客は5103万人。香港の人口は約700万人だから、その人口の約7倍の中国人が香港にやってきていることになる。ほとんど、繁華街は中国人で席巻されているというわけだ。

 巨大な存在となった彼らに飲み込まれるというのは、香港市民にとってどの程度の脅威なのだろうか。英語と普通話が飛び交う、この街路にいてはわからないことなのだろう。ここは広東語の世界だ。もちろん、これはもっと遠い日本にいればなおさらのことだ。
 
 香港が激動である。

 おおよその日本の人たちはテレビやネットなどで流れる情報をチェックしながら、香港の民主主義の現状や、その背後にある中国の脅威とそれに抗する人たちの姿などを知ることになっただろう。

 筆者はこのうち6月12日の抗議運動の現場に立ち会った。立法会を取り囲む抗議運動の数万人の人たちの最前線で、催涙ガスを浴び、完全装備の機動隊にだいぶ小突き回された。しかし、さまざまな人たちの話を聞き、さらにそこで起こっていたことを目撃できた。

 だが、同時に不思議な体験もした。日本や欧米系のメディアが発する情報や、ネットで香港市民が発する情報に大変な違和感を抱くことになったのだ。それは違和感というには、少し表現がおとなしいかもしれない。筆者はフィリップ・K・ディックのSF小説を思い出した。つい先ほどまで、目の前で大規模に繰り広げられたし、メディアにも流れていて、それを皆が見ているはずの光景が、なかったことになっているのである。

 端的にいうと、6月12日のデモで「非暴力で無抵抗な市民にむけて警察が一方的な暴力をふるった」というのはウソである。

 この話を進めるために、先に今回の「逃亡犯条例」改定反対運動の流れを、まずはざっと見ていこう。

 国外での裁判に犯罪者を引き渡すための法律改正、いわゆる「逃亡犯条例」の改正が今回のデモの発端だ。中国の司法で市民が裁かれてしまうのではないかという恐れと疑心暗鬼から、6月9日に民主派が企画したデモからこの話は始まる。主催者の予想は30万人のところ、なんと100万人(主催者発表)を動員した。これは香港で過去最大のデモであった天安門事件の抗議と同じ数である。これは「民間人権陣線」という民主派の団体が行ったもので全くのトラブルもなく行われた。

 続いて、12日には香港の議会である立法会での審議に抗議するため、こちらはネットで自然発生的に呼びかけが始まり、その情報が拡散した。

 フェイスブックには「一個人野餐(ひとりピクニック)」というイベントページができた。これは立法会前の公園にピクニックに行こうという呼びかけで、そこには政治的な意図は全く書かれていない。

 イベントの説明ページには「参加者は何をやってもいいです。もちろんポケモンGOをしてもOK」と書かれている。イベントページの主催者はほとんど無名の人物で何者なのかわからない。そして、ここに参加予定者はなんと1万人超。参加に興味があるとした人が3万人だ。これに類する「ピクニックに行こう」という香港のアカウントからの呼びかけがツイッターでは多数見られた。わかる人にはわかるだろう。1989年にベルリンの壁が崩壊するきっかけとなった東ドイツとハンガリーの非合法デモは「ピクニック」の名前のもとに行われた。それ以来、世界各国で非合法のデモや政治集会を呼びかける時「ピクニックに行く」は、呼びかけ人が違法行為に問われないための隠語なのである。後述する「ブラックブロック」の抵抗運動でもこれは頻繁に使われる。
Facebookの「ひとりピクニック」の「イベント」の呼びかけを伝える、6月11日のサウスチャイナモーニングポスト紙。
フェイスブックの「一個人野餐(ひとりピクニック)」の「イベント」の呼びかけを伝える6月11日付のサウスチャイナモーニングポスト紙(筆者撮影)
 この日の抗議活動は職能団体による呼びかけはあったものの、実際はこの「ピクニックに行こう」というのが合言葉に拡散され、そして数万人の参加者が動員されたものだ。そして、この主催者が事実上いないと言える「ピクニック」は香港警察と抗議の集団が衝突。警官隊に20人以上、デモ隊には80人以上の負傷者が出たと報じられている。